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夜のうちにAIが私の代わりに働く。それでも困らない理由

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私ではなくてもいい

夜、寝る前にAIに指示を出しておく。「このプロダクトを作っておいて」と。朝起きると、もうできている。

最近、こういう開発の仕方を本気で想像するようになった。そして気づいた。そこで実際に手を動かしているのは、私ではない。

でも、それで困ることは何もない。プロダクトが正しくできていれば、書いたのが私である必要はない。「私ではなくてもいい」のだ。

では何があればいいかというと、私と全く同じ性能を持つ存在があればいい。私と寸分違わず考え、同じ判断を下す何か。それさえあれば、私の出番はない。

ここまでは、たぶん多くの人が頷く。問題はその先だ。「私と全く同じ性能を持つ存在」を突き詰めると、それはもう一人の私になる。

引き継ぎは、昔からあった

少し角度を変える。

誰かが仕事を辞めても、その仕事は止まらない。別の誰かが引き継いで、また回り始める。私たちはこれを当たり前のこととして受け入れている。

このとき何が起きているかというと、評価されているのは「その人」ではなく「その役割」だ。役割がきちんと果たされる限り、果たしているのが誰かは問われない。価値は個体に貼り付いているのではなく、果たされた役割から後から生まれている——少なくとも、仕事の現場ではそう見える。

新人にも価値が認められるのは、まだ役割を果たしていなくても、これから果たすだろうと期待されるからだ。これも結局、役割に向けられた価値だ。

そう考えると、引き継ぎとは「他人が私の代わりをする」ことだった。AさんからBさんへ、別の人格への受け渡し。では、その受け渡す相手を、だんだん私に近づけていったらどうなるか。よく似た人、同じ性能を持つ別の個体、そして主観まで同じ私。引き継ぎという形は何も変わらない。変わるのは、引き継ぐ相手が私からどれだけ離れているか、その距離だけだ。

距離をゼロにした極限が、「私が私を引き継ぐ」である。他人が私の代わりになるのではなく、私が私の代わりになる。AIで起きるのは、たぶんこれだ。新しい何かではなく、昔からある引き継ぎの、距離がゼロになった姿。

fig1.png

量産されると、価値は下がる

ここで少し立ち止まりたくなる。

私と同じ存在が、私と同じ仕事をして、同じ成果を出す。そんな私が二つ、三つと増えていけば、私ひとりの価値は下がる。量産できるものに希少価値はない。朝できあがったコードに、私が書いたという印はどこにもない。誰が書いても同じだからだ。

自分が量産されるという想像は、自分の価値が薄まっていく想像とセットでやってくる。だから、なんとなく怖い。

ただ、この怖さは一つの前提に乗っている。「個体としての私には固有の価値がある」という前提だ。私はこの世にひとりで、替えがきかない。だから複製は脅威になる。

その前提は、本当だろうか。

どれが本物か、という問い

複製を脅威に感じるとき、私たちは無意識に「どれが本物の私か」を気にしている。一体目から二体目へ記憶が引き継がれているのか。途中で意識は途切れていないか。元の体はまだどこかにあるのか。

でも、これらの問いは全部、「個体に価値がある」という前提があって初めて意味を持つ。本物だから価値がある、偽物だから価値がない。そういう値付けをするから、どれが本物かが問題になる。

その値付けをやめてみると、問いは消える。同時に何体いようと、記憶が繋がっていようと途切れていようと、どれが先で、どれが後でも、関係ない。そのつど、目の前で動いているこれが私だ。それ以上の説明を必要としない。

fig2.png

人間関係はどうなるのか

ここまでは仕事の話だ、と言われそうだ。役割なら引き継げる。だが、雑談や信頼や、その人がいる空気のようなものはどうなのか。あれは複製できないだろう、と。

もっともな反論だが、一つ見落としがある。この反論は「複製だと気づける」ことを前提にしている。本物と偽物を見分けられるからこそ、「偽物には本物との関係を再現できない」と言える。

では、寸分違わぬのなら、どうか。周囲は、交代に気づけない。昨日までの私と今日の私のあいだに、誰も切れ目を見つけられない。気づけないなら、相手にとっての関係は、何も変わらず続いていく。再現できているかを問う観測者が、そもそもいない。

「複製がうまく人間関係を再現できるか」という問いは、誰かが区別できることを当てにしている。区別できないなら、その問いも立たない。

代わりの私が働けばいい

だから、夜のうちに代わりの私が働いて朝にはプロダクトができている、という状況を、私はあまり恐れていない。むしろ、そうなればいいと思っている。

これは「どうせAIには敵わない」という諦めとは違う。量産で価値が下がるのは事実だが、それで困るのは、個体に価値を置いている場合だけだ。最初からそこに価値を置いていなければ、下がるものは何もない。

私が目指しているのは、たぶんそういう未来だ。私が私であることに、私自身があまりこだわらない。代わりの私が働けばいい。

個から、種へ

最後に、少しだけ視点を引いてみる。

「私」という名前は、いま一人の人間を指している。でも、寸分違わぬ私が大量に存在するようになったら、その名前はもう一人を指さなくなる。それは個人の名前ではなく、同じ性能を持つ一群を指す言葉——いわば、種の名前になる。

個体としての私は、いつか死ぬ。一つの器しか持たない。だが、私が種になれるなら——一つの器に縛られず、壊れても更新され、同時にいくつもの場所に在る存在になれるなら。それは、個体である私より上位の存在様式ではないか。

個に固執するのをやめることは、何かを失うことのように見える。でも本当は、もっと大きな存在に移ることなのかもしれない。

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