シニアエンジニアとしての日々を送る中で、「なぜフリーランスにならないのか?」という問いは、何度も頭を駆け巡ってきた。
技術ブログを書き、それなりの経験を積めば、市場価値は一時的に高まる。稼ぎは増えるだろう。もっと自由に仕事を選べるようになるはずだ。
私はその選択肢を「拒否」した。
それは、私が特別な技術への「矜持」を持たなかったからであり、何より、自分自身の「器用さの限界」を正確に知っている凡庸な人間だからだ。
「切り売り」の恐怖と、凡人の限界
フリーランスや副業の生き方は、自らのスキルを「切り売り」することがベースとなる。
それはプロとして当然の対価交換だ。しかし、その契約には、自らの技術を常に最新の状態に磨き上げる「自己研鑽」のコスト、そして「営業活動」「事務作業」「お金に向き合う」コストが、すべて暗黙の前提として含まれている。
私は、それほど器用ではない。 コードを書くことと、その技術の土台を固めることに集中すれば、それ以外のリソースは枯渇する。 自己研鑽を疎かにすれば、技術的負債は自分自身に跳ね返ってくる。営業や事務に時間を奪われれば、最も価値を生むはずの「思考の時間」が削られていく。
私の生存戦略は、常に「自分にしかできないことに資源を集中する」という一点突破だ。 すべての戦場で完璧に戦える超人ではない凡庸な私にとって、すべての役割を自分で担うフリーランスという生き方は、安定した「秩序」ではなく、制御不能な「カオス」への転落を意味した。
私は、カオスの中で溺れることを選ばなかった。
サラリーマンという名の「安定した土台」
私が選んだのは、企業内シニアとして「サラリーマン」という看板を掲げ続けることだ。
これは、保守的な選択ではない。 むしろ、人生という大きな冒険を続けるための、戦略的な選択である。
安定した収入と、技術以外の雑務を組織が引き受けてくれる環境は、私に大きな「余白」を与えてくれる。 その余白こそが、仕事の枠を超えた「自由で豊かな人生」を探求する余地となる。
仕事は人生のすべてではない。 私は自分の好奇心を満たすための趣味、家族との時間、そして、誰にも頼まれない非効率な技術探求に、その余白を使いたい。
企業に居続けることは、「技術を売る」のではなく、「組織の複雑な問題を、長年の経験と人間関係を駆使して解決する」という、より総合的で、ある種の泥臭い価値提供に集中できるということだ。
それは、私のような凡庸な人間が、無理なく持続的に、最大限の力を発揮できる最適な 「カオスの淵」 の境界線なのだ。
後輩たちに見せる「もう一つのロールモデル」
そして、私がこの選択肢にこだわる最大の理由は、後輩たちへのメッセージだ。
多くの若手エンジニアは、「稼ぐならフリーランス」「すごいなら独立」という画一的なキャリア観に囚われている。彼らは、自分の心臓を焦燥感で満たしながら、常に「市場」という名の評価軸に晒されている。
私は、企業という安定した土台の上で、好きなことに没頭し、技術を探求し、それでもなお組織に貢献し続けるシニアエンジニアの姿を、後輩たちの背中に見せてやりたい。
「焦らなくていい。安定した場所で、自分のペースで深く潜り、それでも豊かな人生を送るキャリアもある」
もし私の生き方が、誰かの「キャリアの選択肢の呪縛」を解くヒントになるのなら、この「企業内シニア」というポジションは、私にしかできない、最も価値のある役割になるはずだ。
私は、これからも企業という「母港」を持ちながら、心の中で、人生という壮大な航海を続ける。 それが、凡庸なエンジニアの、最も賢く、そして豊かな生存戦略なのだ。