「普通ってこんなものなのか」と思い込んでいた期間があった。
新卒で入った会社が、後から振り返ると教科書に載りそうなブラック企業だった。でも当時の俺には、それが当然に見えていた。半年間、ずっと。
なぜ気づくのに半年もかかったのか。今なら少しわかる気がする。
入社した日のこと
就職活動は苦労した。志望していた業界の大手は全滅で、ぎりぎり内定をもらったのが中規模のIT系企業だった。
入社式は4月1日。スーツ姿の同期が20人ほど集まっていた。人事部長が熱い言葉をかけてくれた。「うちは実力主義だ。頑張った分だけ返ってくる会社だ」と。
「頑張れば報われる」という言葉を信じていた。信じたかったのかもしれない。
研修は1週間で終わり、即座に現場に配属された。「早く現場を経験させる教育方針」と説明された。
最初の違和感
配属先の先輩は、いつも疲れた顔をしていた。目の下にクマがあって、机の上にはエナジードリンクが常備してある。
「残業、多いですか」と聞いたら、笑いながら言われた。
「多いよ。でもうちはフレックスだから、まあそんなもんだよ」
その月の残業時間を後から知った。100時間を超えていた。
「そういうもんか」と思っていた。業界の特性だと説明された。「最初は誰でもこうだ」とも言われた。
俺の残業時間も、1ヶ月目から80時間を超えた。
半年の記録
入社後半年間の主な出来事を書く。
1ヶ月目: 毎日終電。「慣れたら楽になる」と先輩に言われた。社内の雰囲気に必死に合わせた。
2ヶ月目: 上司に「仕事が遅い」と毎週言われた。具体的な改善方法は教えてもらえない。「自分で考えろ」と言われた。
3ヶ月目: 同期が一人辞めた。理由は「体調不良」と公表された。残った同期には「根性がない」という雰囲気が漂った。
4ヶ月目: 上司から「お前、本当に頭が悪いな」と会議の場で言われた。フォローは一切なかった。周りは誰も何も言わなかった。
5ヶ月目: 土曜出勤が常態化した。「休日出勤手当ては出ないが、代わりに平日に休んでいい」と言われた。実際には平日に休める雰囲気ではなかった。
6ヶ月目: 俺が同期の友人に「最近どう?」と聞かれた。「まあ普通だよ、忙しいけど」と答えた。友人が怪訝な顔をした。
気づいたきっかけ
その友人が言った言葉が引っかかった。
「残業100時間って、普通じゃないよ」
「でも業界的にはそういうもんらしいよ」
「いやいや、俺の会社は月20〜30時間くらいだよ。お前のとこ、おかしくない?」
その言葉を聞いても、最初はピンと来なかった。「職種が違うから」と思った。でも家に帰ってから、ふと考えた。
毎日終電で帰る生活が、本当に「普通」なのか?
「お前頭が悪い」と人前で言われることが、普通の職場環境なのか?
土曜に出勤して手当てが出ないのが、当たり前なのか?
一つひとつ考えていくと、答えは「普通じゃない」ばかりだった。
なぜ半年間気づかなかったのか
後から考えると、理由はいくつかある。
まず、比較対象がなかった。社会人経験がゼロの状態で入った職場が最初の「普通」になった。周りが全員同じ環境にいるから、「これが普通」に見えた。
次に、「慣れたら変わる」という言葉を信じていた。実際には変わらなかったが、「まだ慣れてないだけ」という認知が修正を遅らせた。
そして最も重要なのは、「否定されること」への慣れだ。上司に「頭が悪い」と言われ続けると、「俺が劣っているから悪い環境なんだ」と思うようになる。自分の認知能力への自信がなかったことが、環境の問題を自分の問題として内面化させた。
IQテストを受けたのはその後
ブラック企業を退職したのは入社9ヶ月目だった。
辞めてから2ヶ月後に、ふとIQテストを受けた。「俺って本当に頭悪かったのか」という問いを、検証したかった。
スコアは122だった。平均を大きく上回る数字だった。
「お前頭悪い」と言い続けた上司は、俺の何を見ていたのだろうと思った。
認知能力と「ブラック企業での評価」は、全然別の話だったということだ。
今、同じ状況にいる人へ
「こんなもんか」と思っているなら、一度比較対象を作ることをすすめる。
転職サイトを見る、友人に話を聞く、労働基準法を調べる。そのどれでもいい。外の空気を吸うことで、「普通」の基準がリセットされる。
そして「頭が悪い」と言われていても、それが本当かどうかは自分で確かめられる。環境が人を追い詰めているだけの場合、評価と実力は一致しない。
