恩返しなどという傲慢さを捨て、ただ「恩送り」をする
エンジニアとして13年。 「やるか死ぬか」で走り続けてきた私のキャリアは、一見すると自分の足で立っているように見えるかもしれない。
だが、その実態はどうだ。 私が書くコードは、誰かが無償で公開したライブラリの上で動き、私が解決したバグは、先人がStack Overflowに残してくれた遺産のおかげで解消されたものだ。 私の技術も、思考も、キャリアも、すべては顔も知らない誰かからの「借り物」で構成されている。
私は、圧倒的な他者の成果に「タダ乗り」して生き延びてきた、凡庸な人間に過ぎない。
「恩返し」は、凡人の手に余る
若い頃は、この借りを返そうと息巻いていた時期もあった。いわゆる「恩返し」だ。 自分を育ててくれた先輩や、偉大なOSSの開発者たちに、何か報いなければならないと思っていた。
しかし、ある時気づいてしまった。 それは、私のような凡人にはあまりに不相応で、ある種の傲慢さすら孕んだ願いだと。
私を庇って去っていったあの上司に、今さら何ができる?
上流にいる巨人たちは、遥か先を歩いている。私が必死に石を投げても、彼らの背中には届かない。 「恩返し」にこだわると、自分の無力さに絶望し、何もできない自分を責めることになる。それは、精神衛生上よろしくない。
流れを止めないための「恩送り」
だから私は、上流を見るのをやめた。 受け取ったバトンを、来た道に送り返すことはできない。ならば、下流へと流すしかない。
それが 「恩送り」 だ。
私がかつて欲しくてたまらなかった「失敗できる環境」。 私が喉から手が出るほど欲しかった「技術の地図」。 私が恐怖に震えていた時に欲しかった「後ろ盾」。
それらを、今、私の目の前にいる後輩たちに渡す。 これは道徳的な善行ではない。もっと即物的な、エコシステムの維持活動だ。
ソフトウェア開発という巨大な奔流の中で、私が受け取ったエネルギーを私で止めてしまえば、そこで流れは淀み、腐敗する。 適応型ソフトウェア開発(ASD)が教える通り、健全なシステムとは、常に情報とエネルギーが循環している状態(カオスの淵)だ。
私が受け取った恩を、私の代で使い潰して死ぬのは、あまりに「コスパ」が悪い。 だから、加工し、噛み砕き、次の世代が消化しやすい形にして流す。
凡庸な私が、最強の土壌になる
私は、後輩たちに「感謝しろ」とは言わない。 なぜなら、私もまた、誰にも感謝を伝えられないまま、多くのものを貰ってきたからだ。
彼らが私の渡したもので成長し、いつか私を追い抜き、私が理解できない新しい技術で世界を変えていく。 そして、その彼らがまた次の世代に何かを渡していく。
その循環の一部になれるなら、凡庸なエンジニアの人生も悪くない。 私は、大輪の花を咲かせる天才ではない。 だが、その花が咲くための、栄養分を含んだ「土壌」になることならできる。
恩は返すものではない。 ただ、淡々と、次の走者の手のひらに乗せてやるものなのだ。 それが、借り物の人生を生きる私が辿り着いた、唯一の誠実さだと思っている。