この記事はSchoo Advent Calendar 2024の3日目の記事になります。
こんにちは! 哲学大好きプロダクトオーナーの上羽です!
突然ですが、 みなさんは『チ。 ―地球の運動について―』を観てますか?
教会が支配する中世ヨーロッパで、常識に疑問を抱く人々の奮闘を描くアニメです。天動説と地動説という相反する「真理」をめぐり、人生をかけた闘争が繰り広げられます。
知的好奇心がくすぐられる、とても面白いアニメです。
どうしても意見の対立は発生してしまう
さて。現代人であるわたしたちは「 地動説が事実で、天動説は間違っている 」と直感で判断できてしまいます。
でも、日々の議論はこんなにも明白に白黒つくものではありません。
開発メンバー同士の論争にはじまり、プロダクトオーナーとの衝突、デザイナーとの意見の食い違いなど。チーム開発ではコミュニケーションのズレが、時に大きな問題に発展します。
こういった 「どちらが正しいか」という論争はみなさんも覚えがある と思います。
特にスクラム開発においては、コミュニケーションがとても重要 です。コミュニケーションの円滑さは、ベロシティ向上やサービス品質の安定、ひいてはチームの成果に直結します。
それがわかっているのに、どうしても意見の対立は発生してしまいます。
天動説の議論のように、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのでしょうか?
それとも、価値観の違いによるため、どうやっても防げないものなのでしょうか?
今日は「仕事に役立つ哲学」と題して、「なぜ意見の対立が生まれるのか?」について考えてみましょう!
「事実」とはなんだ?
早速ですが、みなさんは「事実」とは何か、答えられますか?
「いや、事実は事実でしょ?」という声が聞こえてきそうですね。
確かに「事実」とは揺るぎない絶対のもの。誰が見ても明白な出来事を、私たちはそう呼びます。よく以下のように表現しますよね。
「Aが事実で、Bは事実ではない」
私たちはこのように世界を判断することができます。
ですが、驚くべきことに、現代哲学では「事実など存在しない」というのが常識 とされています。
「この人は何を言っているんだ?」という声も聞こえてきましたね。
順を追って説明します。まずは例え話から始めましょう。
氷が解けたのか?それともグラスが冷えたのか?
ここに氷の入ったグラスがあります。
だんだんと氷が解けていきます。
では、事実は「氷が解けた」で良いでしょうか?
いいえ。少し見方を変えると、 氷がグラスを冷やしている とも言えますね。ここに二人の知識人がやってきて論争を始めます。
A「氷が解けたんだ!」
B「いや、グラスが冷えたんだ!」
さて、どちらの主張が「事実」なのでしょうか?
ここで重要なのは「冷える」という表現も、「熱を奪う」という現象も、相対的な意味しかないことです。多くの人は、こんな論争に呆れてこう言うでしょう。
「どちらも事実だよ」 と。
事実は「ひとつ」ではないのか?
さて。ここからが今日の本題です。
「どちらも事実」という表現に違和感を覚える人も多いと思います。きっと賢明なみなさんはこう思ったのではないでしょうか。
C「解釈は複数あっても良いが、事実はひとつのはず。『氷が解ける』と『グラスが冷えた』の両方を合わせたものが事実だろう?」
そう。「解釈が複数ある」のは自然なことです。同じ物事でも、人によって捉え方が異なるのは当然です。ですが 「事実が複数ある」というのは直感的におかしいと感じる ことでしょう。
ですが、この思考こそが罠なのです!
さあ、哲学の始まりです!
正しさを主張し合う人々
架空の人物たちの議論を通して考えてみましょう。
まず、D氏がやってきて言います。
D「氷に冷やされたのはグラスだけではないはずだ。冷やされたものすべてを列挙しなければならない。 すなわち『氷が解けることにより、グラスはもちろん、グラスが乗ったテーブル、部屋の空気、床、壁、天井もわずかに冷やされた』が事実 だ」
なるほど。すべての要素を網羅するアイデアは良さそうです。これを事実として受け入れましょうか? しかし、すぐにE氏がやってきてこう言います。
E「いや、そもそも『冷える』という表現が曖昧すぎる。熱は分子の運動エネルギーなのだから、 事実は『この部屋の全構成物における分子間の運動エネルギーが均衡点に達した』である」
あっぱれ! 科学的にも正しそうな意見ですね!
少々回りくどい表現ではありますが、これなら立場の違いに拠らず、万人に正しいと受け入れられそうです。さて、これで議論は終わりなのでしょうか?
いいえ。「事実」を知ることはそんなに簡単ではないのです。
事実は手が届きそうで、とても遠いもの
事実を見つけたと安堵する私たちのところに、F氏がやってきて言います。
F「ちょっと待って。そもそも部屋の空気が氷点下だったなら、氷もグラスもキンキンに冷えて氷は解けなかったはず。だから 『部屋の温度が氷点よりも高かった』が事実 なのでは?」
なんですって? なにやら雲行きが怪しくなってきました。
この人はコップと氷には目もくれず、部屋の温度こそが事実だと言い張りました。でも......確かにその通りです。部屋の温度が違えば、そもそも一連の現象は生じなかったのですから、こちらの方が 「より上位な事実」 のように思えます。
するとG氏がやってきて言います。
G「それは原因と結果の関係だろう。 原因が『部屋の温度が氷点より高かった』であり、『氷が解けて、グラスが冷えた云々』が結果。その一連の流れを合わせたものが事実 なのだ」
なるほど! D氏が部屋の全要素を網羅したように、時間の流れを含めて現象を整理したら事実と言えそうですね!
と思った矢先に、H氏がやってきます。
H「それなら 原因となる『部屋の温度』を引き起こした原因もすべて列挙しなければならない」
うーむ。たしかに部屋の温度は何かしらの原因によって決まったはずです。誰かが空調を使ったのかもしれないし、季節が違えば結果は違ったのかも。そもそも熱とは太陽の電磁波が地表を暖めることで……。
困りました。すべての原因を列挙するなんて無理そうです。するとI氏が現れてとどめを刺します。
I「原因と結果を持ち出すなら、そもそも現在の結果もまた、次の事象を引き起こす原因にほかならない。すなわち 未来の結果も含めたうえで事実とすべきだ」
やれやれ。もはや自分たちが何の話をしていたのかも忘れてしまいそうです。
さて、みなさんは誰の意見が「事実」だと感じましたか?
誰の解釈も決して間違ってなどいません。
それならば、間違っていたのはむしろ先入観の方です。
そう。「唯一の事実」などはじめから存在しない のです。
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
(フリードリヒ・ニーチェ『力への意志』第481節)
事実が存在しないのならば
事実が存在しないのならば、どうして私たちは目の前の現象を他人と共有できているのでしょうか? それとも、実は共有できていると思い込んでいるだけで、みんなが壮大な勘違いをしているのでしょうか?
安心してください。あなたの意図はちゃんと相手に伝わっていますし、相手の意図もあなたに伝わっています。
実は、 私たちは事象を「特定の切り口」で解釈しているだけ なのです。
私たちは、 特定の事象を「事実」と認識するとき、「どこを中心に捉えるか」という思考を無意識に行っています。
これはちょうど、目の焦点を合わせるのに似ています。
焦点を合わせずにものを見ることができないように、「ある視点」を持たない「事実」を認識することはできないのです。 これは人間の知性そのものの限界であり、決してあなたが悪いわけではありません。
以下に、登場人物たちが何を中心に捉えたのかをまとめてみます。
- A「氷が解けた」・・・「氷の様態変化」
- B「グラスが冷えた」・・・「グラスの温度変化」
- C「両方が事実」・・・「氷の入ったグラス」
- D「冷やされたものすべて」・・・「物体的網羅性」
- E「分子の運動エネルギー」・・・「熱力学」
- F「部屋の温度が氷点よりも高い」・・・「氷が解ける条件」
- G「一連の流れ」・・・「現在を中心とした因果律」
- H「原因の原因」・・・「過去を含めた因果律」
- I「結果の結果」・・・「未来を含めた因果律」
これらの解釈に優劣はありません。日常生活ではAやBがふさわしいですし、物理学の授業ではEが正解でしょう。ホテルの空調会社ならFを正解とするかもしれません。
ある事象に対して、どこを中心とするかは人によって異なります。
そして、その着眼点に必然性はないのです。
それは性格や専門性によるかもしれませんし、偶然的な影響によることもあるでしょう。
それは「前提」と言い換えても良いものです。わたしたちは、物事を「ありのままに」想像したり説明したりすることはできないのです。
想像上の太陽系
例えば、目を閉じて太陽系を想像してみてください。
どうでしょうか。太陽を中心にいくつかの惑星が円を描く映像を思い浮かべたのではないでしょうか。
では、その映像は「どこから見た」風景でしょうか?
そうです。あなたは無意識のうちに、 「ある視点から見た宇宙」 を想像しています。もし言葉で説明しようとしても、同じ結果になります。我々は物事をありのままに捉えることはできません。あなたが捉えた「事実」は、必ず何かしらの切り口で解釈されたものです。どのような視点からも解放された究極の事実などというものは存在しません。
繰り返しますが、これは人間の知性の枠組みであり、認識の限界にほかなりません。
まだ懐疑的な方もいらっしゃるでしょう。そう感じるのも無理はありません。いきなり「事実などない」と言われても、受け入れるのは簡単ではありません。
ただこれは、論理の最高峰である数学さえ例外ではありません。
もう一例挙げましょう。
交わる平行線
義務教育で習った「平行線」の原理を思い出してください。「同一平面上にあり、どこまで延ばしても交わらない二本の直線」というものです。これは誰の目にも明らかな事実のように思えます。
しかし実は、平行線が交差する幾何学は存在する のです。
これは義務教育で習う「ユークリッド幾何学」に対し、「非ユークリッド幾何学」と呼ばれます。そして興味深いことに、地球上で線を引いてみると、実際には「非ユークリッド幾何学」に従います。なぜなら地球は平らじゃなく、丸いからですね。(興味があれば調べてみてくださいね!)
公理系が異なれば、数学的事実も異なります。
公理系とは「前提」にほかなりません。学問とは ある「前提」に基づいて組み立てられた「解釈」の集合 にすぎません。
そうは言うものの、まだ疑念を抱いている方もいるでしょう。
例えば、以下のような疑問が浮かびますよね。
「私が今この瞬間、この記事を読んでいることは、疑いようのない事実だ!」
こう考えるのはもっともです。この主張に対する答えはいくつか考えられますが、一つだけ言えることがあります。それは、 この言説にも必ず何かしらの「前提」が存在している ということです。
この問いの答えは、皆さんの宿題として残しておきましょう。
地球が動いているのか、太陽が動いているのか
もうひとつ『チ。 ―地球の運動について―』に絡めて、面白い「事実」を確認しておきましょう。ご存知の通り、 太陽が動いている世界観を「天動説」、地球が動いている世界観を「地動説」 と呼びます。
しかし、現代科学が明らかにする天体の動きはもっと複雑でダイナミックです。
出典)太陽系の真実の姿(世界の答えを知りすぎた猫) - YouTube
ご覧のように、確かに地球は太陽の周りを回っていますが、その太陽も8つの惑星とともに銀河を動き回っています。つまり、地動説はこう言い換えるべきかもしれません。
「 たしかに地球は動いているが、太陽もまた動いている 」と。
視点を変えることで、事実は簡単に変わります。存在するのは解釈だけなのです。
なぜ意見の対立は生まれるのか?
さて。ようやく核心に迫ってきました。
人はそれぞれが信じる「事実」をもとに思考し、発言を行います。それが「意見」です。
もちろん価値観が異なれば、意見は異なるでしょう。それは仕方ないことです。
ここで重要なのは、 もし両者が同じ価値観・思考ロジックを持っていたとしても、異なる意見が生じるうる ということです。それは立場により「事実」の捉え方が異なるためです。
そんなときは、冒頭の「氷とグラスの論争」を思い出しましょう。それは「正しい/間違っている」の対立ではなく、多くの場合、解釈の違い から生じているのです。そして、この解釈とは「必然性のない着眼点」によるものに過ぎません。他にもいくらでもあり得た可能性の一形態に過ぎないのです。
絶対的な神がいないという前提に立つならば、絶対的な真理も存在しないのです。
彼はまだ知らないのだ。神は死んだということを
(フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)
意見の対立を楽しもう!
コミュニケーションはとても難しいものです。傷つけたり傷ついたり、ときに悩みで眠れない日もあるでしょう。けれど、対立とは決して悪いことではないのです。
「絶対的な真理」がないのと同様、「絶対的な正解」などありません。それぞれの立場、条件によって意見が異なるからこそ、いろいろな専門性で力を合わせる意味があるのです。そうした解釈を土台に構築されたサービスは、より強く、より多くの人に受け入れられることになるでしょう。
ぜひエンジニアのみなさんは、プロダクトオーナーやメンバーとの会話を楽しみましょう! よく理解できなかったあの人の発言にも、実は面白い洞察が隠れているかもしれません。
デザイナーのみなさんも、ユーザーヒアリングでスルーしていた意見の中に、実は重要なものがあるかもしれませんよ。
さあ今日から、対立する意見が出てきたときは、ニヤリとしましょう。
謎解きの時間です。さて、この人は何を中心にとらえているのでしょうね。
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