- AIを理解するために脳科学が必要と言われますが、「どの脳科学?」と不思議でしたので自分なりにまとめてみました
- こういうマップがなかったので!
- 私はAI系のITエンジニアであり、脳科学やAIの研究者ではありません
- 見当違いのところがあればご遠慮なくコメント欄などでご指摘いただけると幸いです
- 記事生成にChatGPT 5.4/5.5/5.6を用いております
- 全体構成、選書候補、文案等
- 原則として、実際に読んだ本を紹介しています
- 一部未読ですが紹介しておいた方が内容が説明しやすい本については「未読」「読み進め中」としております
凡例
1 全体像
1.1 入門
| 書名 | 内容 |
|---|---|
小説みたいに楽しく読める 脳科学講義
|
|
脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき
|
|
脳とは何か―脳研究200年のすべて
|
|
脳の本質―いかにしてヒトは知性を獲得するか
|
|
メカ屋のための脳科学入門 正―脳をリバースエンジニアリングする
|
|
1.1.1 番外
必読からは落としましたが特色のある本
- ブルーバックス進化しすぎた脳
- 脳神経というよりも脳の機能の仕組みの解明を目的とした大脳生理学が専門の池谷氏の高校生向けのセミナーのまとめ
- ブルーバックス「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか
- うつや統合失調症など精神疾患を脳科学はどう解明しようとしているか、の入門
- ブルーバックスSF脳とリアル脳 どこまで可能か、なぜ不可能なのか
- SFで取り上げられた脳にまつわる描写について現状の科学ではどこまで実現可能か、あるいは荒唐無稽な話なのか、という本
- 未来を予測・描くにはSFを読め、というお話もあり、本書のようなルートも良いかも
1.2 脳神経科学
-
『カンデル神経科学 第2版』
- システム神経科学まで含めて最も包括的に学べる標準教科書で、バイブルらしい
-
『カールソン神経科学テキスト 脳と行動 原書13版』
- 行動・認知・脳機能の対応を追いやすく、システム神経科学寄りの総論として使いやすい、らしい
-
『カラー版 ベアー コノーズ パラディーソ 神経科学 脳の探求 改訂版』
- 図解が多く、回路・システム・大規模ネットワークへの入口として読みやすい、らしい
この3冊が候補らしいのですが迷っていたところ、下記記事を見つけ、AI理解のために読むのならばベアーの本がいいなと決めました。
| 書名 | 内容 |
|---|---|
カラー版 ベアー コノーズ パラディーソ 神経科学 脳の探求 改訂版
|
読み進め中
|
- 読書メモを作成しています
1.3 各論
ここがなかなか整理が難しかったです。意外と体系だった分類などないのですね。
例えば米国NIHの分類
などあるのですがこれは研究のジャンル分けの都合で分かれているので素人にはいささか分かりにくい。
そして私がよく参照するCRDSの俯瞰報告書では脳神経科学周りは情報工学とライフサイエンスに分かれ、
あたりになると思うのですが、ジャンル分けのようなものははっきりと明示されておらず。ChatGPTと対話して仮に以下にまとめています。
- 条件
- AIや知能を考えるうえで参考となる可能性が高い分野に絞る
- 医学の観点は省略
- 複数の分野にまたがるテーマが多くきれいにロジックツリーにはならないのでえいやっと決めてます
- 以下6つのサブテーマに整理しました
- AIや知能を考えるうえで参考となる可能性が高い分野に絞る
以下に図で示します。
また、テキストと呼べるようなものは少なく、基本は論文を読むことでしょうが、代表する研究者が一般向け教養書を書いてくれているテーマもあり、それらを以下紹介いたします。
- 本記事のツリーは厳密な学術分類ではなく、AIとの接続を考えながら脳科学を学ぶための「学習用地図」である
- したがって、理論・モデル・解析法・研究対象・技術を一部同一階層に配置している
- 凡例
- 太字:そのカテゴリでの代表理論
- 赤字:(必ずしも実装としてではなく)AI研究の参考として重要度が高い・AIxOOとして活発な研究がある理論
- 本のアイコン
:そのテーマの参考となり私が読んだ本を紹介しています
2 計算論的神経科学
2.1 総論
2.1.1 この分野とは何か
- 脳を「数理モデル・アルゴリズム・情報処理」として捉え、脳が何を計算し、それを神経回路がどう実現しているのかを説明しようとする分野
- 神経活動や行動を、強化学習、ベイズ推論、ダイナミカルシステム、情報・符号化理論などを使ってモデル化する
2.1.2 AIと何が関係するのか
- 計算論的神経科学は、今回取り上げる脳科学の中でも特にAIとの距離が近い分野
- 脳の働きを「学習」「推論」「予測」「表現」「制御」といった計算問題として捉えるため、AI・機械学習と共通する数理的な道具や考え方が数多く登場する
- 例えば、以下などは、AI研究とも強く接続している
- 内部モデルから予測を生成し、予測誤差によって表象を更新する予測処理
- 脳の報酬学習を説明する強化学習
- 不確実な感覚情報から外界を推定するベイズ推論
- 神経活動を時間変化する系として捉えるダイナミカルシステム
- 限られた神経資源で情報を表現する効率的符号化
- 例えば、以下などは、AI研究とも強く接続している
- ただし「脳科学の理論がそのままAIのアルゴリズムになった」という単純な関係ではない
- むしろ、脳とAIが学習・推論・予測・表現・意思決定という共通の計算問題を、それぞれの立場から研究しているため、相互にアイデアを与え合っている、と捉える方が近いと思われる
2.1.3 何を学び、何を読むか
| 書名 | 内容 |
|---|---|
モデル オブ ザ マインド〜脳を読み解く。物理学・工学・数学によるアプローチ
|
読み進め中
|
|
計算論的神経科学: 脳の運動制御・感覚処理機構の理論的理解へ
|
|
はじめての神経回路シミュレーション:1ニューロンからヒト全脳モデルまで
|
|
計算論的精神医学
|
|
R/Pythonではじめる計算論的精神医学
|
|
2.1.3.1 自由エネルギー原理
| 書名 | 内容 |
|---|---|
脳の大統一理論 自由エネルギー原理とはなにか
|
|
自由エネルギー原理入門
|
|
能動的推論:心、脳、行動の自由エネルギー原理
|
|
2.1.3.2 予測処理理論
ベイズ的脳理論などとも関連する
| 書名 | 内容 |
|---|---|
予測する心
|
|
経験する機械 ――心はいかにして現実を予測し構成するか
|
|
2.1.3.3 ベイズ的脳理論
予測処理理論などとも関連する。
| 書名 | 内容 |
|---|---|
知性はバイアスでできている 賢さと愚かさの計算論的認知科学
|
|
- 前掲書の下記もベイズ的脳理論の参考となる
-
脳の本質―いかにしてヒトは知性を獲得するか
- 全体は現代脳科学の概説書ですが、第2章で「推論の基本――ベイズ推論」「脳の推論メカニズム」「自由エネルギー原理」とかなり明示的に扱っている
- ベイズ脳を短く日本語で掴む本としては使いやすい
-
予測する心
- ベイズ推論を基盤に、知覚を「因果推論」として捉え、予測誤差最小化・階層的推論へ展開する本
- ベイズ脳仮説そのものの概説書ではなく、ベイズ的脳観から発展した予測処理理論の本格的概説書という位置づけが正確
- 目次にも「知覚とベイズの規則」「脳はいかにしてベイズを知るのか?」がある
-
脳の本質―いかにしてヒトは知性を獲得するか
2.1.3.4 強化学習理論
| 書名 | 内容 |
|---|---|
強化学習(第2版)
|
|
2.1.3.5 ダイナミカルシステム理論
- リザバーコンピューティングのみ挙げる
| 書名 | 内容 |
|---|---|
リザバーコンピューティング:時系列パターン認識のための高速機械学習の理論とハードウェア
|
|
- ダイナミカルシステム理論としては未読だが下記が候補
2.1.3.6 神経符号化理論
-
未読神経コーディング
- 未読だが本書が良いようである
2.1.3.7 計算論の枠組み
本記事著者が読んでいる本がなし。
2.2 自由エネルギー原理
2.2.1 自由エネルギー原理とは
-
自由エネルギー原理(FEP)
- 「自己組織化された生体システムは、感覚入力に対する『驚き』をできるだけ減らすように振る舞う」という最上位の規範原理
- 厳密には「サプライズ(真の驚き)」は直接計算できないため、その上界である自由エネルギーを最小化する
- 脳だけの局所理論というより、知覚・行動・学習を統一的に説明しようとする大枠
- 厳密には、自由エネルギー原理は認識だけでなく行動・学習にもまたがる
- 「自己組織化された生体システムは、感覚入力に対する『驚き』をできるだけ減らすように振る舞う」という最上位の規範原理
2.2.2 能動的推論・予測処理との関係
-
能動的推論(Active Inference)
- 自由エネルギー原理のもとで、知覚だけでなく行動まで含めて説明する枠組み
- 内部モデルを更新して感覚入力を説明するだけでなく、身体や環境へ働きかけることで、予測される状態を実現しようとする
- 将来の行動選択は、期待自由エネルギーを小さくする方策選択として記述される
-
予測処理理論(Predictive Processing)
- 脳を、内部モデルから予測を生成し、感覚入力との予測誤差を用いて表象を更新するシステムとして捉える理論的枠組み
- 自由エネルギー原理と密接に関連するが、その単純な下位理論ではない
- 詳細は次節「2.3 予測処理理論」で扱う
自由エネルギー原理・能動的推論と予測処理の関係イメージ
- 自由エネルギー原理関連記事
- 表象関連記事
2.2.3 AIとの接点
- 自由エネルギー原理は、現在のAIでそのまま標準アルゴリズムとして使われているわけではありませんが、予測・表現学習・意思決定・行動を一つの枠組みで捉える考え方としてAI研究との接点が大きい理論となっている
- 特に、内部モデルを使って観測を予測し、予測誤差を減らしながら表象を更新する考え方は、生成モデルや自己教師あり学習、世界モデルと共通する問題設定を持っている
- また能動的推論では、将来の観測や不確実性まで考慮して行動を選ぶため、強化学習やモデルベース意思決定とも比較される
- ただし、自由エネルギー原理と現在のAI手法は同一ではない
- AI側では個別の目的関数や学習アルゴリズムとして実装されることが多いのに対し、自由エネルギー原理は知覚・学習・行動を統一的に説明しようとする、より上位の理論的枠組みとして見るのが適切と考えられる
2.3 予測処理理論
2.3.1 予測処理理論とは
- 脳を、感覚情報を受動的に受け取って処理する装置ではなく、世界についての内部モデルから絶えず予測を生成し、実際の感覚入力とのずれを使ってそのモデルを更新するシステムとして捉える理論的枠組み
- 従来の単純な情報処理像では、視覚や聴覚などの感覚入力が下位の処理から上位の認識へと順番に送られると考えがち
- これに対して予測処理では、上位の階層から下位の階層へ「次にどのような入力が来るはずか」という予測が送られ、実際の入力との差である予測誤差(prediction error) が下位から上位へ返されると考える
- 脳はすべての感覚情報を一から処理するのではなく、すでに持っている世界モデルを利用し、予測できなかった部分を中心に内部モデルを修正していくという考え方
- この枠組みは知覚だけでなく、注意、学習、行動、身体感覚、自己認識などにも広げられ、現代の認知科学・神経科学に大きな影響を与えている
2.3.2 予測符号化
- 予測処理を神経回路上でどのように実現するかについて、代表的なモデルの一つが予測符号化(Predictive Coding)
- 階層的な神経系を考えると、上位層は下位層の活動を予測し、下位層では実際の入力と予測との差を計算します。その予測誤差だけが上位層へ送られ、上位の内部表現が修正される
- 概念的には、
- 上位層からの予測 → 実際の入力との比較 → 予測誤差 → 内部モデルの更新
- という処理が階層的に繰り返されます。
- ここで重要なのは、予測処理と予測符号化は同義ではないという点
- 予測処理は「脳は予測と予測誤差を利用して世界を理解する」という広い理論的枠組みであり、予測符号化は、それを実現する具体的な神経計算モデルの一つとして位置づけられる
- また、予測誤差はすべて同じ重みで扱われるわけではありません。脳はその情報がどの程度信頼できるかを考慮するとされ、この予測誤差の信頼度を表す考え方が精度(precision) である
- 注意などの機能も、どの予測誤差を重視するかという精度の調整として説明されることがある
2.3.3 ベイズ的脳理論・自由エネルギー原理との関係
-
予測処理理論は、ベイズ的脳理論や自由エネルギー原理(FEP) と密接に関連しているが、これらは同じ理論ではない
- ベイズ的脳理論では、脳が過去の経験から得られた事前知識と現在の感覚入力を組み合わせ、不確実な世界の状態を推定すると考える
- 予測処理は、その推論を階層的な予測と予測誤差の更新という形で捉える枠組みと考えることができる
- 一方、自由エネルギー原理は、生物が感覚入力に対する驚きを抑え、環境の中で安定した状態を維持するという、より一般的な原理を提示する
- その原理のもとで知覚や学習を説明する際に、予測処理や予測符号化と非常に近い計算構造が現れる
-
したがって、ここでは次のように区別する
ベイズ的脳理論 脳は不確実な世界について確率的推論を行う 予測処理理論 脳は予測と予測誤差によって内部モデルを更新する 自由エネルギー原理 生物の知覚・学習・行動をより一般的な原理から説明する 予測符号化 予測処理を実現する代表的な神経計算モデル -
これらは互いに重なり合いながら発展してきたが、単純な包含関係として扱わない方が理解しやすい
2.3.4 AIとの接点
- 予測処理の考え方は、現在のAI研究ともいくつかの重要な接点を持っている
- 第一は、世界モデル(World Model)
- エージェントが環境の内部モデルを持ち、未来の状態を予測しながら行動するという考え方は、脳が内部モデルから予測を生成するという予測処理とよく似ている
- 第二は、自己教師あり学習
- 入力の一部や未来の状態を予測することで表現を学習する手法は、「予測を通じて世界の構造を学ぶ」という点で予測処理と共通する発想を持つ
- 第三は、予測誤差による学習
- 機械学習では損失関数や誤差を用いてモデルを更新するが、予測処理では脳も予測と観測との差を利用して内部モデルを更新すると考える
- ただし、現在の深層学習モデルがそのまま脳の予測処理を実装しているわけではない
- AIにおける誤差逆伝播と、神経科学における予測誤差の伝達は似た側面を持つ一方、その生物学的実装や学習原理には大きな違いがある
- それでも、「知能とは世界を予測する内部モデルを学び、その予測を使って認識や行動を行うシステムではないか」 という視点は、予測処理と現代AIをつなぐ重要な研究テーマとなっている
2.4 ベイズ的脳理論
2.4.1 ベイズ的脳理論とは
-
ベイズ的脳理論(Bayesian Brain Theory)
- 脳が不確実な感覚情報から外界の状態や原因を推定するとき、ベイズ推論に似た計算を行っていると考える理論的枠組み
- 私たちが得る感覚情報は不完全でノイズを含むため、脳は過去の経験などから形成された事前知識(事前分布) と、現在の感覚情報(尤度) を組み合わせ、外界についての推定を更新すると考える
- こうした考え方がベイズ脳仮説(Bayesian Brain Hypothesis)
- ベイズ的脳理論は、知覚だけでなく、感覚統合、運動制御、意思決定、学習など幅広い脳機能のモデル化に用いられている
-
予測処理理論とも密接に関連するが同一ではない
- ベイズ的脳理論は「不確実性のもとでどのように推論するか」
- 予測処理理論は「予測と予測誤差によって情報処理をどう捉えるか」
に重点を置く
2.4.2 主な仮説・モデル
-
ベイズ脳仮説
- 脳が内部に確率的な世界モデルを持ち、事前知識と感覚情報から外界の状態を推定すると考える
-
ベイズ因果推論(Bayesian Causal Inference)
- 複数の感覚情報が「同じ原因から生じたのか、それとも別々の原因なのか」まで確率的に推定するモデル
- 例えば、視覚と聴覚の情報を統合すべきか分離すべきかを、感覚情報の信頼性や事前知識から判断する
-
Neural Sampling仮説
- ニューロンの確率的な活動を単なるノイズとみなさず、脳が持つ確率分布からの「サンプル」として捉える仮説
- 時間とともに得られる多数の神経活動によって、不確実性を含む確率分布を表現していると考える
2.4.3 AIとの接点
- ベイズ的脳理論は、AI・機械学習におけるベイズ推論、確率的生成モデル、状態推定、不確実性の扱いと強く関係する
- 特に、事前知識と新しい観測を組み合わせて内部状態を更新するという考え方は、確率モデルや生成モデルの基本的な発想と共通する
- AI側から見ると、ベイズ的脳理論は特定のアルゴリズムそのものというより、不確実性を持った内部モデルを使って予測・推論・学習する知能をどう設計するかを考える参考となる
ベイズ脳仮説
2.5 強化学習理論
2.5.1 強化学習理論とは
- 経験から価値や方策を更新し、よりよい行動を学ぶ理論。脳科学では特に、ドーパミンの報酬予測誤差と結びついて読まれることが多く、価値意思決定や基底核の学習モデルの中心にある
- TD学習
- 連続する時刻の予測値の差(TD誤差)を使って、価値関数を少しずつ更新する学習法
- Actor-Critic
- 行動を選ぶ Actor と、その良し悪しを価値関数とTD誤差で評価する Critic を分けて学習する枠組み
- モデルベース強化学習
- 環境モデルを使って、まだ実際に経験していない将来の状態や報酬を見越して計画する強化学習
- 後継表現(successor representation, SR)
- ある状態から将来どの状態をどれくらい訪れそうかを表す予測表現で、将来訪問の期待値を持つ
- TD学習
2.5.2 AIとの接点
- 強化学習は、脳科学とAIが非常に直接的に接続している分野の一つ
- AIでは、エージェントが環境との試行錯誤を通じて、将来得られる報酬を最大化するように行動方策を学習する
- 脳科学では、この考え方が特に報酬予測誤差とドーパミン活動の研究と結びついている
- 予想より良い結果・悪い結果が得られたときの差分を使って価値を更新するTD学習は、ドーパミン神経の活動パターンとの対応が示され、脳の学習メカニズムを説明する代表的な計算モデルとなっている
- また、Actor-Critic、モデルベース強化学習、後継表現などは、AI側のアルゴリズムであると同時に、脳がどのように価値を学習し、将来を予測し、行動を選ぶのかを説明するモデルとしても研究されている
- そのため強化学習は、AIで開発された数理的枠組みと、脳の学習・意思決定研究が相互に影響し合ってきた代表例といえる
2.6 ダイナミカルシステム理論
2.6.1 ダイナミカルシステム理論とは
- 脳を「時間とともに状態が変化する系」として捉える見方
- ニューロンや回路の働きを、静的な部品の足し算ではなく、状態空間上の軌道・安定点・振動・遷移として理解しようとする
- 神経回路では、同じ結線でもアトラクタ、振動、スイッチング、準安定性など複数のダイナミクスが生じうることがレビューで整理されている
- アトラクタダイナミクス
- 神経活動が時間とともに、特定の安定状態や安定軌道へ引き込まれていくという見方
- リミットサイクル
- 一点に止まらず、安定した周期軌道を回り続けるダイナミクスで、神経振動の基本モデルになる
- カオス / 準安定性
- カオスは決定論的なのに予測が難しい複雑な非周期運動、準安定性は脳の部分系が一時的に結びついたり離れたりしながら切り替わる動的状態
- (リザバーコンピューティング)
- 再帰的な動的系の内部状態を高次元表現として使い、主に読み出し部だけを学習する計算枠組み
- ダイナミカルシステム理論のサブテーマではなく、それを応用した計算手法
2.6.2 AIとの接点
- ダイナミカルシステム理論は、AIにおいて時間とともに変化する内部状態をどう表現し、利用するかという問題と強く関係する
- 特にRNNのような再帰型ニューラルネットワークは、内部状態が時間発展する動的システムとして捉えることができ、安定状態・振動・カオス・低次元ダイナミクスといった概念は、その挙動を理解するための道具になる
- また、リザバーコンピューティングでは、複雑な内部ダイナミクスそのものを計算資源として利用します。これは、脳のような高次元で非線形な動的系を、そのまま時系列処理や予測に活かそうとする代表的なAI手法である
- さらに近年の世界モデルや潜在状態モデルでも、観測をそのまま扱うのではなく、内部状態がどのように時間発展するかを学習することが重要になる
- したがってダイナミカルシステム理論は、脳の時間的な情報処理を理解するだけでなく、AIの内部状態・予測・時系列処理を考えるための基礎的な視点を与える
2.7 神経符号化理論
2.7.1 神経符号化理論とは
- ニューロンや神経集団の活動のどこに、どのような形で情報が表現されているのかを扱う分野
- 例えば、1個のニューロンの発火頻度に情報が載るのか、スパイクの正確なタイミングが重要なのか、あるいは多数のニューロンの活動パターン全体で表現されるのか、といった問いを扱う
- 代表的な考え方として、以下などがある
- 限られた神経資源でできるだけ効率よく情報を表現しようとする効率的符号化仮説
- 複数ニューロンの活動パターン全体で情報を表すPopulation Coding
- 少数のニューロンだけを選択的に活動させるスパース符号化
- 神経活動を単なる「発火の有無」としてではなく、情報を表現・圧縮・伝達するコードとして捉えるのが、この分野の基本的な考え方
2.7.2 AIとの接点
- 神経符号化理論は、AIにおける表現学習(Representation Learning) と非常に近い問題を扱っている
- 脳科学では「神経活動のどこに情報が表現されているのか」を問うが、AIでは「ニューラルネットワークの内部で情報がどのような表現として獲得されるのか」を研究する
- 例えば、スパース符号化は少数のユニットだけを活動させて効率的に情報を表現する考え方で、機械学習におけるスパース表現や特徴学習と強く関係する
- また、Population Codingのように多数のニューロンの活動パターン全体で情報を表す考え方は、人工ニューラルネットワークの分散表現とも共通点がある
- さらに効率的符号化仮説は、限られた計算資源や通信容量のもとで、重要な情報を効率よく表現するという考え方であり、圧縮表現、潜在表現、自己教師あり学習などを考える上でも興味深い視点を与える
- 脳科学では「神経活動のどこに情報が表現されているのか」を問うが、AIでは「ニューラルネットワークの内部で情報がどのような表現として獲得されるのか」を研究する
- ただし、脳の神経コードとAIの内部表現がそのまま同じというわけではない
- 両者はともに、「知的システムは外界の情報を内部でどのように表現するのか」 という共通の問題を異なる立場から研究している、と捉えるのが適切
2.8 計算論の枠組み
2.8.1 計算論の枠組みとは
- 計算論的神経科学では、脳の構造や神経活動を調べるだけでなく、「脳はそもそも何を計算しているのか」「その計算はどのような原理で説明できるのか」 を考えることが重要になる
- このような研究の進め方そのものを整理する代表的な枠組みが、デビッド・マーの3つのレベル
- また、ある課題に対して利用可能な情報から理論上どこまで高い性能を達成できるかを求め、実際の人間や動物の成績と比較する理想観測者モデルも、脳の計算を理解するための重要な方法となっている
- これらは脳の特定の機能を説明する理論というより、脳の情報処理をどのような問いに分解し、どう評価するかを定める研究上の枠組みと位置づけられる
2.8.2 Marrの3レベル
認知科学者・神経科学者デビッド・マーは、複雑な情報処理システムを理解するには、異なる3つのレベルから説明する必要があると考えた。
-
計算理論(Computational theory)
- システムは「何を」「なぜ」計算するのか。解くべき問題とその目的を考える
-
表現とアルゴリズム(Representation and algorithm)
- 情報をどのように表現し、どのような手続きによって計算するのか
-
実装(Implementation)
- その計算がニューロンや神経回路などの物理的な仕組みによって、どのように実現されているのか
例えば視覚なら、「外界の三次元構造を推定する」という計算問題、それを実現する情報表現と処理アルゴリズム、そしてそれを担う神経回路という異なるレベルを区別して考える。
この区別によって、脳の構造を詳しく調べるだけでは、脳が何を計算しているのかまで説明したことにはならないという、計算論的神経科学の基本的な考え方が明確になった。
2.8.3 理想観測者モデル
- 与えられた情報と制約のもとで、ある課題を理論上最適に実行する仮想的な観測者を設定する方法
- 例えば感覚刺激を識別する課題について、「利用可能な情報を完全に活用できるなら、どこまで正確に識別できるか」を計算し、人間や動物の実際の成績と比較する
- その差を見ることで、神経系が情報をどの程度効率的に利用しているのか、どの段階で情報が失われているのかを調べることができる
- 理想観測者モデルは、脳が実際にそのアルゴリズムを実装していると仮定するモデルというより、脳の情報処理を評価するための理論的な基準点として利用される
- ベイズ推論を用いたBayesian Ideal Observerも広く用いられている
2.8.4 AIとの接点
-
Marrの3レベルは、脳科学だけでなくAIを考える際にも有用な整理方法
- AIシステムについても、何の問題を解くのか、どのような表現とアルゴリズムを使うのか、それをどのようなハードウェアで実現するのかを分けて考えることができる
- 特に現在のAIでは、ニューラルネットワークのアーキテクチャや学習アルゴリズムだけに注目するのではなく、「そもそも知的システムが解くべき計算問題は何か」という計算レベルの問いが重要になる
- 世界モデル、表現学習、意思決定などを考える際にも、この区別は有効
- また理想観測者モデルは、与えられた情報から達成可能な性能の上限を定め、それと実際のシステムを比較するという意味で、機械学習における最適推論やベイズ的意思決定とも共通する考え方を持っている
- これらは特定のAIアルゴリズムではないが、知能を「何を計算するシステムなのか」という視点から考えるための基本的な道具になる
3. 認知神経科学
3.1 総論
3.1.1 この分野とは何か
- 認知神経科学は、知覚・注意・記憶・言語・意思決定・社会認知・意識などの認知機能が、脳のどのような仕組みによって実現されているのかを研究する分野
- 心理学が人間の認知や行動を主に機能・現象の側から研究するのに対し、認知神経科学では、脳画像、脳波、神経活動、脳損傷、脳刺激などを用いて、それらの認知機能と脳との対応関係を明らかにしようとする
- 計算論的神経科学が「脳はどのような計算をしているのか」を数理モデルから考えるのに対し、認知神経科学は、人間のさまざまな知的機能が脳内でどのように構成されているのかを中心に扱う、と捉えると分かりやすいと思われる
3.1.2 主要理論・モデルの地図
- 認知神経科学では、知覚した世界をどのように経験し、内部表象として保持し、言語や他者理解へつなげているのかという観点から、さまざまな認知機能とその神経基盤を研究する
- 本章では、特に次の4つの領域を取り上げる
| テーマ | 中心となる問い | 主な理論・モデル |
|---|---|---|
| 意識理論 | なぜ一部の脳活動が意識的な経験になるのか | 統合情報理論(IIT)、GNWT、ソームズの意識論、注意スキーマ理論、高次表象理論、再帰処理理論 |
| 表象 | 脳は外界や概念をどのような内部表現として持つのか | 局所表象・分散表象、概念表象、参照枠、1000の脳理論 |
| 言語処理 | 言葉の認識・意味理解・発話は脳内でどう実現されるのか | 二重経路モデル、分散ネットワークとしての言語処理、語用論的推論 |
| 社会認知 | 他者の意図・信念・感情をどのように理解するのか | 心の理論、共通基盤理論、ミラーニューロン仮説、相互行為アラインメント理論 |
-
意識理論
- 情報の統合やグローバルな共有、自己についての表象、再帰的な神経処理などから、意識が成立する仕組みを説明しようとする
-
表象研究
- 脳が物体・場所・概念などをどのような神経活動として表現し、内部に世界のモデルを形成しているのかを扱う
-
言語処理
- 音声や文字の認識から意味理解、文の生成、発話までを担う脳ネットワークを研究する
-
社会認知
- 他者の信念や意図を推定し、共有知識を形成しながらコミュニケーションや協調を成立させる仕組みを扱う
- この章では、「自分が世界をどう経験するか」から、「世界をどう表現し、言語化し、他者と共有するか」へと、認知機能を広げながら見ていく
3.1.3 AIと何が関係するのか
- 認知神経科学が研究する知覚、注意、記憶、言語、推論、社会認知、意識といった機能は、そのままAIが実現しようとしている知的機能とも大きく重なる
- 例えば、視覚認識はコンピュータビジョン、言語処理は大規模言語モデル、記憶や注意はニューラルネットワークの記憶機構やAttention、内部表象の研究は表現学習と、それぞれ共通する問題を扱っている
- さらに、脳が複数の情報をどのように統合して意識的な処理へ移すのか、外界や他者についてどのような内部表象を構築するのかといった研究は、マルチモーダルAI、エージェント、世界モデル、AIの意識研究などとも接点を持つ
- ただし、認知神経科学の理論がそのままAIのアルゴリズムになるわけではない
- むしろ、人間の知能を構成する機能を分解し、その仕組みを知ることで、人工的な知能を考えるための設計上のヒントを与える分野と位置づけられる
3.1.4 読む本と読む順番
3.1.4.1 意識理論
| カテゴリ | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| 「意識理論」入門 |
脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦
|
|
| 統合情報理論(IIT) |
クオリアはどこからくるのか?: 統合情報理論のその先へ
|
|
| 統合情報理論(IIT) |
意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論
|
|
| GNWT |
意識と脳――思考はいかにコード化されるか
|
|
| 注意スキーマ理論(AST) |
意識はなぜ生まれたか
|
|
| ソームズの意識論 |
意識はどこから生まれてくるのか
|
|
3.1.4.2 表象理論
| カテゴリ | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| 身体化認知 |
身体性認知とは何か: 4E認知の地平
|
|
| 身体化認知 |
現れる存在: 脳と身体と世界の再統合
|
|
| 1000の脳理論 |
考える脳 考えるコンピューター〔新版〕
|
|
| 1000の脳理論 |
脳は世界をどう見ているのか
|
|
3.1.4.3 言語処理
本記事著者が読んでいる本がなし。
3.1.4.4 社会認知
関連書で私が読んでいるのはミラーニューロン仮説に関してのみ。
| 書名 | 内容 |
|---|---|
ミラーニューロン 新装版
|
|
3.2 意識理論
3.2.1 意識理論とは
- 意識理論は、なぜ脳の情報処理の一部が「意識的な経験」として感じられるのか、そして意識が成立するためにどのような神経・情報処理メカニズムが必要なのかを説明しようとする理論群
- 例えば、脳内の情報がどのように統合されれば意識が生じるのか、局所的な処理結果がどのように脳全体へ共有されるのか、注意や自己表象が意識にどのような役割を果たすのか、といった問いを扱う
- 代表的な理論として、以下などがある
- 情報の統合度を重視する統合情報理論(IIT)
- 情報のグローバルな共有を重視するグローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(GNWT)
- 身体内部の状態を意識の原型とみなすソームズの意識論
- 注意についての内部モデルを重視する注意スキーマ理論(AST)
- 高次の表象や再帰的な処理を重視する理論
- これらの理論は、同じ「意識」を扱いながらも、何を意識の本質とみなすか、どのレベルで説明するか、どのような実験結果を重視するかが異なっており、現在も複数の有力理論が競合している
3.2.2 主要理論
| 観点 | 統合情報理論(IIT) | グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(GNWT) |
|---|---|---|
| 中心問い | 意識とは何であるか。経験そのものの本質条件を問う。 | どの情報が意識的にアクセス可能になるかを問う。 |
| 基本発想 | 意識は、系が自分自身に対してもつ統合された因果力に対応する。 | 意識は、ある表象が広域ネットワークに放送され、多数の処理系から利用可能になるとき生じる。 |
| キーワード | Φ(phi), 統合, 因果構造, 内在的存在 | global broadcast, ignition, アクセス可能性, ワークスペース |
| 出発点 | 現象学寄り。経験の公理から物理的条件を導こうとする。 | 認知機能寄り。注意・報告・作業記憶・意思決定と結びついた意識的アクセスを説明する。 |
| 意識の単位 | 最大に統合された複合体が意識主体になる、という考え方。 | 情報がワークスペースに入り、全体共有された内容が意識内容になる。 |
| 脳内で重視する部位 | 理論上、後部皮質優位(temporo–parietal–occipital hot zone)が重視されやすい。 | 前頭葉を含む広域ネットワーク、特に前頭前野を重視しやすい。 |
| 何が意識の指標になるか | 統合情報の大きさ・構造。 | 遅い増幅・全脳的共有・報告可能性。 |
| 強み | 「なぜ経験が統一的なのか」に踏み込みやすい。意識の量と質を理論的に結びつけようとする。 | 実験課題と結びつけやすく、知覚・報告・注意・作業記憶との関係を扱いやすい。 |
| 弱み・論点 | 数学的・計算的に重く、検証可能性をめぐる批判が強い。2023年には一部研究者が「擬似科学」と公に批判して論争になった。 | 意識そのものというよりアクセス意識の理論ではないか、という論点がある。前頭前野の必須性も争点になりやすい。 |
| 一言で言うと | 「意識=統合された内在的因果構造」 | 「意識=情報のグローバル共有」 |
3.2.2.1 統合情報理論(IIT)
3.2.2.2 グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(GNWT)
3.2.2.3 ソームズの意識論
- 神経心理学者マーク・ソームズは、意識の最も基本的な形を、高次の知覚や認知ではなく情動(affect)や身体内部の状態を感じることに求める
- 大脳皮質よりも、生命維持や恒常性の調節に関わる上部脳幹を意識の成立に重要な領域と考える点が特徴
- 生体が自らの内部状態を評価し、必要に応じて行動を変える仕組みを、自由エネルギー原理や恒常性の観点とも結びつけて説明する
- IITやGNWTが主として大脳皮質の情報処理から意識を考えるのに対して、「まず感じることが意識の原型である」 という異なる方向から意識を捉える理論と位置づけられる
3.2.2.4 注意スキーマ理論(Attention Schema Theory: AST)
- 脳は、自分や他者が「何に注意を向けているか」を簡略化して表す内部モデル=注意スキーマを持ち、そのモデルが「自分には意識がある」という感覚を生み出すと考える理論
- 意識を、注意そのものではなく注意についてのモデルとして説明する
3.2.2.5 高次表象理論(Higher-Order Theory: HOT)
- ある知覚や感覚が意識的になるのは、その一次的な心的状態そのものではなく、「自分はいまその状態にある」と表象する高次の心的状態が成立するからだと考える理論
- 意識を「自分の心的状態についての表象」として捉える
3.2.2.6 再帰処理理論(Recurrent Processing Theory: RPT)
- 感覚情報が一方向に伝わるだけでは意識は生じず、脳領域間で情報が再帰的・反復的にやり取りされることによって意識的知覚が成立すると考える理論
- 特に視覚系で、初期のフィードフォワード処理と、その後のフィードバック/再帰処理を区別する
3.2.3 AIとの接点
- 意識理論は、AI研究にそのまま使えるアルゴリズムを与えるというより、知的システムにとって「意識的な処理」とは何かを考えるための理論的な手がかりを与える
- 例えば、グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(GNWT) は、局所的に処理された情報がシステム全体へ広く共有されることで意識的アクセスが成立すると考える
- この発想は、複数の専門モジュールや知識を統合するAIアーキテクチャ、エージェントのワークスペース設計などと比較できる
- 統合情報理論(IIT) は、システム内部で情報がどの程度統合されているかという観点から意識を捉えるため、人工システムにも意識が成立しうるのかという議論へ直接つながる
- 一方、注意スキーマ理論(AST) は、自分や他者の注意状態について内部モデルを持つことを意識の基盤と考えるため、AIの自己モデル、注意制御、他者理解などとの接点がある
- ただし、現在の大規模言語モデルや生成AIがこれらの理論でいう「意識」を持つと確認されているわけではない
- 意識理論とAIの重要な接点は、知能に必要な情報統合、グローバルな情報共有、自己モデル、注意といった機能をどのような仕組みで実現するかを考えることにある
3.3 表象理論
3.3.1 表象理論とは
- 表象とは、外界の物体や出来事、身体、他者、概念などについて、脳が内部に形成する情報の表現を指す
- 表象理論では、脳が「世界について何を、どのような形式で表しているのか」を考える
- 例えば「リンゴ」を認識するとき、脳内に一つの「リンゴニューロン」が存在するのか、それとも色・形・意味などを表す多数のニューロンの活動パターンとして表現されるのか
- また、場所や物体は絶対的な座標として表されるのか、それとも身体や他の物体との関係を表す参照枠として表現されるのか、といった問題を扱う
- 計算論的神経科学の神経符号化理論が、主に「神経活動に情報がどのように符号化されているか」 を問うのに対し、認知神経科学の表象研究では、「脳が世界についてどのような内部表現を構築しているのか」 により重点を置く
- なお、身体化認知(Embodied Cognition) は、厳密には表象理論の一種というより、表象を考える際の重要な対照軸となる考え方
- 認知を脳内の内部表象だけで説明するのではなく、身体の構造や感覚運動、さらに環境との相互作用まで含めて捉える
- 特に4E認知では、Embodied(身体化)、Embedded(環境への埋め込み)、Enactive(行為を通じた生成)、Extended(認知の拡張)といった観点から、「認知は脳の中だけで完結するのか」 を問い直す
- 本記事では、脳内にどのような表象が形成されるかという議論と対比するため、この節であわせて取り上げる
3.3.2 主な表象の考え方
- 局所表象と分散表象
- 特定の情報を少数のニューロンが選択的に表す局所表象に対し、分散表象では多数のニューロンの活動パターン全体によって情報を表現すると考える
- 概念表象
- 「犬」「道具」「自由」のような概念や意味が、脳内でどのような神経活動・ネットワークとして表現されているのかを研究する
- 感覚情報だけでなく、意味記憶やカテゴリー形成とも深く関係する
- 参照枠による表象
- 位置や物体を絶対的な値としてではなく、身体・環境・他の物体との相対的な関係=参照枠として表現する考え方
- 空間認知だけでなく、物体認識や行動の表現にも関係する
- 参照枠による表象と1000の脳理論
-
ジェフ・ホーキンスの1000の脳理論(Thousand Brains Theory) は、大脳新皮質の多数の皮質カラムが、それぞれ独立して世界のモデルを学習していると考える理論
- 各皮質カラムは、感覚入力だけでなく物体に対する自分の位置を参照枠として表現し、感覚と位置を組み合わせながら物体や世界のモデルを形成する
- そして多数の皮質カラムが、それぞれ持つモデルについて「投票」することで、安定した知覚や認識が成立すると考える
-
「脳のどこか一か所に世界モデルが存在する」のではなく、多数の局所的なモデルが並列に存在し、それらの協調によって世界を認識するという点が特徴
-
「1000の脳」の意味は、脳が1つの巨大な世界の認識モデルを作るのではなく、新皮質の多数の皮質カラムがそれぞれ「対象の完全なモデル」を並列に学び、その投票・合意で認識を成立させる、ということ
- 「1000」は厳密な数ではなく、たくさんの小さな脳が並列に働くという比喩
- かなり短く言うと、
-
従来のイメージ
- 脳は上に行くほど統合される1本の階層モデル
-
1000の脳理論
- 多数の皮質カラムがそれぞれ対象モデルを持ち、並列に推論して合意する
-
従来のイメージ
-
3.3.3 AIとの接点
- 表象は、AIにおける表現学習(Representation Learning) と直接重なる重要なテーマ
- ニューラルネットワークでは、画像や言語などの入力をそのまま処理するのではなく、学習を通して内部に特徴や概念に対応する潜在表現を形成する
- 脳科学における分散表象は、人工ニューラルネットワークの分散表現や埋め込み表現と共通する発想を持つ
- また、概念が脳内でどのように表現されるかという研究は、AIが意味・カテゴリー・抽象概念をどのような内部表現として獲得しているのかという問題とも対応する
- 1000の脳理論が重視する参照枠や複数の内部モデルという考え方も、ロボティクス、空間認識、世界モデルなどとの接点がある
- ただし、脳の表象とAIの潜在表現が同じ仕組みで形成されているわけではない
- 両者に共通する中心的な問いは、「知的システムは世界について、どのような内部モデル・内部表現を形成すべきなのか」 という点にある
3.4 言語処理
3.4.1 言語処理とは
- 言語処理の研究では、音声や文字から言葉を認識し、意味を理解し、文を組み立て、発話や文章として出力する一連の処理が、脳でどのように実現されているのかを扱う
- かつては、発話を担うブローカ野、言語理解を担うウェルニッケ野といった特定の脳領域との対応が重視されていたが、現在では、音韻・意味・統語・発話などの処理を複数の脳領域が相互に連携して行う分散ネットワークとして捉える考え方が中心になっている
- 代表的なモデルの一つが二重経路モデル(Dual-stream model) で、音声情報から意味理解へ向かう腹側経路と、音声を発話運動や音韻表現へ結びつける背側経路という、異なる情報処理経路を想定する
- 言語は知覚・記憶・意味表象・運動・社会認知など多くの認知機能を組み合わせて成立するため、人間の高次認知を理解するうえでも重要な研究対象
3.4.2 主な理論・モデル
-
二重経路モデル(Dual-stream model)
- 言語処理を、主に音声から意味へ結びつける腹側経路と、音声を発話・運動表現へ結びつける背側経路の二つの処理系として捉えるモデル
- 古典的なブローカ野/ウェルニッケ野の局在論を、より広い脳ネットワークとして捉え直した代表的モデル
-
語用論的推論(Pragmatic Inference)
- 発話の文字通りの意味だけでなく、文脈や話者の意図、共有知識などから「相手が何を伝えようとしているのか」を推論する過程
- LLMや対話AIにおける文脈理解・意図推定とも強く関係する
3.4.3 AIとの接点
- 言語処理は、認知神経科学の中でもAIとの接点が非常に分かりやすい分野
- 脳科学では、人間が音声や文字から意味を理解し、文脈を統合し、言語を生成する仕組みを研究するが、AIでは自然言語処理や大規模言語モデル(LLM)が同様の機能の実現を目指している
- 特に、単語や概念をどのような内部表現として持つのか、文脈によって意味をどう変化させるのか、複数の情報をどのように統合して文を理解・生成するのかという問題は、脳科学とAIの双方に共通する
- 一方で、人間の言語処理は、聴覚・視覚・身体・運動・社会的状況などと密接に結びついている
- これに対してLLMは主として大量の言語データから統計的構造を学習してきたため、両者の内部メカニズムが同じとはいえない
- そのため認知神経科学の言語研究は、言語能力が単なる文字列処理ではなく、知覚・意味表象・記憶・行動・社会認知とどのように結びついて成立するのかを考えるうえで、AI研究にも重要な視点を与える
- 脳科学では、人間が音声や文字から意味を理解し、文脈を統合し、言語を生成する仕組みを研究するが、AIでは自然言語処理や大規模言語モデル(LLM)が同様の機能の実現を目指している
3.5 社会認知
3.5.1 社会認知とは
- 社会認知とは、他者の意図・感情・信念・行動を理解し、他者との相互作用を成立させるための認知機能を扱う研究領域
- 私たちは他者の行動を単に観察するだけでなく、「なぜその行動をしたのか」「相手は何を知っているのか」「次に何をしようとしているのか」といった、直接観察できない心的状態まで推測している
- また会話や共同作業では、互いの知識や注意、意図を推定しながら認識をすり合わせる必要がある
- こうした能力を説明する代表的な考え方として、以下などがある
- 他者の信念や意図を推測する心の理論、会話の参加者が共有している知識を重視する共通基盤理論
- 他者の行動を自己の運動系でも表現すると考えるミラーニューロン仮説
- 対話によって言語表現や内部表象が相互に整合していくと考える 相互行為アラインメント理論
- 私たちは他者の行動を単に観察するだけでなく、「なぜその行動をしたのか」「相手は何を知っているのか」「次に何をしようとしているのか」といった、直接観察できない心的状態まで推測している
- 社会認知は、単独の脳が世界を認識する仕組みだけでなく、複数の知的主体が互いを理解し、協調する仕組みを考える分野と捉えることができる
3.5.2 主な理論・仮説
- 心の理論(Theory of Mind)
- 他者が自分とは異なる信念・知識・意図・欲求を持つことを理解し、それをもとに相手の行動を予測する能力・概念
- 共通基盤理論(Common Ground Theory)
- 会話や共同作業では、参加者が「互いに共有していると認識している知識=共通基盤」を利用しながらコミュニケーションを成立させると考える
- ミラーニューロン仮説(Mirror Neuron Hypothesis)
- 他者の行動を見ると、自分が同じ行動をするときに活動する神経系の一部も活動することから、こうした仕組みが行為理解や模倣、社会認知に関与すると考える仮説
- 相互行為アラインメント理論(Interactive Alignment Theory)
- 対話する人同士では、語彙・文法・意味表象など複数のレベルが自動的に揃っていき、その相互的なアラインメントによってコミュニケーションが円滑になると考える理論
3.5.3 AIとの接点
- 社会認知は、AIが単独で問題を解くだけでなく、人間や他のAIと相互作用するエージェントへ発展するにつれて重要性を増すテーマ
- 特に心の理論は、相手が何を知り、何を信じ、何を意図しているのかを推定する能力であり、対話AI、協調型エージェント、マルチエージェントシステムなどと直接関係する
- 単に相手の発言へ反応するだけでなく、相手の知識状態や目的を内部的にモデル化できれば、より柔軟な協調やコミュニケーションが可能になる
- また共通基盤理論や相互行為アラインメント理論は、対話相手とどの情報を共有しているのかを管理したり、会話を通じて表現や理解をすり合わせたりする仕組みを考える際の参考になる
- これはLLMを用いた対話システムや複数エージェントによる協調にも関係する
- 特に心の理論は、相手が何を知り、何を信じ、何を意図しているのかを推定する能力であり、対話AI、協調型エージェント、マルチエージェントシステムなどと直接関係する
- 社会認知研究は、AIに人間と同じ社会認知機構を実装すべきだと直接主張するものではない
- しかし、複数の知的主体が互いの内部状態を推定し、共通理解を形成しながら協調するには何が必要かを考える上で、重要なヒントを与える
4. 行動神経科学
4.1 総論
4.1.1 この分野とは何か
- 行動神経科学は、学習・記憶・意思決定・運動・情動・恒常性など、行動を生み出す脳と身体の仕組みを研究する分野
- 外界を認識するだけでは行動は生まれない。生物は、過去の経験を記憶し、現在の状況を評価し、複数の行動候補から一つを選び、身体を制御して実行する
- また、報酬や情動、空腹・疲労などの身体内部の状態も、行動選択に大きな影響を与える
- そのため行動神経科学では、「脳が情報をどう処理するか」だけでなく、「その情報処理がどのように意思決定と身体の行動へ結びつくのか」 を中心的な問題として扱う
- 本章では、運動制御、学習と記憶、意思決定、情動、恒常性、内受容といった観点から、脳がどのように行動を生成・調整しているのかを見ていく
4.1.2 AIと何が関係するのか
- 行動神経科学は、AIが単に情報を認識・生成するシステムから、環境の中で判断し、行動するエージェントへ発展するうえで重要な接点を持つ分野
- 意思決定研究では、複数の選択肢から証拠を蓄積して判断するドリフト拡散モデルや、複数の行動候補を競合させるアフォーダンス競合理論などが、知的エージェントの行動選択を考える手がかりになる
- 例えば、運動制御研究における内部モデルや最適フィードバック制御は、ロボティクスや制御理論と密接に関係する
- また、学習・記憶研究はAIの継続学習や長期記憶システムと強く関係する
- 情動・恒常性・内受容の研究は、外部から与えられた報酬だけでなく内部状態や目標によって自律的に行動するエージェントを考える際に接点を持つ
- 行動神経科学とAIの共通する中心的な問いは、「知的システムは、認識した世界からどのように行動を選び、その結果を学習して次の行動へ生かすのか」 という点にある
4.1.3 主要理論・モデルの地図
| テーマ | 中心となる問い | 主な理論・モデル |
|---|---|---|
| 意思決定・行動選択 | 複数の候補からどう行動を選ぶか | ドリフト拡散、アフォーダンス競合 |
| 運動制御 | 身体をどう正確かつ柔軟に動かすか | 最適フィードバック制御、内部モデル |
| 学習・記憶 | 経験をどう保存し、更新するか | 補完学習システム、システム固定化、再固定化 |
| 情動 | 情動はどのように生成され行動へ影響するか | 構成主義、ソマティックマーカーなど |
| 恒常性 | 身体内部の状態をどう維持・調整するか | アロスタシス |
| 内受容 | 身体内部の状態を脳がどう認識するか | 内受容予測符号化 |
4.1.4 読む本と読む順番
| カテゴリ | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| 意思決定・行動選択 |
新版 アフォーダンス
|
|
| 情動理論 |
情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論
|
読み進め中
|
- 再掲書計算論的神経科学: 脳の運動制御・感覚処理機構の理論的理解へも参考となる
4.2 意思決定・行動選択
4.2.1 意思決定・行動選択とは
- 意思決定・行動選択では、複数の選択肢や行動候補の中から、脳がどのように一つを選び、実際の行動へつなげるのかを扱う
- 意思決定では、感覚情報や過去の経験、報酬の見込み、不確実性などを統合しながら選択肢を評価する
- 一方、行動選択では、単に「どちらが良いか」を判断するだけでなく、複数の可能な行動が並行して準備され、その中から状況に適した行動が選ばれる過程まで含めて考える
- 代表的なモデルとして、証拠を時間とともに蓄積し、一定の閾値に達した時点で判断が成立すると考えるドリフト拡散モデルや、知覚された環境から複数の行動可能性が同時に活性化し、それらが競合しながら一つの行動が選択されると考えるアフォーダンス競合理論がある
- この分野は、「何を選ぶか」と「どう行動へ移すか」を連続した過程として捉える点に特徴がある
4.2.2 主な理論・モデル
-
ドリフト拡散モデル(Drift Diffusion Model: DDM)
- 複数の選択肢の間で判断するとき、脳が感覚情報などの証拠を時間とともに蓄積し、一定の閾値に達した時点で意思決定が成立すると考えるモデル
- 証拠の蓄積にはノイズが含まれるため、同じ課題でも選択結果や反応時間にはばらつきが生じる
- モデルのパラメータから、情報をどれだけ速く蓄積しているか、どの程度慎重に判断しているか、どちらかの選択肢への事前の偏りがあるかなどを推定できる
- 知覚判断をはじめ、価値判断や記憶、社会的意思決定など幅広い課題に用いられる、意思決定研究を代表する計算モデル
-
アフォーダンス競合理論(Affordance Competition Hypothesis)
- 脳がまず世界を完全に認識してから行動を決めるのではなく、知覚した環境から可能な複数の行動候補を同時に表現し、それらを競合させながら行動を選択すると考える理論
- 例えば目の前にコップがあれば、「つかむ」「避ける」「押す」といった複数の行動可能性が並行して準備され、感覚情報、目的、報酬、身体状態などによって競争の結果が変化する
- 知覚・意思決定・運動制御を独立した段階としてではなく、行動候補の形成と選択が連続的かつ並行して進む過程として捉える点が特徴
4.2.3 AIとの接点
- 意思決定・行動選択は、AIやロボティクスにおける 「観測した状況から、どの行動を選ぶか」 という問題と強く関係する
- ドリフト拡散モデルのような証拠蓄積モデルは、不確実な情報を時間とともに統合し、十分な確信が得られた時点で判断する仕組みを表す
- これは、AIにおける逐次意思決定や、不確実性を考慮した判断とも共通する考え方
- 一方、アフォーダンス競合理論では、環境を単に「何があるか」と認識するのではなく、「そこで何ができるか」という行動可能性として捉え、複数の行動候補を並行して評価することを重視する
- この考え方は、ロボティクスやEmbodied AI、Physical AIにおける知覚と行動の統合と特に強く接続する
- この分野はAIに対して、知能を単なる認識や推論ではなく、不確実な環境の中で複数の行動候補を評価し、適切なタイミングで行動を選択するシステムとして捉える視点を与える
4.3 運動制御理論
4.3.1 運動制御理論とは
- 運動制御理論は、脳が身体の状態と外界の状況をもとに、どのように運動を計画し、実行し、誤差を修正しているのかを説明する理論群
- 身体を動かすには、筋肉へ命令を送るだけでなく、現在の身体状態を推定し、運動の結果を予測し、感覚フィードバックを使って軌道を修正する必要がある
- また、生体には自由度の高い身体を効率よく制御するという問題もある
- こうした問題を説明する代表的な考え方として、以下の理論がある
- 運動の目的やコストを考慮しながらフィードバック制御を最適化する最適フィードバック制御理論
- 身体や環境の動きを内部で予測・逆算する内部モデル理論がある
- 運動制御は、予測・状態推定・フィードバック・最適化を組み合わせて行動を実現する問題として捉えることができる
4.3.2 主な理論
-
最適フィードバック制御理論(Optimal Feedback Control Theory)
- 脳があらかじめ決めた運動軌道をそのまま再生するのではなく、運動の目的を達成するために必要な誤差だけを重点的に修正しながら、行動をオンラインで制御すると考える理論
- 運動の正確さだけでなく、エネルギー消費や筋力、時間などのコストも考慮し、その状況で最も効率的な制御を選ぶと考える
- これにより、人間の運動に見られる柔軟性や、課題に影響しないばらつきを許容する性質を説明できる
- 「正しい軌道を再現する」のではなく、「目的を達成するために必要な制御を最適化する」 という点が特徴
-
内部モデル理論(Internal Model Theory)
- 脳が身体や環境の動きを内部的にモデル化し、そのモデルを使って運動を予測・制御していると考える理論
- 代表的には、運動指令から「その行動をすると身体がどう動くか」を予測する順モデル(Forward Model) と、目的とする状態から「どのような運動指令を出せばよいか」を求める逆モデル(Inverse Model) が区別される
- 感覚フィードバックには遅れがあるため、内部モデルによる予測を利用することで、脳は身体の現在状態を素早く推定し、滑らかで安定した運動を実現できると考えられる
4.3.3 AIとの接点
- 運動制御理論は、AIの中でも特にロボティクス、制御、Embodied AI、Physical AIと強く接続する分野
- 内部モデル理論の「行動したとき世界や身体がどう変化するかを予測する」という考え方は、ロボットのダイナミクスモデルやモデル予測制御、モデルベース強化学習、世界モデルなどと共通する問題を扱う
- エージェントが内部モデルを使って将来を予測し、その結果から行動を選ぶという構造は、AIでも重要な考え方
- また最適フィードバック制御理論は、すべての誤差を一律に修正するのではなく、目的達成に重要な誤差を優先して制御するという考え方を示す
- これは、ノイズや環境変化のある実世界で柔軟に行動するロボットを考える際にも重要
- 内部モデル理論の「行動したとき世界や身体がどう変化するかを予測する」という考え方は、ロボットのダイナミクスモデルやモデル予測制御、モデルベース強化学習、世界モデルなどと共通する問題を扱う
- 運動制御研究は、知能を「正しい答えを出す仕組み」としてではなく、予測とフィードバックを使いながら身体を通して環境へ働きかけるシステムとして捉える視点をAIに与える
4.4 学習・記憶理論
4.4.1 学習・記憶理論とは
- 学習・記憶理論は、経験によって脳の情報処理がどのように変化し、その経験がどのように記憶として保存・更新・再利用されるのかを説明する理論群
- 記憶は一度形成されれば固定されたまま保存されるわけではない
- 新しい経験を素早く記憶する仕組みと、長期的な知識を安定して保持する仕組みは異なると考えられており、さらに記憶は想起されるたびに再び不安定になり、更新されることもある
- こうした過程を説明する代表的な考え方として、以下の理論がある
- 海馬と大脳新皮質の異なる学習特性を組み合わせる補完学習システム理論
- 記憶が時間とともに海馬依存から大脳新皮質へ再編成されると考えるシステム固定化理論
- 想起された記憶が再び変更可能になると考える記憶再固定化理論
- 学習・記憶研究は、新しい情報を素早く覚えることと、過去の知識を壊さず長期間保持することを、脳がどのように両立しているのかを考える分野でもある
4.4.2 主な理論
-
補完学習システム理論(Complementary Learning Systems: CLS)
- 脳には性質の異なる二つの学習システムがあり、それらが補完し合うことで記憶が成立すると考える理論
- 海馬は個々の経験を素早く学習する一方、大脳新皮質は多数の経験から共通する規則や知識をゆっくり学習すると考える
- これにより、新しい出来事をすぐ記憶しながら、既存の知識を急激な学習によって壊してしまうことを防ぐ
-
システム固定化理論(Systems Consolidation Theory)
- 新しく形成された記憶が当初は海馬に強く依存するものの、時間の経過や再活性化を通じて脳内ネットワークが再編成され、長期的には大脳新皮質を中心とした表現へ移行していくと考える理論
- 睡眠中の記憶の再活性化なども、この長期的な記憶形成に重要な役割を持つと考えられている
- 新しく形成された記憶が当初は海馬に強く依存するものの、時間の経過や再活性化を通じて脳内ネットワークが再編成され、長期的には大脳新皮質を中心とした表現へ移行していくと考える理論
-
記憶再固定化理論(Memory Reconsolidation Theory)
- 一度固定された記憶でも、想起されると一時的に不安定な状態へ戻り、その後あらためて固定されると考える理論
- この再固定化の過程では、新しい情報によって既存の記憶が更新・修正される可能性がある
- 記憶を固定された記録ではなく、想起するたびに再構成されうる動的な情報として捉える点が特徴
- 一度固定された記憶でも、想起されると一時的に不安定な状態へ戻り、その後あらためて固定されると考える理論
4.4.3 AIとの接点
- 学習・記憶理論は、AIにおける継続学習、長期記憶、知識更新と強く関係する
- 特に補完学習システム理論は、新しい経験を素早く記憶する仕組みと、長期的な知識をゆっくり学習する仕組みを分けることで、既存の知識を壊さずに新しい情報を学習するという考え方を示す
- これはニューラルネットワークで問題となる破滅的忘却(Catastrophic Forgetting) や継続学習と非常に近い問題
- また、システム固定化における記憶の再活性化は、AIにおける経験再生やリプレイによる学習とも比較できる
- さらに記憶再固定化理論は、記憶を固定されたデータとして保存するのではなく、検索・想起した情報を新しい文脈に応じて更新する仕組みを考えるヒントになる
- 特に補完学習システム理論は、新しい経験を素早く記憶する仕組みと、長期的な知識をゆっくり学習する仕組みを分けることで、既存の知識を壊さずに新しい情報を学習するという考え方を示す
- この分野はAIに対して、知能に必要なのは単に大量の情報を記憶することではなく、新しい経験を学びながら既存知識を保持し、必要に応じて記憶を統合・更新する仕組みであるという重要な視点を与える
4.5 情動理論
4.5.1 情動理論とは
- 情動理論は、恐怖、怒り、喜び、悲しみなどの情動が、脳・身体・認知の相互作用からどのように生まれるのかを説明する理論群
- 情動を考える際には、身体反応が先に起こるのか、それとも脳内の評価や解釈が先なのか、あるいは身体状態・過去の経験・状況に関する予測などが組み合わさって情動が構成されるのか、といった点が主要な論点になる
- 古典的には、身体反応を情動の基礎とみなすジェームズ=ランゲ説、脳内処理と身体反応が並行して生じると考えるキャノン=バード説が提案された
- 近年では、身体状態が意思決定を導くとするソマティックマーカー仮説や、情動をあらかじめ固定された反応ではなく、身体感覚・概念・文脈から脳が構成すると考える構成主義的情動理論が重要な位置を占めている
- 情動は単なる主観的な「気分」ではなく、身体状態の調整、価値判断、意思決定、行動選択を結びつける仕組みとして捉えることができる
4.5.2 主な理論
-
構成主義的情動理論(Theory of Constructed Emotion)
- 恐怖や怒りなどの情動が、生得的に固定された専用回路からそのまま生じるのではなく、身体内部の感覚、過去の経験、概念、現在の状況などを脳が統合することで構成されると考える理論
- 同じ身体反応でも、文脈や過去の経験によって異なる情動として経験される可能性があると考えます。情動を、脳による予測とカテゴリー化の結果として捉える点が特徴
-
ソマティックマーカー仮説(Somatic Marker Hypothesis)
- 過去の経験に伴った身体反応が「マーカー」として記憶され、その身体的なシグナルが将来の意思決定を導くと考える仮説
- 複雑な状況ですべての選択肢を論理的に比較しなくても、「この選択肢には嫌な感じがする」といった身体反応によって候補を絞り込めると考える
- 情動や身体状態を、合理的意思決定を妨げるものではなく、効率的な判断を支える情報として位置づける点が特徴
-
ジェームズ=ランゲ説(James–Lange Theory)
- 外部の出来事によってまず身体反応が生じ、その身体変化を知覚することによって情動が経験されると考える古典的理論
- 例えば「怖いから震える」のではなく、「身体が震えていることを知覚するから恐怖を感じる」という方向で、情動と身体の関係を捉える
-
キャノン=バード説(Cannon–Bard Theory)
- 情動を引き起こす刺激が脳で処理されると、主観的な情動経験と身体反応が並行して生じると考える理論
- ジェームズ=ランゲ説のように身体反応を情動経験の原因とするのではなく、情動経験と生理反応を共通する脳内処理から生じるものとして捉えた
4.5.3 AIとの接点
- 情動研究は、AIに「人間のような感情」を持たせるという問題だけでなく、価値判断、意思決定、身体状態、行動選択をどのように統合するかという点で重要な接点を持つ
- ソマティックマーカー仮説は、過去の経験に伴う身体的な価値シグナルが意思決定を効率化すると考える
- これはAIにおいて、すべての候補を逐一計算するのではなく、経験から得られた価値やリスクのシグナルを利用して行動を選ぶ仕組みと比較できる
- また構成主義的情動理論では、情動を固定されたカテゴリーとしてではなく、内部状態、過去の経験、文脈についての予測から構成されるものと捉える
- この考え方は、内部状態を持つエージェント、世界モデル、予測処理、Embodied AIなどと接点がある
- ソマティックマーカー仮説は、過去の経験に伴う身体的な価値シグナルが意思決定を効率化すると考える
- AIにおける情動の重要性は、単に「喜ぶAI」「怒るAI」を作ることではない
- むしろ、何を重要とみなし、何を避け、どの行動を優先するのかという価値づけを、知覚・身体・記憶・意思決定と結びつける仕組みを考える点にある
4.6 恒常性理論
4.6.1 恒常性理論とは
- 恒常性理論は、体温、血糖、浸透圧、エネルギー状態など、生命維持に必要な身体内部の状態を、脳と身体がどのように一定範囲に保っているのかを説明する理論
- 生体は外界の変化に受動的に反応するだけではなく、身体内部の状態を継続的に監視し、必要に応じて自律神経、内分泌、行動を調整する
- 例えば体温が下がれば代謝や行動を変え、エネルギーが不足すれば摂食行動を促す
- このように恒常性は、単なる「一定値の維持」ではなく、身体状態を生存可能な範囲に保つための継続的な制御として捉えられる
- 近年では、変化が起きてから補正するだけでなく、将来の需要を予測して先回りして調整するアロスタシスという考え方が重要になっている
4.6.2 アロスタシス理論
-
アロスタシス理論(Allostasis Theory)
- 生体が身体内部の状態を固定された一定値に保つのではなく、将来必要になる状態を予測しながら、状況に応じて調整目標そのものを変化させると考える理論
- 例えば運動を始める前から心拍数や血流が変化したり、食事の時間が近づくと代謝状態が変化したりするように、生体は現在の誤差を修正するだけでなく、これから必要になる身体状態を先回りして準備する
- この考え方では、脳は身体内部の状態を受動的に監視するだけではなく、外界や過去の経験から将来の身体需要を予測し、行動や自律神経・内分泌系を通じて身体を調整する制御システムとして捉えられる
- 生体が身体内部の状態を固定された一定値に保つのではなく、将来必要になる状態を予測しながら、状況に応じて調整目標そのものを変化させると考える理論
4.6.3 AIとの接点
- 恒常性・アロスタシスの考え方は、AIが外部から与えられた報酬だけで行動するのではなく、自分自身の内部状態を維持しながら自律的に行動するエージェントを考える際に重要なヒントを与える
- 現在の多くのAIでは、目標や報酬関数は外部から設定される
- 一方、生物はエネルギー不足、疲労、危険、体温などの内部状態そのものが行動の動機となり、それらを適切な範囲に保つように行動する
- これは、AIに内部変数や内発的な目的を持たせる研究と接点がある
- 特にアロスタシスは、問題が起きてから反応するのではなく、将来の内部状態を予測して事前に行動を変えるという点で、予測制御、モデルベース意思決定、世界モデル、能動的推論などとも共通する問題を扱う
- この分野はAIに対して、知的エージェントを単に「外部目標を達成するシステム」としてではなく、自らの内部状態を維持・調整しながら長期的に行動するシステムとして考える視点を与える
4.7 内受容モデル
4.7.1 内受容とは
-
内受容(Interoception) とは、心拍、呼吸、胃腸の状態、体温、痛み、空腹など、身体内部の状態を感知し、それを脳が表現・解釈する仕組み
- 外界の情報を扱う視覚や聴覚とは異なり、内受容は「自分の身体が今どのような状態にあるか」を脳へ伝える
- こうした情報は、恒常性の維持だけでなく、情動、意思決定、自己感覚、行動選択にも関わる
- 外界の情報を扱う視覚や聴覚とは異なり、内受容は「自分の身体が今どのような状態にあるか」を脳へ伝える
- 内受容研究では、身体内部の信号を脳が単に受け取るのではなく、予測と感覚入力を組み合わせながら身体状態を推定しているという考え方が重視されている
4.7.2 内受容予測符号化
-
内受容予測符号化(Interoceptive Predictive Coding)
- 脳が身体内部の状態について予測を生成し、実際に得られる内受容信号との予測誤差を用いて身体状態の推定を更新すると考えるモデル
- 脳は心拍や呼吸などの信号を受動的に読み取るだけではなく、「身体はいまどのような状態にあるはずか」を予測し、その予測と実際の感覚との差を調整する
- この枠組みでは、情動や自己感覚も、身体内部の状態に関する予測と感覚入力の相互作用から生じると考えられる
- また、アロスタシスや構成主義的情動理論、予測処理、自由エネルギー原理とも密接に関連する考え方
4.7.3 AIとの接点
- 内受容研究は、AIが外界を認識するだけでなく、自分自身の内部状態を持ち、それを推定しながら行動するエージェントを考える際に重要な接点を持つ
- 現在の多くのAIは、入力された外部情報を処理し、外部から設定された目標を達成するように設計されている
- 一方、生物は空腹、疲労、痛み、覚醒度などの内部状態を継続的に推定し、それによって行動の優先順位を変える
- 内受容予測符号化の考え方をAIに対応させるなら、エージェントが自らの内部状態について予測モデルを持ち、実際の状態とのずれを検出しながら行動を調整する仕組みに相当する
- これは、自律エージェント、Embodied AI、ロボティクス、能動的推論などと接点がある
- この分野はAIに対して、知能を 「外界のモデル」だけでなく「自己の内部状態のモデル」も持つシステム として捉える視点を与える
5. 分子・細胞神経科学
5.1 総論
5.1.1 この分野とは何か
- 分子・細胞神経科学は、ニューロンやシナプスがどのような仕組みで情報を受け取り、電気信号を生成し、経験によってその性質を変化させるのかを研究する分野
- ニューロンの発火は、細胞膜を通るイオンの流れと膜電位の変化によって生じる
- また、ニューロン同士を結ぶシナプスの伝達効率は、活動履歴や経験によって変化し、この可塑性が学習や記憶の重要な基盤になる
- この分野では、ニューロンの電気的性質を記述するHodgkin-Huxleyモデルやケーブル理論、シナプス可塑性を説明するHebb則やSTDPなどが、神経系の情報処理を細胞レベルから理解するための基本的なモデル・学習則として使われる
- つまり分子・細胞神経科学は、脳の情報処理を実際に担うニューロンとシナプスが、どのように動作し、どのように変化するのかを明らかにする基盤的な分野
5.1.2 主要理論・モデルの地図
- 分子・細胞神経科学では、大きく分けると、「ニューロンはどのように電気信号を生成・伝播するのか」 と、「経験に応じて神経系の結合や機能はどのように変化するのか」 という問題を扱う
| テーマ | 中心となる問い | 主な理論・モデル |
|---|---|---|
| 神経細胞モデル | ニューロンはどのように電気信号を生成し、伝えるのか | Hodgkin-Huxleyモデル、ケーブル理論 |
| 神経可塑性 | 経験によって神経系の結合や機能はどう変化するのか | シナプス可塑性、ライブワイヤード仮説 |
-
Hodgkin-Huxleyモデルは、イオンチャネルの働きからニューロンの活動電位を数理的に記述し、ケーブル理論は樹状突起や軸索を電気信号がどのように伝わるかを説明する
-
シナプス可塑性は、神経活動や経験によってシナプス結合の強さが変化する性質であり、その代表的な学習則としてHebb則やSTDPがある
-
一方、ライブワイヤード仮説は、脳を固定された回路ではなく、経験や身体・環境の変化に応じて結合や機能配置を継続的に再編成するシステムとして捉える
-
この章では、「ニューロンがどのように信号を生成するか」から「経験によって神経系がどのように変化するか」へという順に、脳の情報処理を細胞・神経回路レベルから見ていく
5.1.3 AIと何が関係するのか
- 人工ニューラルネットワークは、ニューロンやシナプスから着想を得て発展してきたが、現在のAIで使われる人工ニューロンは、生物学的ニューロンを大幅に単純化したもの
- 一方、Hodgkin-Huxleyモデルのような神経細胞モデルは、ニューロンの発火ダイナミクスをより生物学的に記述し、スパイキングニューラルネットワーク(SNN)やニューロモルフィックコンピューティングへつながる
- また、Hebb則やSTDPのようなシナプス可塑性の学習則は、神経活動の局所的な関係だけから結合強度を変化させる仕組みであり、現在主流の誤差逆伝播法とは異なる学習原理を考える手がかりになる
- さらに、学習によって結合だけでなく回路構造そのものが変化するという神経可塑性の考え方は、継続学習、自己組織化、適応的なネットワーク構造を考える上でも重要
- この分野はAIに対して、ニューラルネットワークを単なる数学的関数としてではなく、時間的に発火し、局所的に学習し、経験によって構造まで変化する計算システムとして捉える視点を与える
5.1.4 読む本と読む順番
| カテゴリ | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| 全般 | カラー版 ベアー コノーズ パラディーソ 神経科学 脳の探求 改訂版 |
既述再掲 |
| 神経細胞モデル | はじめての神経回路 シミュレーション |
既述再掲 |
| ライブワイヤード仮説 |
脳の地図を書き換える : 神経科学の冒険
|
|
5.2 神経細胞モデル
5.2.1 神経細胞モデルとは
- 神経細胞モデルは、ニューロンがどのように電気信号を生成し、樹状突起や軸索を通してその信号を伝えるのかを、数理的に記述するモデル
- ニューロンでは、細胞膜を通るナトリウムやカリウムなどのイオンの流れによって膜電位が変化し、一定の条件を満たすと活動電位が発生する
- また、樹状突起や軸索では、入力された電気信号が距離や時間とともに減衰・伝播する
- こうした現象を数理的に表現する代表的なものが、活動電位の発生をイオンチャネルの動態から記述するHodgkin-Huxleyモデルと、樹状突起や軸索に沿った電位変化を記述するケーブル理論となっている
- 神経細胞モデルは、生物学的ニューロンを「計算する素子」として理解するための基礎になる
5.2.2 主な理論・モデル
-
Hodgkin-Huxleyモデル
- ニューロンの活動電位がどのように発生するかを、細胞膜を流れるイオン電流とイオンチャネルの開閉から記述する数理モデル
- 膜電位に応じてナトリウムチャネルやカリウムチャネルの状態が変化し、それによって脱分極・再分極が生じる過程を微分方程式で表す
- 生物学的ニューロンの発火メカニズムを定量的に記述した代表的モデルであり、後のさまざまな神経細胞モデルの基礎となっている
-
ケーブル理論(Cable Theory)
- 樹状突起や軸索を電気的なケーブルとして捉え、膜電位が神経突起の中を時間・空間的にどのように伝播し、減衰するかを記述する理論
- ニューロンは一点で入力を受ける単純な素子ではなく、複雑に枝分かれした樹状突起で多数のシナプス入力を受け取る
- ケーブル理論を用いることで、入力された電位が細胞体へ届くまでにどの程度減衰するのか、複数の入力がどのように統合されるのかを解析できる
5.2.3 AIとの接点
- 現在の人工ニューラルネットワークで使われる人工ニューロンは、生物学的ニューロンを大幅に単純化したモデル
- 多くの場合、入力を重み付き和としてまとめ、活性化関数を通して出力するだけで、膜電位の時間変化やスパイク発火、樹状突起での信号処理までは表現しない
- 一方、Hodgkin-Huxleyモデルのような神経細胞モデルは、ニューロンを時間とともに状態が変化する動的システムとして捉える
- この考え方は、スパイクによって情報を処理するスパイキングニューラルネットワーク(SNN)や、低消費電力で脳型計算を実現しようとするニューロモルフィックコンピューティングにつながる
- また、ケーブル理論が示すように、生物学的ニューロンでは樹状突起そのものが入力の統合や非線形処理に関与する
- この点は、人工ニューロンよりも一個の生物学的ニューロンがはるかに複雑な計算を行っている可能性を示している
- 神経細胞モデルはAIに対して、「ニューロンをどこまで単純化してよいのか」「時間・スパイク・局所的なダイナミクスを計算にどう利用できるのか」 という視点を与える
5.3 神経可塑性
5.3.1 神経可塑性とは
- 神経可塑性とは、経験や学習、環境、身体の変化に応じて、神経系の結合や機能が変化する性質を指す
- 脳は一度形成された固定的な回路ではなく、ニューロン同士のシナプス結合の強さを変えたり、神経回路の機能的な役割を再編成したりしながら、継続的に環境へ適応する
- その代表的な仕組みがシナプス可塑性で、ニューロン同士の活動の関係によってシナプス結合が強化・弱化する
- また、より広い回路や機能配置の再編成まで含めて脳を動的なシステムとして捉える考え方として、ライブワイヤード仮説がある
- 神経可塑性は、経験によって脳そのものが変化することで学習や適応を可能にする仕組みと捉えることができる
5.3.2 主要理論・モデルの地図
-
シナプス可塑性(Synaptic Plasticity) とは、ニューロン間のシナプス結合の強さが、神経活動や経験によって変化する性質
- 代表的な考え方がHebb則で、「あるニューロンの活動が別のニューロンの活動に繰り返し寄与すると、その結合が強化される」という学習原理を示す
- 人工ニューラルネットワークに大きな影響を与えた考え方でもある
-
STDP(Spike-Timing-Dependent Plasticity:スパイク時刻依存可塑性) は、この考え方を発火タイミングまで具体化した学習則
- シナプス前ニューロンと後ニューロンのスパイクがどのような時間順序で発生したかによって、結合が強化されたり弱化されたりする
- Hebb則やSTDPは、学習を個々のシナプスで起こる局所的な変化として説明する代表的な学習則
- 代表的な考え方がHebb則で、「あるニューロンの活動が別のニューロンの活動に繰り返し寄与すると、その結合が強化される」という学習原理を示す
-
ライブワイヤード仮説(Livewired Hypothesis) は、デイヴィッド・イーグルマンが提唱する、脳を固定された配線図ではなく、経験や身体、環境の変化に応じて継続的に回路や機能配置を再編成するシステムとして捉える考え方
- 例えば感覚器官からの入力が失われたり、新しい感覚入力が与えられたりすると、脳は既存の領域や回路の使い方を変え、新しい情報環境へ適応していく
- シナプス結合の変化だけでなく、感覚表現や脳領域の機能的な再配置まで含めて、脳の本質を「変化し続けること」に見る点が特徴
5.3.3 AIとの接点
- 神経可塑性は、AIにおける学習・継続学習・自己組織化・適応と強く関係する
- Hebb則やSTDPは、各シナプスが周囲の神経活動だけを利用して結合を更新する局所学習則
- これは、ネットワーク全体の誤差を逆伝播させる現在主流の深層学習とは異なる学習原理であり、生物学的に妥当な学習アルゴリズムやスパイキングニューラルネットワークの研究につながる
- Hebb則やSTDPは、各シナプスが周囲の神経活動だけを利用して結合を更新する局所学習則
- またライブワイヤード仮説が示すように、脳は結合の重みを変更するだけでなく、経験や環境に応じて回路の使い方そのものを柔軟に変化させる
- この考え方は、固定されたモデルを一度学習して使うAIではなく、環境の変化に応じて継続的に学習し、自らの内部構造や機能を適応させるAIを考える際の参考になる
- 神経可塑性研究はAIに対して、学習とは単なるパラメータ最適化ではなく、経験に応じて情報処理システムそのものが変化し続けることだという視点を与える
6. システム神経科学(ネットワーク神経科学を含む)
6.1 総論
6.1.1 この分野とは何か
- システム神経科学は、個々のニューロンではなく、複数のニューロンや脳領域が相互作用して、知覚・運動・記憶・意思決定などの機能をどのように生み出すのかを研究する分野
- 神経回路レベルでは、ニューロン集団がどのように安定した活動状態や時系列ダイナミクスを形成するのかを扱う
- さらに脳全体のレベルでは、脳領域同士がどのような構造的・機能的ネットワークを形成し、そのネットワークがどのように情報処理を支えているのかを研究する
- 近年は、脳を多数の領域からなる大規模ネットワークとして捉えるネットワーク神経科学も重要になっており、コネクトーム、機能的結合、グラフ理論などを用いて脳全体の組織原理を調べる
- この分野は、ニューロン単体の性質から一段上がり、回路・集団・ネットワークとして脳がどのように機能するのかを理解する領域と捉えることができる
6.1.2 主要理論・モデルの地図
- システム神経科学では、大きく、「神経回路がどのような集団活動を生み出すか」 と、「脳全体がどのようなネットワークとして組織化されているか」 という二つの視点から脳を捉える
| テーマ | サブカテゴリ | 中心となる問い | 主な理論・概念・解析 |
|---|---|---|---|
| 神経回路理論 | ニューロン集団はどのように安定した表現やダイナミクスを生み出すのか | セルアセンブリ仮説、吸引子ネットワーク、バランスドネットワーク理論、神経集団力学 | |
| ネットワーク神経科学 | 構造ネットワーク | 脳領域は物理的にどのようにつながっているのか | コネクトーム、小世界性、Rich Club |
| 機能ネットワーク | 脳領域は活動としてどのように協調しているのか | 機能的結合、動的機能的結合、デフォルトモードネットワーク | |
| ネットワーク解析 | 脳ネットワークの構造と機能をどう定量化するのか | グラフ理論的脳ネットワーク解析、構造―機能カップリング |
- 神経回路理論では、ニューロン集団がどのように情報を保持し、状態を遷移させ、時間的な活動パターンを形成するのかを扱う
- 一方、構造ネットワークと機能ネットワークでは、脳全体を領域間のネットワークとして捉え、その物理的な配線と活動上の協調関係を調べる
- さらにネットワーク解析では、グラフ理論などを用いて、それらの特徴や構造と機能の関係を定量化する
- この章では、「局所的な神経回路の集団ダイナミクス」から「脳全体の大規模ネットワーク」へとスケールを広げながら、脳の情報処理を見ていく
6.1.3 AIと何が関係するのか
- システム神経科学は、AIにおけるニューラルネットワークの構造、内部表現、ダイナミクス、情報伝達を考える上で重要な接点を持つ
- 例えば、吸引子ネットワークや神経集団力学は、ニューラルネットワークが情報をどのような状態や軌道として保持・処理するのかという問題と関係します。これは、RNN、連想記憶、状態空間モデルなどのAI研究とも共通するテーマである
- またネットワーク神経科学では、脳領域の結合構造をグラフとして捉え、小世界性、Rich Club、モジュール構造などを解析する
- こうした考え方は、グラフニューラルネットワークや大規模ニューラルネットワークの構造設計、情報伝播の解析とも比較できる
- さらに、構造ネットワークと機能ネットワークの関係を調べる研究は、「ネットワークの配線構造が、どのような動的な情報処理を生み出すのか」 というAIにも共通する問いにつながる
- システム神経科学はAIに対して、知能を個々のユニットの性質だけではなく、多数のユニットが相互作用して生み出す集団ダイナミクスとネットワーク構造から理解する視点を与える
6.1.4 読む本と読む順番
-
未読脳の計算論
- 未読ですが候補本
| カテゴリ | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| ネットワーク神経科学 |
脳のネットワーク
|
読み進め中
|
| 機能ネットワーク | 同上 | 同上 |
| 構造ネットワーク |
コネクトーム:脳の配線はどのように「わたし」をつくり出すのか
|
読み進め中
|
| ネットワーク解析 |
ネットワーク科学 ひと・もの・ことの 関係性をデータから解き明かす新しいアプローチ
|
|
- 全体像
- 前掲書カラー版 ベアー コノーズ パラディーソ 神経科学 脳の探求 改訂版も参考となる
- 神経回路理論
- 前掲書はじめての神経回路シミュレーション:1ニューロンからヒト全脳モデルまでも参考となる
6.2 神経回路理論
6.2.1 神経回路理論とは
- 神経回路理論は、多数のニューロンが相互に結合することで、どのような情報表現・記憶・計算・ダイナミクスが生まれるのかを説明する理論群
- 個々のニューロンの性質だけでは、記憶や認知のような複雑な機能を十分に説明できない
- 重要なのは、ニューロン同士がどのような結合を形成し、その集団活動が時間とともにどのように変化するか
- 代表的な考え方として、以下などがある
- 同時に活動するニューロン集団が一つの情報表現を担うとするセルアセンブリ仮説
- ネットワーク活動が安定した状態へ収束する吸引子ネットワーク
- 興奮性・抑制性入力の釣り合いから不規則な活動が生まれるバランスドネットワーク理論
- 神経集団の活動を状態空間上の時間発展として捉える神経集団力学
- 神経回路理論は、個々のニューロンの活動から、集団としての記憶・表現・計算がどのように創発するのかを考える領域
6.2.2 主な理論・モデル
-
セルアセンブリ仮説(Cell Assembly Hypothesis)
- 特定の知覚や記憶が一つのニューロンだけに保存されるのではなく、互いに結びついたニューロン集団の協調的な活動として表現されると考える仮説
- Hebbの学習則と密接に関係しており、繰り返し同時に活動するニューロン間の結合が強化されることで、まとまりのある神経集団が形成されると考える
-
吸引子ネットワーク(Attractor Network)
- ニューラルネットワークの活動が、初期状態やノイズに多少の違いがあっても、特定の安定した状態=吸引子へ収束するようなネットワークモデル
- 安定した活動パターンを記憶表象とみなすことで、連想記憶、パターン補完、意思決定などを説明できる
- Hopfield Networkは、その代表的な人工ニューラルネットワークモデル
-
バランスドネットワーク理論(Balanced Network Theory)
- 神経回路において大量の興奮性入力と抑制性入力が動的に釣り合うことで、ニューロンが不規則かつ柔軟な活動を示すと考える理論
- 単純に活動が安定するのではなく、強い興奮と抑制が互いに打ち消し合うことで、外部入力に敏感で多様な活動状態を生み出せる点が特徴
-
神経集団力学(Neural Population Dynamics)
- 個々のニューロンの発火だけを見るのではなく、多数のニューロンの活動を一つの高次元な状態として捉え、その時間変化=軌道を解析する考え方
- 運動や意思決定などの際に、神経集団の活動が状態空間上で特徴的な軌道を描くことから、脳の計算を個々のニューロンの役割ではなく、集団ダイナミクスそのものとして理解しようとするアプローチ
6.2.3 AIとの接点
- 神経回路理論は、人工ニューラルネットワークの構造やダイナミクスを考える上で、AIと非常に強い接点を持つ
- セルアセンブリ仮説や吸引子ネットワークは、情報を一つのユニットではなく多数のユニットの活動パターンとして表現・保持するという考え方につながる
- 特に吸引子ネットワークは、Hopfield Networkのような連想記憶モデルとしてAIにも直接取り入れられてきた
- また、神経集団力学は、ニューラルネットワークの内部状態を単なるユニットの集合ではなく、状態空間上を時間発展する動的システムとして理解する視点を与える
- これはRNN、状態空間モデル、潜在ダイナミクス、世界モデルなどとも接点がある
- バランスドネットワーク理論が扱う、安定性と変動性を両立した神経活動も、固定的な表現ではなく、状況に応じて柔軟に状態を変化させる計算システムを考える上で参考になる
- 神経回路理論はAIに対して、知能を個々のユニットに宿るものではなく、多数のユニットの結合と集団ダイナミクスから生まれるものとして捉える視点を与える
6.3 ネットワーク神経科学
6.3.1 ネットワーク神経科学とは
- ネットワーク神経科学は、脳を個々の領域の集合ではなく、多数の脳領域が相互に結びついた複雑ネットワークとして捉える研究分野
- 大きく、以下の観点から脳全体の組織原理を調べる
- 神経線維による物理的なつながりを扱う構造ネットワーク
- 脳活動の協調関係を扱う機能ネットワーク
- それらをグラフ理論などで定量化するネットワーク解析
- 神経回路理論が比較的局所的なニューロン集団の活動を扱うのに対し、ネットワーク神経科学では、脳領域間の結合と相互作用を脳全体のスケールで捉えることに重点を置く
6.3.2 構造ネットワーク
6.3.2.1 構造ネットワークとは
- 構造ネットワークとは、脳領域同士が神経線維によってどのように物理的につながっているかを、ネットワークとして捉える考え方
- 脳は、個々の領域が独立して働くのではなく、多数の領域が白質線維などを介して結ばれている
- こうした結合関係をノードとエッジからなるグラフとして表現することで、脳全体の配線構造や情報伝達の特徴を調べることができる
- 代表的な概念として、以下などがある
- 脳全体の配線図を表すコネクトーム
- 局所的には密に結びつきながら全体として短い経路で結ばれる小世界性
- 高次数ノード同士が強く結びつくRich Club
- 構造ネットワーク研究は、脳の配線そのものが、どのような情報処理や機能の制約・可能性を生み出しているのかを考える領域
6.3.2.2 主な概念
-
コネクトーム(Connectome)
- 脳内の神経結合を網羅的に記述した「脳の配線図」
- 対象とするスケールによって、個々のニューロン同士の結合を記述するミクロなコネクトームから、脳領域間の白質結合を記述するマクロなコネクトームまである
- 脳の構造的なつながりを可視化することで、どの領域が情報伝達の中心となるのか、どのようなネットワーク構造が形成されているのかを調べる
-
小世界性(Small-Worldness)
- ネットワークが局所的には密に結びついている一方で、離れたノード同士も比較的短い経路で到達できるという性質
- 脳ネットワークが小世界的であれば、近隣の領域で専門的な処理を行いながら、少数の長距離結合を通じて脳全体で効率的に情報を統合できると考えられる
-
Rich Club
- ネットワーク内で多数の結合を持つハブ同士が、互いにも強く結びついている構造を指す
- 脳では、こうしたハブ領域が広範囲の情報を結びつける中核として働き、異なる機能ネットワーク間の情報統合を支えていると考えられている
- 単に「結合数の多い領域」が存在するだけでなく、そのハブ同士が高密度に結びついている点が特徴
6.3.2.3 AIとの接点
- 構造ネットワーク研究は、AIにおけるネットワークアーキテクチャ、情報伝播、モジュール構造、計算効率を考える上で接点を持つ
- 脳では、すべての領域が完全結合しているわけではなく、局所的に密な接続と、遠距離を結ぶ少数の重要な結合を組み合わせている
- 小世界性やRich Clubのような構造は、限られた配線コストの中で、局所処理と全体的な情報統合を両立させる仕組みとして理解できる
- この考え方は、AIにおける疎なネットワーク、モジュール型アーキテクチャ、グラフニューラルネットワーク、Mixture of Expertsなど、すべてを一様につなぐのではなく、構造を持った接続によって効率的に情報を流す設計と比較できる
- またコネクトーム研究は、「知能は個々のユニットの性能だけでなく、どのようにつながっているかによって大きく左右される」という視点をAIに与える
6.3.3 機能ネットワーク
6.3.3.1 機能ネットワークとは
- 機能ネットワークとは、脳領域同士が活動の上でどのように協調しているかを、ネットワークとして捉える考え方
- 構造ネットワークが神経線維による物理的な結合を扱うのに対し、機能ネットワークでは、fMRIや脳波などで計測された複数の脳領域の活動が、時間的にどの程度連動しているかを調べる
- 代表的な概念として、以下などがある
- 領域間の活動の統計的な関連を表す機能的結合
- その関係が時間とともに変化すると考える動的機能的結合
- 安静時に特徴的な協調活動を示すデフォルトモードネットワーク
- 機能ネットワーク研究は、脳の機能が一つの領域だけで生み出されるのではなく、複数の領域が状況に応じて協調することで成立するという視点から脳を理解する分野
6.3.3.2 主な概念
-
機能的結合(Functional Connectivity)
- 異なる脳領域の活動が時間的にどの程度関連して変化するかを表す概念
- 例えば、離れた二つの脳領域の活動が繰り返し同時に増減する場合、それらの間には機能的結合があると考える
- ただし、機能的結合は基本的に活動間の統計的な関連を表すものであり、直接的な解剖学的結合や因果関係を意味するわけではない
- 異なる脳領域の活動が時間的にどの程度関連して変化するかを表す概念
-
動的機能的結合(Dynamic Functional Connectivity)
- 脳領域間の機能的結合が一定ではなく、時間とともに変化するという考え方
- 脳は課題、注意、覚醒状態、思考内容などに応じて、異なる領域間の協調関係を変化させる
- そのため、脳ネットワークを固定した一枚の地図としてではなく、複数のネットワーク状態を行き来する動的なシステムとして捉える
-
デフォルトモードネットワーク(Default Mode Network: DMN)
- 外部の課題に強く集中していない安静時などに、互いに協調した活動を示す複数の脳領域からなるネットワーク
- 自己に関する思考、過去の記憶、将来の想像、他者についての推論などとの関連が研究されている
- 脳は外部から課題を与えられていないときにも活動を停止しているわけではなく、自発的な内部処理を行っていることを示す代表的なネットワーク
6.3.3.3 AIとの接点
- 機能ネットワーク研究は、AIにおける複数の内部モジュールや表現が、状況に応じてどのように協調するかという問題と接点を持つ
- 脳では、特定の認知機能が一つの領域だけで完結するのではなく、課題や内部状態に応じて複数の領域が一時的なネットワークを形成する
- この考え方は、AIにおいて固定された処理経路だけでなく、入力や目的に応じて異なる内部表現やモジュールを動的に組み合わせる仕組みを考える際の参考になる
- また、人工ニューラルネットワークについても、各ユニットを個別に見るだけでなく、内部表現同士の相関や情報伝達のパターンをネットワークとして解析する研究がある
- これは、学習済みモデルの内部でどの部分が協調して機能を実現しているのかを理解するという点で、機能ネットワーク研究と共通する問題意識を持つ
- 特に動的機能的結合の考え方は、知能を固定されたネットワークとしてではなく、目的や状況に応じて内部の協調関係を切り替える動的なシステムとして捉える視点をAIに与える
6.3.4 ネットワーク解析
6.3.4.1 ネットワーク解析とは
- ネットワーク解析は、脳領域やニューロンをノード、それらの結合をエッジとして表現し、脳の構造や活動のつながりを定量的に解析する方法
- 脳ネットワークをグラフとして表現することで、どの領域がネットワークの中心となっているのか、どの領域同士がまとまりを形成しているのか、情報がどれだけ効率よく伝わる構造になっているのかなどを調べることができる
- また、物理的な配線を表す構造ネットワークと、活動の協調関係を表す機能ネットワークを比較することで、脳の構造が機能をどの程度規定しているのかを研究することもできる
- ネットワーク解析は、脳を個々の領域の集合ではなく、相互作用する一つの複雑ネットワークとして定量的に理解するための方法論
6.3.4.2 主な解析法・概念
-
グラフ理論的脳ネットワーク解析
- 脳領域をノード、領域間の構造的・機能的結合をエッジとして表現し、グラフ理論の指標を用いてネットワークの特徴を解析する方法
- 例えば、以下などを調べる
- ノードがどれだけ多くの領域と結合しているかを表す次数(Degree)
- ネットワークがいくつかのまとまりに分かれている程度を表すモジュール性(Modularity)
- ノード間をどれだけ短い経路で移動できるかを表す経路長(Path Length)
- こうした解析によって、ハブとなる脳領域、局所的なモジュール構造、脳全体の情報統合効率などを定量化できる
- 小世界性やRich Clubも、このようなグラフ理論的解析から評価される
-
構造―機能カップリング(Structure–Function Coupling)
- 神経線維による物理的な接続である構造ネットワークと、脳活動の協調関係である機能ネットワークが、どの程度対応しているかを調べる考え方
- 物理的につながっている領域は活動も協調しやすい一方、機能的な関係は構造だけで単純に決まるわけではない
- 直接つながっていない領域同士でも、他の領域を介した相互作用によって活動が関連する場合がある
- 構造―機能カップリングを調べることで、脳の固定的な配線構造から、どのように柔軟で動的な機能ネットワークが生み出されるのかを理解しようとする
6.3.4.3 AIとの接点
-
ネットワーク解析は、AIにおいてニューラルネットワーク内部の構造や情報伝播を理解する方法と接点を持つ
- 脳ネットワークと同様に、人工ニューラルネットワークも多数のユニットと結合から構成される
- そのため、グラフ理論を使ってネットワークのハブ、モジュール構造、情報伝達経路などを解析する考え方は、大規模AIモデルの内部構造や計算過程を理解する際にも参考になる
-
特に構造―機能カップリングの考え方は、AIにおける 「ネットワークがどのように接続されているか」と「実際にどの部分が協調して計算を行っているか」は同じではない という問題と対応する
- モデルのアーキテクチャだけでなく、入力や課題によって実際の情報処理パターンがどう変化するかを見る必要がある
-
また、脳のネットワーク解析とグラフ機械学習を組み合わせ、脳画像やコネクトームから認知状態や疾患などを推定する研究も行われている
-
ネットワーク解析はAIに対して、知能をユニット単位で理解するだけでなく、結合構造と動的な情報処理の関係をネットワーク全体から理解するという視点を与える
7. 神経工学
7.1 総論
7.1.1 この分野とは何か
-
神経工学は、脳や神経系を計測し、解析し、外部から介入し、さらに機械やコンピュータと接続するための技術を研究する分野
- 脳活動をfMRI、脳波、脳磁図、電極記録などから読み取り、その情報を解析するだけでなく、電気刺激・磁気刺激などによって脳活動へ働きかけたり、脳信号を使って外部機器を操作したりする
-
そのため神経工学は、神経科学の知見を工学的に応用するだけでなく、計測技術そのものを通じて脳機能を理解する研究分野でもある
-
本章では、脳活動を読み解く脳計測解析、脳へ働きかける脳介入、脳と外部機器を接続するBMI / BCIという三つの方向から神経工学を見ていく
7.1.2 主要技術・解析法の地図
- 神経工学では、大きく、「脳活動から情報を読み取る」、「脳へ働きかける」、「脳と外部機器を接続する」 という三つの方向から技術を整理できる
| テーマ | 中心となる問い | 主な技術・解析法 |
|---|---|---|
| 脳計測解析 | 脳活動にどのような情報が表現されているのか | エンコーディング / デコーディング、RSA、DCM、ニューラルマニフォールド解析 |
| 脳介入 | 特定の脳活動を変化させると、認知や行動はどう変わるのか | 因果摂動、閉ループ脳刺激、仮想病変 |
| BMI / BCI | 脳活動から意図を読み取り、外部機器をどう制御するか | カルマンフィルタ、共同適応、BMIデコーダ適応、ニューラルマニフォールド |
- 脳計測解析では、脳活動と刺激・行動・認知状態との対応関係をモデル化し、脳内にどのような情報が表現されているのかを調べる
- 脳介入では、脳活動を観察するだけでなく、刺激などによって特定の神経活動を変化させ、その結果から脳機能の因果関係を調べる
- BMI / BCIでは、脳活動をリアルタイムに読み取り、コンピュータやロボットなどの外部システムへ接続する
- この章では、「読む → 働きかける → 接続する」 という流れで、脳と工学がどのように結びついているのかを見ていく
7.1.3 AIと何が関係するのか
- 神経工学は、今回取り上げる脳科学分野の中でも、AIが直接的な技術として利用される場面が多い分野
- 脳計測解析では、機械学習や深層学習を使って脳活動から知覚内容、運動意図、認知状態などを推定するデコーディングが広く行われています。逆に、刺激や行動から脳活動を予測するエンコーディングモデルにもAI・統計モデルが使われる
- BMI / BCIでは、脳信号からユーザーの意図を推定してカーソル、義手、ロボットなどを制御するために、カルマンフィルタや機械学習、深層学習などが利用される
- また、ユーザーとデコーダが互いに学習する共同適応も重要な研究テーマ
- さらに脳介入では、計測した脳状態に応じて刺激をリアルタイムに変化させる閉ループ制御にもAIが利用できる
- 神経工学ではAIは単なる比較対象ではなく、脳を読む・予測する・介入する・外部機器につなぐための実際の計算技術として重要な役割を担っている
7.1.4 読む本と読む順番
| カテゴリ | 書名 | 内容 |
|---|---|---|
| 全体 |
脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線
|
|
| BMI/BCI |
基礎からのブレイン・コンピュータ・インターフェース
|
読み進め中
|
- 前掲書計算論的神経科学: 脳の運動制御・感覚処理機構の理論的理解へも神経工学に関連する
7.2 脳計測解析
7.2.1 脳計測解析とは
- 脳計測解析は、fMRI、脳波、脳磁図、電極記録などで得られた脳活動データから、脳がどのような情報を表現し、どのように処理しているのかを明らかにするための解析分野
- 単に「どの脳領域が活動したか」を調べるだけでなく、刺激や行動、認知状態と脳活動の対応関係をモデル化したり、複数の脳領域やニューロン集団に分散している情報を解析したりする
- 代表的な方法として、以下などがある
- 刺激から脳活動を予測するエンコーディングモデル
- 脳活動から刺激や行動を推定するデコーディングモデル
- 脳内表現の類似構造を比較する表現類似性解析(RSA)
- 脳領域間の因果的な結合モデルを推定するDCM
- 高次元の神経活動を低次元の状態空間として捉えるニューラルマニフォールド解析
- 脳計測解析は、脳活動を「観測する」だけでなく、そこに含まれる情報表現やネットワーク構造をモデルとして読み解くための方法論と位置づけられる
7.2.2 主な解析法
-
エンコーディングモデル/デコーディングモデル
-
エンコーディングモデル
- 刺激や行動などの外部変数から、脳活動がどのように変化するかを予測するモデル
- 例えば画像の特徴から視覚野の活動を予測することで、脳が刺激のどの特徴を表現しているのかを調べる
- 刺激や行動などの外部変数から、脳活動がどのように変化するかを予測するモデル
- 一方、デコーディングモデルは、脳活動から刺激、行動、知覚内容、運動意図などを推定する
- 両者を組み合わせることで、「外界の情報が脳内でどう表現され、それを脳活動からどこまで読み取れるか」 を調べることができる
-
エンコーディングモデル
-
表現類似性解析(Representational Similarity Analysis: RSA)
- 刺激や条件ごとの脳活動パターン同士の類似度を比較し、脳内に形成されている表現の構造を調べる方法
- 例えば、脳活動における画像同士の類似関係と、人工ニューラルネットワークの内部表現における類似関係を比較することで、脳とAIがどの程度似た表現構造を持つかを評価できる
- 刺激や条件ごとの脳活動パターン同士の類似度を比較し、脳内に形成されている表現の構造を調べる方法
-
動的因果モデリング(Dynamic Causal Modeling: DCM)
- 複数の脳領域がどのように影響し合って活動を生み出しているかを、生成モデルを用いて推定する方法
- 単純な相関としての機能的結合ではなく、どの領域からどの領域へ、どの程度の影響が及んでいるかという有効結合をモデル化する点が特徴
-
ニューラルマニフォールド解析(Neural Manifold Analysis)
- 多数のニューロンから得られる高次元な活動データが、実際にはより低次元の構造や軌道上に制約されていると考え、その構造を抽出する解析方法
- 運動や意思決定などの際に、神経集団の活動が低次元の状態空間上でどのように変化するかを調べることで、個々のニューロンではなく神経集団全体の情報処理構造を理解しようとする
7.2.3 AIとの接点
- 脳計測解析は、AIが解析手法として使われるだけでなく、脳とAIの内部表現を比較する研究でも重要な役割を持つ
- エンコーディングやデコーディングでは、機械学習や深層学習を用いて、刺激から脳活動を予測したり、脳活動から知覚内容や行動を推定したりする
- 特にデコーディングは、BMI / BCIや脳情報の読み取りとも直接つながる
- またRSAでは、人間の脳活動と画像認識モデルや言語モデルの内部表現を同じ「表現空間」として比較できるため、AIモデルが人間の脳とどの程度似た情報表現を獲得しているかを調べることができる
- ニューラルマニフォールド解析も、AIの潜在表現や低次元表現、状態空間モデルと共通する考え方を持っている
- この分野ではAIは単なる応用先ではなく、脳活動を解読する道具であると同時に、脳の情報表現を比較・理解するためのモデルとしても利用されている
7.3 脳介入
7.3.1 脳介入とは
- 脳介入は、脳活動を観測するだけでなく、刺激や操作によって特定の神経活動を変化させ、その結果として認知や行動がどう変わるかを調べるアプローチ
- 脳画像や脳波から得られる相関だけでは、「ある脳領域が活動したからその機能が生じたのか」を判断できない
- そこで、電気刺激、磁気刺激、光刺激などを用いて神経活動へ直接働きかけ、介入前後の変化を比較することで、脳機能の因果関係を検証する
- 代表的な考え方として、以下などがある
- 神経活動を操作して因果効果を調べる因果摂動アプローチ
- 脳状態を計測しながら刺激をリアルタイムに調整する閉ループ脳刺激
- 一時的に特定領域の機能を低下させてその役割を調べる仮想病変アプローチ
- 脳介入は、「どこが活動しているか」から一歩進んで、「そこを変えると何が起こるか」を調べるための方法論
7.3.2 主なアプローチ
-
因果摂動アプローチ(Causal Perturbation Approach)
- 特定のニューロン、神経回路、脳領域の活動を意図的に変化させ、その結果として認知や行動がどう変わるかを調べる方法
- 例えば、TMS、電気刺激、深部脳刺激、動物研究での光遺伝学などを用いて神経活動を操作し、介入の前後を比較する
- 単なる相関ではなく、神経活動と機能の因果関係を直接検証できる点が特徴
- 特定のニューロン、神経回路、脳領域の活動を意図的に変化させ、その結果として認知や行動がどう変わるかを調べる方法
-
閉ループ脳刺激(Closed-loop Brain Stimulation)
- 脳活動をリアルタイムに計測し、その状態に応じて刺激のタイミングや強度を自動的に調整する方法
- あらかじめ決めた刺激を一方的に与えるのではなく、「計測 → 状態推定 → 刺激 → 再計測」 というフィードバックループを形成する
- これにより、個人やその瞬間の脳状態に応じた介入が可能になる
-
仮想病変アプローチ(Virtual Lesion Approach)
- TMSなどによって特定の脳領域の機能を一時的に妨げ、そのとき認知課題や行動にどのような変化が起こるかを調べる方法
- 脳損傷患者を対象とした研究と似た発想ですが、介入する部位やタイミングを実験的に制御でき、影響も一時的
- そのため、特定の脳領域がある機能にどの程度必要なのかを検証する手段として利用される
7.3.3 AIとの接点
- 脳介入とAIの接点は、特に脳状態の推定、介入の最適化、閉ループ制御にある
- 脳活動は時間とともに変化するため、同じ刺激でも脳の状態によって効果が異なる場合がある
- そこでAIや機械学習を用いて脳信号から現在の状態を推定し、その結果に応じて刺激条件をリアルタイムに変更することで、より適応的な閉ループ脳刺激が可能になる
- また、どこを、いつ、どの強さで刺激すれば目的の変化が得られるかという問題は、制御、最適化、強化学習、ベイズ最適化などのAI技術と相性がある
- さらに脳介入はAI研究にとって、脳活動と認知機能の関係を単なる相関ではなく、介入によって因果的に検証するための手段にもなる
- 脳のどの活動パターンが実際に機能へ寄与しているのかを検証できれば、脳を参考にしたAIモデルの妥当性を評価する際にも役立つ
- この分野ではAIは、脳を解析するだけでなく、脳への介入を適応的に制御する技術として使われる
7.4 BMI / BCI
7.4.1 BMI / BCIとは
-
BMI(Brain-Machine Interface)/ BCI(Brain-Computer Interface) は、脳活動を計測し、その信号からユーザーの意図や状態を推定して、コンピュータやロボットなどの外部機器を制御する技術
- 例えば、運動野の神経活動から手の動きやカーソルの移動方向を推定したり、脳波から選択意図を読み取ったりして、身体を介さずに外部システムへ情報を伝える
- BMI / BCIでは、単に脳信号を読み取るだけでなく、ユーザーが装置の使い方を学び、同時にデコーダ側もユーザーの脳活動に適応していく双方向の学習が重要になる
- この分野は、脳の信号を外部世界への新しい入出力チャネルとして利用する技術と捉えることができる
7.4.2 主な技術・概念
-
カルマンフィルタ(Kalman Filter)
- 時間とともに変化する状態を、ノイズを含む観測データから逐次推定するアルゴリズム
- BMIでは、神経活動から手やカーソルの位置・速度などの連続的な運動状態を推定するために用いられてきた
- 過去の状態と現在の観測を組み合わせながら推定を更新できるため、時系列的に変化する運動意図を滑らかにデコードするのに適している
-
共同適応(Co-adaptation)
- BMIを使用する人間とデコーダが、互いに適応しながら性能を向上させていくという考え方
- ユーザーはフィードバックを受けながら脳活動の出し方を学習し、一方でデコーダもその変化した神経活動に合わせてパラメータを更新する
- そのためBMIは、単なる「脳信号を読み取る装置」ではなく、人間と機械が一つの閉ループ系として学習するシステムと捉えられる
-
BMIデコーダ適応(BMI Decoder Adaptation)
- 時間とともに変化する神経活動に合わせて、デコーダ側のモデルやパラメータを継続的に更新する仕組み
- 神経信号は日やセッションによって変動するため、最初に学習した固定デコーダだけでは性能が低下することがある
- そこでオンライン学習などを利用し、現在の神経活動に合わせてデコードモデルを適応させることで安定した制御を目指す
-
ニューラルマニフォールド(Neural Manifold)
- 多数のニューロンの高次元な活動が、実際にはより低次元の部分空間上に制約されているという考え方
- BMIでは、この低次元構造を利用することで、神経活動から運動意図を効率的に読み取ったり、学習によって神経活動がどのように再編成されるかを解析したりできる
- 特に、デコーダが既存のニューラルマニフォールドと整合するかどうかによって、ユーザーがBMI操作をどれだけ容易に学習できるかが変わるという研究につながっている
7.4.3 AIとの接点
- BMI / BCIは、AIが脳信号を外部機器の制御へ変換する中心的な計算技術として直接利用される分野
- 脳活動から運動意図や選択内容を読み取るデコーダには、カルマンフィルタのような状態推定法に加え、機械学習や深層学習が使われる
- 近年では、複雑な神経信号から運動、文字、音声などを高精度に復元するために、大規模なニューラルネットワークも利用されている
- またBMIでは、神経活動そのものが使用経験によって変化するため、AI側も固定されたモデルではなく、ユーザーとともに継続的に適応する学習システムであることが重要
- この点で、オンライン学習、継続学習、強化学習、閉ループ制御などと強く接続する
- さらにニューラルマニフォールド研究は、脳活動を高次元な信号の集合ではなく、低次元の潜在状態として捉えるため、AIにおける表現学習や潜在状態モデルとも共通する考え方を持つ
- BMI / BCIは、AIを単なる解析道具としてではなく、人間の脳とリアルタイムに相互作用し、互いに適応する知的システムとして利用する代表的な分野
8 AI x 脳
番外として「脳 x AI」の架け橋となるような研究分野を取り上げる。
| 書名 | 内容 |
|---|---|
神経回路網の数理 ――脳の情報処理様式
|
読み進め中
|
意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く
|
|
ロボットに心は生まれるか 自己組織化する動的現象としての行動・シンボル・意識
|
|
深層学習 Goodfellow
|
|
9 最近の研究・検証・論争
AIに関連する最近の脳科学の研究・検証・論争をいくつか取り上げます。
9.1 統合情報理論 v.s. グローバルニューロナルワークスペース
概要
意識の有力理論IITとGNWTを、同じ実験によって直接検証した大規模な「敵対的共同研究」
- 意識研究では、統合情報理論(IIT) とグローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(GNWT) が代表的な理論として議論されている
- IITは意識の内容に後頭部を中心とした大脳皮質後方領域が重要だと考えるのに対し
- GNWTは情報が前頭前野を含む広い脳領域へ一斉に共有される「グローバルな放送(global broadcasting)」を重視する
- 2025年にNatureで発表された研究では、両理論の研究者と中立的な研究チームが協力し、それぞれの理論がどのような脳活動を予測するのかを実験前に明確化したうえで直接比較している
- 256人を対象に、fMRI、MEG、頭蓋内EEGという複数の計測方法を用いて、意識的に見えている情報が脳のどこに表現され、どのように維持・伝達されるかを調べている
- 結果は、一方の理論が明確に勝利するものではなかった
- IITが予測した後方皮質内の持続的な同期は十分に確認されず
- 一方GNWTについても、刺激の終了時に予測されていた前頭前野の明確な「イグニッション」が一般には確認されなかった
- 両理論を支持する結果が一部得られた一方で、それぞれの重要な予測も同時に揺さぶられた
考察
- この研究が興味深いのは、どちらの理論が「正しいか」ということよりも、研究者が自説に都合のよい実験を行うのではなく、競合理論が異なる予測をする条件をあらかじめ決め、それを同じデータで検証するという方法を採用した点
- 意識のように複数の理論が長く競合している研究領域で、理論をどのように科学的に比較・更新していくかという点でも重要な研究といえる
9.2 「ベイズ脳仮説は本当に脳のメカニズムなのか?」ベイズ脳仮説 vs 非ベイズ的アプローチ
概要
ベイズ脳仮説は、本当に脳の仕組みを説明する理論なのか――数学的なモデルと生物学的メカニズムの間をめぐる論争
- ベイズ脳仮説は、脳が事前知識と感覚情報を組み合わせ、ベイズ推論に似た方法で世界の状態を推定していると考える有力な枠組み
- 知覚だけでなく、運動、学習、意思決定、予測処理、自由エネルギー原理などにも影響を与え、現代の計算論的神経科学を代表する考え方の一つとなっている
- 一方、2025年にMadhur Mangalamが発表したレビュー論文 The myth of the Bayesian brain は、この枠組みに対して強い批判を提示している
- ベイズモデルは多様な実験結果を説明できる反面、事後的に事前分布やモデルを調整することで多くの結果に適合できてしまい、何が起これば理論が否定されるのかが不明確になりやすいと指摘している
- また、脳が実際に確率分布や精度をどのような神経回路によって表現・計算しているのかという、生物学的な実装についても十分な説明が必要だと論じている
- 論文では代替的な考え方として、ダイナミカルシステム理論、身体化認知、生態心理学などが挙げられている
- これらは、脳の内部で確率的推論を行うことを出発点とせず、脳・身体・環境の動的な相互作用から認知や行動を説明しようとするもの
考察
- ただし、この論文によってベイズ脳仮説が否定されたわけではない
- むしろ重要なのは、行動がベイズモデルでうまく説明できることと、脳が実際にベイズ計算を行っていることは同じではないという問題
- 計算モデルとしての有用性と、生物学的なメカニズムとしての妥当性をどこまで区別すべきか――現在の計算論的神経科学における重要な論点の一つとなっている









































