会話・チャットでやり取りをしていて、「なんか、このひと面倒くさいなー」とイライラすることがある。
イライラするだけなら、まだ我慢できる。けれど、それが仕事に支障をきたすのであれば話は別だ。─── で、そういう場面は珍しくない。
そういうひとのことばを観察していると、あいまいな表現が多いことに気が付く。
それで、会話の回数が多くなって生産性が落ちたり、認識の齟齬が生まれて作業のやり直しが発生したりしている。
結論:
- コミュニケーションコストは低い方がよい。
- 仕事の文書は多義性をもってはいけない。
- 「あいまい」な表現は避けるべき。
今日はこういう話をする。
「あいまい」なひとたち
日々の仕事のなかで、あいまいな表現(意味がひとつに定まらない状態)を意識して探すと、その多さに驚く。
例えばこんな具合だ。
■やりとり①
「管理表を更新しておいてください。」
そうお願いされたものの、プロジェクトには管理表と呼ばれているものを3つあり、依頼されている管理表がどれか分からない。(スケジュール管理表、タスク管理表、課題管理表)
なんとか文脈から読みとろうとするも、どうにも断定できない。
「管理表とは、タスク管理表のことだと認識しました。」
と回答する。
ディレクトリまでいくと、なぜか管理表がふたつになっていて、片方のファイルには「_old」が付いていることに気がついた。
結局「"202601_タスク管理_開発.xlsx" ファイルの更新でよかったでしょうか?」と確認しなければいけなかった。
■やりとり②
会議中にこのように切りだされた。
「先日のチャットでご相談した、あの件について会話させてください。」
……。まったくどの件か皆目見当も分からない。
頭を働かせて、①の件だったかなー、②の件だったかなー、そういえば③は解決してたよなー、と走査する。最終的に②の件のことでしょうか、と聞く。
「あ、そうではなく、④の件です。」
と言われる。続けて
「それで、チャットに書かせていただいたとおりなのですが」
と言われる。言われるのだが、まったく心あたりがない。
話を止めてしまう。
■やりとり③
上司に作業のすすめ方について相談する。
「まずは PoC の作成を進めるで問題ないでしょうか?」
すぐさま、こんな顔😊のスタンプだけが捺される。「?」と思って待ってみるが、10分たってもメッセージは飛んでこない。
仕方なく
「OKということで問題ないでしょうか?」
と追加で送る。
「OKです!」
そう返ってくる。
さっきのスタンプは「OK」の意味だったんだろうか、と考えてしまう。上司から「さっしの悪い奴だな」とか思われてたら心外だ。
■やりとり④
開発中アプリの機能仕様が変わった。それで部下から
「設計書とか修正しておきますか?」
と聞かれる。
「”とか” ってなんだよ」と私は思う。
ほかに修正が必要な資料があったかなと思い、念のため聞いてみる。
「あ、いえ、設計書だけですね」
と返ってくる。
「設計書って、詳細設計書のことだよね?」
と追加で聞いてみる。
「基本設計書にも同じ修正が必要でしょうか?」
と返ってくる。
そのあとも数回ラリーをして、最終的には、基本設計書と詳細設計書の両方に修正が必要であることが判明した。
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どうだろう。あきらかに不要なコミュニケーションが発生していて、「コミュニケーションコストが高い」状態になっている。
こういうのにイライラしている私に対して、「些細な問題だろ(笑)」と思うひともいるかもしれない。ただ、多義性を減らした方がよいというところに、異論はないはずだ。
名著『理科系の作文技術』にも「仕事の文章は明瞭であるべき」と書かれてあり、「明瞭な文章」について次のように述べられている。
明快な文章を書くためのその他の心得として,ここでは次の三つをあげておこう.
(a)一文を書くたびに、その表現が一義的に読めるかどうか───ほかの意味にとられる心配はないか───を吟味すること,
(b)はっきり言えることはスパリと言い切り,ぼかした表現(……といったような,月曜日ぐらいに,……ではないかと思われる,等々)を避けること,
(c)できるだけ普通の用語,日常用語を使い,またなるべく短い文で文章を構成すること.
最低限、(a)(b)(c)の3つは意識したいものだ。
大きい主語に注意したい
主語が大きい場合に多義性を持つことが多い。(ように感じる)
その直前で語られているものごとに対して述べるのであれば問題はない。主語が明確だったならば、あいまいどころか「あの」「その」「この」でも伝わる。
けれど、すこしでも話題がズレたり、時間が経過するとダメだ。
同じ表現でも主語の大きさが全然違う。
「あの資料」では到底に伝わらない。「いつもの管理表」でもダメだ。「202601_タスク管理_開発.xlsx」と明瞭に書かなければならなくなる。
主語が大きくなってしまう気持ちはよくわかる。
つい、こんなことを考えてしまう。
「正式名称をいうのが面倒」
→「その件」「あの資料」と端的に伝えたくなる。
「説明すると長くなる」
→「あの感じで」「その方向性で」でさっして欲しい。
「自分は分かっているつもり」
→「この仕様で大丈夫」「その対応でOK」と基準がひとそれぞれ。
だけれど、こういった気持ちはグッとこらえたい。相手がどう受け取るのかを想像し、ことばを選ぶべきだ。
最終的には "思いやり"
「あいまい」にするメリットはある。
断定をさけることができるという点だ。当たり障りのない、ふらふらとしたコミュニケーション ─── それは(本人にとっては)安全だ。
断定しなければ、後からいくらでも解釈を変えられるし、期限や条件を言わなければ、守れなかったとしても責められにくい。
しかし、やさしさはない。(あと、仕事も前に進まない)
「あいまい」になる原因は、語彙の不足ではなく、その姿勢にある。
さっして欲しいというのは伝え手の怠慢だ。相手にコミュニケーション コストを一方的に押しつける行為でもある。
同じことを伝えるならば、文章は短ければ短いほど優れている。ただ、短ければよいワケでもない。必要な要素は書かなければならない。
ただ、短文というのは実にやっかいなもので、小粒でもピリリと辛い。伝え手にとって、ときに涙が出るほどかもしれない。
必要ギリギリの要素を洗いだし、それだけを切りつめた表現で書く……一語を削れば必要な情報が不足する ─── そういう努力を続けていきたい。
以上。
Appendix
以下に「あいまい」さを減らすためのヒントを載せておきます。
(本稿とは主旨の異なるものもピックアップされています。また、ボリュームがあるので読むのが面倒に感じるかもしれません。ただ、どれも役に立ちます。)
あいまいな形容詞と副詞
形容詞や副詞をうっかりつかうと、読み手がとんだ誤解をしないともかぎりません。たとえば、自分としては一ヵ月後くらいのつもりで「間もなく完成」と書いても、読み手は来週あたりか、と思うかもしれません。
あいまいな修飾語は、できるだけつかわないことです。「急激に値上がりした」ではなく、「一年で二倍に値上がりした」と具体的に書く必要があります。
よくつかわれる、あいまいな形容詞・副詞についてあげます。
●高いビル → 六十階建ての超高層ビル
●古い写真 → 昭和二十年に撮られた写真
●大勢の人が来館した → 約二万人が来館した
●至急お送りください → 本日午後六時までにお送りください
●大幅に値下げする → 三割引する
●彼はよく来る → 彼は三日に一度の割合で来る
意味を弱める修飾
A 白い
B よりいっそう白い
C もっとも白い
─── 3つのうち、どれがいちばん白いでしょうか。たいていは「C に決まっている」と答えられます。ところが、そうではありません。
いちばん白いのは、Aのただの「白い」です。Bは「よりいっそう白い」とあって、いかにも、Aよりさらに白いように見えますが、そうとはかぎりません。
ここに三枚の紙があるとします。どれもうすく汚れています。そのうちの一枚をさして、これが「もっとも白い」と言ったとしても、この「もっとも白い」というのは、"三枚のうちでは" ということで、どこへ行っても「白い」と言って通用するのではありません。
それに対して、Aの「白い」は百パーセント白い。どこへ出しても白いのです。
「よりいっそう」とか「もっとも」とかをつけると、それだけ割引きされてしまう一例です。白さを強めたことにならず、かえって、弱めることになりかねません。
あいまいな動詞
「新聞を見る」という文があったとします。じっくり新聞の紙面を読むのも、パラパラとめくって見出しだけ目を通すのも、「新聞を見る」ことです。また、新聞が置いてあるのをながめるのもそうです。つまり、この文は、読み手によって、さまざまな解釈ができることになります。
このように、読み手によって解釈が違ってくることは、実用文においては、もっとも避けなければならないことです。だれが読んでも解釈は同じということが、実用文の条件だからです。
名詞と動詞との相性
名詞にかたっぽしから「~する」をつけて、動詞がわりにつかっているのを、よく耳にします。「お茶にしますか?」「ご飯しますか?」などの表現です。
「お茶する」には抵抗のある人でも、「将棋をする」「碁をする」などは、さほどおかしいとは思わないのかもしれません。しかし、きちんとした日本語で表現するなら、「将棋」は「指す」ものであり、「碁」は「打つ」ものです。
同様に、「弱音」は「言う」ものではなく「吐く」ものだし、「グチ」も「言う」ものではなく「こぼす」ものです。
─── このように、名詞によっては、つく動詞が決まっているものが、日本語ではいくらでもあります。「名詞と動詞との相性」があるのです。
この相性を考えずに、いつも「する」とか「言う」ですませたり、おかしな組み合わせをしていると、意味は通じるかもしれませんが、その幼稚さから教養のほどをうたがわれるかもしれません。
事実と感想を書き分ける
ビジネスマンが書いたものに目を通していて気がつくのは、「考えられる」「思われる」など、"不要語" がよく使われていることです。
「考えられる」「思われる」を "不要語" だというのは、わざわざ使わなくても、いっこうにさしつかえない言葉だからです。
また、「考えられる」「思われる」は実用文では多用しないほうがいいのですが、その理由の一つは、不用意にこれらの言葉をつかうと、事実を述べているのか、意見を述べているのか、読み手が判断に苦しむことがあるからです。
事実があってこそ、読み手は、書き手の意見を検討することができます。「考えられる」「思われる」を多用されると、どこまでが事実でどこまでが書き手の意見か、判然としなくなることが多いのです。
「~的」「~性」について
「的」や「性」は便利な接尾語です。架空性、明証性、末端的、自己的など、文学評論を見ると、どんな言葉にも「的」や「性」はくっつけられるようです。
ただ、「~的」や「~性」という言葉は、「~のような」とか「~らしい」というあいまいな意味をもともと含んでいるものですから、実用文に向かいないことはおわかりいただけるでしょう。
「など」でぼやかさない
「など」を多用した文章をよく見かけますが、「など」は実用文では不必要なことが多いです。「など」を使わず、項目をすべて列挙したほうがよいでしょう。
「など」は、示す対象があいまいで、読み手を困らせることが多い言葉です。
たとえば「白、赤、黄など」といった場合、この中からどの色か決めるときと、このほかの色を指すときがあります。色は、白、赤、黄の三種類だけなのか、それ以外の色もあって、三種類以上あるのか、読み手は判断に迷うことでしょう。
「など」を多用したくなるのは、自分の書いたことにあまり自信がないからではないでしょうか。「ご意見をうかがいたい」より、「ご意見などうかがいたい」のほうがやわらいだ表現になるように、「など」には、ぼやかす意味合いがあります。
実用文では、こうしたぼやかしをしないほうがいいのは当然です。
「紋切り型」の表現は不向き
「朝、目がさめると、外は一面の銀世界だった」「その知らせに、みんな飛び上がって喜んだ」「絶望の報に接した家族の人たちは、みながっくしと肩を落としていた」
─── なかには、こういう表現をつかった方が文章がうまく見えると考えている人もいるようですが、これは大変な誤解です。
というのも、この種の表現は不正確だからです。「一面の銀世界」というとき、どの程度に雪が積もっているのでしょうか。ある人は一センチくらいと考えるかもしれないし、別な人は一メートルだと思うかもしれません。
読み手によって解釈が違っては困るわけである。
以下、紋切り型の一例と、その言い換え例をあげておきます。
●報道陣がどっと押し寄せた。→報道陣が五十名ほど集まった。
●車を飛ばす。→車で急行する。
●頭を刈る。→頭を五分刈りにする。
●黒山の人だかり。→三十名ほどの人。
●「うそだ」と彼は吐き捨てるように言って、唇をかんだ。→「うそだ」と彼は不快そうにそう言って、押し黙った。
参考文献
木下 是雄『理科系の作文技術』中公新書(1981年)
本田 勝一『日本語の作文技術』朝日文庫(1982年)
木村 泉『ワープロ作文技術』岩波新書(1993年)
篠田 義明『通じる文章の技術』ごま書房(1998年)
外山 滋比古『知的文章術』大和書房(2024年)