はじめに:本を読みながら、別の本の話が頭に浮かんだ
内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を読み返していて、第2章のある一行で手が止まった。
要素そのものには値打ちがなく、要素同士の関係の網目だけが値打ちを生む――このタイプの説明が、二〇世紀に入ってあらゆる領域を席巻することになります。それが「構造」ということばの中身です。
読んだ瞬間に、まったく別の本の一行が重なった。ドネラ・H・メドウズ『世界はシステムで動く』の中核命題だ。
システムの挙動は、外から加わる力ではなく、そのシステム自身の構造が生み出している。
一方は一九一〇年ごろのジュネーヴの言語学教室から始まった話で、他方は二〇世紀半ばのMITの工学系研究室から始まった話だ。参考文献はほとんど重ならない。それなのに、言っていることは、ほとんど同じに見える。
この違和感が、今回の出発点だった。
結論から先に書いておく。両者は「個々のものではなく関係を見る」という一点で確かに同じことを言っている。しかし、そのあとで見ようとしているものが違う。構造主義は「どこに切れ目が入っているか」を問い、システム思考は「切れ目のあいだで何が回っているか」を問う。
そして、この違いは実務的にかなり効く。私は普段、金融プロダクトの設計・開発と、社内の統制まわりの仕事を兼務している。どちらの仕事でも「なぜこの問題が繰り返し起きるのか」を考えることになるのだが、この二つの思考法は、使いどころも、使う順番も違う。雑に混ぜると、どちらの切れ味も失われる。
今回は、その整理をしてみたい。かなり長くなる。
第1部 なぜ、こんなに似て見えるのか
1-1. 構造主義の出発点:意味は「中身」ではなく「境界線」にある
構造主義の核にあるのは、フェルディナン・ド・ソシュール(一八五七〜一九一三)の言語学だ。本書がその核心として挙げているのは、たった一つの命題だ。
ことばとは「ものの名前」ではない。
これは直感に反する。私たちはふつう、まず世界に「もの」があり、人間があとから名札を貼っていったと考える。本書はこれを『創世記』のアダムの命名になぞらえ、ソシュールの用語で「名称目録的言語観」と呼んでいる。世界はカタログであり、言語はその索引である、という考え方だ。
ソシュールは、これをひっくり返した。彼が挙げた例は、羊である。
- フランス語の mouton は、生きた羊も、食卓に出る羊肉も、両方を指す
- 英語では sheep(生きた羊)と mutton(羊肉)に分かれている
- したがって mouton と sheep は「同じ意味」ではない。意味の幅が違う
- なぜ幅が違うかというと、sheep の隣には mutton という語があり、mouton の隣にはそれがないから
つまり、ある語の意味は、その語の中身にあるのではなく、隣の語との境界線によって決まる。ソシュールの言い方では、こうなる。
ある概念の特性とは、「他の概念ではない」ということに他ならない。
本書はこの「意味の幅」をソシュールの用語で「価値(valeur)」と呼び、身近な例をいくつも並べている。私が一番腑に落ちたのは、日本語の「そら」と漢語の「天」の対比だった。「そら」は見上げれば見える物理的な空間だが、「天」は運命を主宰する主体であり、だからこそ「天が味方した」と言える。同じ空を指しているようで、背負っている世界観がまるで違う。
そしてソシュールは、言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えることではなく、星雲状の未分節な世界に人為的に切れ目を入れる作業そのものだと考えた。本書はこれを、星座の比喩で説明している。黒い空に散らばる無数の星のうち、どれとどれを結ぶかは見る人の自由だ。しかし、ある結び方を覚えた人には、そこに「熊」や「白鳥」がありありと見える。結び方を知らない人には、見えない。
ここまでが構造主義の第一歩である。関係のネットワークが先にあり、「もの」はその効果として、あとから立ち上がる。
1-2. システム思考の出発点:要素を替えても何も変わらない
では、システム思考のほうはどうか。
メドウズはシステムを「要素・相互のつながり・機能または目的」の三つで定義したうえで、有名な思考実験を提示している。要約すると、こうだ。
| 何を入れ替えるか | 何が起きるか | 見えやすさ |
|---|---|---|
| 要素(人・部品・メンバー) | たいして変わらない | もっとも見えやすい |
| つながり(情報の流れ・ルール) | 劇的に変わる | 見えにくい |
| 目的(何を最大化しているか) | 根底から変わる | もっとも見えにくい |
サッカーチームの選手を全員入れ替えても、それは依然としてサッカーチームである。しかしルール(つながり)を変えればバスケットボールになり、目的を「勝つこと」から「負けること」に変えれば、まったく別の何かになる。
これはソシュールの羊の話と、構造的にまったく同じことを言っている。要素そのものには値打ちがなく、要素間の関係が値打ちを生む。 私が読んでいて手が止まったのは、この一致のためだった。
1-3. 二つの命題を並べてみる
並べると、対応関係がはっきりする。
| 論点 | 構造主義(ソシュール) | システム思考(メドウズ) |
|---|---|---|
| 分析の最小単位 | 項ではなく、項のあいだの差異 | 要素ではなく、要素間のつながり |
| 「もの」の地位 | 分節の効果として事後的に生じる | システムの目的に従属する部品 |
| 見えやすいもの | 個々の語彙 | 個々の要素 |
| 見えにくく、かつ本質的なもの | 差異の体系(ラング) | つながりと目的 |
| 素朴な誤りとされるもの | 名称目録的言語観 | 「担当者が悪い」という犯人探し |
| 一言でいうと | 意味は関係が生む | 挙動は構造が生む |
右の列と左の列は、驚くほどきれいに対応する。
1-4. 四銃士を、システム思考の語彙で読み替えてみる
対応しているのはソシュールとメドウズだけではない。本書が扱う「構造主義の四銃士」——フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン——の仕事を、システム思考の語彙に置き換えてみると、対応するものとしないものがきれいに分かれる。これは私の勝手な読み替えなので、そのつもりで見てほしい。
| 思想家 | 本書による要約 | システム思考の語彙で言うと | ただし対応しないところ |
|---|---|---|---|
| マルクス | 私が何ものかは、私が作ったものを見て事後的に分かる | 出力が入力を規定する自己言及ループ | 定量化も時間追跡もしない |
| フーコー | あらゆる制度には誕生日がある | 経路依存性。いまの構造は無数の分岐の結果 | 分岐を確率として扱わない |
| バルト | 語法を選んだ瞬間から、語法が私を選び返す | ロックイン。典型的な自己強化型ループ | ループが何周するかを追わない |
| レヴィ=ストロース | 感情は構造の効果である | 一般交換という閉じたバランス型ループ | ストックの蓄積を見ない |
| ラカン | 「私」の起源は「私」の外にある | 外部参照によって初期値が決まる系 | そもそも定量的な系ではない |
このうち、ロラン・バルトの「エクリチュール」は、読み替えてみて自分でも驚いた。ほとんど教科書的なロックインの構造をしているのである。
本書の説明はこうだ。私たちのことばづかいを縛るものは三つある。ラング(国語)は外側からの規制で、選べない。スティル(個人の語感)は内側からの規制で、これも選べない。しかし第三のエクリチュール(集団的に共有された語法)だけは、選べる。中学生が一人称を「ぼく」から「おれ」に変えるように。
ところが、選んだ瞬間に事態が反転する。
エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている。
本書はその波及を具体的に書いている。一人称を変えると、発声も語彙もイントネーションも変わる。それどころか髪型、服装、嗜好品、生活習慣、身体の使い方までが、その一人称にふさわしいものへと統制される圧力がかかる。「熊ちゃんのパジャマ」を着て寝るわけにはいかなくなる、と。
図にすると、これはきれいな輪になる。
選択の自由は一回きりで、そのあとは強化され続ける。これは、システム思考で「成功は成功に集まる」と呼ばれる原型と同じ形をしている。
さらに面白いのは、バルトが生涯かけて探した「零度のエクリチュール」——いかなる語法にも属さない、まっしろな書き方——が、なぜ必ず失敗するかの説明だ。本書はその過程を五段階に整理している。
| 段階 | 何が起きるか | 例 |
|---|---|---|
| 発見 | ある書き手が既成の語法から逃れる書き方を見つける | カミュ『異邦人』の乾いた文体 |
| 命名 | 批評がそれを「白い文体」として言祝ぐ | バルトによる絶賛 |
| 模倣 | 他の書き手がそれを「正しい書き方」として採用する | カミュ風に書く作家たちの登場 |
| 制度化 | もはや無徴候的ではなく、一つのエクリチュールになる | 「あの手の書き方」として類型化 |
| 再出発 | 誰かがまた、そこから逃れる書き方を探す | 次の零度の探求が始まる |
本書はこれを一行でまとめている。「零度は、それが零度だと気づかれた瞬間に零度でなくなる」。
これは、システム思考の教科書に「システム原型」として載っていてもおかしくない構造である。逃れようとする行為そのものが、逃れる先を制度化してしまう。 プロダクトの世界でも、差別化のための施策が業界標準になって差別化でなくなる、という形で毎年のように観測できる。
ただし——ここが大事なのだが——バルトはこの輪が「何年で一周するのか」「模倣者が何人を超えると制度化するのか」を問わなかった。輪の形は見えていたが、輪の回転速度は見ていない。 構造主義とシステム思考の違いは、こういうところに表れる。
1-5. 共通の敵は「犯人探し」である
両者が似て見える最大の理由は、同じものを敵にしているからだと私は思う。その敵とは、素朴な要素還元主義である。
会社で売上が落ちたとき、私たちはつい「営業担当の能力が低い」と考える。システムがうまく動かないとき、「あの人の判断が悪かった」と考える。人間の思考はデフォルトで、原因を個体に帰属させるようにできている。
構造主義もシステム思考も、この癖を正面から否定する。
- 構造主義:あなたが「自分で考えた」と思っていることは、あなたが考えたことではない
- システム思考:この挙動は誰かのミスではなく、この構造なら誰がやってもこうなる
本書の「あとがき」で、内田は六章分の議論をたった一文に圧縮している。
どれも同じ文の言い換えです。すなわち――中心は、ない。
メドウズがシステム原型(同じ失敗の型)を列挙したのも、結局は同じ趣旨だ。個人を責めても挙動は変わらない。構造を変えたときにだけ変わる。
ここまでは、両者はほぼ同じ思想だと言ってよい。問題は、このあとである。
第2部 では、どこが違うのか
2-1. 決定的な違いは「時間」の扱い
いちばん大きな違いは、時間をどう扱うかにある。
古典的な構造主義、とくにソシュールの言語学は、強く共時的(synchronic) な分析を志向する。「この仕組みは歴史的にどう変わってきたか」よりも先に、「いまこの瞬間、このシステムはどんな関係によって成り立っているか」を調べる。時間を止めて、断面を見るのである。
システム思考、とくにシステムダイナミクスは正反対だ。時間こそが主役になる。メドウズが道具立てとして挙げるのは、次の四つだけだと言ってよい。
- ストック:時間の経過とともに蓄積された量。システムの中で唯一、見て測れるもの
- フロー:ストックを増やしたり減らしたりする流れ。操作できるのはこちらだけ
- 自己強化型ループ:変化がさらに変化を呼び、同じ方向に加速する回路
- バランス型ループ:ずれを検知して、元に戻そうとする回路
ここに「遅れ(ディレイ)」が加わる。信頼が形成されるまでに時間がかかる、規制対応に時間がかかる、評判の悪化が数字に出るまで時間がかかる。この遅れこそが、システムが人間の直感を裏切る最大の理由である。
覚え方としては、こう整理すると分かりやすい。
構造主義は、構造のスナップショットを読むのが得意である。
システム思考は、構造が生み出す動画を読むのが得意である。
2-2. 「構造」という同じ語が、違うものを指している
ここが、じつは一番まぎらわしいところだ。両者とも「構造(structure)」という語を使う。しかし中身が違う。
構造主義における構造とは、意味が成立するための条件である。「なぜこの社会では、これがこういう意味になるのか」を説明する。
システムダイナミクスにおける構造とは、振る舞いを生み出す原因である。「なぜこのシステムは、放っておくといつもこうなるのか」を説明する。
前者が答えるのは「なぜこれはこういう意味なのか」。後者が答えるのは「なぜこれはいつもこうなるのか」。問うている動詞が違う。
2-3. 目的が違う:解釈するのか、介入するのか
もう一つ、実務的にはこれが一番大きいと思っている違いがある。システム思考には、はじめから「介入」の意志がある。
メドウズの本の最大の見せ場は、「レバレッジ・ポイント」の十二段階だ。システムのどこを押せば、もっとも大きな変化が起きるのかを序列化している。そして彼女の結論は、効き目の大きいレバレッジほど直感に反し、そして抵抗が強い、というものだった。パラメータをいじるのは効き目が小さく、目的やパラダイムを変えるのは効き目が絶大だが、誰も触りたがらない。
構造主義には、この種の「どこを押すか」という問いが、原則としてない。フーコーが監獄の誕生を記述したのは、監獄を改良するためではなかった。記述すること、それ自体が仕事だった。
もっとも、これを構造主義の弱点として片づけるのは早計だ。本書自身がその危うさに釘を刺している。
構造主義が言うのは「どの視点も等しく正しい」ということではありません。「どの視点も、それが成立している条件から自由ではない」ということです。この二つはまったく違います。前者は判断の停止を導きますが、後者はむしろ判断のやり直しを要求します。
構造主義は判断停止の免罪符ではなく、これまで免除されていた宿題が新たに課されたということだ、と内田は書いている。ここは何度読んでも効く。
2-4. 一覧で比較する
論点を全部並べると、こうなる。
| 観点 | 構造主義 | システム思考 |
|---|---|---|
| 基本単位 | 差異・対立・規則 | 要素・因果関係・フィードバック |
| 中心的な問い | なぜこの意味・制度が成立するのか | なぜこの挙動が繰り返されるのか |
| 関係の性質 | 無向。配置と差異 | 有向。増減と符号を持つ |
| 時間 | 古典的には共時的分析を重視 | 時間変化が主題そのもの |
| フィードバック | 中心概念ではない | 中心概念 |
| 遅れ | ほぼ扱わない | きわめて重要 |
| 定量モデル | 原則として作らない | ストック&フローで作れる |
| 出力 | 記述と解釈 | 介入点の特定とシミュレーション |
| 得意なこと | 意味を作る見えない構造の発見 | 挙動を作る見えない循環の発見 |
| 典型的な失敗 | 判断停止に堕落する | 図を描いて満足する |
| 代表的な分野 | 言語学・人類学・思想・文化研究 | 生態学・経営・政策・工学・組織 |
最下段から二つめの「典型的な失敗」は、私が両方を実務で使ってみて感じていることなので、原典に書いてあるわけではない。ただ、この二つの失敗は本当によく見る。
2-5. じつは共通している難問:境界をどこに引くか
違いばかり並べたので、逆に「両方が同じ場所でつまずく」点も書いておきたい。それは境界の問題である。
システム思考では、これは「システム境界をどこに引くか」という問題として現れる。ある企業の収益構造を分析するとき、サプライヤーは系の内側か外側か。規制当局は。気候は。境界を広げるほどモデルは正確になるが、同時に扱えなくなる。メドウズがシステムの「驚き」の原因として境界を挙げているのは、境界がモデルの中ではなく分析者の頭の中にあるからだ。世界の側に点線は引かれていない。
構造主義では、これは「分節をどこに入れるか」という問題として現れる。星座の比喩がそのまま当てはまる。どの星とどの星を結ぶかは、見る人の自由である。そして、結び方を変えれば、そこに見えるものが変わる。
同じ問題を、片方は「境界」と呼び、もう片方は「分節」と呼んでいる。
| システム思考 | 構造主義 | |
|---|---|---|
| 呼び名 | システム境界 | 分節・切れ目 |
| 何が問題か | どこまでを系に含めるか | どこに差異の線を入れるか |
| 誰が決めるか | 分析者(自覚的に) | 言語共同体(無自覚に) |
| 間違えるとどうなるか | 外部要因として説明を放棄する | そもそも問題として見えない |
決定的に違うのは「誰が決めるか」の列である。システム思考の境界は、分析者が自覚的に引くものだ。だから「今回はここまでを対象にします」と宣言できる。構造主義の分節は、分析者が生まれる前から引かれている。自覚的に選び直すことは、原理的にできない。
だから構造主義には、自己に跳ね返る厄介さがつきまとう。本書はそれを繰り返し書いている。構造主義を批判しようとしても、その道具は構造主義しかない。フーコーは、権力を批判する言説そのものが権力として機能してしまうことに気づいていた。ループから出られると思っている人は、たいてい自分がループの中にいることに気づいていないだけです、という一行は、耳が痛い。
システム思考にはこの自己言及の刺が弱い。図を描いている自分は、たいてい図の外にいることになっている。私は、ここが実務上いちばん危ないところだと思っている。組織の因果ループ図を描くとき、描いている自分と自分の部署は、まず例外なく図から抜け落ちる。
第3部 「関係を見る」とは、具体的にどういう操作なのか
ここからが本題である。「個々のものではなく関係を見る」というのは、標語としては分かりやすいが、実際に何をすればよいのかは分かりにくい。私なりに、三つの具体的な操作に分解してみたい。
3-1. 練習その1:項を消して、差異だけを残す(構造主義的操作)
まず、ソシュール的な操作である。対象そのものを見るのをやめて、「それが何でないか」だけを書き出す。
たとえば、社内で「この機能はユーザーのためになる」という主張が出たとする。素朴な見方では、その主張の中身を吟味する。構造主義的な見方では、まずそうしない。かわりに、こう問う。
- この文脈で「ユーザー」という語は、何と対立しているか(業務部門? 規制当局? 短期の収益?)
- 「ためになる」は、何と対立しているか(儲かる? 楽になる? 訴訟されない?)
- この語を使えるのは誰で、使えないのは誰か
やってみると分かるが、同じ「ユーザーのため」という語が、部署ごとにまったく違う対立軸の上に乗っていることがある。プロダクト側の「ユーザーのため」は「業務効率のため」の対義語として使われ、コンプライアンス側の「ユーザーのため」は「短期収益のため」の対義語として使われている。語は同じなのに、隣に置かれている語が違うので、意味の幅が違う。 mouton と sheep の関係と、まったく同じ構造である。
この操作の効用は、議論が噛み合わない理由が一発で見えることだ。二人は同じ語を使っているが、違う差異の体系の上で使っている。だから、いくら誠実に議論しても交わらない。
3-2. 練習その2:矢印に向きと符号をつける(システム思考的操作)
次に、システム思考的な操作である。構造主義が描くのは、線でつながれた関係図だ。システム思考はそこに向きと符号と遅れを書き加える。
言葉で説明するより、図で見たほうが早い。まず、構造主義的な関係図はこうなる。
線はつながっているが、どちらがどちらを動かすのかは書かれていない。これでも「これらは無関係ではない」ことは分かる。しかし、次に何が起きるかは分からない。
システム思考は、ここに情報を足す。
上の三つの矢印は自己強化型ループで、成長を加速させる。下の三つはバランス型ループで、成長にブレーキをかける。そして「遅れて」と書いた箇所が肝心だ。サポート負荷が積み上がってから評判に出るまでには時間差がある。この時間差があるせいで、私たちは「まだ大丈夫」と判断を誤る。
矢印に向きと符号と遅れを入れるだけで、同じ関係図から読み取れる情報量が段違いになる。これがシステム思考の付加価値である。
3-3. 練習その3:輪を閉じる — 構造主義が描いた唯一の因果ループ図
さて、ここからが今回いちばん面白かったところだ。
本書の第5章は、クロード・レヴィ=ストロース(一九〇八〜二〇〇九)の贈与論を扱っている。彼がマルセル・モースから受け継いだ「反対給付」の議論である。
人は何かを贈られると、心理的な負債感を持ち、返礼せずにはいられない。この「お返しをせずにいられない気分」は、夫婦愛や父性愛を知らない集団にさえ観察される、人類にほぼ普遍的な現象だという。
ここまでは有名な話だ。私が驚いたのは、レヴィ=ストロースがそこに見出した形のほうだった。
パートナーたちは、自分が贈った相手からは返礼を受け取らず、自分が贈られた相手には返礼をしない。あるパートナーに贈り、別のパートナーから受け取るのである。これは相互性のサイクルであるが、一つの方向に流れている。
図にすると、こうなる。
本書はこの図の意味を、こう説明している。
AはBに返さない。にもかかわらず、輪が閉じているので、全体としては均衡が回復されます。二者間の帳尻は永遠に合わないが、社会全体の帳尻は合う。(中略)二人でやりとりするだけなら、いつでも「もうやめた」と抜けられます。しかし輪の中では、抜ければ輪が切れる。だから抜けられない。
これは、私の見るかぎり、構造主義の文献に登場するもっとも「因果ループ図」に近いものである。向きがあり、輪が閉じており、しかも「全体としての均衡回復」という機能を持っている。システム思考の語彙で言えば、これはバランス型ループそのものだ。
さらに面白いのは、この章にはもう一つ、動的な命題が書かれていることだ。
人間の作り出すすべての社会システムは、それが「同一状態にとどまらないように構造化されている」
そしてレヴィ=ストロースは、社会を二種類に分けた。絶えず新しい状態を作り出す社会を「熱い社会」、いくつかの状態がぐるぐる循環するだけの無時間的な社会を「冷たい社会」と呼んだ。どちらも「変化」を確保している点では同じだが、変化の形が違う。
ここで私が思ったことを書いておく。これは本書にもレヴィ=ストロースにも書かれていない、私の勝手な読み替えである。
「冷たい社会」はバランス型ループが支配する系であり、「熱い社会」は自己強化型ループが支配する系ではないか。
冷たい社会は、贈与と返礼で均衡を回復し続け、定常状態を維持する。熱い社会は、成長が成長を呼び、状態が戻らない。これはメドウズの言う二種類のフィードバックの区別と、ほとんど同じ切り分けに見える。
つまり、構造主義はループを描くところまでは来ていた。しかし、そこから先に進まなかった。その輪が何周したらどうなるのか、遅れが入るとどうずれるのか、ストックはどこに溜まるのか——それを追いかけなかった。
ここが、二つの思考法の分岐点だと私は考えている。
3-4. まとめ:構造主義は「変数の定義」、システム思考は「変数の運動」
三つの練習を振り返ると、役割分担がはっきりする。
因果ループ図を描くとき、私たちは箱の中に変数名を書く。「利用者数」「サポート負荷」「信頼」。そして矢印を引く。
しかし、ここで暗黙の前提が一つ置かれている。その箱の名前が、正しく世界を切り分けているという前提である。
「利用者」という箱は、誰を含み、誰を含まないのか。休眠顧客は? 法人の担当者は? 家族の口座を管理している人は? 「サポート負荷」は、電話の件数なのか、対応の難易度なのか、担当者の消耗なのか。
システム思考の因果ループ図は、変数リストが正しいことを前提にして動く。その前提を疑うのが、構造主義である。 これが、今回いちばん腑に落ちた整理だった。
| 担当する問い | 失敗するとどうなるか | |
|---|---|---|
| 構造主義 | 箱の名前は誰がどう切ったのか | 分析が永遠に始まらない |
| システム思考 | 箱と箱のあいだで何が回るのか | 間違った箱で精密なモデルを作る |
二つめの失敗は、実務では本当に高くつく。丁寧に作られたモデルほど、その変数定義の恣意性は疑われなくなる。
第4部 歴史的には、別の川である
ここで一つ、誤解のないように押さえておきたい。この二つは、似ているからといって同じ源流から生まれたわけではない。
4-1. 二本の川
系譜を並べると、こうなる。
左の川の源流には言語学があり、右の川の源流には理論生物学と通信工学がある。
- ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ(一九〇一〜一九七二)は理論生物学者で、生命は部品の総和では説明できない「組織された全体」だと考えた。生物を外界と物質・エネルギーをやりとりし続ける開放系として捉え、そこから分野を越えた一般原理を探そうとした。その運動は、経済学者ケネス・ボールディングらとともに学際的な学会組織へ育っていく(Bertalanffy Center for the Study of Systems Science)
- ノーバート・ウィーナーが一九四八年の『サイバネティクス』で体系化したのは、制御と通信の理論だった。中心概念はフィードバック。エアコンが室温のずれを検知して出力を変えるあの仕組みである
- ジェイ・フォレスターがMITで発展させたシステムダイナミクスは、そこにストックとフローと遅れを加え、時間軸上のシミュレーションを可能にした(System Dynamics Society)
この二本の川は、少なくとも二〇世紀半ばまで、ほとんど交わっていない。構造主義の本にウィーナーは出てこないし、メドウズの本にソシュールは出てこない。
4-2. それでも、なぜ似ているのか
私の理解はこうだ。これは影響関係ではなく、同時多発である。
二〇世紀に入って、いくつもの分野で同時に「個体を見ていても説明がつかない」という行き詰まりが起きた。言語学では語の意味が、生物学では生命が、通信工学では制御が、人類学では慣習が、それぞれ個体レベルの説明を拒んだ。そして各分野が、独立に、同じ方向に舵を切った。関係を見る、という方向である。
本書はこれを思想史の内部から書いているので、そう見えにくい。しかし本書自身が、じつは一つだけ、川が交わった例を示している。第2章のコラムで触れられている、自然言語処理の話だ。
単語は高次元の密ベクトルとして表現され、その値は「どんな語の隣に現れるか」の統計から決まります。(中略)モデルの中に「羊とは白くてもこもこした動物である」という定義書きは存在しません。あるのは「この語はこれらの語の近くに現れ、あれらの語の近くには現れない」という関係の網目だけです。
ソシュールが「概念は示差的である」と言ったその原理で、現に機械が文章を書いている。一九一〇年ごろの仮説が、一世紀後に工学的な実証を受けたわけである。
ただし本書は、ここに冷静な留保も付けている。
言語モデルが示したのは「関係の網目だけで、意味らしきものはかなりの程度まで再現できる」ということであって、「意味は関係の網目に尽きる」ということではありません。
この留保は、生成AIを業務に組み込む検討をしている身としては、そのまま持ち帰るべき一文だと思った。関係の網目で再現できることと、それが意味であることは、別である。
4-3. 二本の川が合流した地点:ルーマン
とはいえ、完全に交わらなかったわけではない。社会学には、両方を飲み込んだ人がいる。ニクラス・ルーマンである。
宮台真司・野田智義『経営リーダーのための社会システム論』によれば、社会システム理論はマックス・ウェーバーを出発点に、タルコット・パーソンズが打ち立て、ユルゲン・ハーバーマスが応用展開し、一九六〇年代にハーバーマスに論争を挑んだルーマンによって高度な理論的枠組みへ彫琢された。
この論争の争点が面白い。ハーバーマスは「生活世界」と「システム(市場と行政)」を対立概念として使う。それに対してルーマンは、生活世界もシステムも含めた全体をシステムと呼び、こう論じた。同書から引く。
生活世界もまた、システム世界を含めた全体が与える内部表現だ
内部表現とは「システムが生み出した、システム自身が体験しているビジョン」のことである。同書は、富士山を見ているとき、あなたは富士山を体験しているのではなく、神経システムの作動が与えるビジョンを体験している、と説明する。
これは、構造主義の言っていることと、ほとんど同じである。私たちが見ている世界は、私たちが属するシステムが切り分けた世界だ。しかもルーマンは、それを「システム」という工学由来の語彙で言っている。二本の川が、ここで合流している。
もし構造主義とシステム思考の関係をもう一段深く掘るなら、次に読むべきはルーマンだろう、というのが今回の結論の一つだ。
第5部 実務では、どう使い分けるか
抽象論をここまで書いてきたので、自分の仕事に引き寄せておきたい。
5-1. 順番が大事:構造主義が先、システム思考が後
私の暫定的な結論は、こうだ。
ポイントは最後の点線である。打ち手が外れたとき、モデルの係数を直す前に、変数の切り方に戻る。 これは私が失敗から学んだことでもある。
5-2. 具体例:「解約率が下がらない」という問題
架空だが、よくある形の問題で考えてみる。ある機能の解約率が想定どおり下がらない、という課題が上がってきたとする。
システム思考だけで入ると、こうなる。解約率というストックを置き、流入(新規)と流出(解約)を書き、「使いにくさ → 不満 → 解約」というループを引く。そしてUIの改善にレバレッジがあると結論する。これは、間違ってはいない。
構造主義を先に通すと、別の問いが立つ。
- 「解約」という箱は、何を数えているのか。口座を閉じた人か、残高をゼロにした人か、三か月ログインしていない人か
- この三つはまったく違う現象なのに、一つの語で括られていないか
- 「使いにくさ」は、誰にとっての使いにくさか。それを訴えられる顧客と、訴える手段を持たない顧客がいないか
- そもそも「解約率」という指標は、いつ、誰が、何と対立させるために作ったのか
最後の問いが、フーコーの系譜学の応用にあたる。本書はフーコーの方法を「あらゆる制度には誕生日がある」と要約している。社内の指標にも、誕生日がある。 その指標が生まれたとき、何を見ないことにしたのか。それを調べると、たいてい何か出てくる。
私の経験では、この段階で変数の定義が二つか三つに割れる。そして割れたあとにループ図を描き直すと、最初の図とはまるで違うものになる。遠回りに見えて、これが一番速い。
5-3. 逆に、構造主義を使いすぎると起きること
公平のために、逆方向の失敗も書いておく。
構造主義的な問いは、原理的に終わらない。「その語は誰が決めたのか」と問い続けることは、いくらでもできる。そして、それを続けているかぎり、何も決めなくて済む。会議の場でこれをやると、非常に賢そうに見えるうえに、何も進まない。
これは本書自身が警告していることでもある。構造主義は「何を言ってもいいことの許可証」に堕落しうる、と内田は書いている。実際、そういう使われ方をした時期が長くあった、とも。
だから私は、構造主義的な問いには時間制限をかけるようにしている。変数の切り方を疑うのは最初の一巡だけ。そこで割れた定義を採用して、あとはループ図と打ち手に進む。疑い続けることではなく、疑ったうえで決めることが仕事だからだ。
本書の言い方を借りれば、構造主義が課すのは判断の停止ではなく、判断のやり直しである。やり直したら、決めなければならない。
5-4. もう一つの例:コミュニティが続く仕組み
仕事とは別に、私はフィンテック関連の勉強会やイベントの企画・運営にも関わっている。この領域では、第3部で扱った贈与の議論が、比喩ではなく実務の説明としてそのまま効く。
コミュニティ運営で最初にぶつかる問いは、「なぜ人は、無報酬で登壇してくれるのか」である。素朴な答えは「善意だから」「宣伝になるから」だが、どちらも現場の実感とずれる。善意だけなら続かないし、宣伝目的だけの登壇は聴衆に見抜かれる。
モースとレヴィ=ストロースの枠組みを当てると、別の説明が立つ。贈与には三つの義務がある——与える義務、受け取る義務、返す義務。そして重要なのは、返礼は贈ってくれた当人に返すとは限らない、という点だった。
これは第3部で見た一般交換の図と、同じ形をしている。二者間の帳尻は永遠に合わないが、全体の帳尻は合う。 そして輪の中にいる以上、抜ければ輪が切れる。だから抜けにくい。コミュニティが続く理由は、参加者の善意の総量ではなく、この輪が閉じているかどうかで決まる、というのが私の見立てだ。
ここに構造主義とシステム思考の両方を当てると、運営上の示唆が二つ出てくる。
- 構造主義から:「参加者」という語が何と対立しているかを疑う。登壇者/聴衆、常連/新規、業界人/学生。この切れ目の入れ方が、そのまま誰が輪に入れて誰が入れないかを決めている。とくに「聴くだけの人」を参加者に数えない切り方をすると、受け取る義務を果たす場が消える。受け取る人がいなければ、贈与は成立しない
- システム思考から:輪の一周にかかる時間を見る。聴衆が登壇側に回るまでに何年かかるか。この遅れが長すぎると、輪が閉じる前に運営側が消耗して止まる。だから「小さく速く回る輪」を別に用意する。懇親会での自己紹介、LT枠、イベント後のレポート寄稿。大きな輪の遅れを、小さな輪で埋める
この「大きな輪の遅れを小さな輪で埋める」という発想は、システム思考の言葉なしには出てこなかった。逆に「受け取る義務を果たす場が要る」という発想は、贈与論なしには出てこなかった。二つ揃ってはじめて、運営の設計として使える形になる。
5-5. 生成AIの業務適用では、どちらも要る
もう一つだけ、いま考えていることを書いておく。
生成AIを業務プロセスに組み込む検討をしていると、「どのデータをRAGに入れてよいか」「どこまでをAIに任せてよいか」という線引きの議論に必ずなる。この議論は、どちらの思考法も要求してくる。
- 構造主義が要る場面:「機密情報」「個人情報」「業務データ」という分類が、そもそも誰の都合で切られたものかを疑う。部門ごとに同じ語の指す範囲が違うことは、ほぼ確実に起きている
- システム思考が要る場面:AIを入れたあと、業務の負荷がどこに移動するかを追う。検証の負荷は必ずどこかに溜まる。そのストックが人間の側に溜まって、遅れて破綻する
二つめの点は、システム思考の言葉を借りると「問題を解いたのではなく、問題を移動させた」というパターンにあたる。AI導入の効果測定で見落とされやすいのは、消えた作業ではなく、移動した作業のほうだ。
第6部 二つを一枚につなぐ
ここまでの整理を、一枚の図にまとめておく。
最後に、五つの言葉を並べて覚えておく。
| 呼び名 | 何を探すか |
|---|---|
| 構造主義 | 意味や制度を支えている、見えない関係の文法 |
| 一般システム理論 | 分野を越えて共通する、システムとしての原理 |
| サイバネティクス | 情報とフィードバックによる、自己調整の仕組み |
| システムダイナミクス | ストック・フロー・遅れが生む、時間的な挙動 |
| システム思考 | 個別原因ではなく、関係と循環と時間変化を含む全体 |
そして今回の議論を、一文に圧縮するとこうなる。
構造主義が「世界を形づくっている関係の文法」を読む思考だとすれば、システム思考は「その関係が動き始めたとき、世界がどう振る舞うか」を読む思考である。
おわりに
本書の「あとがき」に、私が一番好きな一節がある。構造主義は「主体の解体」を説く陰気な思想だと言われてきたが、そう読むのは無理がある、として内田はこう書く。
「「中心はない」というのは、「だから寝ていろ」ではありません。「中心を探すのはやめて、結び目を増やせ」ということです。
これは、システム思考にもそのまま当てはまる一文だと思った。「あなたのせいではない、構造のせいだ」は、そこで止まれば単なる免責になる。しかし構造を見たのなら、次は構造に手を入れる番である。メドウズがレバレッジ・ポイントを十二段階に並べたのも、要するに「どの結び目を触るか」を決めるためだった。
明日から一つだけ試すなら、これにしたい。因果ループ図を描く前に、箱の名前を三つ選んで「この語は何と対立しているか」を一行ずつ書き出す。 たぶん、そのうち一つは書けない。書けなかった箱が、その図のいちばん危ない場所である。
参考文献・関連書籍
- 内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書、二〇〇二年 — 今回の出発点。Amazon
- フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』一九一六年 — ただし本人の著書ではなく、講義を聴いた学生のノートを同僚バイイとセシュエが編んだ遺著。一九九六年に自筆草稿が発見され、『一般言語学関連手稿』として二〇〇二年に刊行された
- クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』一九四九年/『野生の思考』一九六二年/『構造人類学』 — 一般交換の環と「熱い社会・冷たい社会」の出典
- ミシェル・フーコー『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』 — 系譜学=「あらゆる制度には誕生日がある」という方法の実演
- ロラン・バルト『エクリチュールの零度』一九五三年/『テクストの快楽』/「作者の死」一九六七年
- ジャック・ラカン「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」一九三六年
- ローマン・ヤコブソン — プラハ学派。亡命先のニューヨークでレヴィ=ストロースに音韻論を伝えた、二本の系譜の結節点
- ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ『一般システム理論』一九六八年 — 開放系と定常状態。関連団体としてBCSSS
- ノーバート・ウィーナー『サイバネティクス』一九四八年 — 制御と通信、フィードバックの体系化
- ジェイ・フォレスター — システムダイナミクスの創始。学会はSystem Dynamics Society
- ピーター・センゲ『学習する組織(The Fifth Discipline)』一九九〇年 — システム思考を組織学習に接続した本。私はまだ通読していないので、今回は参照していない
- 参考:Structuralism / Systems theory、および数学における構造主義の系譜を概観したStanford Encyclopedia of Philosophy