2007年11月1日の日記にも書いたが、ABO血液型の「O型」の由来は「0(ゼロ)型」では無い。20世紀初頭の論文を引きつつ、ABO血液型が標準化されるまでの歴史を辿ってみよう。
Karl Landsteinerの1901年の論文『Ueber Agglutinationserscheinungen normalen menschlichen Blutes』(Wiener klinische Wochenschrift, 14 Jg., Nr.46 (14. November 1901), S.1132-1134)では、ヒトの血液には3種類あることが述べられており、それぞれ「Gruppe A」「Gruppe B」「Gruppe C」と名づけられている。これに対し、Alfred von DecastelloとAdriano Sturliは、1902年の論文『Ueber die Isoagglutinine im Serum gesunder und kranker Menschen』(Münchener medicinische Wochenschrift, 49 Jg., No.26 (1. Juli 1902), S.1090-1095)で第4の型が存在することを示唆したが、それに対して命名はしなかった。
Jan Janskýは1907年の論文『Hematologická studie u psychotiků』(Sborník klinický, R.VIII (1907), s.85-139)で、ヒトの4種類の血液型を「I」「II」「III」「IV」で表した。一方、William Lorenzo Mossは1910年の論文『Studies on Isoagglutinins and Isohemolysins』(Bulletin of the Johns Hopkins Hospital, Vol.XXI, No.228 (March 1910), pp.63-70)で、ヒトの4種類の血液型を「I」「II」「III」「IV」で表した。いずれもローマ数字を用いており、Landsteinerの「Gruppe A」が「II」、「Gruppe B」が「III」にあたるのだが、「Gruppe C」と「第4の型」に対する数字が異なっていたのである。
ABO血液型を命名したのは、Emil Freiherr von DungernとLudwik Hirszfeldであり、それは1910年から1911年にかけて発表された3連作の論文でなされた。最初の論文『Ueber Nachweis und Vererbung biochemischer Strukturen, I』(Zeitschrift für Immunitätsforschung und experimentelle Therapie, 1 Teil, Bd.IV, No.4 (21. Januar 1910), S.531-546)では、ヒトの4種類の血液型を「A」「B」「weder A noch B」「A und B」と呼んでいる。「weder A noch B」はLandsteinerの「Gruppe C」、「A und B」は「第4の型」にあたる。これに続く論文『Ueber Vererbung gruppenspezifischer Strukturen des Blutes, II』(Zeitschrift für Immunitätsforschung und experimentelle Therapie, 1 Teil, Bd.VI, No.1 (22. Juni 1910), S.284-292)では、「A」「A(o)」「O」という血液型の遺伝に関して詳しく述べられており、要約すると以下の通りである。
- 「A」型の親どうしからは「A」型の子供しか生まれない。
- 「O」型の親どうしからは「O」型の子供しか生まれない。
- 「A(o)」型の親どうしからはメンデルの法則にしたがって「A」「A(o)」「A(o)」「O」の子供が生まれる。
- 「A」型と「O」型の親からは「A(o)」型の子供しか生まれない。
- 「A(o)」型と「O」型の親からはメンデルの法則にしたがって「A(o)」「A(o)」「O」「O」の子供が生まれる。
- 「A」型と「A(o)」型の親からはメンデルの法則にしたがって「A」「A」「A(o)」「A(o)」の子供が生まれているはずだ。
ちなみに「O」型は、先の論文では「weder A noch B」と記されていたものである。3つ目の論文『Ueber gruppenspezifische Strukturen des Blutes, III』(Zeitschrift für Immunitätsforschung und experimentelle Therapie, 1 Teil, Bd.VIII, No.4 (9. Januar 1911), S.526-562)では、ヒトの血液型を「A」「B」「O」「AB」と記すと同時に、それらの遺伝についてさらに詳しくまとめている。つまり、von DungernとHirszfeldは、論文中で「大文字のO」と「小文字のo」を用いてヒトの血液型の遺伝を説明しており、「数字の0」ではありえない。「O」は、論文中の記述によれば、ドイツ語の「ohne」の頭文字である可能性が高いが、残念ながら断言はできない。
国際連盟のComité d'Hygiène配下のCommission permanente de standardisation des sérums, réactions sérologiques et produits biologiquesが、議長Thorvald Johannes Marius Madsenの提案にしたがって、ヒトの血液型をO, A, B, ABで表記する決定をしたのは、1928年4月25~28日のフランクフルト会議においてである(cf. Klinische Wochenschrift, 7 Jg., Nr.35 (26. August 1928), S.1671)。JanskýシステムとMossシステムは異なるローマ数字を採用しており、「I」と「IV」の間で、輸血ミスなどの医療事故が発生しうるからである。すなわちヒトの血液型に、数字や、連続したアルファベットを用いるのは危険であり、それゆえ、von DungernとHirszfeldの記法を簡略化したO, A, B, ABを採用したのである。
なお、「O型」が「0(ゼロ)型」由来であるとする説は、私(安岡孝一)の知る限り、高田義一郎の『趣味の醫學夜話』(至玄社、1929年4月)243ページが初出のようである。これより古いものがあれば、ぜひ教えてほしい。