現代のコンピュータサイエンス、インフォメーションテクノロジーを扱うエンジニア諸兄らよ。
お前らに大和魂はあるのか?
今、エンジニアだと自覚したお前ら。
お前らには大和魂が足りていない。
なにがコンピュータサイエンスだ。
計算機科学だろうが。
インフォメーションテクノロジーじゃない。情報技術。
エンジニアじゃない。技術者。
私たちが外来語を素直にカタカナにして欧米に恭順することを良しとして甘んじている。それが日本の情報教育の妨げになっている。現代の産業の中心にある情報科学が育たない。故に国力が養われない。国内総生産(GDP)は低下の一途をたどる。そうは思えないだろうか?
日本は古来より外来語を自国語に取り入れてきた。今私たちがエンジニアだのITだの言っているそれも伝統の一環だとか思っているのだろう。いや、疑問も抱かずに使ってきたのかもしれない。
疑問を抱けないであればそれは国家教育の敗北だ。君に責任はない。君を育てた先人らに非がある。
文字のなかった日本に中国から漢字が輸入された。
この頃の日本人には誇りがあったに違いない。
中国語の読みに対して、自国の話し言葉を照応する作業を地道に重ね、「訓読み・音読み」を発明した。これは外来の文化を自国の文化と融合・昇華させる行為だ。人並み外れた対話と記録の果てに「文字」を持たない文明だった日本に新たな文明の火を灯したのである。
その灯火がどんな結果をもたらしたのかは皆の知る歴史の通り。日本は長い歴史のなかで国家の体制は変えながらも同じ文化を継承してきた。1000年前の言葉を今も共有し人の想いや努力を知ることができる。「春はあけぼの」と聞けば、穏やかな春の日の朝日をすべての日本人が心に浮かべられる。「今は昔」と聞けば、時系列の変化を想起することができる。
これがどんなに素晴らしいことか理解しているのか。
文字や音だけで印象を未知の人にも共有できる。現代の情報技術者はこの先人の知の結晶を現代の日本人は蔑ろにしている。
これは個人の問題ではない。技術者集団の抱える課題だ。
日本語は表意文字である「漢字」と表音文字である「かな」によって構成される。
具体的な単語は「漢字」で意味の想起を促し、単語をつなぐ補助動詞や意味の構成への寄与が少ない部分は「かな」で表現し目視を軽やかにする。
「漢字」で書かれていれば知らない単語でも漢字の印象から意味を類推することができる。
これがどんなに優れたことか。日本人の理解への貢献度は計り知れない。
初めて「エーアイ」と言われても何のことだろう?となるが、「人工知能」と言われればその概念を知らずとも、「知的な振る舞いをするものを人が作る」といった印象を持てるのではないだろうか?オブザーバビリティより「可観測性」、アイデンポテンシーより「冪等性」のほうが印象と実態が結びつきやすいのではないか?
一般に膾炙した訳語がない単語についても考えてみよう。
LB ロードバランサーと言われてピンと来ない人も「負荷分散機」と言われれば何となくわかった気になれるのではないか?
DNS ドメインネームシステムと言われて何じゃそりゃって人も「名前識別機構」といえばそれっぽい理解はできるのではないか?
RP レンダリングパイプラインと聴いてチンプンカンプンでも「描画工程機能群」と言われると雰囲気は掴めるのではないか?
では何故そう呼ばれていないのか?
それは私たちに大和魂が欠けているからだ。
欧米に阿ることを甘んじて受け入れている。外来語を和語へと変換せず、音だけを取りカタカナにしただけの単語にして使っているからだ。
人工知能や可観測性、冪等性だけでなく、Computer には電子計算機、Server Room には電算室、Function には関数。ちゃんとした和語が充てられているものも存在している。しかし、現代の計算機科学(CS:コンピュータサイエンス)の文脈で使われている用語は多くがカタカナで英語のまま使われている。
これを怠慢と言わずに何と言えよう。
短期的な翻訳の手間とそれを業界へ普及させる手間を惜しんで、長期的な認知負荷という負債を産んでいる。
君たちの嫌いな「運用負債」そのものだ。
開発したモノに対しての負債は解消したいと思うのに、受け入れたモノの負債はそのままで良いというのか?
そんな訳はないだろう。
私たちが怠けたせいで、後続の開発者や子どもたちの教育に悪影響が出ているのだ。それは徐々に国家を蝕む情報の劣化を誘引する。
大学入学共通試験で科目「情報」が追加され、現場の先生方やそれ以上に多くの未来を担う生徒たちがどんな想いで勉強をしていると思っている。
「情報」は他の科目と比べて明らかに外来語が多い。
これを最新の教科だからとは言わせない。
私たち業界人が翻訳という義務から逃げたからだ。たとえ世界から見たら出遅れたとしても「日本」という日本語母語話者集団に取り込まれるときには私たちが先端研究者だ。情報文明を開化させるのは私たちだ。その自覚と誇りを持て。業界の責任も紐解けば一人一人が責任を持つように、今ある業界の課題を変えられるのも一人一人の行動にほかならない。私たち自身がそれぞれに自覚と誇りと責任感を持って少しずつ変えていくことが必要だ。
横文字を使って賢しらな態度を取っているのではないか?
自分はふつうは知らないことを知っているという特権意識を醸造しているのではないか?
理解していないのに分かったフリをしているだけではないか?
偉大なる過去の先人たちへの冒涜をしている自覚はあるのか?
時計の針を明治維新の時代に遡る。
当時は鎖国が解かれ大量の欧米文化が急速に日本へ持ち込まれた。この時代の賢者らは多くの外国語を「和語」へと変えた。その努力が献身が現代日本にも必要なのではなかろうか。
以下は金城学院大学のホームページに掲載されている文章だ。
私たちが普段使っている言葉の中には、実は明治時代に新しい意味を持つようになったものがたくさんあります。明治のはじめ、西洋の様々な概念が数多く日本に入ってきましたが、その中には日本人が初めて出会うものも多く、新しい概念を伝えるためには、学者たちが新たに言葉をつくったり、既存の日本語を再定義する必要がありました。例えば"Liberty"という言葉は「自由」と訳されますが、実は、これは福沢諭吉が再定義したもの。それまで「自由」は、「わがまま」という意味を持っていましたが、福沢諭吉は、「自由」を"Liberty"の訳語として用いる際に、人々が互いを妨げることなく自分自身を幸福にすること、といった意味を「自由」に持たせ、"Liberty"という概念を広めました。このように言葉は生まれ変わることがあり、その背景を知ることは言語の深い学びにつながるのです。
この金言をしかと脳裏に焼き付けよ。
彼らはそれまでの日本になかった概念に対して知恵の限りを尽くして適切な「命名」をして新たな概念を輸入した。リバティーを「自由」として扱い、自国の文化に取り込んだのだ。
そもそも事象や概念は「言語化」した時点で正確なそれそのものとはどうしても乖離してしまう。
机の角で小指をぶつけた痛みと親しい人を失った痛みが同じ「痛み」と表現されるのは共通する何かがあるからだろう。それを人に伝え人と分かち合う術として言葉が生まれた。
それにより考えたり、記録したり人の発展につなげることができる。
「抽象的な何か」に「痛み」と名前がつくことで、「痛み」について深く考えることができるようになる。
福沢諭吉が「自由」と名付けたからこそ、人々は自由について考えることができるようになり、日本国家は自由民主主義を手に入れた。
これと同じで計算機科学(コンピュータサイエンス)にまつわる様々な用語も和語にすれば良いのだ。
それは翻訳者の仕事じゃない。研究者の仕事だ。
なぜなら対象の言語的な意味合いに加え、学問領域における文脈も解釈に必要となるからだ。
研究者が自身の知見と日本語の感覚を照応させることで初めて概念や言葉の輸入が可能になる。
その手間を私たちは惜しんでいるのだ。
「撮影」という単語について考えてみよう。これも明治期の翻訳語の一つとされている。
原語の Photograph は Photo(光) + Graph(記述) でありどちらかというと、「光を記すもの」という感じがするが、日本語では「影を撮る」と訳されている。
これは光を照射しその影を紙に焼き付け、3次元の空間情報を2次元平面へと転写する過程・仕組みの理解から名付けられたことが伺える。
原語的な解釈だけでなく専門的な仕組みや文脈を加味した翻訳が必要なのだ。
それは計算機科学を専門とし世界の先端に挑み続ける私たちだけに可能な日本を豊かにするために欠かせない偉業だ。
日本という国が、日本語を文化として持つ私たちが世界に挑むために、まずは日本語に新たな一歩を刻むことが必要だ。
人間の保守管理する変数名やクラス名を考える重要性は理解しているだろう。
本質に伴った命名がなされているとそれを後から利用する者にとって大きな助けとなることを君たちは実感として持っているはずだ。
今の日本はどうだ。
カナカナ語は日本人にとって名が体を表すどころか、名が何の意味も持たない記号になってしまっている。
電子計算機(コンピュータ)が吐き出す二進数(バイナリ)に従った謎の符号(ビット)列をそのまま用いているに等しい。
技術者たる君たちがその苦しみを理解しないとは言わせない。それは情報工学に対する冒涜だからだ。
同じ苦しみを自分の後ろを歩むモノたちに押し付けている。
そんなこと許していいワケがないだろう。
理解しにくい言葉を理解しにくいまま用いているから、一般的な情報学への理解が進まないのだ。
自分たちだけが分かれば良いと知の発展を妨げている自覚はあるのか。
私たちの好きなオープンソースの精神にも泥を塗っている行為だ。
日本の情報技術を発展させるには「言葉」を「和語」に「翻訳」する努力が必要だ。
これをしないことは長期的な発展への負債となる。
今、負債は断ち切ろう。新しく来る概念に名付けが追いつかないのはそれで良い。仕方のないことだ。しかし、それと同時にその概念を一般に、後継者に伝える必要がある。その責務に向き合おう。
私たちを育んだ日本という国家を育てる一歩として命名をしないか。
一つ一つは地道な貢献かもしれないが、それが未来を作ることだと信じて共に邁進しないか。
計算機科学(コンピュータサイエンス)にまつわる様々なカタカナ語を和語へと変えていかないか。ちょっと大げさでも良い。提案をしてみないか。多くの優秀な日本人情報技術者がいる。出した案よりもっと良い案があればそれが提案されより良い言葉に辿り着けるはずだ。しかし発議をしなければ今あるものは変わらない。
ちょっとでも日本に馴染みのある翻訳をする意識を皆が持たねば世界は変わらない。日本は良くならない。
自分のできる範囲で良い。ちょっとずつでも情報科学を日本のモノにしていこうじゃないか。
まずは漢字にするだけでも良い。お隣の中国ではこれを当然のようにやっている。
「UI」に相当する日本語には何があるだろうか?
User は利用者といえるだろう。 Interface は何だ?
なんだよ、 Interface って。意味わかんねえよ。
そんなんだから分かりにくいんだよ。
中国語で「UI」は「用戸界面」と訳されている。「用戸」は「用いる人」で User 、「界面」は「境界の接続面」として interface の訳語だ。

しかも、「界面」は明治期の日本で生まれた訳語だという説が有力らしい。
物理における液体と気体などの異なる二つの状態の interface という語に「界面」という翻訳を充てたらしい。
この尽力は Surfactant が 「界面活性剤」と呼ばれているように今も生きている。
「サファクタント」より「界面活性剤」のほうが水と油という境界を繋ぐものという印象は強く残るのではなかろうか。
読み比べてみたまえ。
「ユーザーインターフェースのデザインのヒント」
「用戸界面設計技巧」
圧倒的に後者のほうが分かりやすいだろう。
これが漢字の持つ力。表意文字の本領。
それを忘却しかつては日本が牽引した「漢字化」を失っている。
漢字に興すことを、文明の火を熾すことを怠った結果、日本は情報科学において最先端を走れなくなっているのではないだろうか。
中国では「全国科学技術名詞審定委員会」という行政団体が主導して外来語の専門用語を自国の言葉に翻訳する取り組みをしている。
これが日本にも必要なのではないか。
行政の大きな力が足りないなら自分たちで解決するのが技術者の本懐ではないのか。
分かりにくいものだと割り切るんじゃなくて、分かりにくいままにしない尽力をしよう。
私たちが interface になろう。
日本語と英語、日本と情報技術という境界を繋ぐ「界面」としての役割を果たそう。
私の伝えたい「大和魂」とは、日本の技術者である誇りのことだ。
技術者としてソースコードのリファクタリングのように、カタカナ用語の日本語化を試みても良いのではないだろうか。
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と、やや強い語調で論旨を展開してきた。
強い言葉を使ったことは謝罪する。申し訳ない。
カタカナのまま使うことにも、和語に落とし込んで使うことにもそれぞれ違った利点がある。
カタカナのままで使う
- メリット
- 概念の輸入が早い
- 英語のままで扱えるから最新の英語のドキュメントを読みやすくなる
- 日常会話で使う単語と混同しないから専門的な会話がしやすい
- デメリット
- わかりにくい
漢字にする
- メリット
- 専門的でない人にも直感的な理解がしやすい
- デメリット
- 翻訳に時間と手間がかかる
- 訳語を統一しないと検索性が悪化する
適材適所ということは百も承知。専門的でない人にも概念を伝える必要が生まれたならその時に和語に変換できるように努める工程を挟めば、もっと一般的な情報科学に対する理解や賛同を得られるんじゃないかな~と。
日本語にしちゃっていれば学生や新人に教えるときも都合が良いんじゃないか?
中国語の漢字化されたものも併記してみれば理解度向上の助けになるんじゃないか?
という程度のものです。
日本の情報科学の国力が向上すること、情報科学の未来が明るいことを祈っています。
