2023年11月14日・17日の日記にも書いたが、アイヌ語の「虎」に関して、私(安岡孝一)が知る最も古い用例は、Михаил Михайлович Добротворский『Аинско-русскій словарь』(Казань: Университецкая типография, 1875年)の語彙番号1519に出てくる
Ивайсаруспѐ. С. тигръ (въ древности были на Сахалинѣ).
である。ドブロトゥヴォールスキーの記述を信じるなら、昔、樺太(サハリン)には「虎」がいて「イワイサルㇱペ」と呼ばれていたことになる。一方で、Bronisław Piłsudski『Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore』(Cracow: Imperical Academy of Sciences, 1912年)のNr.27 [Dictated (December 1903) by Nita aged 28 of village of Aj.]では「Tóiki emuś-ani ivaj-saruśpe antáwḱe」を「with (my) earthen sword, I struck the six-tailed beast」と訳しており、ピウスツキは「イワイサルㇱペ」を「虎」ではなく「six-tailed beast」(六尾獣)と直訳している。
その次に私が知る限りでは、Николай Александрович Невскийが『Turera rerera petun tori setana kuru kuru』を翻訳したノート(天理図書館088//イ2//A38<B.700>)があって、そこでは「toj arasarush wen arasarush」を「いやな虎 にくらしい虎」と訳している。つまり、ネフスキーの訳を信じるなら「アラサルㇱ」が「虎」ということになる。この『Turera rerera petun tori setana kuru kuru』は、1923年頃に鍋澤ユキから聞き取ったものらしいが、同時期にこれを筆録した金田一京助は「arasarush」を「熊」と訳しており(cf. 北海道立図書館『金田一京助採録ユーカラ・ノート[3]』請求番号M/418フィルムコマ158~163)、「アラサルㇱ」を「虎」ではなく「熊」だとみなしている。これを受けて、知里真志保も『アイヌ語獣名集』(北海道大學文學部紀要, Vol.7 (1959年3月), pp.150-121) §12 (41)で
arásarus クマのばけもの ⦅ホベツ, ホロベツ⦆
と記しており、「アラサルㇱ」を「虎」ではなく「クマのばけもの」とみなしている。「アラサルㇱ」は他の物語にも登場することがあるのだが、それらは「クマのばけもの」でないと困るらしい。
とすると、アイヌ語における「虎」の訳語としては、「イワイサルㇱペ」の方がまだマシ、ということになると思う。ただし、藤村久和は(たぶん)この意見に反対で、「イワイサルㇱペ」を「六尾をもつ(というオオカミの)奴」と訳している(cf. B・ピウスツキ『樺太アイヌの言語と民話についての研究資料<26>病弱な者でも有能な憑き神によって開運する由来話』(創造の世界, 第77号 (1991年2月), pp.138-145))。もちろん「虎」=「イワイサルㇱペ」は私個人の感覚に過ぎないし、もっといい訳語(用例付き)があるなら、どんどん教えてほしい。