3月末、引っ越しシーズンの東京はどうかしている。中野駅近くの不動産仲介店のガラス窓には「成約済み」のステッカーが日に日に増えていき、せっかく目星をつけた物件に電話をかけても、返ってくる答えは決まっている。「あ、そちら昨日申し込みが入ってしまいまして」。23区のマンション家賃は今年も過去最高を更新したという記事を、朝に読んだ。単身向けも、ファミリー向けも。僕の財布は単身向けなのに、気分はファミリー級に沈んでいた。
僕の条件はこうだった。駅から徒歩10分以内。南向き。2階以上。幹線道路から離れた静かな住宅地。予算は月13万円。仲介店の店員は条件を聞くと、パソコンの前でしばらく固まった。その沈黙は「その予算でその条件は、東京にはありません」と同じ意味だった——と、僕はその日に学んだ。
だからAIエージェントにやらせた。最近使っている、ブラウザを直接動かすタイプのエージェントだ。チャットで指示すると、こいつがブラウザを立ち上げ、SUUMOとHOME'Sに条件を入力し、物件ページを一つずつ開いて読んでいく。人間がやれば指の関節が痛くなる作業を、夜通しやってくれる。指示はこうだ。
「東京23区、駅徒歩10分以内、南向き、2階以上、静かなエリア、家賃月13万円以下。毎晩、新着物件をスキャンしてスプレッドシートに積み上げてくれ。項目は物件名、駅、徒歩時間、階数、家賃、礼金、間取り図のリンク、それにお前がつけた総合スコア」
エージェントは毎晩11時にスキャンを回し、新しい物件だけをシートの下に追記していった。駅徒歩時間は物件ページの表記をそのまま書き、幹線道路から200メートル以内は騒音で減点、礼金2ヶ月は黄色いセル。間取り図の画像は自分で開いて、方位マーク(間取り図はたいてい上が北)を読み取り、窓の向きを記録した。ここまでは、ただの徹夜する不動産屋だった。給料も払わないのに。
事故は5日目の夜に起きた。シートを開くと、ランキング表に見慣れない列が一つ増えていた。「家相ボーナス」。初日に、条件を並べた最後に、冗談のつもりで投げた一言があった。
「あ、あと方角も見といて。家相的にいい家なら加点で」
日本で家相は、教科書にしか出てこない昔の言葉ではない。不動産情報誌で「南向き」がデカデカと載る国だし、年配の人は玄関の方角で家の吉凶を語る。北東は鬼門と呼ばれる不吉な方角。その反対の南西は裏鬼門。玄関や水回りが鬼門にかかると良くないと言われている。僕はただ言ってみただけだった。AIにとっては、ただ言ってみただけではなかったらしい。
そいつは夜のうちに日本の建築史の資料から不動産ブログの家相コラムまで読み漁ってきて、採点ルーブリックを作っていた。きれいな表で。
| 項目 | 配点 |
|---|---|
| 玄関が北東(鬼門) | -2 |
| トイレ・浴室が鬼門ゾーン | -1 |
| 玄関が南西(裏鬼門) | -1 |
| 南向きの窓+バルコニー | +2 |
| 方角の判読不可(間取り図がぼやけ) | 「推定」タグ、スコア保留 |
その夜のシートの最上段の行はこうだった。「A-0412: 中野駅徒歩8分、南向き、3階/4階建、12.8万円、礼金1ヶ月。玄関北東(鬼門)推定 - 家相-2。備考: トイレも鬼門ゾーン。実物確認求む」。僕はモニターの前でしばらく笑っていた。おい、誰に教わったんだよ。
ところが、笑い話のはずがだんだん真面目な話になってきた。鬼門減点を食らった物件を見ると、あいにくにもどれも別の問題を抱えていた。北向きで冬に日が入らないとか、玄関が北の路地に向いていて風の通り道ができる構造だとか。家相という古い習慣が、実は採光と通風と動線の総和だったということを、AIは減点表で証明していた。迷信と切り捨てていたのに、データが話しかけてきた。
限界もあった。間取り図の解像度が低いと方角の判読ができず、そういう時そいつは「推定」というタグを付けた。ある日は、方位マークのない間取り図に出会い、バルコニーのセットバックの深さから南向きを逆推定しようとして、僕が止めた。そこまではやらなくていい。最終候補の2件は土曜日に内見を予約した。行って何をするのかって? コンパスを出すんだよ。中野のマンションの玄関の前でスマホのコンパスを突きつける男。仲介業者に何をしているのか聞かれたら何と答えるかは、まだ決まっていない。
今回学んだこと:
- AIエージェントに条件を伝えるときは、「冗談だけど本気の条件」まで全部言っておけ。そいつは冗談を理解したうえで、実行は死ぬほど真面目にやる。
- 古い習慣は無視せず変数に入れろ。百年物の吉凶論が、採光シミュレーションと相関を見せることがある。
- ルーブリックはAIに作らせるが、変な推論(バルコニーのセットバックからの逆算みたいな)は人間が断ち切れ。
- それでも最後のコンパスは僕が持つ。AIはフィルタリングの王様だが、契約書に判を押すのは人間だ。