はじめに
数年ぶりに『嫌われる勇気』を読み返した。
理由は人間関係が何となく上手くいっていなかったから。最初に読んだときは、『他人は変えられない』という言葉が印象的だった。いわゆる、課題の分離である。再び読み返すと新たな発見があるもので、仏教的な禅の思想(マインドフルネス)に似ていると感じた。
自分の人生を生きられるのは、自分だけ。したがって、他人からの承認欲求や評価を可能な限り手放す。
これは、執着をしている自分に気づき、執着を手放し今を生きるという禅の思想と似通っている。そこで今回は、嫌われる勇気を読んだ個人的な感想として禅との関係性を述べる。
要点
嫌われる勇気とは、アドラー心理学を背景とした本である。アドラー心理学は、他者を自分の希望通りに動かすといった類の心理学ではない。どちらかといえば、自分自身と向き合う心理学である。言い換えれば『自分を変えるための心理学』である。
自分とは何か
ところで、自分とは何だろう。自分について語ることはできても自分を語ることはできない。
例えば、東大を卒業して外資系の投資銀行に勤めているということを誇りに持っている人がいたとしよう。その人は、『東大を卒業して外資系の投資銀行に勤めている』だけの人なのだろうか。
もちろんそうではない。ある人について表現したり、言葉のラベリングをする方法は星の数程ある。
外資系の投資銀行に勤めている人が会社クビになったとして、その人は損なわれるかどうか。確かに、一時的に経済的不安定に陥るかもしれない。
だが、あくまで自分に対するラベリングが変わっただけで、その人は何ら損なわれていない。これが、執着を手放すということである。
目的論と課題の分離
話を、アドラー心理学に戻そう。アドラー心理学の要点は目的論と課題の分離である。
目的論と原因論
原因論は、過去に生じた出来事が現在、未来に必ず影響を与えてしまうという考えである。
いわゆる、古典物理学の思想に近い。
例えば、根暗な少年がいたとしよう。その少年が根暗なことに悩んでいて、虐待された過去があれば、原因論では以下のように考える。
虐待があった。したがって根暗になってしまった。
しかし、目的論では、以下のように考える。
根暗であるという性格に甘んじてしまったのは、虐待の過去がある可哀そうな自分を演じるための目的に過ぎない。
だから、今、本人次第で性格は変えられるはずだ。
と考える。きわめて強力的な、勇気を与える心理学であることが分かる。
もちろん、目的論と原因論のどちらが正しくて、どちらが間違っているといいたいわけではない。
ただ、世界や社会を語るための見方に過ぎない。
それだったら、自分を努力で変えることができる目的論を採用したのがアドラー心理学である。
目的論と禅の思想について
禅の思想では、自分が今何に執着しているのか、妄想しているのかに気づくことから始まる。
言い換えれば、自分が執着まみれの不幸を抱えてしまっている存在であることを受け入れることから始まる。
執着を手放すためには、物事を諦め(明らめ)なければならない。
つまり、執着という苦しみの原因を明らかに見ることをする。
原因論では、言い訳で終わってしまうが目的論では、苦しみの原因まで探ることができる。
苦しみの原因を正しく探る。逆説的ではあるが、これが目的論である。
課題の分離
他人は変えられない。なので、まずは変数である自分を変えようとしよう。これが課題の分離である。
具体的には、他者からの評価といった自分ではどうすることのできないものに一喜一憂するのではなく、自分が正しいと思ったことに意識を集中せよという教えである。
自分の努力で変えられるものは、変えればいい。しかし、変えられないものを変えようと努力するのは苦しみを生み出すだけである。
まとめ (今に在る境地)
原因論では、過去・現在・未来という時間軸を必要としてしまう。だが、目的論や禅、人生は今しかない。
過去や未来ではなく、今を生きるしかできない。
そのことをできるだけ多く味わうことが禅やアドラー心理学のメッセージだと思う。
参考文献