はじめに
会社から「IPOを目指します」と言われた。
社長や経営陣は盛り上がっているけれど、そもそもIPOが何なのかよく分からない。何となく株式市場に関係するらしいけれど、自分には関係なさそうだ。
それなのに、会社のルールは厳しくなる。申請や承認が増える。仕事の記録を残せと言われる。監査のために資料を出してほしいと言われる。
一般社員からすれば、それで自分には何の得があるのかと思うのも当然です。
IPOとは、簡単に言えば、会社の株を証券取引所で広く売買できるようにすることです。会社は上場することで、お金を集める方法を増やしたり、知名度を高めたりしながら、さらに会社を成長させようとします。東京証券取引所も、IPOを会社の成長に使うための手段として説明しています。1
ただし、それは会社側の話です。
社員の給料が自動的に上がるわけではありません。社員全員に株が配られるわけでもありません。
それでは一般社員には関係がないのかというと、私はそうは思いません。
IPOを目指している会社では、組織、仕事の進め方、役割、ルール、システムなどが大きく変わります。完成した会社ではなかなか経験できない仕事が、短い期間に大量に発生します。
つまり、IPOそのものから何かをもらうのではなく、IPOによって会社に起きる変化を、自分の報酬、経験、キャリアへ変えてしまえばよいのです。
しかも、この期間はいつまでも続きません。
会社が未上場企業から上場企業へ姿を変えている、いわば「蛹」のような数年間です。
もし今、その会社にいるのであれば、実はかなり珍しいタイミングに居合わせています。
本稿では、IPOを知らなかった一般社員でも分かるように、この期間から何を持って帰ればよいのかを考えます。
1. IPO準備中の会社にいるのは、実はかなり珍しい
まず、どれくらい珍しい出来事なのかを見てみます。
中小企業庁の資料によると、2021年時点で日本には中小企業と大企業を合わせ、およそ337万の企業・事業者があります。ここには会社だけでなく個人で事業をしている人なども含まれるため、単純に「337万社」とは呼べませんが、日本で事業をしている主体のおおまかな規模を知る数字としては使えます。2
一方、2025年に東京証券取引所へ新しく上場した会社は105社でした。3
337万と105をそのまま比べてIPOできる確率を計算することはできません。そもそも上場を目指していない事業者も大量に含まれるからです。
それでも、規模感は分かります。
毎年、そこら中の会社でIPOが起きているわけではありません。
さらに、2026年8月25日時点で東京証券取引所に上場している会社は約3,900社です。4
日本に存在する企業・事業者全体から見れば、上場会社そのものが少数です。
そして、今回注目したいのは「上場会社で働くこと」ではありません。
上場する途中の会社で働くことです。
IPO準備は期間限定
IPOには準備が必要です。
会社のお金の管理が正しいか。仕事のルールが整っているか。重要な判断を誰がしているのか。法律違反や不正を防げる仕組みになっているか。投資家に正しい情報を出せるか。
こうしたことを確認しながら、会社を上場できる状態へ作り替えていきます。
東京証券取引所では、上場を申請するまでに、直前の2期間について専門家による会計監査を受けた証明が必要とされています。公式のモデルでも、上場までを複数年にまたがる準備期間として示しています。5
実際の準備期間は会社によって違いますが、重要なのは、必ず終わる期間だということです。
会社の成長を単純化すると、次のようになります。
創業する。
事業を大きくする。
IPOの準備をする。
上場する。
上場会社として次の成長を目指す。
一度上場すれば、その会社で「初めて上場するために会社を作り替える」という経験は二度とできません。
だから私は、IPO準備期間を「会社の蛹の期間」と考えています。
蛹の中では、外から見えないところで体の作りそのものが変わっていきます。
IPO準備中の会社も似ています。
今まで社長が決めていたことに正式なルールができる。口頭で済ませていた仕事に記録が残る。誰でも触れたシステムに権限管理が入る。何となく続けていた仕事について、なぜ必要なのかを説明しなければならなくなる。
会社そのものを作り替えている期間です。
完成した上場企業へ入社しても、この変化の途中は経験できません。
もし自分の会社がIPOを目指しているのであれば、まず「珍しいタイミングにいる」ということには気付いておいた方がよいでしょう。
2. ただし、指示待ちでは何も持って帰れない
ここは明確にしておきます。
IPO準備中の会社に在籍しているだけでは、自分の価値は上がりません。
3年間そこに座っていても、言われた資料を作り、言われた台帳を更新し、指示された会議に参加しただけなら、自分に残るものはそれほど多くありません。
会社がIPOしたという実績は、会社の実績です。
自分の実績にするためには、その途中で自分が何をしたのかが必要です。
たとえば、上司から監査に必要な台帳を毎月更新してほしいと言われたとします。
言われたとおり数字をコピーして提出する。
これも必要な仕事です。
しかし、それだけを繰り返しても、得られる経験には限界があります。
そこで一歩踏み込みます。
なぜこの台帳が必要なのか。何を確認しているのか。元のデータはどこにあるのか。毎月人が転記する必要があるのか。もっと簡単にできないのか。誰が責任を持つべきなのか。
そこまで考え、仕組みを改善したなら話が変わります。
単に「台帳を更新した人」ではなく、会社の管理方法を改善した人になります。
会社がお膳立てしてくれるのを待たない
研修を用意してほしい。
新しい仕事を任せてほしい。
上司から声を掛けてほしい。
会社から育ててほしい。
そう思うこと自体が悪いわけではありません。人を育てることは会社や管理職の仕事でもあります。
ただし、IPO準備という期間限定イベントで、すべて会社がお膳立てしてくれるのを待つのはもったいないと思います。
新しい仕事には、先に手を挙げた人が入っていきます。
新しい部署には、先にその分野を勉強していた人が呼ばれます。
会社の課題を見つけて改善していた人には、次の仕事が集まります。
何年かしてIPOが終わってから、もっと関わっておけばよかったと思っても、その会社の最初のIPO準備は戻ってきません。
指示待ちのままでは、このチャンスを十分には使えません。
自分のキャリアを全部会社任せにしていると、会社が大きく成長しても、自分には「忙しかった」という記憶しか残らない可能性があります。
IPOを自分の成長につなげるには、
会社が何をしてくれるのか。
ではなく、
今、会社で起きている変化から、自分は何を取りに行けるのか。
という視点が必要です。
3. IPOから持って帰りたい3つのもの
では、具体的に何を狙えばよいのでしょうか。
一般社員なら、次の3つに分けると分かりやすいと思います。
| 持って帰るもの | 具体例 | 何をすればよいか |
|---|---|---|
| お金 | 株式、ストックオプション、賞与、昇給 | 自社の制度を確認する |
| 経験 | 新しい仕事、業務改善、監査対応、専門知識 | 一段上の仕事へ手を挙げる |
| キャリア | 昇進、異動、新しい職種、転職で使える実績 | 成果を形に残す |
お金を取りに行く
まず一番分かりやすいものです。
会社によっては、自社株を買える制度やストックオプションが用意されています。
ストックオプションとは、将来、あらかじめ決めた価格で会社の株を買える権利です。会社が成長して株価が上がれば、経済的なメリットにつながる可能性があります。
経済産業省も、ストックオプションなどを、会社の成長と働く人への報酬を結び付ける方法の一つとして整理しています。6
ただし、IPOしたら全社員がもらえる制度ではありません。
まず自分の会社に、
- 自社株を持てる制度があるのか
- ストックオプションがあるのか
- IPOに向けた特別な賞与があるのか
- 追加で担った仕事が評価や昇給につながるのか
を確認してみます。
会社がIPOへの協力を求めているのであれば、その仕事がどう評価されるのかを上司に確認することもおかしな話ではありません。
経験を取りに行く
一般社員にとって、一番多くの人が狙えるのはこちらでしょう。
IPO準備中には、今までなかった仕事が大量に生まれます。
営業なら、契約や売上の管理方法を整理する仕事。
エンジニアなら、開発やシステム変更のルールを作る仕事。
情報システム部門なら、誰がどのシステムを使えるのかを整理する仕事。
人事なら、組織や評価、勤怠の仕組みを見直す仕事。
経理なら、会社のお金をより早く、正確に把握できる仕組みを作る仕事。
そして職種に関係なく、仕事の手順を整理したり、他部署と調整したり、外部の専門家へ説明したりする機会があります。
狙うポイントは、作業量を増やすことではありません。責任の範囲を一段広げることです。
資料を作るだけではなく、取りまとめる。
会議に出るだけではなく、説明する。
言われたルールを守るだけではなく、ルールを作る側に回る。
問題を報告するだけではなく、改善方法まで考える。
そうすると、同じIPO対応でも自分に残る経験が変わります。
キャリアを取りに行く
会社が大きくなると、新しい仕事だけでなく、新しい役割も増えます。
今までなかった経営企画、広報、情報セキュリティ、法務、内部監査、人事企画、リスク管理などの仕事が必要になることがあります。
つまり、会社の中に新しい「椅子」ができます。
既に完成した会社では、上の人が異動したり退職したりしないとポストが空かないことがあります。
成長している会社では、そもそもポスト自体が新しく作られます。
ここはチャンスです。
興味のある仕事が生まれたら、自分から伝えます。
その仕事に興味がある。
少し手伝ってみたい。
担当として関わりたい。
必要なら勉強する。
会社側も人が必要なのであれば、会社と社員の利害は一致します。
会社は必要な人材を得られる。
社員は新しい経験を得られる。
これなら、会社の成長を自分のキャリアへ直接つなげられます。
4. 「IPO経験あり」を自分の財産に変える
IPO準備中には忙しくなる可能性があります。
しかし、仕事をたくさんしただけでは、数年後には細かいことを忘れてしまいます。
そこで、自分が担当したことを記録しておくことをおすすめします。
残すのは、次の5つです。
- 何が問題だったのか
- 自分はどこを担当したのか
- 何を考えて、何を変えたのか
- その結果どうなったのか
- どんな能力が身についたのか
たとえば、こんな形です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 問題 | 退職した人のシステム利用権限が残る可能性があった |
| 自分の担当 | 情報システム部門の担当として改善に参加 |
| やったこと | 人事部門と連携し、退職時に利用権限を削除する流れを整理 |
| 結果 | 誰がいつ確認するかを決め、定期確認の仕組みも作った |
| 得た経験 | システム管理、業務改善、他部署との調整 |
これなら、専門用語を使わなくても、自分が何をしたのか説明できます。
評価面談でも使えます。
社内で新しい仕事へ応募するときにも使えます。
転職するときにも使えます。
そして重要なのは、会社が最終的にIPOできなかった場合でも、この経験は消えないことです。
IPOが延期されることもあります。
計画そのものが変わることもあります。
それでも、自分が会社の仕組みを改善した経験は残ります。
IPOの成否と、自分が成長できたかどうかは別です。
だから、会社の結果だけを待つ必要はありません。
「IPOした会社にいました」では弱い
将来、自分の経験を説明するときにも注意が必要です。
IPO準備中の会社にいた。
上場した瞬間に社員だった。
それだけでは、会社の実績です。
自分の実績にするなら、
IPO準備の中で何を担当した。
どんな問題を見つけた。
誰と調整した。
何を改善した。
何を任されるようになった。
まで言えるようにします。
つまり、会社の看板ではなく、会社が変わる途中で自分が何をしたのかを持って帰ります。
5. 中間管理職は、部下に「仕事」ではなく「チャンス」を渡す
ここまでは一般社員側の話でした。
しかし、中間管理職にも重要な役割があります。
部下に主体性が必要だからといって、すべて本人任せにしてよいわけではありません。
管理職が難しい仕事を全部抱え込み、部下には資料作成やデータ入力だけを渡していたら、部下がIPOから経験を得ることは難しくなります。
管理職は、IPOで発生した仕事を、部下の成長機会へ変える必要があります。
たとえば、単に資料作成を頼むのではなく、一つのテーマを担当させる。
外部の専門家との会議へ一緒に参加させる。
自分の仕事を説明させる。
改善案を考えてもらう。
小さな範囲でも責任者を任せる。
そして、その成果を評価へ残す。
これだけで、同じIPO対応でも意味が変わります。
追加された雑用ではなく、今まで経験できなかった仕事になります。
部下を「会社に育ててもらう人」にしない
一方で、管理職が何でも準備しすぎるのも問題です。
手順をすべて細かく指定する。
判断は全部上司がする。
失敗しそうな仕事は任せない。
本人が手を挙げなくても次の仕事を用意する。
これでは、本人が自分で仕事を取りに行く力は育ちません。
IPO準備という期間限定の環境だからこそ、
会社からチャンスを渡すことと、社員自身がチャンスを取りに来ることの両方が必要です。
管理職は入口を作る。
社員はそこへ自分から入る。
この関係が理想でしょう。
東京証券取引所も、上場によって社内の管理体制が整うことや、従業員の意欲向上につながることをメリットとして挙げています。7
ただし、IPOしただけで社員のやる気が自然に上がるわけではありません。
やる気につながるような仕事を渡し、その努力を評価し、本人もその機会を取りに行く。
そこまでつながって初めて、一般社員にとってのメリットになります。
おわりに
もし自分の会社がIPOを目指しているのであれば、それは日常的に何度も経験できる出来事ではありません。
2025年に東京証券取引所へ新しく上場した会社は105社でした。
東京証券取引所に現在上場している会社全体でも約3,900社です。
そして、その会社でIPO準備を経験できる期間は一度しかありません。
会社が未上場企業から上場企業へ変わっていく「蛹」の期間です。
ただし、珍しい場所にいるだけでは何も起きません。
会社が育ててくれるのを待つ。
上司が仕事をくれるのを待つ。
研修が用意されるのを待つ。
評価されるのを待つ。
そのままでは、IPOが終わったときに残るのは「忙しかった」という思い出だけになりかねません。
だから、自分から取りに行きます。
お金を取りに行く。
自社株やストックオプション、賞与、昇給、評価制度を確認する。
経験を取りに行く。
今まで経験したことのない仕事へ手を挙げる。一段上の責任を引き受ける。
キャリアを取りに行く。
新しい部署、新しい役割、昇進、専門分野への転換につなげる。
そして、やったことを自分の実績として残します。
会社は社員の力を使ってIPOを目指します。
社員も会社という環境を使って成長してよいのです。
会社だけが成長して、自分は何も変わらなかったではもったいありません。
会社がIPOを使って企業価値を高めるのであれば、自分もIPOを使って自分の価値を高める。
会社の蛹の期間に居合わせたのであれば、自分も一緒に変わってしまう。
数年後に会社へ「上場企業」という肩書が残るだけでなく、自分にも「会社が変わる仕事を経験した」という財産が残る。
一般社員にとってのIPOのメリットは、待っていれば配られるものではありません。
目の前に現れた珍しいチャンスを、自分のものにできること。
そこに、一番大きな価値があるのではないでしょうか。
参考
この版では、「337.5万者」「直前々期」「内部統制」「リテンション」といった、分かる人には正確でも一般社員には引っ掛かりやすい語をかなり落としています。また、**「珍しいからありがたがれ」ではなく、「珍しい環境だから、自分から使わないともったいない」**という論理にしたので、他責・指示待ちへの釘も説教だけにならず、行動へつながる形になっています。
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日本取引所グループ「新規上場の検討にあたって」:IPOは会社の成長や企業価値向上のために活用する手段であること、上場後に新たな責任が生じることの説明 ↩
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中小企業庁「小規模事業者の全体像」:2021年の経済センサスを基に、中小企業約336.5万、大企業約1万に相当する事業者が存在することの根拠。本文では統計上の特殊な単位を避け、「約337万の企業・事業者」と表現 ↩
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日本取引所グループ「JPXマンスリー・ヘッドライン 2025年12月」:2025年に東京証券取引所へ新規上場した会社が105社だったことの根拠 ↩
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日本取引所グループ「上場会社数」:2026年8月25日時点で、東京証券取引所の各市場に上場する会社が合計3,894社であることの根拠 ↩
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日本取引所グループ「上場スケジュール」:上場申請までに直前2期間分の監査証明が必要であることなど、IPO準備が複数年にまたがることを理解するための一次資料 ↩
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経済産業省「ストックオプション税制」:ストックオプションや、会社の成長と人材への報酬を結び付ける仕組みに関する公式資料 ↩
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日本取引所グループ「上場のメリット」:上場による資金調達、知名度向上、社内管理体制の充実、従業員の意欲向上などの説明 ↩
