こんにちは、アドビ株式会社研究開発本部で Quality Engineer をやっている@YusukeKikutakeです。
本記事では、アドビの Quality Engineer がアドビ製品のリリースにどのように関わっているのか紹介したいと思います。
私の担当する Adobe Illustrator バージョン 27.0 に搭載された新機能「クロスと重なり」ですが、使ってみましたか? この機能は 2つ以上のオブジェクトを重ねて、従来はアウトラインを取ったり、切り貼りして大変だった作業を、非常に簡単な操作、かつ非破壊で選択範囲の重ね順を変更できる機能になります。今後のリリースでさらなる機能拡張やバグ修正が入ります。引き続きよろしくお願いいたします。
さて、今回は、新機能の命名について書きたいと思います。
アドビの翻訳
アドビでは、ソフトウェアやユーザーガイドといったドキュメントの翻訳は協力会社である翻訳会社が行っています。社内で翻訳対象となるテキストを開発チームが抽出し、翻訳会社に送られ、翻訳者は、翻訳スタイルガイド1、用語集2、翻訳メモリー3を活用し、過去の翻訳と整合性を図りつつ、訳語や表現を統一しながら翻訳作業を行います。翻訳作業が終わると、アドビに戻され、製品ビルドに統合されます。協力会社である翻訳会社に依頼するメリットとして、
- 人件費の節約
- 翻訳の専門家に任せられる
- 多言語や大量の翻訳に対応してもらえる
といったものがあります。翻訳を内製で行っている企業もありますが、翻訳のアウトソーシングはグローバル企業の主流のプロセスになります。
アウトソーシングにより発生する一般的な翻訳問題
次に、一般的に翻訳をアウトソーシングすると、必ずしも翻訳者が製品に詳しいわけではないので、
- 業界では使われない表現で訳出してしまう
- 製品内や関連する製品で用語の翻訳が統一しない
といった問題が発生します。また、翻訳者はソフトウェア翻訳に対して、基本的に原文の英語に対してトランスクリエーション4しません。アドビが提供する翻訳メモリーや翻訳会社内の翻訳メモリーなどを参考に、あくまで一般的な表現を用いて翻訳をします。
以上より、翻訳するためのコンテキスト(文脈)情報を翻訳会社に提供したとしても、原文の英語が日本語に翻訳するとわかりづらくなるような単語が使われたりすると、翻訳会社だけでは適切な翻訳が提供できなくなります。その1つの例が、Illustrator 27.0 の新機能「クロスと重なり」になります。
機能名の命名
「クロスと重なり」は原文が Intertwine になります。
英英辞書の意味は、
to unite by twining one with another
英和辞書の意味は、
〔糸などを〕より合わせる、〔より合わせるようにして~を〕結び付ける
この単語が文章内で使われているならば訳出は難しくありませんが、1 単語で直訳した場合、機能の意味や魅力が適切に伝えられるでしょうか?5
Quality Engineer の介入
ここで、製品テストに参加している私のような Quality Engineer が介入することになります。私の部署の Quality Engineer の作業の1つに翻訳レビューがあります。主なレビュー観点として、
- 製品のエキスパートとしての観点
- 製品内・製品外との翻訳統一を考慮した観点
があります。今回の Intertwine のような機能名の命名に関しては、マーケティングチームなど製品関係者に声をかけ、機能説明をし、どのような翻訳が良いかを検討する場を設けました。
様々な候補があげられる中、最終的に「クロスと重なり」に決定しましたが、Quality Engineer の作業はまだ続きます。
翻訳の修正
名称が決定すると、次はその名称をソフトウェアの翻訳に反映させる必要があります。
社内ツールを使用して、Illustrator で Intertwine という用語が使われている箇所を特定します。Illustrator の UI 上には、他製品にも統合されている共通機能が存在するため、実際は Illustrator だけではなく共通機能や翻訳リソースが別になっている他プロジェクトの翻訳も修正が必要になります。場所が特定できたらバグ管理システムに変更情報を記載して、修正作業を行います。修正作業の詳細は省きますが、翻訳変更はとても簡単にソースレポジトリにコミットされます。作業はすべて英語で行います。
修正の確認
修正が終わりました。次は実際の開発ビルドに修正が取り込まれているかを確認します。製品によりますが、Illustrator では毎日ビルドが作られているため、問題なければ次の日には修正が確認できます。確認作業は協力会社が行うプロジェクトもあれば、バグを起票した本人が行うこともあります。確認作業では開発ビルドをインストールして、実際の UI 上で変更後の翻訳が、文字欠けといった表示上の問題がなく正常に表示されていることを macOS と Windows で確認します。問題なければバグ管理システムにテスト結果を記入して、バグチケットをクローズします。
通常はここまでの作業ですが、まだ続きます。
用語集の登録
今回既存の翻訳を変更しましたが、翻訳中だったり、これから新しく追加されるテキストやドキュメントに対して同じ翻訳が適用されるとは限りません。翻訳ぶれを避けるために、用語集2の登録という作業を行います。Illustrator では 原文 Intertwine の日本語対訳は「クロスと重なり」になりますよといった情報を用語登録すると、翻訳者が翻訳支援ツールで翻訳する際に、更新された用語集を適切に参照することで、「クロスと重なり」という翻訳が確定されます。実際は、翻訳者が適切に用語集を参照せず、訳ぶれさせてしまうことはありますが、翻訳不一致の問題やその修正コストを削減するために用語集の登録を行います。
まとめ
以上、私が Illustrator 27.0 で Quality Engineer として行った作業の 1 つを紹介しました。
私の所属するアドビ株式会社研究開発本部では、そのほかにも日本語ロケールの製品テストや、先日公開されたばかりの「InDesign で修正された日本語翻訳」のページ公開といった取り組みも主体的に行っております。今後、実施しているさまざまな Quality Engineer の作業やテスト改善業務をブログで紹介したいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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スタイルガイドとは表記を統一するために、表記のルールや定形表現、固有名詞などのガイドラインが規定された仕様書のことです。 ↩
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用語集とは用語の統一や翻訳の効率化を図るために、翻訳対象の専門用語や特別な用語など、一般的でない用語の意味、訳語、定義、メモをセットにして記載したものです。 ↩ ↩2
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翻訳メモリーとは過去の対訳を蓄積するデータベースで、以前と同じまたは類似の表現が出てきた時に、翻訳メモリー内の訳文を適用することができます。 ↩
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トランスクリエーションとは直訳ではなくより魅力的な言い回しになるよう意訳することです。 ↩
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ちなみに翻訳会社では、プロセス上トランスクリエーションしないので仕方がないのですが、Intertwine を「結合」と翻訳していました。 ↩