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大学教員こそコードレビューを:研究コードと教育コードを「査読」して再現性と引き継ぎを救う

Last updated at Posted at 2025-12-15

はじめに:論文は査読するのに、コードは放置していないか

私は大学教員として、研究の実験・データ解析、授業資料の作成、学生指導のために、日々コードを書いています。
一方で「コードレビュー」と聞くと、どうしても“企業のソフトウェア開発”の文化で、大学の現場には縁遠いものに感じていました。

でも、ある時ふと思ったのです。

研究者は、論文は査読するのに、解析コードはほぼ無査読のまま「成果」に直結させていないか?

査読は「攻撃」ではなく、成果物の信頼性を上げ、読み手を増やすためのプロセスです。
コードレビューも同じで、研究コード/教育コードを“誰かが再利用できる成果物”に育てるための手段だと捉えると、大学教員こそ恩恵が大きいと感じました。

本稿では、コードレビュー経験がほぼない大学教員が、

  • 研究(再現性・引き継ぎ・共同研究)
  • 教育(教材品質・学生の成長・評価の公平性)
  • 実務(時間がない、レビュー文化がない、心理的ハードルが高い)

という制約の中で、最小コストでコードレビューを始めるための分析と考察をまとめます。
後半では、Google Colabで再現できる「レビュー前後で何が改善するか」の小さな実演も用意しました。


対象読者

  • 研究・教育のためにコードを書く大学教員(専任/非常勤問わず)
  • 研究室で学生に解析コードを書かせている指導教員
  • 「コードは動けばよい」から一歩進めたいが、業務が忙しくて体系立てる余裕がない人
  • チーム開発はしていないが、共同研究・引き継ぎ・再現性に困った経験がある人

結論だけ先に:大学教員にとってのコードレビューの価値

コードレビューを“プロダクト品質”の話だけに閉じると、大学の現場には馴染みにくいです。
しかし、大学教員の仕事に翻訳すると、レビューは次の効果を持ちます。

  • 研究の再現性を上げる(=研究の信用を守る)
  • 引き継ぎを楽にする(=研究室運営のコストを下げる)
  • 教育の質を上げる(=教材と指導の再利用性を上げる)
  • 学生の成長を加速する(=「読む力」を育てる)
  • 自分の未来の時間を守る(=半年後の自分が助かる)

つまり、コードレビューは「時間を取られる儀式」ではなく、時間を取り戻す仕組みになり得ます。


なぜ大学のコードはレビューされにくいのか(自戒込み)

大学の現場には、レビューが根付かない合理的な理由があります。

  • コードが“成果物”ではなく“手段”になりがち
    研究は仮説検証が主で、コードは実験装置。短期的には「動けば勝ち」になりやすい。
  • 時間が足りない
    授業、会議、書類、学生対応、研究費…。レビューの時間は自然には生まれない。
  • 心理的安全性が低い
    教員—学生、先輩—後輩の非対称性があり、「指摘=人格評価」に感じやすい。
  • 評価軸が曖昧
    「美しいコード」の定義が共有されていないと、レビューが個人の好みに寄る。
  • レビューの“型”がない
    何を見ればよいか分からない → 書けない → 続かない、のループ。

だからこそ、大学でレビューを始めるなら「工学的に完璧」ではなく、現場の制約に合わせた最小構成が必要です。


大学教員がレビューで得をする場面(研究・教育・運営)

1) 再現性:半年後の自分が再現できない問題

  • 乱数シードが固定されていない
  • 前処理がNotebookの途中に散らばっている
  • データパスがローカル依存(C:\Users\...
  • 依存ライブラリのバージョンが残っていない

こうした“研究あるある”は、レビュー観点に入れるだけでかなり減ります。
再現性は科学の根幹なので、レビューは研究倫理にも近い話です。

2) 引き継ぎ:卒論→修論→博論、あるいは共同研究の「暗黙知」問題

  • 解析コードが「本人しか分からない」
  • ファイル命名やディレクトリ構成が毎回違う
  • 実験条件がコード内の“魔法の数値”に埋もれている

レビューは、暗黙知を“テキスト化”する作業でもあります。
「この関数名だと意図が伝わりにくい」「この変数の単位が不明」などは、未来の共同研究者のための査読です。

3) 教育:学生は「書く」より先に「読む」ことで伸びる

学生にとって、コードレビューは他人の思考に触れる授業になります。
教員が毎回フル解説しなくても、PR上のコメントが学習ログとして残り、次年度以降の教材にもなります。

4) リスク管理:個人情報・研究データ・不正確な解析の事故防止

大学のコードには、学生情報・実験協力者情報・未公開データが混ざりやすいです。
レビュー観点に「ログに個人情報を出していないか」「共有してよいデータか」を入れるだけで、事故確率を下げられます。


最小構成で始める:大学版「ミニマム・コードレビュー」設計

ここからは、忙しい大学教員向けにやることを削った提案です。

ポイントは3つだけ

  1. レビュー対象を小さくする(PRは小さく)
    1PR = 10〜30分で読める量を上限にする。
    (大きいPRは、誰も読めません。教員でも。学生でも。AIでも。)
  2. 観点を固定する(チェックリスト)
    “毎回違うレビュー”をやめる。
    まずは「再現性」「安全性」「読みやすさ」だけでも十分。
  3. 人格から切り離す(コメントの型)
    「あなた」ではなく「コード」に向けて書く。
    目的は勝ち負けではなく、成果物の信用を上げること。

研究・教育向けレビュー観点チェックリスト(コピペ可)

最初はこれだけで回せます。
レビューコメントのテンプレも併記します。

カテゴリ チェック項目(例) コメント例(攻撃にならない書き方)
再現性 乱数シード、環境(依存パッケージ)、入出力が明示されているか 「再現のため、乱数シードと依存関係(requirements等)を残したいです」
データ パスが固定/ローカル依存になっていないか、データの前処理が追えるか 「このパスは環境依存になりそうなので、相対パスか設定ファイル化できると助かります」
正しさ 境界値(欠損/外れ値/空配列)で壊れないか 「欠損が多いときの挙動を確認したいので、空ケースの扱いを明示できますか」
可読性 関数名・変数名が意図を表しているか、単位が分かるか x が何の量か(単位含めて)分かりにくいので名前/コメントで補足したいです」
保守性 1関数が長すぎないか、責務が混ざっていないか 「前処理と集計が同じ関数にあるので、分けると追いやすくなります」
教育用途 学生が読んで理解できる導線(docstring、図、例)があるか 「教材として使うなら、入力例と出力例があると学びやすいです」
安全性/倫理 個人情報・秘匿情報がログ/コミットに混ざっていないか 「共有前提なので、ログに出る情報を一度確認したいです」

重要:チェックリストは“すべて満たす”ためではなく、会話の焦点を固定して疲弊を防ぐために使います。


レビューコメントは「査読」っぽく書くと荒れない

研究者は査読で、だいたい次の順で書きます。

  1. 何が良いか(貢献の確認)
  2. 目的に対して何が課題か(論点の特定)
  3. どう直すと良いか(具体案)
  4. 優先順位(必須/任意)

コードレビューも同じが効きます。

NG例(気持ちは分かるが、相手が萎縮する)

  • 「意味不明」
  • 「なんでこんな書き方?」
  • 「これだとダメ」

代替例(同じ指摘でも、知的に見える)

  • 「意図は理解しました。再現性の観点で、ここは設定化すると安全です」
  • 「将来の引き継ぎを考えると、ここは関数分割したいです(理由:変更点が局所化するため)」
  • 「私の理解が正しければ〜ですが、もし違う意図なら教えてください」

大学の現場では権力差があるので、特に「理解確認フレーズ」を入れると安全です。


AIコードレビューはどう使う?(教員の時間を守りつつ、責任も守る)

AIコードレビュー(例:CodeRabbitのようなサービス)は、大学の現場では次の使い方が合います。

AIに任せやすい(定型・反復)領域

  • 命名の一貫性、未使用変数、インデント、import整理
  • ありがちなバグ(Noneチェック不足、境界条件)
  • ドキュメント不足(関数の説明、引数の意味)
  • 「この関数、責務が多くない?」のような構造指摘

人間が責任を持つべき領域(AIは参考まで)

  • 研究の妥当性(統計手法、実験計画、前提条件)
  • データ倫理・守秘(共有してよい情報か)
  • 研究目的に照らした「正しさ」(仕様がない世界の仕様)
  • 教育的配慮(学習段階に応じたコードか)

AIはレビューを“代替”するというより、レビューの前処理(下ごしらえ)を自動化してくれる存在、と捉えると健全です。
最後に責任を持つのは人間(=著者・指導者)です。

※学生情報や未公開データが混ざるリポジトリでは、AI連携の可否や設定は必ず慎重に(学内規程・契約・研究倫理に従ってください)。


ミニ実演:レビューで何が変わるか

ここでは「研究室にありがちな1ファイル解析コード」を題材に、レビュー後に

  • 複雑度(読みにくさの指標)
  • Lint(静的解析の指摘)

がどう変わるかを数値と図で示します。

まずは “レビュー前” の例(before.py)

# before.py(あえて「研究室あるある」に寄せた例)
import json
import os  # noqa: F401(未使用にしてlintを出す)
from math import sqrt  # noqa: F401(未使用にしてlintを出す)

def analyze_scores(rows):
    """
    rows: [{"id": str, "score": number or None}, ...]
    """
    result = {"count": 0, "mean": None, "std": None, "hist": {"A": 0, "B": 0, "C": 0, "D": 0}}
    xs = []

    for r in rows:
        if "score" not in r:
            continue
        x = r["score"]
        if x is None:
            continue

        # 0〜100に丸める(ただし理由の説明なし)
        if x < 0:
            x = 0
        if x > 100:
            x = 100

        # 研究ノート由来の謎補正(条件分岐が増える)
        if x >= 90:
            x = x * 1.10
        elif x >= 70:
            x = x
        elif x >= 60:
            x = x - 5
        else:
            x = x - 10

        xs.append(x)

        # ヒストグラムも同じループで更新(責務が混ざる)
        if x >= 90:
            result["hist"]["A"] += 1
        elif x >= 80:
            result["hist"]["B"] += 1
        elif x >= 70:
            result["hist"]["C"] += 1
        else:
            result["hist"]["D"] += 1

    result["count"] = len(xs)
    if len(xs) > 0:
        m = sum(xs) / len(xs)
        result["mean"] = m
        v = 0
        for x in xs:
            v += (x - m) * (x - m)
        result["std"] = (v / len(xs)) ** 0.5

    with open("result.json", "w", encoding="utf-8") as f:
        json.dump(result, f, ensure_ascii=False, indent=2)

    print("done")  # ログは便利だが、用途が曖昧なままだとノイズになる
    return result

次に “レビュー後” の例(after.py)

# after.py(レビューで「責務分割・説明・境界条件」を意識した例)
from __future__ import annotations

import json
from dataclasses import dataclass
from typing import Iterable, Optional


@dataclass(frozen=True)
class ScoreRule:
    """スコア補正ルール。研究ノートの前提をコードに残す。"""
    clamp_min: float = 0.0
    clamp_max: float = 100.0

    def adjust(self, raw: float) -> float:
        """研究上の補正(例)。条件の意味をコメントで説明できる形にしておく。"""
        x = min(max(raw, self.clamp_min), self.clamp_max)

        # 例:90点以上は採点厳密性の補正を入れる(※仮の例)
        if x >= 90:
            return x * 1.10
        if x >= 70:
            return x
        if x >= 60:
            return x - 5
        return x - 10


def safe_scores(rows: Iterable[dict], rule: ScoreRule) -> list[float]:
    """欠損や不正値を除去し、補正後スコアを返す。"""
    xs: list[float] = []
    for r in rows:
        raw = r.get("score")
        if raw is None:
            continue
        xs.append(rule.adjust(float(raw)))
    return xs


def mean(xs: list[float]) -> Optional[float]:
    return (sum(xs) / len(xs)) if xs else None


def std(xs: list[float], m: Optional[float]) -> Optional[float]:
    if not xs or m is None:
        return None
    v = sum((x - m) ** 2 for x in xs) / len(xs)
    return v ** 0.5


def grade_hist(xs: list[float]) -> dict[str, int]:
    """A/B/C/D の簡易ヒストグラム。基準は関数に閉じ込める。"""
    hist = {"A": 0, "B": 0, "C": 0, "D": 0}
    for x in xs:
        if x >= 90:
            hist["A"] += 1
        elif x >= 80:
            hist["B"] += 1
        elif x >= 70:
            hist["C"] += 1
        else:
            hist["D"] += 1
    return hist


def analyze_scores(rows: Iterable[dict], *, rule: ScoreRule = ScoreRule()) -> dict:
    xs = safe_scores(rows, rule)
    m = mean(xs)
    s = std(xs, m)

    return {
        "count": len(xs),
        "mean": m,
        "std": s,
        "hist": grade_hist(xs),
    }


def save_json(obj: dict, path: str = "result.json") -> None:
    with open(path, "w", encoding="utf-8") as f:
        json.dump(obj, f, ensure_ascii=False, indent=2)

複雑度とLint指摘数の比較

complexity.png
ruff_issues(1).png

  • 今回、Ruffの指摘件数は0→0だった。つまり機械的な規約違反ではなく、構造・説明可能性の改善が主目的だった
  • 研究コードでは、Lintよりも“他人が読める/再現できる”が支配的に重要

この実演から分かること(大学の現場に引きつけて解釈)

この例は小さいですが、現場では次の形で効きます。

  • 責務分割:前処理・補正・集計・保存が分かれると、修正が局所化する
    → 学生が「ここだけ変えれば良い」と分かる
  • 意図の固定(ルール化):研究ノートの前提を ScoreRule のように閉じ込める
    → 「なぜこの補正?」がコードに残る(将来の査読者=自分を助ける)
  • 境界条件:欠損・空配列でも壊れにくい
    → 実験データは汚いのが普通なので、研究では特に重要

レビューで狙うのは「美しさ」ではなく、再現性・引き継ぎ・教育効果です。


研究室・授業で回す運用案(無理しない版)

研究室運用(学生がいる前提)

  • 週1回、30分だけ“PR読書会”(雑談込み)
    • 1人1PR(小さいやつ)を持ち寄る
    • 指摘はチェックリストの範囲だけ
  • 教員が全部レビューしない
    • 学生同士で一次レビュー → 教員は最終確認(再現性・倫理だけ)
    • 教員の時間がボトルネックにならない設計が大切
  • レビューは評価ではなく改善
    • 成績や査定と結びつけない(萎縮すると終わる)

授業運用(提出物の質を上げたい場合)

  • 提出前に「セルフレビュー」チェック(自己点検)を必須化
  • ルーブリックに「再現性(実行手順が書けている)」を入れる
  • 教員コメントを“PRコメント”形式で残す(翌年の教材資産になる)

これから始める人向け:4週間で導入するロードマップ

  • 1週目:セルフレビュー
    • 自分のリポジトリで「ブランチ→PR→マージ」を1回だけ回す
    • PR本文テンプレを作る(下に例あり)
  • 2週目:自動整形&Lintを入れる
    • ruff/formatterを入れて“揉めない領域”を機械化
  • 3週目:学生 or 同僚とペアレビュー
    • 1回だけでいい。「レビューってこの程度で良い」を体験する
  • 4週目:AIレビューの併用(任意)
    • 人間レビューの前にAIで下ごしらえ
    • 機密情報の扱いは必ず慎重に

まとめ:コードレビューは「研究の信用」と「教育の再利用性」を上げる

大学教員がコードレビューを導入する意義は、プロダクト開発と同じではありません。

  • 研究:再現性と信頼性を守る
  • 教育:読む力を育て、指導ログを資産化する
  • 運営:引き継ぎコストと“未来の自分の苦しみ”を減らす

そして、レビューは完璧主義のためではなく、現場の制約下で継続するための型です。

まずは「小さなPR」と「固定した観点」から始めるのが、大学の現場には一番効くと思います。


付録A:研究室向け PR本文テンプレ(コピペ可)

### 目的
- 例:〇〇の解析を再現可能にする / 前処理を関数化する / 教材化する

### 変更点(3行で)
- 
- 
- 

### 再現手順(最短)
- `python ...` または `notebook` の実行順
- 依存関係(必要なら)

### レビューしてほしい観点
- [ ] 再現性(パス/乱数/依存)
- [ ] 境界条件(欠損/空/外れ値)
- [ ] 命名・単位が伝わるか
- [ ] 倫理・秘匿(共有して良い情報のみか)

### 補足
- 背景、研究ノートへのリンク(あるなら)

付録B:最小のレビュー運用ルール(“揉めない”ための宣言)

  • 指摘は「人格」ではなく「コード」に向ける
  • “必須” と “提案” を分ける(NitはNitと書く)
  • レビューは期限を決める(例:48時間以内に一次反応)
  • PRは小さく(読めないPRはレビュー不能)
  • 自動化できることは自動化(フォーマット論争を終わらせる)

付録C:もしPythonなら(任意)ruff導入の最小例

# pyproject.toml(最小例)
[tool.ruff]
line-length = 100
target-version = "py311"

[tool.ruff.lint]
select = ["E", "F", "I", "B", "UP"]

※研究室の状況に応じて、ルールは徐々に増やすのがおすすめです(最初から厳しくすると続きません)。

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