エンジニアとして13年。 正直に言えば、怖い。
今の技術の進化速度は、明らかに人間の学習能力を超えている。 朝起きたら新しいフレームワークが出ていて、昼にはそれがベストプラクティスになり、夜にはもう「レガシー」と呼ばれているような感覚だ。
さらに、そこへAIという怪物が加わった。 かつて私が徹夜して習得した正規表現のパズルも、複雑なSQLも、今やプロンプト一行で出力される。 「スキルの習得」だけで飯が食える時代は、音を立てて崩れ去ろうとしている。
この激流の中で、凡庸な私が次の10年を生き残るために何が必要か。 新しい言語の文法か? 最新のクラウドインフラの知識か?
違う。
私がこれから死守しなければならないのは、スキルではない。 「問い続ける思考」 だ。
「答え」の価値は大暴落している
私たちは長い間、「答え(How)」を持っている人間に価値を置いてきた。 「どう実装するか」「どう効率化するか」。その引き出しが多い人が「強いエンジニア」だった。
だが、これからの10年で、「答え」の価値は限りなくゼロに近づく。 だって、聞けばAIが教えてくれるからだ。しかも、私より正確に、私より速く。
答えがコモディティ(誰でも手に入る安価なもの)になった世界で、最後に残る価値は何か。 それは、 「何を問うか」 を決める力だ。
AIは優秀だが、「問い」そのものを自発的に生み出すことはない。 「なぜ、それを作るのか?」 「その機能は、本当にユーザーの痛みを解決するのか?」 「効率的かもしれないが、チームの熱量を殺さないか?」
こうした、文脈(コンテキスト)に依存した泥臭い「問い」は、痛みを知っている人間にしか立てられない。
傷跡だけが、正しい「問い」を知っている
私が「問い続ける思考」を信じる理由は、それが私の 「傷跡」 と直結しているからだ。
なぜ、「この設計で本当にいいのか?」と問うのか。 それは過去に、安易な設計でシステムを崩壊させたトラウマがあるからだ。
なぜ、「そのスケジュールは守れるのか?」と問うのか。 それは過去に、デスマーチで仲間が倒れていくのを目の当たりにしたからだ。
私の身体に刻まれた無数の失敗、後悔、冷や汗。 それらがセンサーとなって、「ここは危ないぞ」と問いかけてくる。 この感覚ばかりは、どんなに優秀なAIでも学習できない。凡庸な私が35年かけて泥の中を這いずり回って手に入れた、唯一の代替不可能な資産だ。
思考を止めることは、死ぬことだ
適応型ソフトウェア開発(ASD)の視点で言えば、これからの世界はますます「カオス」になる。 不確実性が高まる中で、一番楽なのは「思考停止」することだ。
「AIが書いたからヨシ」 「流行っているから採用」 「偉い人が言ったからやる」
それは楽だ。脳のリソースを使わなくて済む。 だが、それはエンジニアとしての自殺行為だ。 「やるか死ぬか」をモットーにしてきた私にとって、問いをやめることは、心が死ぬことを意味する。
スキルは錆びる。知識は古くなる。 でも、「問い」だけは錆びない。 むしろ、経験を積めば積むほど、問いの精度は鋭くなる。
結論:面倒な老人として生きる
だから私は、これからの10年を、ある種の「面倒くさい老人」として生きる覚悟を決めている。
若手が最新のAIツールで爆速でコードを書いている横で、私はしつこく問い続けるだろう。 「で、それは誰を幸せにするんだっけ?」。
嫌がられるかもしれない。老害扱いされるかもしれない。 それでも、その「問い」が、カオスの淵でチームが全滅するのを防ぐ最後の防波堤になると信じている。
スキルという武器が通用しなくなった時、最後に私を守ってくれるのは、 「なんで?」と問い続けてきた、あの日々の思考の痕跡だけだ。