私は、紛れもない「量産型」のエンジニア
特別な名前のついた専用機ではない。 天才的な閃きもなければ、業界を揺るがすような革新的なコードも書けない。 13年間、泥にまみれ、何度も故障し、その度に修理しては戦場に戻ってきた、どこにでもいる旧式の量産機だ。
若い頃は、そんな自分が恥ずかしかった。「何者か」になりたくて、ユニークプレイヤーに憧れては絶望していた。
だが、シニアになった今、景色が変わった。 量産型には、量産型の戦い方がある。
私が今、残りのエンジニア人生を賭けて「やりたいこと」は、驚くほど地味で、しかし私にとっては切実な、三つのことに集約される。
1. 「安全なカオス」という庭を作る
一つ目は、次の世代のための環境づくりだ。
適応型ソフトウェア開発(ASD)が教える通り、人は「秩序」の中では退屈し、「カオス」の中では壊れてしまう。成長はその境界線、 「カオスの淵」 でしか起きない。
しかし、現代の開発現場はあまりに過酷だ。失敗は許されず、技術の荒波は容赦なく若手を飲み込む。
だから私がやりたいのは、私の身体を張って 「安全なカオス」 を作ることだ。 ビジネスの理不尽な要求や、レガシーシステムの毒を、私が防波堤となって食い止める。 その内側に、若手が安心して転び、バグを出し、試行錯誤できる「庭」を作る。
天才には、こんな泥臭い役回りは似合わない。 痛みをを知り、失敗の味を知り尽くした「量産型」の私だからこそ、彼らがどこで躓き、どこで守られるべきかがわかるのだ。
2. 「凡庸であること」の尊厳を守る
二つ目は、アンチテーゼの提示だ。
SNSを開けば、「月収〇〇万」「未経験からCTO」「最新技術キャッチアップ」といった、キラキラした生存バイアスまみれの言葉が踊っている。 それらは眩しいが、同時に多くの「普通」のエンジニアを、「自分はダメなんじゃないか」という呪いに突き落とす。
私は、その呪いを解きたい。
派手な成功がなくても、毎日淡々とコードを書き、チームを支え、家族を養い、週末にはビールを飲む。 そんな「凡庸なエンジニア」の生き方が、どれほど尊く、そして強靭なことか。
天才だけが偉いのではない。生き残り続けること、安定した再現性を提供し続けること。 その「地味な凄み」を、私自身の生き様として証明し続けたい。 「ああ、あんなふうに歳を取るのも悪くないな」と、後輩に思わせることができたなら、私の勝ちだ。
3. 枯れずに、腐らずに、ただそこに在る
そして最後は、私自身の問題だ。
私は、枯れたくない。 「経験豊富なシニア」という安楽椅子に座って、昔話をするだけの存在にはなりたくない。
「やるか死ぬか」。 このモットーは、今も私の胸で燻っている。 新しい技術に戸惑いながらも触れ続けること。わからないことを「わからない」と若手に教えを乞うこと。 そうやって、プライドを捨てて 「変化し続けること」 をやりたい。
私の機能は、最新鋭のスペックではないかもしれない。 だが、メンテナンスされ続け、油が差され、いつでも確実に動く。 そういう「頼れる旧式」として、現場の片隅に立ち続けていたい。
結論:私は、豊かな土壌になりたい
結局のところ、私がやりたいのは 「土壌」 になることなのだと思う。
私は、大輪の花ではない。 だが、これから咲く花たちが、根を張り、水を吸い、嵐に耐えるための、栄養分を含んだ土壌にはなれる。
私が過去に流した悔し涙も、恥ずかしい失敗も、すべて分解して肥料にする。 そうやって整えた土地から、私よりも遥かに優秀で、私よりも遥かに高く空を飛ぶエンジニアたちが育っていく。
それを見送る時、私はきっと、自分が「量産型」であったことを、心から誇りに思うだろう。 それが、凡庸な私が最後に描く、最高の景色だ。
みんな、高く飛べ。