いつだって、大冒険を繰り返すほうが魅力的だ。
誰も踏み入れたことのない技術領域、ヒリヒリするようなスケジュールの狭間。 そういった「冒険」の渦中にいるとき、私たちは脳内麻薬に満たされ、時として自分の限界を遥かに超えるアウトプットを叩き出すことがある。
それは確かに甘美だ。 けれど、シニアになった今の私は、この感覚を警戒するようになった。むしろ、恐怖すら覚える。
なぜなら、その大冒険の果てに生まれた成果は、多くの場合 「奇跡的な偶然」 に過ぎないからだ。
「奇跡」を「実力」と錯覚すると、崩れる
カオスの淵で、アドレナリンを燃料にして生まれた成果。 それは、たまたま体調が良かった、たまたま勘が当たった、たまたま誰かのサポートが噛み合ったという、不確定要素の集合体に過ぎない。
一番恐ろしいのは、この 「偶然の奇跡」を「自分の実力」だと錯覚してしまうこと だ。
「前回もなんとかなったから、今回もいけるだろう」 この過信こそが、エンジニアとしての死を招く。 次回の冒険で、同じ奇跡が起きるとは限らない。 奇跡を前提に組まれた設計やスケジュールが破綻したとき、私たちはただの「無謀なギャンブラー」として、信頼という資産をすべて失うことになる。
私は凡庸な人間だ。だからこそ、自分の人生やキャリアを、不確実な「運」にベットし続けるわけにはいかないのだ。
失敗の再現性は高い。けれど、直視するには重すぎる
では、どうすれば「安定した再現性」を手に入れられるのか。
論理的に考えれば、答えはシンプルだ。 「失敗」には、恐ろしいほどの再現性がある。 準備不足なら必ずバグる。寝不足なら必ずミスをする。合意形成を怠れば必ず手戻る。 失敗のメカニズムは、物理法則のように正確だ。
だから、失敗した原因を徹底的に突き詰め、解剖し、対策を打てば、確実に生存率は上がるはずだ。 エンジニアリングとして、それが「正解」であることはわかっている。
けれど、ここに人間としての限界がある。 失敗を突き詰める作業は、つらい。死ぬほどつらいのだ。
「なぜあんなコードを書いたんだ」 「なぜあの時、確認しなかったんだ」
自分の至らなさを顕微鏡で覗き込み、ナイフで解剖するような行為は、私の心を確実に殺していく。 「やるか死ぬか」で生きている私にとって、心が死んでしまっては、明日戦うためのエネルギーまで失われてしまう。 正しさを追求して心が折れてしまっては、元も子もない。
「失敗は軽く、成功は重く」という生存戦略
そこで私が辿り着いたのが、論理的「正しさ」と精神的「生存」を両立させるための、ある種のねじれたアプローチだ。
「失敗したときは軽く。うまくいったときには徹底的に」
再現性の高い「失敗」については、あえて深く潜らない。 「ああ、重力に従って落ちたな」と事実だけを確認し、感情を挟まずに次への修正点だけをメモして、すぐに忘れる。自分を守るために、あえて鈍感になる。
その代わり、再現性の低い「成功」こそ、執拗なまでに徹底的に分析するのだ。
9割は運だったかもしれない。 でも、残りの1割。 「なぜ今回はうまくいった?」 「どの準備が、この幸運を引き寄せた?」
砂金採りのような作業だが、そこで見つけた小さな「成功の種」は、精神的なダメージを負うことなく、ポジティブな資産として積み上げることができる。
結論:奇跡ではなく、退屈な「普通」を愛するために
私たちは、失敗からは目を逸らしたくなるし、成功は自分の実力だと思いたくなる生き物だ。 その認知の歪みを自覚した上で、あえて逆を行く。
失敗の痛みからは全力で逃げつつ、まぐれ当たりの成功から「再現性」のかけらを拾い集める。 そうやって作った、継ぎ接ぎだらけの「勝ちパターン」だけが、凡庸な私たちがこの世界で生き残るための命綱になる。
大冒険の熱狂よりも、機嫌よく「いつもの品質」を出し続けられること。 その退屈で平和な日常を守り抜くことこそが、私がシニアエンジニアとして辿り着いた、今のところの最適解なのだ。