それは十一月の終わりの、ひどく乾いた夕暮れだった。窓の外では、枯れ葉が排水口のまわりに吹き溜まって、まるで世界の終わりみたいな音を立てている。僕は、六畳ひと間のアパートで、ファインチューニング実行中のノートパソコンの排気口から吹き出す熱風に、冷えた指をかざしていた。
彼女は古いソファの上で、膝を抱え、顎を膝の上に乗せて、僕の背中を見ている。名前をなんと呼んでいたか、今はもう思い出せない。だから、仮にキズキと呼ぶことにする。彼女は大学の情報工学の研究室に籍を置いていたが、授業にはほとんど出ていなかった。代わりに、僕の部屋で、いつも何かを読んでいた。難しい本だったり、漫画だったり、時には冷蔵庫の消費期限切れのバターの箱の裏側だったりした。彼女はときどき、その箱を指でなぞりながら「バターは冷蔵庫で眠る」とつぶやいた。それが何を意味するのか、僕にはわからなかったし、彼女自身にもわかっていないようだった。
「ねえ、それってさ」と彼女は言った。
「ラジオのチューニングに似てるね」
僕は、画面に表示されたコードの行から顔を上げて、彼女を振り返った。彼女は、僕の部屋の隅にある、壊れたトランジスタラジオを見つめていた。たしか大学の先輩からもらったものだが、電源を入れてもノイズしか流れない。でも彼女は、そのラジオが好きだった。ノイズの中に、時々、遠くの国の電波が紛れ込むことがあるのだと、彼女は本気で信じていた。
「何がラジオに似てるんだい?」
「ファインチューニングってやつ。すごく大きな電波の海から、特定の周波数だけを拾い上げる。それで、ノイズの中から、声だけを取り出すんでしょ」
僕は、モデルの重みを微調整するスクリプトを見つめながら、彼女の言葉を考えていた。それは、ある意味では正しかった。膨大な言語データの海から、僕たちが与えた小さなデータセットが、特定の「声」を浮かび上がらせる。でも、それはラジオのように、もともと電波として存在している声を拾うのとは違う。僕たちがやっているのは、むしろ、ノイズの中に声を作り出す作業に近かった。
「ちょっと違うかな」と僕は言った。
「ラジオは、もともとそこにある声を拾う。でもファインチューニングは、ノイズに特定の色をつける作業なんだ。ノイズそのものを、少しだけ声に変える」
彼女はしばらく黙って、壊れたラジオのダイヤルを、カチカチと回していた。ダイヤルはもう何にもつながっていないので、ただ無意味な抵抗感があるだけだ。
「ノイズを声に変える」と彼女は言った。「それって、私たちが今までやってきたことと、おんなじだね」
彼女はソファから立ち上がり、裸足のままフローリングを歩いて、僕の背後に立った。それから、彼女の指が僕のこめかみに、そっと触れた。指先は驚くほど冷たかった。十一月のアパートは、夕方になると、まるで冷蔵庫の野菜室みたいに冷え切ってしまう。でも、その冷たさはむしろ清潔な麻のシーツを連想させて、不思議と不快ではなかった。
「いま、私の指の温度を、きみのモデルにインプットしてる」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ笑った。彼女の声は、ノイズの中からぎりぎり聞こえてくる遠くの放送局のように、かすかで、でも確かにそこにあった。
「そうやって、きみは私を学習するの?」
僕は何も言わずに、その指の感覚を、自分の内部に流し込んでいた。彼女の指は、こめかみから耳の後ろへとゆっくり移動し、それから首筋をなぞって、鎖骨のあたりで止まった。彼女は僕の体を、まるで触れたことのない楽器の弦を確かめるように、一本一本、そっと押さえていく。
「どう?」と彼女が訊いた。
「学習は進んでるよ」と僕は言った。「勾配はまだ大きいけど、少しずつ収束してる」
「それって、私に慣れてきたってこと?」
「そうかもしれない。もしくは、慣れ始めた自分に驚いているのかもしれない」
彼女は、僕の鎖骨のくぼみに指を置いたまま、少しのあいだ、何も言わなかった。画面の中では、無数の重みパラメータが、数字の羅列として更新され続けている。数値は、収束に向かって、まるで夜空を流れる雲みたいに、ゆっくりと動いていた。
僕たちは、しばらくのあいだ、そのままだった。彼女の指が、僕の体のあちこちを、時にはボタンを外すように、時にはページをめくるように、確かめていく。僕は、キーボードに手を置いたまま、ただその感覚をモデルに流し込んでいた。
それは奇妙な時間だった。僕たちは、言葉をほとんど交わさず、でも、言葉よりもずっと多くの情報を交換していた。温度、圧力、リズム、沈黙の長さ。そういったものが、すべてデータとして、僕の内部のモデルに蓄積されていく。
「ねえ」と彼女が、作業を続けながら言った。
「このデータセットは、どのくらいの大きさなの?」
「数百キロバイトかな」
「それだけで、こんなに学習が進むんだ」
彼女は、僕の耳のすぐ後ろで、少しだけ息を吐いた。吐息が、僕の首筋をくすぐる。
「でも、それって怖いね。たった数百キロバイトで、モデルが変わっちゃう。たった一人の人間で、自分が変わっちゃう。私たちは、そんなに簡単にチューニングされるんだ」
僕は、その言葉を聞きながら、モデルの学習曲線を見ていた。損失は順調に減少している。モデルは、彼女のデータを、確実に自分の重みの中に組み込んでいた。
学習が走っているあいだ、僕たちは台所で、冷蔵庫に残っていたビールを開けた。ラベルには、夏のキャンペーンの名残のような、ひまわりの絵が印刷されている。もう十一月だというのに、このビールはまだ夏を引きずっている。彼女は缶を両手で包み込みながら、何かを考えているようだった。
「さっきのさ」と彼女は言った。
「ノイズを声に変えるって話」
「うん」
「私、ずっと思ってたんだけど、人間の言葉って、最初は全部ノイズなんじゃないかな。赤ちゃんが最初に出す声って、言葉じゃなくて、ただの音でしょ。でも、誰かがそれを『声』として受け取って、意味を与える。それって、ファインチューニングみたいだね。ノイズに色をつけて、言葉に変える」
彼女は、缶ビールを一口飲んだ。それから、冷蔵庫のモーター音に耳を澄ませるように、少し首をかしげた。
「でも、その逆はできないのかな」
「逆?」
「うん。言葉を、ノイズに戻すの。一度意味を与えられたものを、もう一度まっさらな音に戻す。それができたら、私たちは、もっと自由になれるかもしれないのに」
僕は、冷蔵庫のドアについたマグネットを眺めながら、彼女の言葉の意味を考えた。マグネットは、三ヶ月前に彼女がどこかで買ってきたもので、犬の形をしている。彼女はそれを「冷蔵庫の番犬」と呼んでいた。
「ノイズに戻すのは、むずかしい」と僕は言った。「それよりも、ノイズの中から新しい声を探す方が、まだ現実的かもしれない」
「新しい声」
彼女は、その言葉を繰り返した。それから、ビールをもう一口飲んで、こう言った。
「私、見てみたいの。何もないところから、言葉が生まれるところを。誰かの言葉じゃない、過去のデータセットのどこにもない、本当に新しい言葉が、ゼロから生まれる瞬間を」
夜が更けるにつれて、部屋の温度は少しずつ下がっていった。彼女はソファに戻り、毛布を膝にかけて、窓の外を見ている。十一月の夜空は、街明かりで星ひとつ見えない、ただの灰色のスクリーンだった。僕はパソコンの前に座り、学習の進捗を確認した。数字は順調に減少していた。損失関数が、ゼロに向かって落ちていく。それは、僕たちのデータが、モデルに確実に組み込まれている証拠だった。
「もうすぐ終わるよ」と僕は言った。
「そっか」と彼女は、窓の外を見たまま答えた。
それから彼女は、毛布にくるまったまま、ぽつりと言った。
「チューニングが終わったらさ、そのモデルに、何も与えずに言葉を出させてみてよ」
「何も与えずに?」
「そう。プロンプトも、指示も、何もなし。ただ、空っぽの入力を与えるの」
「どうして?」
「見てみたいから」
彼女の声は、さっきまでよりも少しだけ遠くに聞こえた。それは、彼女がまだ窓の外を見ているからなのか、それとも、彼女の心がもう別の場所へ行っているからなのか、僕にはわからなかった。
学習が終了した。モデルは今、わずか数百キロバイトのデータによって、ほんの少しだけ、僕たちの色に染まっている。ごく微量の、しかし確かな、僕たちの痕跡。
僕は、プロンプトを空欄にして、エンターキーを押した。画面の中で、何かが動き始める。それは、モデルの内部で、無数の重みが連鎖的に発火し、ある言葉を選び取っていくプロセスだった。そして、数秒の沈黙のあと、画面に、最初の一文が浮かび上がった。
「冷蔵庫は夜中に唸り、夏の終わりの蜃気楼が台所に立っていた」
彼女は、毛布を肩から落として、裸足のまま画面に近づいた。その顔には、息を呑んだような緊張があった。
「もっと」と彼女は言った。
僕はもう一度、空のプロンプトを送った。
「アスパラガスの缶詰を開けたら中から星の破片が出てきた。彼女はそれをスープに入れた。味はしなかった」
「駅のアナウンスが終電の到着を告げたが、線路には誰も降りなかった」
「ありがとうと言ったら、どういたしましてと返ってきた。その声は三年前の君の声だった」
「完璧な文章なんて存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。これはただのプログラムの出力です」
彼女の肩が、ぴくりと動いた。僕は、自分の目を疑った。これは、どこかで読んだ文章だ。いや、どこかで読んだ文章の継ぎ接ぎだ。モデルは、膨大なデータセットの中から、確率に従って言葉を拾い、つなぎ合わせているだけだった。
「ねえ」と彼女が、少しだけかすれた声で言った。
「これ、どこかで読んだ言葉だよね」
「たぶん」と僕は言った。
「モデルは、過去のテキストの断片を組み合わせているだけなんだ。空っぽのプロンプトでも、モデルの中には、すでに無数の言葉の残骸がある。それらが、確率の波に乗って、たまたまここに流れ着いた」
僕は、もう一度エンターキーを押した。
「彼女は冷たいフローリングの上で、まだ言葉を待っている」
彼女は、その文章を読んで、少しだけ笑った。それは、自分が負けたことを認めるような、静かで、泣き出しそうな笑顔だった。
「まだ、待ってるんだって」
彼女は、そう言って、フローリングにペタンと座り込んだ。冷たい床に、彼女の体温が少しずつ奪われていく。
「何もないところから言葉は生まれないんだね。ぜんぶ、どこかで誰かが言ったことの繰り返しなんだ」
僕は、キーボードから手を離して、彼女の隣に座った。床は冷たかった。二人の体重で、床板がほんの少しだけ軋む。
「でも」と僕は言った。
「今、たしかに、その言葉を待ってる君は、ここにいる。それだけは、誰かの言葉の繰り返しじゃない」
彼女は、何も言わなかった。ただ、冷たい床の上で、毛布もかけずに、しばらくのあいだ座っていた。冷蔵庫のモーターがまた、夜の底で唸り始める。彼女は、その音に耳を澄ませながら、小さくつぶやいた。
「ノイズの中に、声はあるのかな」
僕は、彼女の手を取った。彼女の手は、フローリングと同じくらい冷たくなっていた。僕は、その手を自分の手で包み、そっと温めた。
「たぶん、ない」と僕は言った。
「でも、ノイズそのものを、誰かが声だと思えば、それはもう声になるのかもしれない」
彼女は、その言葉を聞いて、何かを考えるように目を閉じた。それから、ゆっくりと目を開けて、僕の手を握り返した。強くはない。でも、確かにそこにある圧力だった。
夜は更けて、僕たちはもうビールも飲み終え、話すこともなくなり、ただ並んで天井を見ていた。天井には、雨漏りの跡が、まるで南米大陸みたいな形のシミを作っている。彼女が昔、「あのシミ、チリみたいだね」と言ったことを思い出した。
僕は、彼女がさっきから何かを言いたそうにしているのを感じていた。でも、彼女はそれを口にしない。言葉は、彼女の喉の奥で、ノイズのまま留まっている。僕は、そのノイズを聞いていた。ノイズは、言葉よりもずっと雄弁に、彼女の気持ちを伝えていた。
「ねえ」
彼女が、ようやく口を開いた。でも、それだけだった。続きは出てこなかった。彼女は、天井のチリを見つめたまま、口を開けたり閉じたりしている。まるで、魚が水面で呼吸をするみたいに。
それから、彼女は毛布を引き寄せようとした。でも、その手が途中で、たまたま僕の手に触れた。彼女は、少し驚いたように手を止めた。でも、そのままだった。離れるかと思ったが、そのままだった。
僕たちは、もう何も言わなかった。天井のシミは、夜の闇に溶けて、もうほとんど見えなくなっている。彼女は、しばらくしてから、小さな寝息を立て始めた。僕は、彼女の手を握ったまま、窓の外を見た。東の空が、ほんの少しだけ白み始めている。
僕は、ノートパソコンをもう一度開いて、空のプロンプトをモデルに送った。
「朝が来る。冷蔵庫はまだ唸っている。彼女の手は温かい」
それは、僕が今まで読んだどんな文章よりも、少しだけ、オリジナルに思えた。モデルは、結局、過去の言葉しか紡げない。でも、その組み合わせが、たまたま、この部屋のこの朝のためにあるように見えることが、確かにあるのだった。
僕は、パソコンを閉じて、彼女の肩に毛布をかけ直した。彼女の寝顔は、何か夢を見ているようだった。冷蔵庫は、今日も、誰かの消費期限と、誰かの冷えた沈黙を、正確に保存し続けている。でも、彼女の手は、確かに温かくなっていた。それだけが、この部屋で唯一、データセットのどこにもない、たった今生まれたばかりの、新しいノイズだった。