「やるか死ぬか」という、古びたコンパスについて
「座右の銘はありますか?」と聞かれると、いつも少し躊躇する。 私のそれは、いい大人が口にするにはあまりに直情的で、少々物騒だからだ。
「やるか、死ぬか(Do or Die)」
これが、私の高校時代からのモットーであり、35年間、一度も手放さずにきた指針だ。
穏やかなシニアエンジニアが何を言っているんだ、と思われるかもしれない。 しかし、ここで言う「死」とは、生物学的な死のことではない。 もっと静かで、恐ろしい、心の壊死のことだ。
生きた自分になれるか、心が死んでいくか
私にとっての行動の判断基準は、損得や効率ではない。 それをやることで「生きた自分になれるか」、それともやらなかったことで「心が死んでいくか」。その二択だ。
新しい技術、困難なプロジェクト、面倒な人間関係の調整。 目の前に壁が現れたとき、私の内側では常にこの問いが繰り返される。
もしここで、失敗を恐れて立ち止まれば、私は安全だ。傷つくこともないし、恥もかかない。 けれどその瞬間、私の心の一部は確実に死ぬ。 好奇心が死に、自尊心が死に、世界に対する感度が鈍っていく。 そうやって「やらない理由」を積み重ねた先にあるのは、ただ呼吸をしているだけの、空っぽの抜け殻だ。
逆に、たとえ無謀に見えても一歩を踏み出せば、その瞬間、血が巡り始める。 失敗して泥まみれになろうとも、冷や汗をかこうとも、その痛みこそが「生きている」という手触りになる。
35年間の実験結果
この極端な二元論を、私は35年間、馬鹿正直に続けてきた。
適応型ソフトウェア開発(ASD)で言うところの「カオスの淵」に、自ら身を投げ出し続けてきたようなものかもしれない。 安定した「秩序」に留まれば心は死に、「カオス」に飛び込めば生を実感する。その繰り返しだ。
正直なところ、この生き方が正解だったのかはわからない。 もっとスマートな立ち回りがあったかもしれないし、無駄な怪我もたくさんした。
けれど、これだけは言える。 私は今、エンジニアとして、そして一人の人間として、まだ「生きている」。
目が死んでいないこと。 新しい朝が来るのを、それほど悪い気分ではなく迎えられること。 自分の人生の手綱を、誰かに明け渡さずに握りしめている感覚があること。
それが、この不器用なモットーがもたらしてくれた、数少ない、しかし何にも代えがたい成果なのかもしれない。
結論
「やるか死ぬか」
もしあなたが、日々の忙殺の中で自分の輪郭がぼやけていくような感覚、あるいは心が静かに冷えていくような恐怖を感じているなら。 一度、この少し乱暴な言葉を呟いてみてほしい。
選択肢は常にシンプルだ。 そこで腐るか、生き返るか。
私はこれからも、性懲りもなく「やる」ほうを選び続けるだろう。 そうしてあがき続ける限り、私たちは何度だって、生きた自分に出会えるのだから。