「自分だけ理解できていない」感覚
障害対応や設計の議論をしていると、自分だけ理解できていない感覚になることがある。
周りは自然に会話を進めているのに、自分の頭には「?」が浮かんでいる。
何が論点なのか。
なぜその結論になるのか。
どこが重要なのか。
会話についていけていない感覚だけが残る。
そういうとき、自分の中ではかなり短絡的に、
「理解できていない」
↓
「自分は実力不足なんだろうな」
と結びついていた。
特に、周りに強いエンジニアがいるほど、その感覚は強くなる。
自分だけが浅い理解のまま会話を聞いているような感覚になる日が、普通にあった。
今日は、少しだけ違った
今日は、ある障害対応について何人かで議論していた。
Kafka の consumer のラグについて、「これが原因かもしれない」「いや、こっちでは」と話しながら状況を見ていた。
その中で、自分でも気づいたことを自然に共有できていた。
それに対して、「たしかに」という反応も返ってきた。
今日は、会話の外側ではなく、ちゃんと議論の中に入れている感覚があった。
少なくとも、自分だけが置いていかれている感じではなかった。
でも、今日いきなり実力が伸びたわけではない
今日ずっと、「なんでこんなに気分が良いんだろう」と考えていた。
冷静に考えると、理由はかなり単純で、議論の輪に入れている感覚があったからだと思う。
自分の発言が会話に繋がって、議論の一部になれていた。
それがかなり大きかった。
でも、少し不思議でもあった。
今日、自分の実力が急に伸びたわけではない。
昨日まで理解できなかったことが、今日突然すべて理解できるようになったわけでもない。
にもかかわらず、自己評価はかなり変動していた。
思っていたより、技術は理解できていた
あとから振り返ると、今日は全体アーキテクチャを以前より自然に捉えられていた。
特に、イベント処理まわりの consumer については、自分が思っていたより理解できていたらしい。
議論している中で、自分でもそこで初めて気づいた。
Kafka や Decaton(Kafkaのライブラリ) の concurrency、partitioning のような個別技術についても、まったく理解できていなかったわけではなかった。
これまで自分は、「自分は理解できていない側の人間だ」とかなり雑に認識していた気がする。
足りなかったのは、文脈理解だったのかもしれない
もちろん、純粋に知識不足な場面も普通にある。
ただ、これまで「理解できない」と感じていたものの中には、技術そのものではなく、プロダクト側の文脈理解不足だった場面も多かったのかもしれない。
- このシステムがどういう構造で動いているのか
- どこで問題が起きやすいのか
- どういう前提で会話が進んでいるのか
そういう背景知識が不足していると、会話についていけない感覚になりやすい。
逆に、文脈がある程度頭に入っていると、個別技術の理解も自然に繋がりやすくなる。
以前の自分は、その二つをあまり区別せず、全部まとめて「自分は実力不足なんだろうな」と処理していた気がする。
自己評価は、出来事にかなり引っ張られる
今までは、自分の浮き沈みは「実力の上下」から来ていると思っていた。
でも実際には、その日の出来事にかなり引っ張られていただけなのかもしれない。
議論に入れた日。
会話が噛み合った日。
理解できた感覚があった日。
そういう日は自己評価が上がる。
逆に、
会話についていけなかった日。
理解できない感覚が強かった日。
輪の外側にいる感覚があった日。
そういう日はかなり沈む。
でも、そこで上下しているのは、本当に実力そのものなんだろうかと思った。
「今日はダメだった」と「実力がない」は、同じではなかった
もちろん、普通に実力不足なこともあると思う。
ただ少なくとも、自分の中では、
「今日はダメだった」
↓
「自分には実力がない」
をかなり短絡的に結びつけていた気がする。
でも実際には、その日の出来事や、会話に入れている感覚、前提知識の量みたいなものが、自己評価にかなり影響していた。
まだ普通に沈む日はあると思う。
ただ、「今日はダメだった」という感情を、そのまま「自分には実力がない」に接続しなくてもいいのかもしれない、とは少し思った。