仕事がうまくいくかどうかは、文章力にかかっている。
わかりやすい文章を書くことは、自分の伝えたいことを整理することでもある。コミュニケーション能力が高まるだけではなく、発表力/言語化力/体系的思考力が身につく。
どうすれば文章力は鍛えられるのだろうか。
ひとつに、「書いてみる」ことがあるだろう。実践なくして、習得なしだ。─── とはいえ、それだけではつまらない。もうひとつ、私は "原則を知ること" があると思う。かんたんにいえばコツを知ることだ。知っているかどうかで、伸びかたは大きくかわる。
この記事に、「文章力を鍛えたい」と本気で願うひとに向けて、さまざまな書籍から収集した、実用文を書くときの原則をまとめた。どれもすぐに実践できる項目ばかりなので、ぜひ、自分の仕事や発信に生かしてほしい。
データ整理に時間をかける
実用文は、例外なくデータでなりたっている。この認識は大事だ。満足なデータがなければ、いくら書こうと思ってもなにも書けないからだ。
しかし、データを集めて「さあ書こう」と思ってもなかなか書けないことがある。これもあたりまえだろう。データがきちんと整理されていなければ、どこから書きはじめていいのか分からない。
そのまま無理に書いたとしても、ひとりよがりの文章になってしまう。よく消化もしていないのに、わかりやすい文章を書けるはずがない。「うまく書けない」と落ち込むときは、大抵こういうときだ。
だから、書くまえにデータの整理に思いきって時間をかけてみる。
わかりやすい文章を書けるかどうかは、この考える時間が勝負だ。なにをどう書くかはっきりしたら、はじめて書き始める。「書く」という作業になるまで整理する。
“考える時間” と ”書く時間” をわけてしまうことが、効率よく書くコツといえる。企画書や報告書を書く日に、朝の通勤電車で「どう書くべきか」と内容や構想を考えるひとがいる。いざ机にむかうと、手早く書きあげられるという。
データ整理によって、次の効果も期待できる:
(a)必要なことを書きおとす危険をへらす
(b)補助材料を利用して説得力を増す
誰が読むのかはっきりさせる
「わかりやすい文章」とは、小学生でも知っている日常ことばだけをならべた、「かんたんな文章」という意味ではない。読む対象をはっきりさせ、相手や状況に応じて文体のレベルを適正にスイッチさせた文章のことをいう。
読み手をきちんと意識しているかどうかが重要なのだ。
ふさわしい用語が選択されていることが、わかりやすい文章の基礎をなす。
4つの柱がある:
目的:書く目的をはっきりさせる。なぜ書くのか、報告か説得か。
対象:読む対象をはっきりさせる。だれが読むのか、上司か専門家か。
内容:書く内容をはっきりさせる。なにを書くのか、なにを伝えたいのか。
行動:読み手に期待する行動をはっきりさせる。どうしてもらいたいか。
ポイントは以下だ:
①読み手は、この問題を重要だと考えているか。
②読み手は、詳細が知りたいのか、要約が知りたいのか。
③メモで十分か、報告書にしたほうがいいか。
④専門用語はそのままでいいか。
⑤形式ばった文体がいいか。堅苦しくない文体がいいか。
仕事の文書は、価値の高いものであればあるほど、誰にでもスラリと読めるように書いてもらいたい。そういう意味では、かたい漢語やむずかしい漢字はできるだけ最小限にとどめたほうがよいだろう。
目標規定文という考え方
主題をはっきりきめたら、次に、自分はなにを目標としてその文書を書くのか、そこでなにを主張しようとするのかを熟考して、それをひとつの文にまとめて書いてみることをオススメする。
この文を目標規定文と呼ぶことにしよう。
「うまくいかない」と感じたときは、まず目標規定文を書き、それからその目標に収束するように文章全体の構想を練るのがよい。目標規定文は、執筆の途中で材料の取捨選択に迷ったときにも、判断をたすけてくれるだろう。
この主張は、文章を書きはじめる前に結論をだせというに等しい。
しかし、じっさいそれはかんたんではない。はっきり結論を定めたつもりで書きはじめても、書き進めるうちにその目標を修正せざるをえなくなる場合もあるからだ。書くことは考えることでもあるため、書き進めるうちに論理のアラが見えてくるのである。
そうなったときは目標規定文を書きあらためてよい。最初に書く目標規定文は、書きあらためる可能性のあるものだという認識を持っておく。
必要な要素は漏らさない
仕事の文書には、文章のあやによって読む気をおこさせるというような技巧は無用だ。
必要なのは:
(a)読者がどう読むべきかを敏速・的確に判断するための材料を示す
(b)本論にかかるまえに必要な予備知識を読者に提供する
ということである。
(b)の内容として要求されるのは:
①主題となる問題は何か
②その問題をなぜ取り上げたか
③その問題がなぜ重要か
④問題の背景はどんなものか
⑤どういう手段でその問題を攻めるか
という解説だろう。
「必要なことを漏れなく書き、必要でないことはひとつも書かない」ことが、実用文を書くときの原則である。が、なにが必要かは目的によるし、また相手の要求や予備知識による。その判断に、書くひとの力量があらわれる。
文章は短いほどいい
同じことなら手短にしてくれといわれる。長い文章より、短い文章が好まれる。「なくても済むことばはひとつ残らず削ってくれ」という情報過多時代の要請だ。
必要ギリギリの要素をあらいだし、それだけを切りつめた表現で書かなければならない。一語を削れば必要な情報が不足するのが理想だ。
新聞記者の教訓として、「材料の8割は捨てろ」というのがあるという。8割を捨てるということは、つかう材料の5倍は集めなければならない。多くのなかから、ほんとうに価値の高いものを選びだすからこそ、充実した記事になるのだろう。
長い文章は、読み手だけでなく、書き手にとっても害になることがある。
文が長くなると、文を構成するいろいろな要素があらわれ、要素どうしの照応が乱れやすい。主語が途中でかわったり、修飾するつもりで置いたことばを忘れたりする。
私にとって切手は、一種の絵の鑑賞のようなものであり、いろいろな切手をじっくり見ていると、なんとなく楽しくなってくる。
これはそれほど長文ではないにもかかわらず、「切手」を主語にする前半と、書かれてはいないが「私」を主語にする後半とで、それぞれ別なことを言っている。
そこで;
私にとって切手は、一種の絵の鑑賞である。いろいろな切手をじっくり見ていると、なんとなく楽しくなってくる。
と、ふたつの文にわける。それだけでもスッキリしてこよう。
文章をわかりやすくするには、ひとつの文が、ひとつの考えをあらわすように書くことが大事で、私はこれを「ワンセンテンス・ワンアイデア」(一文一内容)といっている。
ワンセンテンス・ワンアイデアの原則を守れば、おのずと一文は長くならず、その文でなにを言いたいのかが読み手にもきちんと伝わる。
「ねじれた文章」を書かない
「ねじれた文章」について、かんたんに説明する。
文内において、各要素はそれぞれ対応する「受け手」をもつ必要がある。主語に対しては述語が、形容詞に対しては名詞が、といった具合だ。この「受け手」が欠落している文章を「ねじれた文章」という。
悪文の例を紹介する:
SNS でコミュニケーション トラブルが発生するたび、メディアでは、ネット世界における一般常識、いわゆるネチケットという概念を知っておく必要がある。
この文では、「メディアでは」に対する受け手が欠落している。述語と組み合わせてみても、「メディアでは~知っておく必要がある」といった具合に、照応があわない。文内に適切な受け手がなくて、宙に浮いている。
正しくはこう:
SNS でコミュニケーション トラブルが発生するたび、メディアでは、ネット世界における一般常識、いわゆるネチケットという概念が持ち出される。
文章を書いたあとは、宙に浮いた要素がひとつもないように、文の各要素の照応をチェックする必要がある。
内容のむずかしい文や、ひとつの説明が長い文だと、「それ」がどの言葉をさしているか忘れたり、わからなくなることがある。読んでみてなにかヘンだと感じたら、主語を省いたところにあらためて主語を入れてみると、文章の流れや展開をチェックできる。
短文にすることでも、文構造の欠陥がみえるすっきりした文になる。どれが主語で、どれが述語であるか迷うことがないからだ。連体修飾語がどの名詞にかかり、連用修飾語がどの動詞にかかるかも瞭然だろう。
迷わないのはなにも察しがいいからではない。選択の余地がないからだ。
視点のねじれに注意
「視点のねじれ」にも注意したい。
文内では視点を固定する必要がある。ここでいう視点とは、個々の動詞に対する主語を意味する。いいかえれば、「主語を固定する」ことになる。
悪文の例を紹介する:
先生は、お忙しいところ丁寧にわたしの作文をご覧くださったうえ、思いもかけない賞賛のお言葉まで頂戴したことはいまでも忘れられない。
言いたいことはわかるが、頭のなかでちょっとした混乱がおこる。
前半は「先生はご覧くださった」と先生の行為を述べているにもかかわらず、後半は「お言葉まで頂戴した」というふうに自分の視点を述べているからだ。なんの前触れもなく視点が移動するため、「先生」を主語に読みすすめていた読者は戸惑う。
主張が終わらないうちに説明に移ってしまう、せっかちな文章もよくみかける:
先方の信用を得るためには、自分が相手を信用すれば、向こうもこちらを信用してくれるようになる。
これは重複を避けようとするあまり、文型に必要な部分が欠落してしまった例だ。
「先方の信用を得るためには」と書きだしたときには、きっと「自分が相手を信用することだ」と結ぶつもりだったのだろう。ところが、頭が冴えて「そうすれば相手のほうも」という理由を思いついてしまったのだろう。
─── 野球でダブルプレーをあせってボールをつかみ損ねるのに似ている。素早く投げることばかりに気をとられて、そのまえの捕球に失敗する。
要素を箇条書きにする
短いものならいざ知らず。長い文章をなんの準備もなしに頭の中で整理しながら書くというのは、慣れたひとでもむずかしいことだ。
そこで、書くまえの準備作業としてひとつおススメしたいのが、内容の「箇条書き」である。いまから書こうとするものを短い文で並べてもいいし、キーワードだけを並べてもいい。
利点は、要素を並べたときに、なにが不足してるかがすぐにわかる点にある。
データが足りなければ、(上述したとおり)到底無理な文章にならざるをえない。どんなデータを探せばいいのかが分かれば、無理な文章になるのを防ぐのもかんたんである。
ひとの「わかる」には三つの段階があるという。
一つ目は、言葉としてわかる段階。
二つ目は、イメージとしてわかる段階。
三つ目は、絵としてわかる段階。
最終段階になると、単なるイメージではなく、ディティールをふくんだ全体像までみえる。これが「本当にわかった」といえる状態なのだそうだ。
箇条書きには、この理解を助ける働きがある。
項目を整理してみると、内容は自然と図のような形になり、全体の構造が見えやすくなるのだ。箇条書き同士の関係がはっきりみえてきたり、不要なものなどがよくわかる。
箇条書きの項目が多いときは、グループにわけて見出しを立ててみる。ただズラズラ並べるのではなく、「絵」になるように形にする。そうやって、書くまえに自分の頭を整理する。箇条書きは、わかりやすい文章を組み立てるための近道なのである。
短文を書くときのコツ
短文を書くときのコツをひとつあげておこう。
(a)書きたいことをひとつひとつ短い文にする
(b)それらを論理的につないでいく(つなぎのことばに注意)
ここで「つなぐ」というのは必ずしも「つないでひとつの文にする」ことではない。独立している文を、相互の関係がはっきりわかるように並べることだ。
そして、これらの過程では
(c)「その文ではなにが主語なのか」をはっきり意識して書く
ようにする。
短い文をつないで長い文をつくるときは、まず「全体の主語をなににするか」を考えて、修飾節の表現を調整すると、文の流れが整いやすい。
また、文が長くなってしまう原因のひとつに、中止法の安易な使いかたがある。「受験期をひかえ、体を鍛え、栄養をとり、よく眠り、日ごろの疲れをいやし、風邪などひかず、万全を期してその日を迎えたい」というふうに流れる文をみかけることがある。
いかにも手抜きという感じがする。中止法に頼りすぎると文章はむやみに長くなるため、使いすぎないよう意識したい。
悪文の条件
よい文章の条件はさまざまだが、悪文にはある程度きまった条件があるように思う。
●第一は、書いている当人がよくわかっていない場合だ。
これは、日ごろ「書きながら考える」習慣のある私にも耳のいたい指摘であるが、いまはそしらぬ顔で伝えておく。「反動文教政策という教育に対する国家介入」とか、「管理職手当支給による日教組破壊」とか、といった調子で展開する文章がある。
ひとつひとつのことばが具体的にどんな事象に対応するのか、一度でも考えたことがあるのだろうか、と疑いたくなる。「ことばの遊戯」と論評される。
●第二は、読者不在の文章だ。
学校の文集に校長の序文や、国語科主任のあとがきを載せたとして、誰に読ませようというのか。あるいは、父母にあてて書いているのか。
誰が読むのかを意識せずに書かれた文章は、内容も、言い方も、ぼんやりとしたものになりやすい。その結果、誰にも届かず失敗に終わる。
●第三は、意図のはっきりしない文章だ。
「新聞従業員の待遇改善と家庭配達を守り抜くため」というお願いがあったとする。意義や理由ばかりが冒頭にならんでいるが、肝心の「何をしてほしいのか」「どんな行動を求めているのか」が書かれていなかったらどうだろう。
ねらいが不明確で、何のために書いたのか分からない。スローガンなのかと思われる。
三つの条件を満たすことは、それほど難しいことではない。
身勝手に書かれた文章は、大抵は読者にとって第三の条件にあてはまる意図不明な文章となる。同時にそれは、読み手を想定できていないことでもあり、読者不在という第二の条件もクリアする。ひょっとすると、自分の頭のなかで整理がつかないうちに書きだしたせいかもしれない。第一の条件をも満たすことになる。
主語と述語はひとつずつ
わかりやすい文章は、主語と動詞がひとつずつである。
ところが、この一文一主語というのがなかなか難しい。ことに改まった文章だと、主語がはっきりしなくなることが多い。
ニュースでは、ときおり「連休2日目の日曜日の今日は」という言いかたを耳にする。たったこれだけでも「今日は日曜です。連休の2日目です。」というふたつの文をふくんでいる。
「文の見栄え」にこだわるひともいるが、これも本質ではない。
あまり短い文ばかりを並べていると、ブツブツ切れ切れのような印象になるからだろうか。文章に一種の迫力が不足することに不満を感じ、よけいな修飾語や形容詞をつけたがる。
仕事の文章には「文の見栄え」など不要だ。心情的要素は犠牲にする。
ひとつのテーマでまとめる
ひとつの文章は、ひとつのテーマでまとめる。
例えば、ある製品についての質問と、会議への出席を求めるという内容がひとつの文章に書かれていたら、なにを優先していいかわからない。
ひとつのテーマでまとめることが大切である。別のテーマにも触れたかったら、別の文章にする。手数はかかるが、そのほうが自分の頭を整理するのにも役立つ。
これはパラグラフ(段落)にも同じことがいえる。
なぜパラグラフをつけるのかというと、いうまでもなく、読みやすくするためである。そのためには、一段落をひとつの話題・テーマでまとめていくのが原則となる。
さらに下層のセンテンスについても同様である。センテンスについては、すでに「ワンセンテンス・ワンアイデアの原則」を上述した。
ここらで、文章・パラグラフ・センテンスの関係を整理しておこう。文章を書くうえでの基本的な枠組みだからである。「パラグラフ? センテンス?」と戸惑っている読者は、この機会に、あらためて確認しておいてほしい。
①文章
└─②パラグラフ(段落)
├─ ③トピックセンテンス(文)
├─ ④センテンス(文)
├─ ④センテンス(文)
└─ ④センテンス(文)
②パラグラフ(段落)
├─ ……
└─ ……
※③は、トピック(主題)を含んだセンテンス。
概観から細部へ書く
巨視型の叙述(じょじゅつ)のほうが全体をつかみやすい。
文章を書くときの順序としても「概観から細部へ」とするのがよいだろう。くわしい説明はどのようにしても構わないので、とにかく最初に「巨視型」の説明で全体像を示すのだ。読み手に概観をつかませることで、細部の理解がとても容易になる。
例えば、「青いベレーをかぶって、頭の中央部のはげを隠したあごひげを生やしたずんぐりむっくりした初老のみすぼらしい紳士」などと平気な顔で書くひとがいる。
ここでは、「青い~みすぼらしい」という長い修飾が「紳士」にかかっている。「紳士」という語にたどりつくまでなんの説明かわからず、読み手はイライラする。「ある紳士がいた」という文を先行させてから説明に入るべきだろう。
仕事の文章では、「概観から細部へ」という原則に重点がおかれる。伝達する情報について、まず大づかみな説明をすることを意識したい。
もし、読者が「そこまで読んだことだけで理解できる」ように書くことができれば大したものだ。(ところが、日本人のほとんどはそのことをあまり意識していない。)
日本語では、いくつかを書き並べるとき、その内容や関連がパラグラフ全体を読んだあとではじめてわかる ─── 極端な場合には、文章を全部を読み終わってはじめてわかるような、例文の「紳士」のような書きかたが許されている。英語ではこれは到底許されない。
重点先行主義(結論から書く)
仕事の文章は総論(結論)から書く。
「総論」というと、抽象的なものを考えやすいがそうではない。実用文は、抽象的な問題を抽象的に論ずるためにあるのではない。
総論は、その段落全体の意味をつたえる要約文である。そのためにも、かならず主語と述語をもった完全な文の形にする。表題を書くときのように句の形にしてしまうと、意味があいまいになり、焦点がぼやけやすい。
例えば、「新型テレビの特長について」と書くより、「新型テレビは、従来のものより画像が二倍も鮮明である」と書く。そのあとに各論でその理由を説明すればわかりやすくなる。
参考として、総論を述べるいくつかのパターンをあげる。
●比較をする例
総論:A車とB車の性能はほとんど同じである
各論:両者の類似点を重要度順に述べる
●定義をする例
総論:シンセサイザーは、電子的発振器を使った楽器である
各論:シンセサイザーの仕組みを順序立てて説明する
●評価をする例
総論:テレビは、良くも悪しくも日本人の意識をかえた
各論:それぞれの場合を重要度順に述べる
また、ある問題について論じるときのパラグラフ構成には有用な定石がある。
(a)なにが問題なのかを明確にせよ。
(b)確実にわかっているのはどんな点かを明らかにせよ。
(c)よくわかっていなくて、調べる必要があることを明らかにせよ。
トピックセンテンスは要約
トピックセンテンスは、パラグラフの最初に書くのがたてまえである。また、トピックセンテンスは各パラグラフのエッセンスを述べたものだから、文章全体の要約にならなければならない。
簡単な例をあげて説明しよう:
A君は根っからのスポーツマンだ。夏は水泳、冬はスキー、春と秋はテニスと、日焼けのさめる間がない。いちばん年季を入れたのはスキーだという。
パラグラフは、上の例にみられるように内容的に連結されたいくつかの文の集まりで、全体として、ある一つのトピック(小主題)についてあるひとつのことをいうものである。例では、トピックは「A君」で、全体として彼が「スポーツマンである」ことを述べている。
パラグラフには、そこで何について述べるのかを概括的に示す文をふくむのが一般的である。これをトピックセンテンスという。「A君は根っからのスポーツマンだ。」がそれだ。
パラグラフに含まれるそのほかの文は、
(a)トピックセンテンスで述べたことを具体的に説明するもの。
(b)そのパラグラフと他のパラグラフとのつながりを示すもの。
でなければならない。
つまり、トピックセンテンスと関係のない文や、トピックセンテンスで述べたことに反する文を、同じパラグラフに書きこんではいけないのである。他の文は、トピックを支援しなければならない。
パラグラフの構成パターン
「パラグラフの構成法」なとどいうと、難しそうな気がして、尻ごみするひともいるかもしれない。しかし、難しく考える必要はない。構成法は細かく分類するといくつかのタイプに分けられるが、基本は「並列型」と「直列型」の二つしかない。
この二つのパターンをマスターすれば、あとは応用でしかない。わかりやすい実用文のほとんどは、このどちらかの構成である。
構成法のイメージを以下に示す。
■並列型
Aとは……である。(総論)
→a1 は……である。(各論)
→a2 は……である。(各論)
→a3 は……である。(各論)
■直列型
Aとは……Bである。(総論)
→Bは……Cである。(各論)
→Cは……Dである。(各論)
→Dは……Eである。(各論)
並列型にせよ、直列型にせよ、どちらも「総論→各論」の形をとる。各論は、その総論を裏づけるデータ(事実)のことであることに注意する。
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■並列型の書き方
並列語の各論は、主語をそれぞれ同じ(同じ内容)にする。「科学技術とはなにか」というように、ひとつの主題を説明するときによく使われる。
例文をあげてみよう:
昔から、多趣味な人はノイローゼにならないといわれている。ひどいストレスがかかってきても、趣味が多いと適当に分散できる。ときどき「趣味なし」という人がいるが、これはもっともいただけない。「仕事が趣味だ」という人もいる。好きでやっていることなら、多少ハードでも、それほど疲れないことが多い。
この文章を整理すると、次のようになる。
多趣味の人は………ない。
趣味が多いと………できる。
「趣味なし」という人は………ない。
好きでやっていることなら………多い。
整理すると、それぞれの文の主語、あるいはそれに相当する語が、「趣味」か、趣味に関係する語句から成り立っていることがおわかりになろう。
このように、主語が統一されているのが並列型の特徴であり、このルールを破ると文章がわかりにくくなる。
第一文のあとに、「ノイローゼになる人が、現代社会ではふえている」という文を入れてみてほしい。パラグラフの途中で、前後の文とはまったく関係のない語を主語にした文がでてくると、文章の流れが切れてしまって途端に悪文となる。
参考のために、もうひとつ「並列型」の文例をあげておく。
水銀は恐ろしい危険を引き起こすため、実験室では飛散した水銀を清掃する対策を考える必要がある。水銀は、密度が高く、表面張力が大きく、かつ粘度が低いため、注ぐときに飛散しやすい。飛び散った水銀は水銀滴となり、四方に散乱する。水銀を収容し、清掃を簡単にするため、水銀を使用する実験台はすべて囲うべきである。
■直列型の書き方
直列型の各論は、主語を直前の文のキーワードにする。例えば、道順を教えるとき、「駅をでて右に行くと銀行があるので、銀行の角を左にまがってしばらく行くと、左側に交番があります。その交番から……」というように、「駅」「銀行」「交番」などのキーワードを順に登場させ、次の説明につなげていくはずだ。
例文をあげてみよう:
バッテリーは一種の容器であり、中に酸性溶液がはいっている。この酸性溶液は電解液と呼ばれる。電解液の中に、銅と亜鉛の棒がはいっている。これらの棒を極という。
この文章を整理してリスト化すると、次のようになる。
バッテリーは………酸性溶液がはいっている。
酸性溶液は電解液と呼ばれる。
電解液の中に、銅と亜鉛の棒が………
これらの棒を極という。
このように、文がつぎつぎにつながっていくのが直列型である。前文のキーワードが次の文の主語になるため、非常にわかりやすく、スムーズにつながる。
参考のために、もうひとつの「直列型」の文例をあげておく。
油圧式のブレーキは、ディスク・ブレーキともいい、次のような仕組みになっている。ディスク・ブレーキが作動すると、油圧によってブレーキパッドがしまる。このブレーキパッドが、車輪に固定されたディスクをはさむ。その摩擦で車輪の回転が止まる。
並列型と直列型の二つのパターンを頭に入れておけば、わかりやすいパラグラフが構成できるはずだ。第一文の総論で「Aは、B、C、Dである」というように、いくつかの要素をあげたら、各要素を順に、並列型か直列型のどちらかの構成で説明すればいいのである。
印象づけたいことはくり返す
読み手に印象づけたいことは、パラグラフの最初と最後でくり返す。最初になにを伝えたいのかを示すことで、読み手は内容の要点をつかみやすくなる。
心理学でも、「記憶の系列内位置効果」ということがあって、一連の話やできごとの中では、最初と最後がもっとも印象に残りやすいそうだ。強調したいことを最後にくり返すのは、それだけ効果があるともいえよう。
ビジネス文章や説明文でよく使われる PREP法(Point → Reason → Example → Point)は、この考えかたを利用している。最初に結論(Point)を示し、理由や具体例を説明したあと、最後にもう一度結論を述べる構成である。
報告は思考と逆順になる
ふつう、私たちの思考は各論(データ)から総論を導き出す。が、実用文ではそれを逆転させて記述する必要がある。つまり、報告は「結論→各論(データ)」の順としたい。
なぜかというと、読んでもらうものだから、自分がたどった紆余曲折した道ではなく、みつけた最も簡明な道にそって書けばよいからだ。
また、ここでいう「結論」は、自分がその文章でいちばん言いたいことではなく、「読み手がいちばん知りたがっていること」だと思っていたほうがいいだろう。
情報をどのような順序にならべれば読者の期待にそえるか、ということに対する配慮だ。そのうえで、文章全体が論理的な順序にしたがって組み立てられていなければならない。ひとつの文と次の文とがきちんと連結されていて、流れをたどっていくと自然に結論に導かれるように書くのが理想である。
とくに、説得を目的とする議論の文章では、この点が重要になる。議論にはある程度の恣意性があるため、叙述の順序の自由度が増す。順序の選びかたによって説得の効果もかわってくる。
例えば;
(a)従来の説、あるいは自分と反対の説の欠点を指摘してから自説を主張するか、あるいは、その逆にまず自分の説を述べ、それにもとづいてほかの説を論破するか。
(b)いくつかの事例をあげて、それによって自分の主張したい結論を導くか、その逆に、まず主張を述べてからその例証をあげるか。
(c)誰にでも受け入れられる論点からはじめて、だんだんに議論を盛り上げ、クライマックスで自分の最も言いたいこと(抵抗の予期される主張)をひびかせる。
「起承転結」は不要である
小説ならともかく、実用文では「起承転結」は困るのである。「起」とそれを受ける「承」はいいのだが、「転」で読み手を混乱させてしまうからである。
…… にも関わらず、ひとつのパラグラフに、「転」が頻出する文章をよくみかける。書き手も収集がつかなくなったのか、「ところで」などと書いて、別の話題をもちだしてしまうことが珍しくない。
「転」となりやすい逆接の接続詞に注意する。逆説は文章の方向を転ずるため、多用されると文意がジグザグになり、読み手はついていくのに難渋するだろう。
わたしは北国に生まれた。しかし、雪はそんなに多くない。だが、今年は珍しくかなり積もった。けれども、昼間はあまり寒くない。それでも、だいぶ厚着をして過ごさなくてはいけない。とはいえ、重たいという感じはしない。
このような文章は、歯切れが悪いとかいう以前の問題だ。こういうふうに、くねくね曲がってすすむ文章に出合うと嫌気がさしてしまう。
接続詞は本当に必要な箇所だけにおけばいいのである。読みやすい文章を、そういう目で読み返すと、驚くほど接続詞がすくないことに気がつく。
ワンパターンでも序破急の構成
実用文では、何十ページにもわたる論文でも、一ページで終わるビジネス文書でも、基本的な考え方はおなじである。序文、本文、結論と、三つの要素で構成していけば、誰が書いても読みやすい文章になる。
ここでいう序文では、その文書の主題を述べる。言ってみれば、文書全体の総論(トピックセンテンス)であり、目次のような役割りも果たしてくれる。
序文で示した要素が一つならば、序文→本文→結論と、直列型で進めていけばいい。要素が三つならば、例えば「わかりやすい文章を書くには、①単語の選択、②パラグラフのまとめ方、③全体の構成の三つの要素を考える必要がある」と示したら、本文では、三つの要素について並列型で述べる。
このように、実用文では、全体の構成でも「起承転結」の形はとらない。いってみれば「序破急」の三部構成をとるわけだ。
「それではワンパターンになってしまうではないか」というひとがいるかもしれない。しかし、小説ならいざしらず、実用文では読み手の理解のしやすさを優先するのだから、ワンパターンであることは悪文の資格にはならない。
事実と意見を区別する
事実と意見を区別を明確にすることが重要である。これは、なんでもなさそうにみえるが、それほど容易なことでない。例えば、
「近頃の学生は整った文章を書く能力がない」という声をよく聞くが、私はこれは主に理科系の学生に関していわれていることだと思う。理科系の学生がきちんとした文章を書けないことに不思議はない。彼らの本領は文学ではないからである。
という文章では、第一文で意見として書かれていることが、第二文では事実のようにあつかわれている。この種のスリカエがおこわれると、論理の組立てがぐらぐらになってしまう。
事実の記述には、意見を混入させてはいけない。
パソコンよりスマートフォンのほうが人気だ。
というのは意見であり
スマートフォンの普及が進み、2016年の保有率は71.8%まで上昇し、パソコンの73.0%に迫っている。
というのが事実だ。
このように、記述の核となることばが修飾語ではなく、文全体が事実の記述であっても、文中に「人気な」とか「便利な」とか「優れた」とかいう修飾語がふくまれていれば意見が混入することになる。
事実と意見を書き分けるためには、次の心得があれば用が足りる。
(a)文書のなかで書く必要がある事実はなにかを、十分に吟味せよ。
(b)それを、ぼかした表現で逃げずに、できるだけ明確に書け。
(c)名詞と動詞で書き、主観に依存する修飾語を混入させない。
嘘をついてはいけない
述べている内容が、じっさいに体験したり、目撃したり、調査したりしたことなのか、それとも、なにかをもとにして自分が推察したこと、考えたこと、想像したことなのかを明確にしなければならない。
事実であれば「である」「だった」と結んでもいい。が、推論なら推論らしく「だろう」とか「と思われる」とかと明記する。こういうことをめんどうがって、事実と意見を混同するような文章を書くと、結果として嘘をついたことになってしまいかねない。
例えば、子どもが赤い目をして立っているとする。
そういう書き方にとどめれば、むろん事実の文だ。「目が充血している」ととらえて、そう書いても、このあたりまでは事実を書いているとして問題はない。しかし、「さっきまで泣いていた」という判断(予測)をひき出せば、事実だけを述べた文とはいえない。
一方の、意見を述べる文章でも、それが自分自身の考えなのか、だれかの考えなのかを明確にすることが肝心である。推定・評価・説・主張といった判断の「差」を言語的に明示することが、正しい伝達を支えていることを忘れないようにしたい。
このあたりの表現態度があいまいなまま書きつづけると、あとで修正不能になることもある。つじつまが合わなくなくなることが多いのだ。
「考えられる」「思われる」を使わない
ビジネスマンが書いたものに目を通していて気がつくのは、「考えられる」「思われる」など、わざわざ使わなくても、いっこうにさしつかえない不要語がよく使われていることだ。
また、「考えられる」「思われる」は実用文では多用しないほうがよいのだが、その理由のひとつに、不用意にこれらの言葉をつかうと、事実を述べているのか意見を述べているのか、読み手が判断に苦しむことがある。
事実があってこそ、読み手は書き手の意見を検討することができる。「考えられる」「思われる」を多用されると、どこまでが事実でどこまでが意見か、判然としなくなることが多い。
私たちは、無意識のうちにぼかしことばを用いる悪癖をもっている。仕事の文書のなかでは、意識して『~であろう』『~と考えられる』『~と思われる』『ほぼ』『ような』『らしい』「たぶん」の類をできるだけ削るのがよい。
ぼかしことばをいれたくなるたびに、それが本当に必要なのかどうかを吟味する習慣を確立すると、文章はずっと明確になる。
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似たような表現に「など」がある。これもほかしことばのひとつで、実用文では不必要なことが多い。「など」を使わず、項目をすべて列挙したほうがよい。
「など」は、示す対象があいまいで、読み手を困らせることが多い。
例えば、「白、赤、黄など」といった場合、この三つの中からどれかを決めるのか、このほかの色も含めているのか、どうもはっきりしない。色は、白、赤、黄の三種類だけなのか、それ以外の色もあって三種類以上なのか、読み手は判断に迷うことだろう。
「など」を多用したくなるのは、自分の書いたことにあまり自信がないからではないだろうか。「ご意見をうかがいたい」より、「ご意見などうかがいたい」のほうがやわらいだ表現になるように、「など」には、ぼやかす意味合いがある。
実用文では、こうしたぼやかしをしないほうがいいのは当然である。
まぎれもない文を書く
「まぎれのない文(一義的にしか読めない文)」を書くためには、ひとつの文を書くたびに、読者がそれをどういう意味にとるだろうかと、あらゆる可能性を検討することを自分に課すのがよい。
黒い目のきれいな女の子。
この文章は8通りに読める。修飾語(句)が連続すると、この種の混乱が生まれやすい。多くの場合は読点をいれればまぎれがなくなる。例えば、
(a)黒い目の、きれいな、女の子。
(b)黒い、目のきれいな、女の子。
「誤解できないように」書くためには、何度でも文を組み立て直し、そのたびにまた疑いの目をもって読みなおしてみる執念が必要なのである。また、まぎれもない文の要件に、「論理の流れがはっきりしていること」がある。
明快な文章を書くための心得として、次の三つをあげておこう。
(a)一文を書くたびに、その表現が一義的に読めるかどうかを吟味する。
(b)はっきりいえることはスパリと言い切り、ぼかした表現を避ける。
(c)普通の用語、日常用語をつかい、なるべく短い文で構成する。
もうひとつ、「やわらかさ」が無視されていることも挙げておくべきだろうか。仕事の文章では「やわらかさ」は不要だ。文章の「やわらかさ」を気にかけることで「あいまいさ」が混入されてしまっては意図に反する。
情報の伝達だけを使命とし、心情的要素をふくめないことだ。
修飾語の二大原則
ここに 1 枚の紙がある。
・白い ”紙”
・横線の引かれた ”紙”
・厚手の ”紙”
上であげた3つの修飾語を、ひとつにまとめて ”紙” という名詞にかかる文章をつくるとき、順序はどうすればいいだろうか。
まずは順序のままに並べてみる。
白い横線の引かれた厚手の紙
─── すぐに気がつくように、これだと「白い横線」の引かれた紙、つまり横線が白いことになってしまう。修飾語の順序を意識しないと、このような「ねじれた文章」を書くことになる。いそいで作成した文章であれば、なおさらである。
わかりやすい文章を書くための、修飾語の2大原則を示す。
(a)長い修飾語は先に、短い修飾語は後に
(b)大状況・重要内容ほど先に
■長い修飾語は先に、短い修飾語は後に
古式蒼然とした透明な青いコップ
この文章は、長い修飾語は先に、短い修飾語は後になっているため読みやすい。
・古式蒼然とした “コップ”
・透明な “コップ”
・青い “コップ”
修飾語の順番を入れ替えるだけで、たちまち読みづらくなってしまう。
■大状況・重要内容ほど先に
次の例文がある:
日本列島の上空に花子の放った風船が小さな点となって消えていった
この文章は、「長い修飾語は先に(……)」の原則からは三者平等だ。
・日本列島の上空に “消えていった”
・花子の放った風船が “消えていった”
・小さな点となって “消えていった”
しかし、内容の意味するところが平等ではない。
「日本列島の上空」が全体のなかで占める意味はもっとも重く、おおきな状況をとらえている。そこで、大状況・重要内容ほど先にならび替える。
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ところでテン「、」の基本的な意味は、思想の最小単位を示すものだろう。マルで切れる文章は、これらの最小単位を組み合わせた「思想のまとまり」だと考えられている。
修飾語の「逆順」(修飾語順の反則)からも、この定義からひとつの重要な意味を読み取ることができる。すなわち、なぜ「逆順」にするのかというと、筆者がそのものを多少なりとも強調して提示したかったからなのだ。
「、」が入ることで、修飾語順の反則が解消される。
青い、古式蒼然とした透明なコップ。
小さな点となって、日本列島の上空に花子の放った風船が消えていった。
句点はなんとなく「いい感じのところ」に打つひとがほとんどかもしれない。しかし実際には、このように文の構造や意味の伝達を助ける有効な手段として機能する。意識的に用いることで、表現の幅も広がる。
修飾の主従関係は問題ではない
「長い修飾語は先に(……)」というと、「修飾する側とされる側の距離を近くせよ」という論を信じているひとから「主語・述語の関係がめちゃくちゃになるじゃないか!」と怒られてしまうことがあるので反論しておく。
問題の本質はいわゆる「主語・述語」の関係ではない。
次の例を考えてみる。
Ⓐ明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
Ⓑ私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。
二つの文章では、Ⓐの方がイライラしなくて読める。なるほどこの場合は、いわゆる「主語・述語」がⒶの方が近いからわかりやすいともいえよう。
では、次の例はどうか。
ⓐ明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
ⓑこの地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。
この例では、明らかにⓑの方がわかりやすい。しかし、いわゆる主従関係からすれば、ⓐの方がわかりやすくなければならぬはずである。
これはじつは当然であって、「主従関係」などというものは、日本語の作文を考えるときに百害あって一利もないのである。
文章のなじみについて
修飾語の話題にふれたついでに、ここでひとつ興味深い例文を紹介しておきたい。
初夏のみどりがもえる夕日に照り映えた。
この文は「修飾語の二大原則」を適用できない。
・初夏のみどりが “照り映えた“
・もえる夕日に “照り映えた“
つまり
①句や連文節から言っても関係ない
②長い順からすれば同じくらい
③状況の大小としても大差はない
そうすると、どちらが先でもいいようなことになる。けれども、ここで問題になるのは「みどりがもえる」の「みどり」と、「もえる夕日」の「もえる」との親和性だ。
なじみが強すぎる。
だから読みながしていると、つい「みどりがもえる」と誤読する瞬間が出てくるのである。しかし、すぐあとに「夕日」があるから、ああ「もえる」は「夕日」のほうにかかるのかと気がつく。
これを逆にして、
もえる夕日に初夏のみどりが照り映えた。
とすれば、誤読のおきる余地はない。
なじみをつかいこなせば、読者が予測しやすい(理解を助ける)文章を書くこともできよう。「若葉」に対して、例えば「三角の」という言葉をもってくると、「三角の若葉」となる。論理的には可能だけれども、じっさいにはなじみにくい。
もっと極端にして「バカな」という単語を考えてみる。すると「バカな若葉」というふうには言えないので、どう考えても重なる領域がなくなってしまう。
しかし、「バカな」が「男」に対してであれば、途端に親和領域がひろくなる。「もえる」も「男」に対しては有効であるが、「みどりの」は無理になる。
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なじみによる混乱は、単一の文字レベルでも起こりうる。例えば、「〇〇は△△である」のような形式で、「は」の前後をひらがなにすると読みづらくなることがある。
悪文の例を紹介する:
今はやりのいい方をすれば、サステナブル(持続可能)になっていません。
漫然と読んでいると「今は」「やりの」「いい方?」と分解してしまう。編集者は「流行り」を漢字にしたくなかったのだと思うのだが、それで文章が読みにくくなってしまっては本末転倒である。
こんな悪文もある:
ここからはい草の睡眠用マットが大量に輸出されている。
「い草」が藺草のことだと分かるまで時間を要した。「は」と「い」の親和性があまりに強いために「はい草」(ハイソウ)と読んでしまうのだ。イグサとカタカナで書けば直ちに解消する問題である。
あいまいさは動詞にも潜む
忙しく飛びまわっているサラリーマンが「朝は時間がないので、急いでパンと牛乳を飲んで」あわてて家を飛びだす。牛乳はごくごく飲んでもかまわないが、パンはぜひとも噛んでから飲み込んでほしいものだ。
このような文章を直すのは一苦労である。
「パンと牛乳を食べて」としたのでは今度は牛乳から苦情が来る。動詞とつじつまを合わせるとすれば「パンを食べて、牛乳を飲んで」とするか、「パンを食べながら牛乳を飲んで」とでもするほかないだろう。
が、前者は先にパンを食べ、あとから牛乳を飲んだような感じになるし、後者は、両方を同時に口にいれるような感じになる。どちらも、もとの文にはなかった意味合いだ。文意をとって、「パンと牛乳ですませる」ぐらいが忠実かもしれない。
「新聞を見る」という文がある。じっくり新聞の紙面を読むのも、パラパラとめくって見出しだけ目を通すのも、「新聞を見る」ことだ。また、新聞が置いてあるのをながめるのもそうだ。
動詞があいまいなだけで、たったこれだけの文にも関わらず、読み手によってさまざまな解釈ができてしまう。
このように読み手によって解釈が違ってくることは、実用文においては、もっとも避けなければならないことだ。「だれが読んでも解釈は同じ」ということが、実用文の条件なのだから。
名詞と動詞との相性を考える
名詞にかたっぽしから「~する」をつけて、動詞がわりにつかっているのを、よく耳にする。「お茶にしますか?」「ご飯しますか?」などの表現だ。
「お茶する」には抵抗のある人でも、「将棋をする」「碁をする」などは、さほどおかしいとは思わないのかもしれない。けれど、きちんとした日本語で表現するなら、「将棋」は「指す」ものであり、「碁」は「打つ」ものである。
同様に、「弱音」は「言う」ものではなく「吐く」ものだし、「グチ」も「言う」ものではなく「こぼす」ものだ。
─── このように、名詞によっては、つく動詞が決まっているものが、日本語ではいくらでもある。「名詞と動詞との相性」があるのだ。
この相性を考えずに、いつも「する」とか「言う」ですませたり、おかしな組み合わせをしていると、意味は通じるかもしれないが、その幼稚さから教養のほどをうたがわれるかもしれない。
「紋切り型」は実用文には不向き
比喩は、あくまでイメージを表現するだけのものなので、仕事で書く文章ではつかうべきではないだろう。小説なら、読者がどのようにイメージをふくらませようと自由だが、実用文では、読み手が勝手にイメージをふくらませては困るのである。
イメージを伝えるのではなく、事実を伝えることが実用文では大切なのだから、比喩などはいっさい不用といってもいい。
「朝、目がさめると、外は一面の銀世界だった」「その知らせに、みんな飛び上がって喜んだ」「絶望の報に接した家族の人たちは、みながっくしと肩を落としていた」
─── なかには、こういう表現(紋切り型)をつかった方が文章がうまくみえると考えているひともいるようだが、これは大変な誤解である。
というのも、この種の表現は不正確だからだ。「一面の銀世界」というとき、どの程度に雪が積もっているのだろうか。あるひとは1センチくらいと考えるかもしれないし、別なひとは1メートルだと思うかもしれない。
読み手によって解釈が違っては困るわけである。
あいまいなコソアド
表現のあいまいさがひそみやすい危険な箇所がある。多発地帯として知られるのは指示語である。「これ」「その」「あちら」「こんな」「そういう」「あそこ」といった、いわゆるコソアドことばだ。
これらのことばは、「指示語」といわれるだけあって、何をさすかが分かってはじめて文章内で機能をはたす。したがって、なにをさすのかはっきりしない指示語は、文章内で機能せず、悪文の要素となる。
例えば;
ここから山手線に乗り換えた。その駅は明治神宮へ初詣に出かける人でごった返していたが、渋谷を過ぎるあたりから少しずつすいてきた。そこから三つ目の駅で下車し、その会場へと急いだ。
というふうに、とんとん拍子に進む文章をことがある。
現場で指差しでもしてくれないと、「ここ」がどこで、「その会場」がどの会場なのか、さっぱりわからない。ことばで表現されていないものを指示語でさしてしまっているからだ。
こうなってしまう理由のひとつとして、書き手が自分の頭のなかから一歩も出ず、一度も相手の身になって考えていないことがあるだろう。
「もの」「こと」はあいまいさを助長する
「雪は、大気の上空でできる〇〇」の〇〇にはいる言葉は何か。
「もの」と答えるひとが多いのだが、不合格と私は判断する。「結晶」という明確な言葉があるし、「大気の上空にできるもの」には雲や雨もあり、雪の説明としてはあいまいで不十分だからである。
「もの」は、ひじょうにあいまいな言葉だけに、なんにでもつかえる「便利なことば」である。そのため、文章を書くとき、「もの」を多用する人があるが、「もの」をつかえばつかうほど、その文章はあいまいになってくる。
自分の書いた文章を読み直すときは、「もの」や「こと」を、できるだけ具体的なことばに置き換えていくことが、ひとつポイントである。
行動を指示するときは「~せよ」
日本人は、とにかく「〜するな」と禁止するのが好きなようだ。子どもを叱るときでも、「乱暴をしてはいけない」「廊下を走るな」と、「するな」ということが多い。しかし、禁止されただけでは、じゃあどう行動したらいいのかと、子どもも困ってしまうだろう。
典型的悪例が、よくエレベーターに書いてある、「地震・火災のときは、エレベーターを使用しないでください。」という注意書きだ。
ちょっと考えてみても、火災や地震のような非常時に、気も動転したひとが、「エレベータをつかうな」とだけいわれて、すぐに階段をつかうことを思いつけるかどうかあやしいものだ。
「火災のときは階段を使って避難してください」と書けば、パニックで頭が混乱したひとでもすぐ理解できる。具体的な指示がなければならない。
実用文の最終目的は、読み手に行動を起こさせることにある。それが「するな」という否定形しか示していなかったら、「じっとしていろ」といわれたのと同じで読み手は行動できなくなってしまう。
行動したとしても、書き手が望んだ行動をしてくれるとはかぎらない。
受動態は能動態に置き換える
苦情の返事などでは受動態をよくみかける。「私」を主語にしたくないと、無意識のうちに考えているからであろう。このような一種無責任な感じがすることも、受動態が実用文では望ましくない理由のひとつである。
受動態を多用すると、自信のない文章にもみえてしまう。
また、「述べられる」のように「れる」「られる」の助動詞をつかった受動態は、意味があいまいになりやすい問題もある。「れる」「られる」は、受身のほかに、尊敬・可能にもつかわれるので、どの意味で用いられているのか、わかりにくい場合があるからである。
例えば、「述べられる」だけでは、受身なのか尊敬だか可能だかわからない。「ここで述べられた話」も、受身なのか尊敬なのかわからない。
二度目の「が」で文を切る
ひとつの文に何回も「が」をつかって、文を長くつなげるひとがいる。接続助詞「が」は、いろんなニュアンスで使えて便利なため、どうしても多用してしまう。
特にどの「が」が不適切だというわけではない。しかし、ひとつの文のなかに接続助詞の「が」が二度あらわれたら、悪文の兆候と考えておいたほうがいいだろう。論理的にも、あいまいになりやすいので、書きながら「が」を使いたくなったらそこで文を切るとよい。
もうひとつ注意しておきたいのは、意味のない「が」だ。
九州に行くことになりましたが、そこまで遠くに行くわけではありませんが、これまでほど顔を合わせることはできなくなるでしょう。
この種の「が」が使われた時に困るのは、読者が、ここで思考の流れを乱されることだ。「が」ときたら、「それでは次は逆説かな?」と深層心理で思ったりするが、それはあとまで読まないとわからない。
「の」は三回以上も重ねない
「机の上のペンのフタのゴミ」とか「ライバル社の営業部の人員の豊富さ」など、「の」を三つ、四つと重ねた文をよく見かける。
しかし、「の」は三つ以上になると、言葉の位置づけをしにくくなる。長い文章にもなると、主語と述語の対応があやふやになりがちなので注意が必要だ。この「てにおは」を適当につかっていると、次のような「ねじれた文章」になりがちである。
・私の夢は、商社マンになって世界中で活躍したいと思う。
正:活躍することだ
・火事の原因は、Aさんがストーブをつけたままで寝ていたらしい。
正: 寝ていたことにあるらしい
正しい日本語をつかうように努力していれば、助詞のつかいかたや、述語の急変などの文法的ミスは減る。
ちなみに、助詞「は」についても同様のことがいえる。「私はこの本は学生には少し難しいと思う」や「日本語は助詞は多いが使い方は意外に簡単だ」といったように、「は」も重なりやすい性質をもっている。「は」も三つ以上はなるべく使わないのが、原則とはいえないにせよ「より良い」といえるだろう。
もったいぶった表現が価値をさげる
「文はひとを表わす」という言葉がある。
そのためだろうか、文章を書くとき、やたらに気どったり、わざわざ難しい表現をしたがるひとがいる。しかし、実用文は「書き手の教養や知識を示すためのもの」でも、ましては「読み手の教養や知識を試すもの」でもない。
キーボードからの日本語入力が可能です。
このような文をみると、なぜ、こんなにもったいぶった言い方をするのかと、頭をひねりたくなる。「キーボードから、日本語入力できます」と書いてはいけないのだろうか。
こうしたもったいぶった言いまわしになる原因のひとつは、抽象語をつかうことにあるといえる。「可能」も抽象的な言葉である。ほかにも「問題」「有効性」「世界的」などがそれにあたる。
こうした抽象語をつかうと、文章が格好よくなるように思えるかもしれない。しかし、実用文としての価値は、それだけ下がると考えたほうがよい。
接続詞はいつも少なく
文章を書き慣れないひとにみられる傾向のひとつに、接続詞のつかいすぎがある。
悪文の例を紹介する:
私のこれまでの人生は、楽しいもので、そして、いい思い出ばかり残っています。また、出会った方たちも素晴らしい方ばかりでした。だから、私は幸せなのだと思います。では、ここでこうした私の人生をふり返ってみることにします。
接続詞は言ってみれば、列車の連結器のようなものである。連結器で各車両がスムーズにつながっていないと、列車の動きも悪くなる。下手すると、カーブのところで後続車両が脱線しかねない。
原則としては、論理的に必要なところに限ってつかうべきだろう。
「では」「ところで」「そして」「さらに」などは、すこし文章構成を考えれば不要になる場合も多い。書いた文章を読みかえして、接続詞が多すぎてわかりにくいと感じたら:
(a)単なる書きグセのような不要なものをとる。
(b)要点並列の「そして」「さらに」は「はじめに」「次に」などにする。
(c)文章構成をかえて減らしてみる。
それだけで、文章は飛躍的に読みやすくなるはずだ。
最初のうちは、本当に必要なものかどうかわかりにくいかもしれない。そういうときは、つかっている接続詞を削って、意味がとおりにくくなるかどうか見てみるのがいいだろう。
「私は病気であった。会社に行った。」では文章にならない。
なんらかの連結器をいれなければならない。
この場合、「私は病気であった。しかし、会社へ行った。」あるいは「私は病気であった。にもかかわらず、会社へ行った。」という具合に接続詞を加える。
「、」(テン)について
読点は、音読したときに一息つくところに打つのが丁度よい。基本的に、読点は「人間の呼吸と同じ」と考えてよいだろう。文章を読んでいて、このあたりで一息つきたいな、と感じたところにテンを打つ。
文字どおり、「読むための点」である。長い主語などは書いている途中に気づきにくいものだが、声に出して読めばはっきり分かる。
日本列島の上空に花子の放った風船が小さな点となって消えていった
このままでも意味は通じるが、「、」をいれると構造がはっきりする。
日本列島の上空に、花子の放った風船が、小さな点となって消えていった
「、」を打つ位置に絶対的なルールはない。要は、テンを打って読みやすくなるかどうかである。また、「正しく打つ」ことよりも、「読みやすく打つ」ことを意識する。それだけで文章の印象は大きく変わる。
正しい思想単位で書かれた文章は、テンのところで息をつくようにして朗読してみると、一種のリズムを持っていることがわかる。
とはいえ、「テンを打つべきだろう」と思われる場面もある。以下のような場合には、適切に対応するのが望ましい。
・点がないと意味が異なるとき
二人の社長の子ども → 二人の、社長の子ども
・ふたつの文をつなぐとき
~だったので、……した
・いくつもの修飾語を並べるとき
静かで、明るく、清潔な工場
・接続詞のあと
「さて、」「だが、」「したがって、」
意味を弱める修飾
A:白い
B:よりいっそう白い
C:もっとも白い
─── 3つのうち、どれがいちばん白いだろうか。たいていは「C に決まっている」と答えられる。ところが、そうではない。
いちばん白いのは、Aのただの「白い」である。Bは「よりいっそう白い」とあって、いかにもAよりさらに白いように見えるが、そうとはかぎらない。
ここに三枚の紙があるとする。どれもうすく汚れている。そのうちの一枚をさして、これが「もっとも白い」といったとしても、この「もっとも白い」というのは、"三枚のうちでは" ということで、どこへいっても「白い」といって通用するわけではないのである。
それに対して、Aの「白い」は百パーセント白い。
「よりいっそう」とか「もっとも」とかをつけると、それだけ割引きされてしまう一例である。白さを強めたことにならず、かえって、弱めることになりかねない。
形容詞や副詞を乱用しない ─── というのが、大事な心得なのだ。飾りたくなるのは幼いのだと思ってよい。こういう飾りがついているために、文章は、安ものの装飾品をつけたひとのような感じになる。なくてもよいものは、つけてはいけない。
文章は削る。削って削って、それで残ることばこそ光を放つ。
正確だから伝わるわけではない
「日が西にかたむく」と「自転が60度回転した」はどちらが正確な表現だろう。科学的心理・論理的思考を基軸とする文章では後者のほうだが、経験的事実を軸とする文章ではむしろ前者のほうが正しい。
言語表現は、人間の認識を基盤としたい。地球の自転は感覚的事実ではない。
また、ことばの説明には、わざわざ難しい表現を使ったり、くどくどするより、端的に同義語や反対語を示したほうがよい場合もある。
辞書で、「男」をひくと「女でないほう」とあり、「女」をひくと「男でないほう」と書いてある。この「男」と「女」の説明法は、実用文を書くときの参考にはなる。
専門家にいわせれば、この説明法では言葉の定義になっていないのかもしれないが、実用文で、専門用語を説明するときには、読み手に伝わればいいのだから、「男とは、人間の中で女でないほう」というように、反意語を示しても問題はないのである。
「ですます」調と「である」調
読み手を直接頭に描いているときには、「ですます」調がしっくりするし、改まって、読者を第三人称と感じているときには、「である」のほうが落着く。どちらがよいと決めてしまうことはできない。
問題は、「ですます」調で書くと、文末語尾が「です」「ます」のくりかえしになり、単調になりやすいことである。それに、「ですます」はすこし冗長な表現になる。文章をキリリと締めるには「である」調の方が優れている。
文体について語るとき、「統一されていればそれでよい」と乱暴に結論づけるひとがいる。しかし、その考え方は読みやすさという観点を欠いており、正しいとは言えない。
次の例文を考えてみる:
……べつに後悔はしませんでした。むしろ感謝した。そのかわり準備には「一時間くらい」どころか一回分に二日も三日もかかりました。
この文はいわゆる「です・ます調」で書かれているのに、ぽつりと一ヵ所「した」が現れる。もしこれを「です・ます調」にすれば次のようになろう。
……べつに後悔はしませんでした。むしろ感謝しました。そのかわり準備には「一時間くらい」どころか一回分に二日も三日もかかりました。
この場合、「ました。……ました。」とダブることも問題だが、この程度のダブりは致命的障害にはならない。むしろこれはリズムのうえでまずいのである。これも双方を朗読して比べてみれば、わざとここを「した」と書いた理由が理解できよう。
「だから、どうした」を考える
部下から報告を受けたとき、「だから、どうした」と言いたくなることが少なくない。
例えば、「プリンターの調子がおかしくて」とだけいわれる。「プリンターの調子が悪いから、どうなのか」と聞かないと、「報告書を仕上げるのがちょっと遅れそうです」ということがわからない。
文章でも同じことが起こる。
例えば、「これは調査の結果を要約したものです」とだけしか書かれ、ドキュメントがひとつ添付されているとしよう。上司は「これをレビューして欲しいんだな」ということを察することはできる。けれど、イライラして「だから?」と言いたくなるだろう。
「本レポートは調査の結果を要約したもので、継続調査の許可をお願いするものです。ご確認のほどお願いいたします。」と、そのレポートの目的、期待する行動をはっきりを示さなければならない。
「だから、どうした」を考えながら読みかえしていると、文と文とのつながりをチェックすることもできる。「この製品は品質がいい。ロングセラー商品だ」では文がバラバラだ。「だから、どうした」を考えると、両者は原因と結果の関係にあることがわかる。
「この商品は品質がいいので、ロングセラーを続けられている」と直すことができる。
誤字・脱字・支離滅裂が当たりまえ
誤字・脱字は、ちょっと注意すれば防ぐことができる。逆にいえば、誤字・脱字があると、書いたひとの注意力ないしは常識までうたがわれかねない。そうならないためには、どんなに急いでいるときでも、文章を書いたらかならず読みかえす。
文章を書くことは、いくら気張ってもなかなか一発で完璧、とはゆかないものであり、支離滅裂があたりまえだ。イメージの言語化とか、文章の直列化とか、言語制約への対応とかいった困難な、しかも互いにからみ合った問題点がわだかまっている。
どれかひとつに注意をむければ、ほかのどれかがお留守になる。
文章らしい体裁をあたえるためには、読者になったつもりで何度も読みなおし、イメージが明確でないところ、流れの悪いところ、響きの悪いところ、誤解の恐れがあるところをひとつひとつ丁寧に始末していかなければならない。
また、一度で完璧にしようと思わないほうがよい。
意味、リズム、文字などを順々に見ていったあと、また意味にもどってみると、さっき見えなかったものが見え出しているかもしれない。そうやって何度も見直す。やがて視点をかえても、新しいものが見え出さなくなる。
推敲は声に出して読むこと
日本人はいつのまにか、耳を遊ばせた文章を書く悪いクセをつけるようになった。「目だけで書いているのか」と思うひとが少なくないのだ。
この文章が印象深いのは筆者が学生の様子をよく書いているからだと思います。とくに女子学生がよく書かれていると思います。
この文章をおかしいと思わないのは、目だけで書いている証拠である。
すこしでも耳を働かせていれば、二度も「よく書け」と「思います」が出てくるのにひっかかるはずだ。それだけではない。ほかにも抵抗のあることばがある。
「この文章が」の「が」と、「著者が」の「が」が、くりかえしになっている。ひとつの文のなかで主格がふたつあるのは、文法上もおもしろくないが、それ以上に耳ざわりだ。耳を使いながら書いていれば、気がつき、避けられたはずである。
推敲のコツは「声を出して読みかえす」ことである。読み返しのときに声を出すというひとは少なくない。多くのひとがいいということは、とにかくやってみる。別に隣の部屋の人がびっくりするような声をあげなくてもよい。ごく小さくとも、声はきこえる。
口ぐせのように「つまり」ということばをつかうひとがあるが、声に出して読み返していると、口ぐせであることがわかる。目だけでは、なかなか分からない。
声を出して、ひっかかるところ、読み違えをするようなところがあれば、それは文章に何かしらの欠点があるしるしである。自分の書いた文章がなだらかに読めないようでは、他人が読んでわかりやすいわけがない。
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書き上げたら、意地悪な読み手になったつもりで何度も読み返す。わかりのいい友人のような読み方をしては、いい推敲にならない。
純粋な読者になるためには、書いてからしばらく風をいれたほうがよい。直後だと、まだ、書きたいと思ったことが頭に残っている。それで、書いてもいないことを書いてあるように錯覚することがないとは言えない。時間がたつとそういう思い込みも消える。
Appendix①
「仕事の文章」に限らず、あらゆる文章を書くときに役立つヒントを紹介する。
「ことばのセンス」の正体
「仏蘭西料理」と書くと、いかにも豪華なメニューがならびそうな感じで、値段がはっても文句が言えないような雰囲気がある。また、「ふらんす語」と書かれた看板をみると、なんとなく楽しく学べそうな反面、何年通っても上達しなさそうだ。
「寄り合い」というと若者が逃げだす。「つどい」と優雅に気どれば、口笛を吹きながらひとがやってくる。
昔の女の子は「おいしい御飯を食べて」ばかりいて、たまに「うまい飯を食った」りすると、下品(な言葉遣い)だと親に叱られた。
「腹」も「おなか」も、それが<腹部>をさす点ではおなじだが、「腹」のほうは、そのことばの使い手に男性的なイメージが濃く感じるし、「おなか」のほうは子どもっぽく感じる。
─── いい文章の書き手には、あそびを楽しむ余裕や言語感覚を期待したい。似た意味の語がそれぞれどういうひろがりをするか見さだめ、そこから、自分がいま伝えようとしている意味をもっとも的確にあらわす語を選びだすことを課したい。
・「ふくらむ」と「ふくれる」を明確に使い分ける。
・「わりと」と「わりかた」と「わりかし」を感じ分ける。
・「御飯」から茶碗を、「ライス」から皿を連想する感覚をそなえる。
それが「センス」とよばれる地味な能力なのだ。
ひらく漢字を見極める
漢字をひらき、文章を視覚的にみやすくしろという現代の注文である。読者は内容を理解するまえに、まず文章の見た目をうけとる。パッと見で「読みやすそうだ」と感じられる形に整えることが、文章を読んでもらうための条件のひとつとなる。
(a)現代の日本文は、大体平仮名と漢字の混り合った文章であるが、其の混り具合が問題なのだ。
この文章は、できるだけ漢字をつかって書かれた文章である。漢字が連続することで視覚的にやや重たい印象をうけるし、「大体平仮名」も気になる。
逆に、すべてひらがなだけで書いてみる。
(b)げんだいのにっぽんぶんは、だいたいひらがなとかんじのまじりあったぶんしょうであるが、そのまじりぐあいがもんだいなのだ。
これもまた、読みにくい。(a)と(b)の例文からわかるように、「同じような形の文字」ばかりがつづく文章は読みにくくなるのである。
「げんだいのにっぽんぶんは」というふうに書くと、読む側は一字一字をひろって読まなければならない。意味のまとまりである「現代」や「日本文」が、視覚的な単位として認識されず、「げんだい」も「いのにっぽ」も「ぽんぶんは」も、言葉のまとまりとしては同格になってしまうのだから読みにくいに決まっている。
(c)現代の日本文は、だいたいひらがなと漢字の混じりあった文章であるが、その混じりぐあいが問題なのだ。
漢字とひらがなのバランスを整えた文章は、このように言葉のまとまりが絵画化される。パッと見たときに違った「絵」がならんでいるほど、はやく読める文章になることがわかる。
漢字とひらがなの併用にこのような意味があることを理解すれば、どういうときに漢字をつかい、どういうときに漢字をつかうべきでないのかは、おのずと明らかになるはずである。
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ひらく漢字の考えかたとして、「漢字そのものの意味がつよく出てしまう場合は、あえてひらがなにする」というものがある。これも参考にしたい。
そもそも漢字は、絵から生まれた象形文字を起源とし、それ自体が意味をあらわす表意文字だ。「漢字がもつ印象」がつよすぎると、本来伝えたい内容とはちがった意味でうけとられてしまうことがある。
以下はその例である:
・色々あるが → いろいろあるが:「カラー」の意味ではない。
・~だと分かる → ~だとわかる:複数を「分ける」印象を持つ。
・以下の通り → 以下のとおり:「道」のニュアンスがある。
・不味いことだ → まずいことだ:「味」の意味に限らない。
・良くしたい → よくしたい:Good の意味ではない。
・~して頂く → ~していただく:「頂上」の意味はない。
見栄えを助ける「記号」
文章をいわば「絵」として整えるうえで、カッコや各種の記号を用いる方法もある。これらの記号は、構図を整える有効な要素となるのである。
初夏のみどりがもえる夕日に照り映えた。
という文章で考えてみる。
すでに述べた点ではあるが、この文章は読みながしてゆくと、「みどりがもえる」と誤読してしまう。そのあとに「夕日」という言葉があらわれることで、「もえる」は夕日を修飾していることに気がつく。読解に一瞬のおくれ(ラグ)が生じている状態である。
記号を用いることで語のまとまりを示し、この問題を解消することができる。
初夏のみどりが「もえる夕日」に照り映えた。
<初夏のみどり>がもえる夕日に照り映えた。
初夏のみどりが "もえる夕日" に照り映えた。
主語と述語の関係がみえやすくなり、「初夏のみどりが 照り映えた」という構造をひとめで理解できるようになるのである。
ただし、ここではっきりさせておきたいのは、目的は読み手にとってわかりやすい文章にすることであり、書き手が自己満足に絵を描くことではないことである。
じつは、読点を打つだけで改善される。
初夏のみどりが、もえる夕日に照り映えた。
罫線(───)の使い方
きちんとした文章を書こうとすると、構造が複雑な複文になり、読みにくくなることがある。そういうとき、罫線をつかうと比較的スラリと書くことができる。
例えば;
仕事の文書では、主題───文書で主としてなに論じるのか───が、その文書を書かせようとしているひとの意向によって確定している場合もある。
この文章を罫線なしで書こうとすると、かなり面倒なことになる。(日本語には欧文の関係代名詞(which, who, that)に相当するものがないことが関連している。)
最初に考えた文章は、次のようなシンプルなものであった。
仕事の文書では、主題が、その文書を書かせようとしているひとの意向によって確定している場合もある。
しかし、文を書いたあとで「主題」の説明が不足していることに気がついた。とはいえ、その説明をいれようとすると、2文になるか、どうしても読みづらい複合文になってしまう。
そこで、罫線(───)で挟むことにした。補足が視覚的に区切られることで、一文が長くなっても「意味のブロック」が明確になり、読みやすくなるのである。
以下に、有効な罫線の使いかたを三パターンで紹介する。
①. はさむパターン(挿入句)
「主語」や「状態」などの詳細、あるいは説明を文に挿入する。
仕事の文書では、主題───文書で主としてなに論じるのか───が、その文書を書かせようとしているひとの意向によって確定している場合もある。
②. 頭だけにつけるパターン(言い換え)
「言い換え」や「言葉の説明」、「要約」を、すぐ後ろにならべる。
仕事の文書では、主題───そのセクションのトピックが、その文書を書かせようとしているひとの意向によって確定している場合もある。
③. 後ろだけにつけるパターン(まとめ)
文末で要点を強調・補足したい。
仕事の文書では、主題が、その文書を書かせようとしているひとの意向によって確定している───という場合もある。
罫線は、①のようにふたつの罫線で挟んでつかうのが本来だ。
しかし、②と③のような変則的な使い方がされることもある。とくに③のような「総括」をひとまとまりにする方法は、複雑な修飾節を読みやすくまとめるのに効果的である。
推量表現の組み合わせ
「何の挨拶もなかったら、おそらく無視されたと思うかもしれない」といった文に出くわすことがある。言いたいことはわかるから、これでも問題はないのかもしれない。
だが、ちょっと気になる。
「おそらく」とくれば、文末は「思うだろう」としまるのが尋常だ。「かもしれない」を採用するなら、「あるいは」や「もしかすると」を先行させて、文意の方向を事前に知らせるのが、読み手に対する配慮と考えるべきだろう。
並列する語句は同じ形にそろえる
いくつかの語句を並列して並べるときは、同じかたちに統一する。
オーケストラで使う楽器は、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスに吹奏楽器と打楽器です。
この文のおかしいところはどこだろうか。弦楽器は各楽器名を並べているのに、吹奏楽器と打楽器は、個々の楽器名ではなく、総称ですませていることだ。つまり、一緒にならべられないものを並列している点がおかしい。
この文は「弦楽器、吹奏楽器、打楽器」か、「バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、ピッコロ、フルート、ティンパニー、シンバル」とすべきなのである。
このように、いくつかの語句をならべるときは、すべて同じかたちか同じレベルにしないと文章の統一がとれてこない。これを「パラレリズム(並列法)の原則」とでも呼ぶ。
また、名詞は名詞で、動詞は動詞で並列することも考えたい。
「昆虫採取や魚を釣ったりして一日を過ごした」といった文をみかけることがあるが、名詞と動詞が並列されていてバランスがとれていない。こういう点に無神経では悪文といわれてもしかたがないだろう。
悪文という評価をまぬがれるには、「昆虫採取や魚釣りをして」と名詞でそろえるか、「昆虫を採取したり魚を釣ったりして」と動詞でそろえるかする。
並列の助詞は前にもってくる
例えば、「クジラ・ウシ・ウマ・サル・アザラシは哺乳類である」というとき、英語などは「クジラ・ウシ……and アザラシは……」という並べ方をする。つまり、and は最後のひとつにつけ、あとはコンマでならべていく。
これを日本語におきかえるなら、反対に and にあたる助詞を前にもってくる必要がある。
クジラやウシ・ウマ……アザラシは……
同様に「と」「も」「か」「とか」「に」「だの」「やら」「なり」なども、ひとつだけつかう場合は最初の単語につけるのがもっともすわりがよい。
○出席したのは山田と中村・鈴木・高橋の四人だった。
×出席したのは山田・中村・鈴木と高橋の四人だった。
○ヘビもトカゲ・カメ・ヤモリ・スッポンも爬虫類だ。
×ヘビ・トカゲ・カメ・ヤモリもスッポンも爬虫類だ。
○黒水引の袋には「御霊前」とか「御香典」・「御仏前」とでも書けばよい。
×黒水引の袋には「御霊前」・「御香典」とか「御仏前」とでも書けばよい。
○雨か雪・霙・霰・雹かはそのときの気象条件による。
×雨・雪・霙・霰か雹かはそのときの気象条件による。
○花子に鹿子・時子・節子・晃子の五人が見舞いに来た。
×花子・鹿子・時子・節子に晃子の五人が見舞いに来た。
また、「も」や「か」などは、全体の最後にもつけないとおかしい。この点は「と」もその傾向があり、論理的にはむしろ「と」をつけるほうがよいことが多い。
Ⓐイヌとネコとサルが喧嘩した。
Ⓑイヌとネコとサルとが喧嘩した。
この例ではⒷの方がより論理的である。なぜなら、Ⓐだと「イヌとネコ」とサルが喧嘩をした、つまりサルがイヌとネコの同盟軍と喧嘩をしたと取られないこともない。Ⓑなら三者入り乱れての喧嘩であることが明白だ。
引用は厳密であれ
カギカッコ(「」)を引用文に対してつかうときの厳密性について、一言強調しておきたい。かつて「職業としての新聞記者」という小論のなかに次のような文があった。
私たちは、どのような動機で新聞記者という職業を選ぶのでしょうか。「隗より始め」る意味で自分自身のことを考えてみますと、……(本多勝一『真実とは何か』未来社)
これを読んだある記者が、「これは『よ』が抜けているじゃないか。「隗より始めよ」という燕の郭隗(かくかい)の故事なんだから」という。
これはどうも困った指摘だ。だからこそ「始め」までをカギカッコにして、「る」は引用ではないことを示したのだが、通じないのだろうか。もし「る」までもカギの中に入れると、もとの故事としての「始めよ」からの正確な引用ではなくなる。引用はあくまで原文のまま示さなければならない。
引用部分と自分の文章とは明確にケジメをつけないと、他人の意見や報告をねじまげてしまい、ときにはとんだ迷惑をかけることになる。引用は原文に従わなければならない。極論すれば、用語の誤り、誤字・脱字までもそのままつかうべきだ。
これは、自分の文章に対して責任をもつことでもある。
修飾語を類義語にかえて一意に
修飾語がひとつだけのごく単純な関係でも、意味がきまらない文章もある。「ふたりの係」などというのも、ちょっとクセモノだ。係がふたりいるのか、そのふたりを担当している係がひとりいるのか(あるいは複数人いるのか)、これだけではわからないからだ。
まぎらわしくないように「係が二名」「両名の係」などとするとよい。
「女の敵」といえば、たいていは変な男をさすが、「女である敵」をも意味することもできる。後者の意味でつかいたいのであれば、「敵方である女」などとする。このように、類義語に置きかえることで修飾関係のあいまいさを減らせるケースも多い。
文章を書くには健康も大切
妙なことをいうようだが、よい文章を書くには健康が大切だ。元気がないと、ろくなアイディアが浮かばない。根気が出ない。ここ一番というとき手抜きがしたくなる。
文章は、基本的にはよく食べ、よく眠り、心を平らにして書くものだ。キツネが憑いたときに書ききってしまうのは、もちろんかまわない。だが、大酒をくらい、麻雀を打ち、くたくたになっておきながら、そのうちキツネがきて何とかしてくれるだろう、と期待するのは虫が良すぎる。
Appendix②
「論理的な文章を書くための公式」「文章を書くときのチェックリスト」を載せておく。
論理的な文章を書くための八つの公式
■分析のパターンでは、文章の格要素の順序を考える
対象物やプロセス、概念を各要素にわけて説明する文章を構成する際には、最初のパラグラフで総論にあたることを述べ、次のパラグラフから各要素を説明していくことになる。
このパターンのポイントを要約すると;
①分析する対象を要約し、その構成要素を項目にする。
②各要素を重要な順に述べる。
③対象について再び述べ、必要があれば解説をつける。
■記述のパターンでは、各部分の動作順序に従って書く
物理的な装置がどのように作動するか、その機能を説明するときによく用いられる。わかりやすくいえば、「ある物がどのように見え、どのような働きをするか」を述べるものである。
最初のパラグラフでは、対象物全体の機能の概念を述べる。次のパラグラフからは、対象物を物理的に述べていく。そのさい、対象物の主な特徴を、系統立てて述べていくように注意する。最後に対象物の機能を述べる。
このパターンのポイントを要約すると;
①対象物の働きの概略を述べる。
②対象物を、できれば図などをつかって説明する。
③対象物の働きを述べる。
■プロセス指示のパターンでは、各ステップを明確に文章を並べる
料理の手順のように、そのプロセスを時間的順序をおって書いていかないと、読み手が理解しにくくなるものは意外に多い。このプロセスのパターンは、なにか時間をおって説明する場合につかうものである。
このパターンでが、最初のパラグラフで目的を述べると同時に、方法の基本ステップを述べる。次に、プロセスを理解するのに必要な部品や機器、対象物があれば、それを説明したうえで、ステップごとのプロセスを説明していく。
このパターンのポイントを要約すると;
①プロセスの目的、方法を紹介し、その基本ステップを明確に述べる。
②プロセスを説明するのに必要な部品や対象物を述べる。
③プロセスを、ステップごとに順に説明する。
■調査研究のパターンでは、目的、材料、方法、結果、結論を述べる
調査研究した手順を説明する場合につかうパターンである。なにかについてテストや実験を行い、その方法について述べるパラグラフなどは、このパターンを用いるとよい。
最初のパラグラフで研究の目的を述べ、問題はなにか、なにを解決しようとしているかを明確にする。次に、技術的背景や仕様などを述べていく。
このパターンのポイントは次のとおりである;
①研究の目的を述べる。
②使用、基準、技術背景を説明する。
③研究材料、研究方法を項目別に述べる。
④結果を述べる。
⑤結果を分析し、結論を導く。
⑥結論を解説し、推奨を導く。
─── ④の結果では、得られたデータの中から必要なものだけを述べるようにする。また、⑤で結果を分析することによって、結論を説明したり、立証していく。⑥の解説では、研究目的と結論との関係を示すことが必要である。
■説得のパターンでは、結論、理由、反論への反論、結論の順で書く
説得タイプは総論で述べた主旨を各論で支持する(立証する)という基本構成をとり、報知タイプは総論で述べた主旨を各論で説明するという基本構成をとる。
説得のパターンだが、まず結論を述べたあと、結論に対する第一の支持内容(もっとも有力な指示内容)を書く。次に、第二の支持内容やその他の支持内容を説明し、結論に対する反論があれば、それを反証する。
この説得パターンは、結論や推奨事項を読み手に支持してもらいたいときや、実行してもらいたいときにつかうことが多い。セールスマンの売り込みなどにもつうじる。
このパターンのポイントを要約すると;
①結論を述べる。
②結論を支持する理由を述べる。
③予測できる反対意見に対して、その反論を書く。
④結論をくり返す。
■問題・解決のパターンでは、解決の基準を述べてから解決を書く
問題の解決法を示したり、疑問に答えることを目的としている場合に用いられる。
このパターンで文書を構成していく際は、第一パラグラフで、問題や疑問についての概要を述べる。次に、解決の基準を述べたうえで、解決や回答を重ねていく。そのうえで、解決法を重要なものから順に解説していく。
このパターンのポイントを要約すると;
①問題(あるいは疑問点)の概要を述べる。
②解決の基準を示す。
③解決(回答)の概要を述べる。
④重要なものから順に、解決法を解説する。
⑤不完全な部分の補足説明や、別の解決方法を採用しなかった理由を説明する。
■原因・結果のパターンでは、結論の予測にふれ、立証していく
問題のなかには、その原因なり結果なりをはっきりさせなければならないものがある。たとえば、食中毒が起こったら、その原因をはっきりさせなければいけない。これは、結果から原因を立証するものである。
このように原因・結果を立証したいときに使うのが、このパターンである。
原因・結果のパターンで文書を構成するには、第一パラグラフで問題点の概要について述べる。次に、予測される原因や結果をひとつひとつ分析して、結果を立証していく。
このパターンのポイントを要約すると;
①問題点(原因または結果)を述べ、結論を予測する。
②結論を立証する。原因の分析を重要なものから順に配列する。
③その他のありそうな原因を予測して、それに反証する。
■比較・対照のパターンでは、類似と相違の強調のしかたで書き方が違う
同じ比べるにしても、そこに「いい・悪い」の判断が入るなら「比較」、そうした判断をせず、ただ比べるだけなら「対照」というわけである。
比較のパターンは、いろいろな選択肢のなかからひとつを選んだ理由を述べるときに使われることが多い。また、対照のパターンは、他の物との類似点や相違点を述べることによって、読み手にある事柄を理解してもらう場合につかわれる。
このパターンのポイントは次のとおりである;
①結論を述べ、比較する項目(または対照する項目)を紹介する。
②項目を重要なものから順に、ひとつずつ述べる。
③結果を再び述べる。
チェックリスト
■文章を書くまえのチェックポイント
1 「書く目的」がはっきりしているか
・なぜ書くのか=なにを読み手に伝えたいのかがはっきりしているか。
・報告か説得か=説明のために書くのか、読み手を説得するために書くのか。
2 「書く対象」がはっきりしているか
・だれが読むのか=読み手ははっきりしているか。
・読み手の要求を考えているか=読み手は何を知りたがっているのかを考えているか。
・読み手の立場を考えているか=読み手には専門知識があるのか、事実をどこまで伝えたらいいのか、一枚にまとめたほうがいいのか、何枚にも詳しく書いたほうがいいのか、読み手は早く読みたがっているのか、それほど急いでいないか、などを考えているか。
3 「書く内容」がはっきりしているか
・何を書くのか=テーマはひとつにしぼられているか。
・データは集まっているか=テーマにあったデータが集まっているか、足りないデータはないか、古すぎるデータはないか、出典や内容を確認しているか、など。
・データの整理はできているか=データをグループ分けしてあるか、順序を考えているか、不要なデータはまぎれこんでいないか。
4 期限と費用を考えているか
・期限を考えているか=提出までに書きあがるよう、計画をきちんと立てているか。
・コストを意識しているか=時間と費用をかけすぎていないか。
■文章を書いたあとのチェックポイント
1 語句について
・読み手にとってわかりにくい言葉を使っていないか=抽象的で難解な言葉は、できるだけ平易な言いかたに直す。
・専門用語を、きちんと統一しているか=読み手にわかりにくい専門用語は、最初に、定義・意味を説明しておく。
・代名詞、接続詞などを多用しすぎていないか。
・名詞と動詞、名詞と形容詞、動詞と副詞の相性はおかしくないか。
・カタカナの多用、漢字の羅列で読みにくくなっていないか。
・文について長すぎはしないか=途中で切れないか検討する。また。ひとつの文でいろいろな概念を述べているときは、ワンセンテンス・ワンアイディアにしたがって、文を切る。
・修飾語の位置はおかしくないか。
・主語と述語は対応しているか=その言葉が意味する範囲がひろすぎたり、意味がいろいろある言葉は、ワンワード・ワンミーニングにしたがって別な言葉に置きかえる。また、ひとによって解釈が異なりそうな、あいまいな形容詞や副詞は、その内容や程度の説明が必要。
2 段落について
・内容が変わる区切れ目で段落を変えているか=一文ごとに改行した文章も、内容が変わっても段落を変えない文章も読みにくいので、内容の区切れ目ごとに段落をつけていく。
・各パラグラフは、総論→各論の展開になっているか=総論が最後にきたり、総論のない文章はわかりにくいので書き改める。
・各論の順序におかしなところはないか。
・構成について、最初にその文書の「目的」を示しているか。
・読み手にわかりやすい構成になっているか=序文(総論)・本文(各論)・結論がわかるように、見出しなども工夫するといい。
3 文法について
・誤字・脱字はないか。
・句読点をきちんと打っているか。
・言葉の重複はないか。
・俗語、流行語、若者言葉を使っていないか。
以上。
参考書籍
木下 是雄『理科系の作文技術』中公新書(1981年)
本田 勝一『日本語の作文技術』朝日文庫(1982年)
中村 明『文章をみがく』NHKブックス(1991年)
木村 泉『ワープロ作文技術』岩波新書(1993年)
中村 明『センスのある日本語表現のために』中公新書(1994年)
中村 明『悪文』ちくま新書(1995年)
篠田 義明『通じる文章の技術』ごま書房(1998年)
外山 滋比古『知的文章術』大和書房(2024年)
参考資料(Web)
「エリート的な文章の書き方」(2012)- http://disadvantaged.web.fc2.com/
文化庁.「公用文作成の考え方(建議) 」(2022/1/7)- https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/pdf/93651301_01.pdf