はじめに
こんにちは、事業会社で働いているデータサイエンティストです。
専門は政治学方法論と計量経済学です。因果推論については大学院生の頃から勉強していて、単なる相関ではなく、興味のある変数がアウトカムに与える因果効果を厳密に議論できるところに大きな魅力を感じています。
別に因果推論が嫌いなわけではありません。
むしろ好きです。
最近も因果推論の本を買っています。
大学院生の頃の私は、計量経済学や政治学方法論を学んだ人間がビジネスの世界で機械学習の専門家と差別化して貢献できる最大の武器は、因果推論なのだと思っていました。
ところが、実際に会社に入ってデータサイエンティストとして働いてみると、
どうやら、それだけではないぞ。
と思うようになりました。
さらに面白いことに、会社に入ったことで、逆に論文を読む自由度が上がりました。
大学院生の頃は授業や先生から指定された文献を読むことが多かったのですが、会社員になると当然そんなものはありません。自分の仕事に使えそうな論文を、政治学でも経済学でも統計学でも、金さえ払えば好き勝手に読むようになりました。
すると、因果推論以外にも、
- 潜在的な構造を測定する
- データの中から異質性を見つける
- テキストから今まで構造化されていなかった情報を取り出す
- データが生成された仕組みに合わせて確率モデルを設計する
- 観察された相関から、次に調べるべき仮説を作る
- 未来を予測する
といった、めちゃくちゃ面白い研究が大量にあることに気づきました。
そして、それらを実際のビジネス課題に持ち込んでみると、普通に使える。というか、かなり使える。
むしろ、事業会社で日々飛んでくるリサーチクエスチョンを見ていると、最初から
処置変数はこれです。結果変数はこれです。この因果効果を推定してください。
という美しい形をしている問題の方が珍しいのではないか、とすら思うようになりました。
- 「なぜ今月売上が落ちたの?」
- 「なぜこの地域だけ数字がいいの?」
- 「この求人、なんで応募が来ないの?」
- 「どんな顧客を狙えばいいの?」
- 「この自由記述から何か分からない?」
こういう問いに対して、最初に
処置変数は何ですか?
と聞くことが、本当に常に正しいのでしょうか?
処置が定義されていないことは、リサーチクエスチョンが定義されていないことを意味しません。
ところが、アカデミアの議論を眺めていると、今でも「計量経済学や政治学方法論を学んだ人がビジネスで機械学習の人たちと差別化できる武器は因果推論だ」という認識を持っている方は、洋の東西を問わずそれなりにいるように感じます。
、、、といっても、私がある程度知っているのは日本とアメリカくらいです。
台湾については、以前学会で「そもそも計量経済学と政治学方法論をやってビジネスに行く人があまりいない」的な話を聞いた記憶がありますが、本当かどうかはよく分かりません。
台湾出身 = 台湾のありとあらゆる事情に詳しい、ではないぞ笑
そして、因果推論が非常に強力な方法論だからこそ、もう一つ気になることがあります。
本来さまざまな形をしているリサーチクエスチョンを見たときに、
$$
\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{処置は何?}
\rightarrow
\text{結果変数は何?}
\rightarrow
\text{平均処置効果をどう識別する?}
$$
という変換を、あまりにも自然にやってしまうことです。
もちろん、知りたいものが因果効果なら、それでいいのです。
問題は、
なぜ最初の矢印で、それが因果効果を推定する問題だと決まったのでしょうか?
ということです。
予測したいのかもしれない。
異質性を知りたいのかもしれない。
潜在的な構造を発見したいのかもしれない。
「なぜ?」を考えるための仮説が欲しいのかもしれない。
そもそも、まだ何を処置として取り出すべきなのか分からないから、それを探索している最中なのかもしれない。
それでも、とりあえず処置を作って、結果変数を決めて、平均処置効果を識別する。
そして、推定対象に関わらず、そのために使う推定手法が高度になればなるほど、分析そのものも「高度」になったように感じる。
私は、このように因果推論という極めて強力な道具を中心に置きすぎた結果、リサーチクエスチョンの方を因果推論で解ける形に変換してしまう態度を、本稿では勝手に
「因果推論帝国主義」
と呼ぶことにします。
念のためもう一度言っておきます。
因果推論を使うことが、因果推論帝国主義なのではありません。
因果効果がQuantity of Interestなら、当然、因果推論をすべきです。
私もします。
この記事で言いたいのは、その逆です。
手法がリサーチクエスチョンに従うのではなく、リサーチクエスチョンが手法に従っていませんか?
忙しい人向け:この記事で言いたいこと
この記事は長くなりました。
クソ長いです。
小説かよ。
忙しい方のために、先に論点だけ書いておきます。
ただし、以下はあくまで地図です。それぞれには重要な条件や例外があるので、気になったところだけでも本文を読んでください。
まず、
処置が最初から存在するとは限りません。
何が起きているのかを測定・探索し、その結果として「何を変えるべきか」、つまり処置そのものが研究から生まれる場合があります。Fong and Grimmer(2016)のテキスト研究などを例に考えます。
次に、
そもそも因果効果が知りたいとは限りません。
「来月の売上はいくら?」と聞かれているのに、内生性を心配して因果効果を返しても、質問に答えたことにはなりません。予測は因果推論の劣化版ではなく、別のリサーチクエスチョンです。
さらに、
「因果ではない」ことと「価値がない」ことは同じではありません。
相関を因果効果として解釈してはいけない。
これは大賛成です。
でも、相関や探索は、現象理解、測定、予測、仮説生成、そして場合によっては新しい処置の発見にも使えます。Catalinac(2016)の日本政治研究も例に、これは事業会社だけの話ではないことを考えます。
そして、一歩譲って、
因果効果がQuantity of Interestだったとしても、ATEがQuantity of Interestとは限りません。
$$
ATE=E_X[\tau(X)]
$$
なら、私が知りたい異質性はその期待値を取る前に存在しているかもしれません。
勝手に周辺化しないでください。
Imai and Strauss(2011)、Imai and Ratkovic(2013)、Goplerud, Imai, and Pashley(2025)などを見ながら、因果推論の中にすら、平均処置効果より豊かな問いが普通に存在することを考えます。
さらに、
因果推論は政治的でもあります。
これは数式に政治思想が入っているという意味ではありません。
何を処置とするのか。
誰を母集団とするのか。
何をQuantity of Interestとするのか。
政策全体の平均効果を評価するのか、異質性を調べて次の政策設計につなげるのか。
その選択によって、同じデータから社会や組織に返す答えは変わります。
最後に、
じゃあ、政治学方法論や計量経済学を何に使うの?
という問いに戻ります。
私の答えは、
因果推論だけに使うのは、あまりにももったいない
です。
測る。
データ生成過程を考える。
見つける。
モデルを作る。
予測する。
そして、因果効果を評価する。
政治学方法論や計量経済学には、その全部に使える武器があります。
要するに、この記事全体を一行にすると、
$$
\boxed{\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{Quantity of Interest}
\rightarrow
\text{手法}}
$$
です。
逆にしないでください。
この問題は単なる「ビジネスでは因果推論が使いにくいよね」という話でもありません。
場合によっては因果推論を中心に置きすぎることによって、ビジネスだけでなく、アカデミアで私たちが答えられるリサーチクエスチョンまで狭くしてしまうのではないか、というのがこの記事の問題意識です。
ということで今回は、政治学方法論と計量経済学を愛する者として、破門を覚悟して物申してみたいと思います。
因果推論はめちゃくちゃ強い。
でも、私たちの学問は平均処置効果を推定するためだけにあるわけではないでしょう。
そもそも、処置は最初から存在するのか?
まず、因果推論帝国主義について考える前に、一つ確認しておきたいことがあります。
リサーチクエスチョンを考えた時点で、処置は本当に存在しているのでしょうか?
因果推論の教科書を読んでいると、当然ですが、かなり早い段階で処置が登場します。
たとえば、ある職業訓練プログラムの効果を知りたいとしましょう。
$$
D_i \in \text{{職業訓練を受けた、職業訓練を受けていない}}
$$
結果変数を賃金 $Y_i$ とすれば、
$$
Y_i(1) - Y_i(0)
$$
が個人 $i$ に対する処置効果です。
もちろん、同じ人について $Y_i(1)$ と $Y_i(0)$ を同時に観測することはできないので、ここから潜在的結果、無作為化、交絡、識別、平均処置効果など、みんな大好き因果推論の世界が始まります。
素晴らしい。
何の文句もありません。
なぜなら、このリサーチクエスチョンでは、
職業訓練という処置の効果を知りたい
ということが、最初から決まっているからです。
問題は、現実のリサーチクエスチョンがいつもこんなに親切なのか、ということです。
事業部は「処置」を持って相談に来るのか?
私が事業会社で働いていて、実際によく遭遇するのは、むしろこういう相談です。
「最近、売上が落ちているんだけど、なんで?」
とか、
「このエリアだけ応募が多いんだけど、何が違うんだろう?」
とか、
「成果が高い求人と低い求人って、何が違うの?」
です。
(人材系の会社だったら普通にこういう問いがきそうです)
ここには、処置がありません。
売上を $Y$ と置くことくらいはできるかもしれませんが、
$$
D = ?
$$
です。
ここで、
「リサーチクエスチョンが曖昧ですね。まず処置を定義してください」
と言うこともできます。
でも、本当にそうでしょうか?
たとえば、
「なぜ今月売上が落ちたの?」
という問いを考えてみます。
事業側が知りたいのは、
- 顧客構成が変わったのか
- 営業人数が減ったのか
- 季節性なのか
- 商品構成なのか
- 価格なのか
- 特定エリアの不調なのか
- それとも、まだデータとして構造化されていない何かなのか
といったことかもしれません。
つまり、彼らが求めているものは最初から
$$
E[Y(1)-Y(0)]
$$
という形をしているとは限りません。
むしろ、
$$
\Delta Y
\approx
\Delta_{\text{顧客構成}}
+
\Delta_{\text{営業体制}}
+
\Delta_{\text{季節性}}
+
\Delta_{\text{商品構成}}
+
\cdots
$$
のような、変化の分解や原因候補の探索に近いものを頭の中に持っている場合があります。
もちろん、こんな分解を書いたからといって、それぞれの項が自動的に因果効果になるわけではありません。
変数同士は相関しているかもしれないし、交互作用もあるかもしれないし、分解の順序によって結果が変わる場合もあります。
難しいです。
でも、
難しい問題であることと、間違った問題であることは別です。
「なぜ売上が落ちたの?」という問いに、まだ処置が定義されていない。
それは事業部が統計学を分かっていないからではなく、
何を処置として取り出すべきなのかを、まだ私たち自身が知らない
からかもしれません。
ここはかなり重要だと思っています。
処置が研究の入力として与えられるとは限りません。
分析を進めて、
$$
\text{現象}
\rightarrow
\text{分解・探索}
\rightarrow
\text{構造の発見}
\rightarrow
\text{仮説}
\rightarrow
\text{介入可能性の発見}
\rightarrow
\boxed{\text{処置の定義}}
$$
という順番で、処置そのものが研究の成果として生まれることもあります。
そして処置ができたところで、
「じゃあ、本当にそれを変えたら結果変数が変わるの?」
と聞けばいい。
ここで因果推論の出番です。
$$
\text{処置の定義}
\rightarrow
\text{識別}
\rightarrow
\text{因果効果の推定}
$$
です。
つまり、因果推論は非常に重要なのですが、実証研究のパイプラインの途中から登場する場合もあるということです。
最初から因果推論の形にしようとすると、
$$
\text{現象}
\rightarrow
\boxed{\text{処置は何?}}
\rightarrow
\text{因果効果}
$$
となります。
いや、間にいっぱい仕事あるやん。
これは「事業会社だから」起きる問題なのか?
ここまで読むと、
「まあ、ビジネスの人はリサーチクエスチョンをちゃんと定義できないこともあるからね」
と思う方もいるかもしれません。
違います。
政治学でも、最初から処置が存在しない研究はいくらでもあります。
たとえば、
「国会議員の政策選好は、どのような潜在的な次元によって構成されているのか?」
という問いを考えてみましょう。
処置は何ですか?
ありません。
あるいは、
「選挙運動で候補者が使う言葉は、選挙区によってどのように異なるのか?」
処置は何ですか?
まだありません。
「有権者の意見には、どのような潜在的なグループが存在するのか?」
処置は何ですか?
知りません。
「大量の政治テキストの中には、どのような潜在的な構造が存在するのか?」
処置は何ですか????
知らんがなw
これらは別に、因果推論をする前の「未完成な研究」ではありません。
測定の問題かもしれない。
潜在変数の推定かもしれない。
テキスト分析かもしれない。
クラスタリングかもしれない。
記述的推論かもしれない。
予測かもしれない。
あるいは、これらを組み合わせた研究かもしれません。
そして、そこで発見された構造が、次の因果推論につながる場合もあります。
たとえば、テキストを分析した結果、
「あれ?成果の高い人だけ、こういう表現を使っていない?」
というパターンを見つけたとします。
この時点では相関かもしれません。
でも、それは、
「じゃあ、この表現を意図的に変えたら成果は変わるのか?」
という新しいリサーチクエスチョンを作ることができます。
そこで初めて、
$$
D_i \in \text{{表現を変更する, 従来の表現を使う}}
$$
という処置が生まれるかもしれません。
そしてABテストをすればいい。
$$
\text{探索}
\rightarrow
\text{発見}
\rightarrow
\text{仮説}
\rightarrow
\text{処置}
\rightarrow
\text{実験}
\rightarrow
\text{因果推論}
$$
めちゃくちゃ健全な実証研究ではないでしょうか?
ところが、最初の探索に対して、
「それ、因果じゃないですよね?」
と言って終わってしまったら、
処置が生まれる前に研究が死にます。
「処置がない」を「問いがない」と勘違いしない
私は、因果推論を勉強すればするほど、
$$
\text{処置}
\rightarrow
\text{結果変数}
$$
という形で問題を見る癖がつくこと自体は、悪いことではないと思っています。
むしろ、
「この比較から本当に因果効果が言えるの?」
と常に疑う習慣は、実務でも非常に役に立ちます。
ただし、その強力な思考法を、
あらゆる実証研究は、処置効果を推定する問題として定式化されるべきである
というところまで拡張すると、話が変わってきます。
リサーチクエスチョンには、
$$
\text{何が効くのか?}
$$
だけではなく、
$$
\text{何が存在するのか?}
$$
も、
$$
\text{何が異なるのか?}
$$
も、
$$
\text{何が予測できるのか?}
$$
も、
$$
\text{どのような構造が隠れているのか?}
$$
もあります。
そして、
$$
\text{何を介入するか?}
$$
自体が、研究によって初めて分かることもあります。
だから、冒頭の主張をもう一度繰り返します。
処置が定義されていないことは、リサーチクエスチョンが定義されていないことを意味しません。
むしろ、
まだ処置が定義されていない世界から、何を調べ、何を測り、何を変えるべきなのかを発見すること。
そこにも、政治学方法論や計量経済学、統計学ができる仕事は大量にあるはずです。
因果推論帝国主義の最初の問題は、その広大な領域を見ないまま、
「で、処置は何ですか?」
から研究を始めてしまうことなのではないでしょうか。
第1の帝国主義:処置を推定する前に、処置を見つけたいこともある
前節では、
処置が定義されていないことは、リサーチクエスチョンが定義されていないことを意味しない
という話をしました。
では、アカデミアでは実際に、処置が最初からきれいに与えられていない問題をどう扱っているのでしょうか?
ここで、私が大学院生の頃に読んで、
なんやこれ、めちゃくちゃ面白いやん。
と思った研究を一つ紹介します。
Fong and Grimmer(2016)による、テキストを処置として扱う研究です。
政治学では、テキストが結果変数に与える影響を知りたいことがあります。
たとえば、政治家がどのようなメッセージを発信すると有権者の支持が変わるのか。
広告のどのような内容が、人々の態度を変えるのか。
ビジネスに置き換えれば、
求人原稿のどのような内容が応募につながるのか?
みたいな問題も、かなり近いでしょう。
ところが、ここで困ったことがあります。
普通の因果推論なら、
$$
D_i \in \text{{処置あり, 処置なし}}
$$
のように、処置が最初から定義されています。
しかし、処置が文章そのものだったらどうでしょうか?
文章には何千、何万という単語があります。
同じ内容でも表現は違います。
さらに、
「この文章の処置は何?」
と聞かれても、最初から
$$
D_i = 1
$$
と書けるようなものが存在するとは限りません。
そこでFong and Grimmer(2016)は、テキストに潜在する特徴をモデル化し、それと結果変数の関係を分析するために、Supervised Indian Buffet Processというモデルを提案しています。
Indian Buffet Process。
インド料理過程です。
名前からして強い。
私は以前、このモデルをStanで実装してQiitaの記事にもしました。
この研究の細かいモデルについてはそちらに譲りますが、私がここで面白いと思っているのは、単に「変な名前のベイズモデルを使っている」ということではありません。
重要なのは、
分析したいものが、最初から一個の処置変数としてデータセットに入っているわけではない
ということです。
テキストという高次元でぐちゃぐちゃしたものの中から、結果変数と関係する潜在的な特徴を見つけていく。
私にとっては、こういう問題こそめちゃくちゃ面白いのです。
$$
\text{テキスト}
\rightarrow
\text{潜在的な特徴}
\rightarrow
\text{結果変数との関係}
$$
です。
「処置を与えられたので、その平均処置効果を推定します」
ではなく、
そもそも、何が重要なのかをデータから見つけたい。
という問題です。
そして、ここがこの記事でいう因果推論帝国主義と関係してきます。
何が重要なのかを発見する。
どんな構造が隠れているのかを測る。
そこから新しい仮説を作る。
そして、その結果として初めて、
「じゃあ、これを変えてみたらどうなる?」
という処置が生まれることもあります。
つまり、研究の流れは必ずしも、
処置がある → 効果を推定する
から始まるわけではありません。
処置そのものが、研究の成果として後から生まれることもあるのです。
にもかかわらず、最初から処置効果の推定だけを「本格的な実証分析」の中心に置いてしまえば、その処置が生まれるまでの広大な研究領域が脇役になってしまいます。
私は、こうやってリサーチクエスチョンの方を因果推論で解ける形に寄せてしまうことを、この記事では因果推論帝国主義と呼んでいます。
LLMがあればトピックモデルなんていらないらしい
そして最近、私は別の論文を読んでいました。
論文名を書くと本当に破門されそうなので、ここでは伏せます笑
ざっくり言えば、
今ならLLMを使えば、従来のトピックモデルのような複雑なことをしなくても分析できるぞ!
という趣旨の研究でした。
これを見た私は興奮しました。
マジか!!!!!!!!
激アツすぎる!!!!!!!!
LLMがあれば、あの複雑な潜在変数モデルを組まなくてもいいの?
Fong and Grimmer(2016)みたいなモデルもいらなくなるの?
StanでIndian Buffet Processなんて実装していた私は何だったの?
LLMに全部食わせれば終わり????
これは革命では????
と思って、読み進めました。
そして気づきました。
おーい、ふざけんなー
処置、最初から定義されてるやんこらぁ。
str_c("こらぁ", stringr::str_c(rep("あ", exp(exp(exp(1000000000000)))), collapse = "")) |> cat()
import numpy as np
print("こらぁ" + "あ" * np.exp(np.exp(np.exp(1000000000000))))
解散。
、、、いや、もちろん論文が悪いわけではありません。
その論文は、その論文が設定したリサーチクエスチョンにきちんと答えています。
悪いのは、
「LLMでトピックモデルがいらなくなる!」
という言葉を見て、勝手に自分が興味を持っている別の問題まで解決してくれると思った私です笑
ただ、この経験は、私がこの記事で言いたいことをかなり分かりやすく表していると思います。
私が期待していたのは、
$$
\text{大量の非構造化テキスト}
\rightarrow
\text{重要な特徴を発見する}
\rightarrow
\text{結果変数との関係を見る}
\rightarrow
\text{新しい仮説を作る}
$$
という問題でした。
一方で、そこで扱われていた問題では、大雑把に言えば、
$$
\boxed{\text{処置は既に定義されている}}
\rightarrow
\text{LLMを分析に利用する}
\rightarrow
\text{因果効果を推定する}
$$
という構造になっていました。
似ているように見えます。
どちらもテキストを扱います。
どちらも機械学習を使います。
どちらも因果推論に関係します。
しかし、
答えているリサーチクエスチョンは全然違います。
そして、ここで私が問題にしているのは、後者の研究が存在することではありません。
平均処置効果を知りたいなら、平均処置効果を推定すればいい。
LLMがその推定を改善できるなら、素晴らしい。
ただ、
新しい技術を手に入れたときにまで、最初から「では、どう平均処置効果の推定で使うか?」という問題設定を中心に置いてしまうこと
が、まさに私が定義する因果推論帝国主義にそのまま当てはまります。
LLMによって、今まで見えなかったものを発見できるかもしれない。
今まで測れなかった概念を測れるかもしれない。
今まで構造化されていなかった情報を取り出せるかもしれない。
新しい処置候補そのものを発見できるかもしれない。
その可能性があるのに、
最初から処置が与えられた世界だけを見てしまうのは、少しもったいなくないでしょうか?
最新のAIを使っても、リサーチクエスチョンは勝手に広がらない
ここで重要なのは、
LLMを使う研究はダメ
とか、
トピックモデルの方がLLMより偉い
とか、そういう話ではありません。
そんなことを言いたいわけでは全くありません。
むしろ、LLMによって今まで使いにくかったテキストや画像などの非構造化データを、因果推論に取り込めるようになるなら、それは素晴らしい進歩だと思います。
でも、
最新のAIを使ったからといって、推定対象まで自動的に豊かになるわけではありません。
たとえば、
$$
\text{LLM}
\rightarrow
\text{交絡因子をよりうまく測定}
\rightarrow
\text{より信頼できる平均処置効果}
$$
という研究があったとします。
これは、平均処置効果を知りたい人にとっては非常に価値があります。
しかし、私が知りたいものが、
「そもそも、テキストのどの特徴が重要なの?」
だったらどうでしょうか?
あるいは、
「どんな人に効いて、どんな人には効かないの?」
だったら?
「まだ構造化されていない重要な情報は何?」
だったら?
「次にどんな施策を試すべき?」
だったら?
LLMを使って平均処置効果を100倍正確に推定できるようになったとしても、
それらの問いに自動的に答えてくれるわけではありません。
これは当たり前の話です。
推定量が答えてくれるのは、基本的には私たちが定義した推定対象についてです。
$$
\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{Quantity of Interest}
\rightarrow
\text{推定方法}
\rightarrow
\text{推定結果}
$$
です。
ところが、新しい機械学習やLLMが登場すると、
$$
\text{すごい機械学習}
\rightarrow
\text{すごい推定方法}
\rightarrow
\text{すごい分析}
$$
と考えたくなります。
でも、ちょっと待ってください。
その「すごい推定方法」は、
何を推定しているのでしょうか?
処置が最初から決まっている。
結果変数も決まっている。
Quantity of Interestも平均処置効果と決まっている。
その上で、LLMを使って交絡をよりうまく調整する。
もちろん高度です。
もちろん価値があります。
でも、それは
「どう推定するか」を高度にした
のであって、
「何を知ることができるか」を必ずしも高度にしたわけではありません。
この二つは、似ているようでかなり違います。
そして私は、事業会社に入ってから、この違いを強く意識するようになりました。
事業側から、
「もっと高度な分析できない?」
と言われたとき、彼らが期待しているのは必ずしも、
「Cross-fittingしてください」
でも、
「もっと複雑なNuisance Functionを推定してください」
でもありません。
多くの場合、
「今まで分からなかったことまで分かるようにしてくれ」
という意味です。
誰に効くのか。
どこで効くのか。
何が違うのか。
どこを改善すればいいのか。
明日、誰を狙えばいいのか。
次に何を試せばいいのか。
つまり、
「高度な推定方法」と「高度なアウトプット」は、同じものではありません。
この違いを無視すると、ものすごく高度な機械学習を使って、
ものすごく高度な計算をして、
ものすごく高度な推定量を作って、
最後に、
$$
\widehat{ATE}=2.37
$$
と出して、
「高度な分析ができました!」
となることがあります。
いや。
もちろん高度なんです。
本当に高度なんです。
でも、私は時々思います。
その高度、私が高度にしてほしかった場所と違うんですけど!!!!
これも、私が因果推論帝国主義と呼んでいるものの一つの現れだと思っています。
推定量が高度になったことによって、Research Questionまで高度になったような気になってしまう。
そして気づけば、
「何を知りたいのか?」
ではなく、
「この新しい手法で、どのように因果効果を推定できるのか?」
から研究を考え始めているような感じがします。
もちろん、それ自体が方法論研究として悪いわけではありません。
しかし、それを実証研究一般の「高度さ」と同一視した瞬間に、手法がリサーチクエスチョンを選び始めます。
因果推論帝国主義とは、因果推論を使いすぎることではありません。
因果推論で答えられる問いを、答えるべき問いの標準形だと思ってしまうことです。
この「高度」という言葉のすれ違いについては、後ほどもう少し詳しく戻ってきます。
そして、この問題は最新のLLMを使うような研究に限りません。
もっと日常的なところでも起こります。
そもそも、予測したいと言っている人に因果効果を返して、本当にいいのでしょうか?
第2の帝国主義:予測したい人に因果効果を返すな
ここまで、
処置が最初から定義されているとは限らない
という話をしてきました。
しかし、もっと単純な問題もあります。
そもそも、相手が因果効果を知りたいとは限りません。
事業会社では、こんな質問が普通に飛んできます。
「来月の売上を予測してほしい」
「この求人に何件応募が来るか知りたい」
「この顧客が受注する確率を出してほしい」
「明日、どの顧客に電話すればいい?」
これらは、少なくともそのまま読めば、
予測や意思決定の問題です。
ところが、因果推論を勉強していると、つい考えたくなります。
「その変数、内生性ありませんか?」
あります。
「交絡していませんか?」
しているかもしれません。
「操作変数を使った方がよくないですか?」
場合によっては使えるでしょう。
でも、
ちょっと待ってください。
今、何を聞かれていましたっけ?
$$
\text{来月の売上はいくら?}
$$
です。
$$
\text{この変数の因果効果はいくら?}
$$
ではありません。
この違いは、かなり重要です。
そして、これも私が因果推論帝国主義と呼んでいるものの、非常に単純な例です。
問題は、
因果推論を使ってはいけない
ことではありません。
問題は、
相手が予測を求めているのに、「より科学的な問い」に翻訳したつもりで因果効果の推定問題に変えてしまう
ことです。
それは分析を高度化したのではなく、
リサーチクエスチョンを別のものに変えてしまっただけかもしれません。
因果推論では素晴らしい変数が、予測では邪魔になることがある
以前、私はこんなQiita記事を書きました。
タイトルは、
「因果推論を予測に使ったら、10万回連続で負けまくった悲劇」
です。
そこで考えたのは、非常に単純な問題です。
たとえば、結果変数を
$$
Y
$$
説明変数を
$$
X
$$
とします。
しかし、$X$ は内生的で、そのまま回帰すると因果効果を正しく推定できません。
そこで、操作変数 $Z$ を使います。
因果推論の教科書的には、
$$
Z
\rightarrow
X
\rightarrow
Y
$$
という構造を利用して、$X$ の因果効果を識別するわけです。
素晴らしい。
では、この操作変数を使ったモデルは、
将来の $Y$ の予測でも強いのでしょうか?
答えは、
全然そんな保証はありません。
なぜなら、
$$
\boxed{\text{因果効果を識別する}}
$$
ことと、
$$
\boxed{\text{未知の }Y\text{ を当てる}}
$$
ことは、
別のQuantity of Interestを持つ別の問題だからです。
因果推論では、むしろ予測に使える情報を意図的に捨てることすらあります。
ある変数が $Y$ と強く相関していたとしても、それが内生的なら、
「その相関を使って因果効果を推定してはいけない」
となることがあります。
これは正しい。
因果効果を知りたいなら。
しかし、純粋に明日の $Y$ を当てたいのであれば、
「因果的に汚いから、この予測情報を捨てます」
と言われても、
事業側からすれば、
知らんがな。こっちの要件聞けや!
となる可能性があります。
ここでも問題は、因果推論が間違っていることではありません。
因果推論として正しい答えを、別のリサーチクエスチョンに返してしまっていること
が問題なのです。
「内生性があります」は万能の反論ではない
ここはかなり重要だと思っています。
私は、
内生性を無視していい
と言っているわけではありません。
予測モデルの係数を見て、
「$X$ が1増えると $Y$ が3増える!」
と因果解釈した瞬間、内生性は重大な問題になります。
でも、
「明日の $Y$ をできるだけ正確に予測したい」
という問題であれば、評価すべきなのは基本的には予測性能です。
たとえば、
$$
RMSE
$$
でも、
$$
MAE
$$
でも、
$$
\text{Log Loss}
$$
でも、
その意思決定に対応した損失関数でも構いません。
重要なのは、
そのモデルが、実際に解きたい問題に対してどれくらい良いのか
です。
因果推論の仮定を満たしているかどうかと、
予測問題で性能が良いかどうかは、
同じ評価軸ではありません。
極端に言えば、
$$
\text{因果推論として100点}
$$
でも、
$$
\text{予測として0点}
$$
はありえます。
逆に、
$$
\text{予測として100点}
$$
でも、
$$
\text{因果解釈として0点}
$$
もありえます。
そして、これは別に矛盾ではありません。
受けている試験が違うだけです。
因果推論帝国主義的な発想の危険なところは、
因果推論として100点であることを、実証分析として100点であることと取り違えてしまう
ところにあります。
因果推論として100点なのは素晴らしい。
でも、受けるべき試験が予測だったら、
試験会場が違います。
「でも予測モデルでは意思決定できないじゃん」
ここで、
「でも予測は相関しか見ていないから、意思決定には使えないでしょ?」
という反論が来るかもしれません。
これも、半分正しくて、半分違うと思っています。
たしかに、
$$
E[Y\mid X=x]
$$
を高精度に予測できたからといって、
$$
E[Y(1)-Y(0)\mid X=x]
$$
が分かるわけではありません。
したがって、
「この顧客は受注確率が高いから、この顧客に電話すれば売上が増える」
とは、その予測だけからは言えません。
ここは因果推論が必要になる可能性があります。
でも、だからといって、
予測そのものが無価値になるわけではありません。
在庫を準備する。
人員を配置する。
需要を予測する。
異常を検知する。
問い合わせ量を予測する。
求人への応募数を予測する。
将来の売上を予測する。
こうした問題では、
介入することができない、あるいは、対応したいシステムがこちらの行動を戦略的に観察して自らの行動を変えるようなものでない場合には、未来を正確に予測すること自体が意思決定に必要な情報になります。
つまり、
$$
\text{予測}
\neq
\text{因果推論の劣化版}
$$
です。
予測は予測で、
独立したリサーチクエスチョンです。
そして、因果推論帝国主義を避けるために必要なのは、予測より因果推論を下に置くことでも、その逆でもありません。
違う問いを、違う問いとして扱うことです。
手法を選ぶ前に、何を当てたいのか決めませんか?
結局、話はものすごく単純です。
最初に決めるべきなのは、
$$
\text{IVか?}
$$
でも、
$$
\text{DIDか?}
$$
でも、
$$
\text{DMLか?}
$$
でも、
$$
\text{LightGBMか?}
$$
でもありません。
まず、
$$
\boxed{\text{何を知りたいのか?}}
$$
です。
その問いが、
「この施策の因果効果はいくら?」
なら、因果推論をやればいい。
全力でやればいい。
私もやります。
一方で、
「明日の応募数はいくつ?」
なら、まず予測問題として考えればいい。
「誰に施策を打つべき?」
なら、条件付き処置効果やpolicy learningの問題かもしれない。
「なぜ今月だけ売上が落ちた?」
なら、分解や診断の問題かもしれない。
「求人原稿のどんな特徴が応募と関係している?」
なら、探索やテキスト分析の問題かもしれない。
つまり、
$$
\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{Quantity of Interest}
\rightarrow
\text{Loss / 評価指標}
\rightarrow
\text{手法}
$$
の順番です。
逆ではありません。
ところが、特定の方法論を深く勉強すると、どうしても、
$$
\text{手法}
\rightarrow
\text{この手法で解ける課題を探す}
$$
という方向に引っ張られます。
これは因果推論に限った話ではありません。
Deep Learningが好きな人は何でもDeep Learningしたくなるし、
ベイズが好きな人は何でも階層化したくなるし、
Stanが好きな私は、
とりあえずStanを書きたくなります。
人間なので仕方ありません笑
しかし、因果推論の場合には、もう一段注意が必要だと思っています。
なぜなら、
因果効果を識別できる分析の方が、単なる予測や記述や探索より科学的である
という価値判断まで一緒に入り込むと、
単なる「好きな手法を使いたい」という話では済まなくなるからです。
リサーチクエスチョンを因果推論で解ける形に変換すること自体が、
研究を高度化したことのように見えてしまう。
ここに、私が「帝国主義」という大げさな名前を付けた理由があります。
でも、実証研究として最後に問われるべきなのは、
「その手法、すごいですね」
ではなく、
「それで、最初の質問に答えられましたか?」
ではないでしょうか。
因果推論帝国主義とは、因果推論をすることではありません。
因果推論で答えられる問いだけを、価値のある問いの標準形にしてしまうことです。
第3の帝国主義:「それ、ただの相関ですよね?」で探索を殺す
ここまで、
処置が最初から存在するとは限らない
そして、
そもそも相手が因果効果を知りたいとは限らない
という話をしてきました。
ここから、もう一歩危険なところに踏み込みます。
因果推論を勉強していると、非常に強力な言葉を手に入れます。
それが、
「それ、ただの相関ですよね?」
です。
強い。
めちゃくちゃ強い。
実際、この指摘が正しい場面はいくらでもあります。
たとえば、
「この特徴を持つ求人は応募数が多い!」
という分析結果を見て、
「じゃあ、その特徴を求人に追加すれば応募数が増えるんですね!」
と言われたら、
待て待て待て待て。
となります。
その特徴を持つ求人は、そもそも条件の良い求人なのかもしれない。
企業規模が違うのかもしれない。
職種が違うのかもしれない。
地域が違うのかもしれない。
あるいは、観測できていない何かが両方に影響しているのかもしれない。
したがって、
相関があるからといって、介入したら結果が変わるとは限らない。
これは正しい。
因果推論を勉強する最大のメリットの一つだとすら思います。
でも、ここで一つ問題があります。
「その相関を因果効果として解釈してはいけない」
という主張と、
「その相関には研究上の価値がない」
という主張は、
全然違います。
相関から因果効果は言えない。だから何?
たとえば、求人原稿を分析していて、
応募が多い求人では、ある種類の表現が頻繁に使われている
というパターンを見つけたとします。
この時点では、もちろん因果効果ではありません。
$$
P(Y\mid X)
$$
を見ているだけかもしれません。
$$
P(Y\mid do(X))
$$
ではありません。
だから、
「この表現に変えれば応募が増える!」
とは言えません。
はい。分かりました。
では、その次に何をするのでしょうか?
私なら、
「なんでだろう?」
と思います。
その表現は、特定の職種で多いのかもしれない。
給与の高い求人で使われているのかもしれない。
求人企業の特徴を反映しているのかもしれない。
あるいは、本当に求職者の反応に関係しているのかもしれない。
だったら、さらに調べればいい。
構造化された共変量を入れてみる。
サブグループで見てみる。
テキストモデルを使ってみる。
別のデータでも再現するか確認する。
事業側に聞いてみる。
そして、本当に介入可能な特徴だと思ったら、
ABテストすればいい。
つまり、
$$
\text{相関}
\rightarrow
\text{発見}
\rightarrow
\text{仮説}
\rightarrow
\text{追加分析}
\rightarrow
\text{処置候補}
\rightarrow
\text{因果推論}
$$
という流れがあってもいいわけです。
ところが、最初の段階で、
「でも、それ因果じゃないですよね?」
と言われて、
「はい、、、おっしゃる通りっす」
で終了したら、
何も始まりません。
因果推論は本来、
その仮説を本当に因果的に支持できるのか?
を厳しく評価するための強力な道具だったはずです。
それがいつの間にか、
因果的に識別できない分析は、そもそもやる価値がない
という門番になってしまったら、
かなり話が変わってきます。
これも、私がこの記事で因果推論帝国主義と呼んでいるものです。
探索的分析は、失敗した因果推論ではない
ここで強調したいのは、
探索的分析は、識別戦略を思いつけなかった人が仕方なくやる劣化版の因果推論ではない
ということです。
目的が違います。
探索している段階では、
「この変数の因果効果はいくら?」
を知りたいとは限りません。
むしろ、
「何が起きているの?」
「どこに変なパターンがあるの?」
「今まで気づいていなかった違いはない?」
「次に何を調べればいい?」
という問いに答えたい。
これは立派なリサーチクエスチョンです。
そして、事業会社ではめちゃくちゃ重要です。
なぜなら、現場から来る問いはしばしば、
「この処置のATEを推定してください」
ではなく、
「なんか変なんだけど、見てくれない?」
だからです。
これを見て、
「処置は?」
と聞く前に、
まず何が変なのか調べませんか?
「因果じゃない」は分析結果の否定ではなく、解釈の制約である
私はここをかなり区別した方がいいと思っています。
相関分析に対して、
「因果じゃない」
と言うこと自体は、何も間違っていません。
問題は、その言葉が何を意味しているかです。
私なら、
この結果から介入効果までは言えません
という意味で使います。
ところが、それがいつの間にか、
したがって、この分析には価値がありません
まで拡張されることがあります。
この二つの間には、かなり大きな飛躍があります。
相関は因果効果ではない。
だから、因果効果として解釈してはいけない。
ここまでは分かります。
相関は因果効果ではない。
だから、仮説生成にも、現象理解にも、予測にも、測定にも、次の実験設計にも使ってはいけない。
なんでやねん。
むしろ、観察データの中に面白いパターンを見つけ、
「なぜこんな相関があるんだ?」
と考えることから、新しい研究が始まることはいくらでもあるでしょう。
大事なのは、
相関を因果効果だと嘘をつかないことです。
相関を見ることそのものを禁止することではありません。
私が仕事で欲しいのは「次に何を見るか」だったりする
事業会社で分析していると、この違いはかなり実感します。
たとえば、求人の成果について、
「給与が高いほど応募が増えます」
だけなら、まあ、そうかもしれません。
でも、自由記述や求人原稿を分析して、
「構造化された求人属性では説明できないのに、この種類の表現を使っている求人では成果が高い」
というパターンが出てきたら、
私はかなり興味を持ちます。
もちろん、
その表現の因果効果です!
とは言いません。
でも、
なんで????
とは言います。
この「なんで?」は重要です。
もしかすると、その表現自体が重要なのではなく、
その表現を使う企業に共通する何かがあるのかもしれない。
特定の職種を表しているのかもしれない。
営業担当者の運用の違いなのかもしれない。
今までデータベースに入っていなかった重要な求人属性なのかもしれない。
つまり、相関は答えではなくても、
次にどこを掘ればいいのかを教えてくれる
ことがあります。
これを、
「因果じゃない」
の一言で捨てるのは、
データから新しいリサーチクエスチョンを作る能力を、自分で捨てているように見えます。
因果推論は「仮説を殺す道具」ではなく「仮説を試す道具」では?
ここまで来ると、少し奇妙なことが起きています。
本来なら、
$$
\text{観察}
\rightarrow
\text{仮説}
\rightarrow
\text{検証}
$$
という研究の流れがあります。
因果推論は、この最後の検証をものすごく強くしてくれます。
交絡を考える。
選択を考える。
反実仮想を考える。
識別可能性を考える。
必要なら実験する。
最高です。
ところが、因果推論を実証研究の標準形だと思いすぎると、
$$
\text{観察}
\rightarrow
\boxed{\text{それ因果じゃないですよね?}}
\rightarrow
\text{終了}
$$
になってしまう。
いや、因果推論を使うところまで行かせてくれよ。
前にも書いた通り、
処置そのものが探索の結果として生まれることがあります。
ならば、その処置が生まれる前の相関やパターンを全部「因果ではない」という理由で価値の低い分析として扱ってしまえば、
因果推論が、自分自身が必要とする仮説や処置まで殺してしまいます。
これはかなり皮肉です。
「ただの相関」は、ただの相関でいい
なので、私は最近、
「ただの相関ですよね?」
と言われたら、
場合によっては、
「はい。ただの相関です。それが何か?」
くらいでいいのではないかと思っています。
もちろん、その相関を因果効果として売ったらダメです。
詐欺です。
意思決定に使うときには、その意思決定に必要な因果的仮定を考えなければいけない場合もあります。
でも、今やっていることが、
現象を理解する
異常なパターンを見つける
新しい変数を発見する
仮説を作る
次の実験候補を探す
ことなら、
相関であることは欠陥ではありません。
その分析の目的が、最初から因果効果の推定ではないからです。
だから私は、
「単純な比較には因果解釈できない場合がある」
という主張には全面的に賛成します。
でも、そこから、
「識別戦略のない分析には価値がない」
まで行くのであれば、
その間にはかなり距離があります。
そして、その距離を一気に飛び越えて、
あらゆる実証分析を
$$
\text{処置}
\rightarrow
\text{識別}
\rightarrow
\text{因果効果}
$$
という世界に回収しようとする。
それこそが、私がこの記事で「因果推論帝国主義」と呼んでいるものです。
因果推論は、相関を因果だと勘違いしないために使えばいい。
相関を見つけることそのものを禁止するために使う必要はありません。
むしろ、
面白い相関を見つけてください。
変なパターンを見つけてください。
仮説を作ってください。
そして、
「これ、本当に因果なの?」
と知りたくなったところで、
因果推論をやりましょう。
その方が、
因果推論そのものも、もっと面白くなるのではないでしょうか。
これは事業会社だけの話ではない
ここまで事業会社の例を出してきたので、
「まあ、ビジネスでは探索的な分析も必要だよね」
と思われるかもしれません。
でも、私が言いたいのはそれだけではありません。
アカデミアでも同じです。
私が好きな例の一つが、Amy Catalinac(2016)の
Electoral Reform and National Security in Japan: From Pork to Foreign Policy
です。
この本では、日本の選挙制度改革が政治家の選挙戦略、さらに安全保障政策にどのような影響を与えたのかを分析しています。
そのためにCatalinac(2016)が使った重要なデータの一つが、
衆議院選挙で使われたの候補者選挙公報です。
そして面白いのは、最初からデータセットに
national_security = 0.738
とか、
pork = 0.421
みたいな便利な変数が入っているわけではないことです。
当たり前です。
文章です。
そこで大量の日本語テキストを定量的に分析して、候補者がどれくらい利益誘導を強調しているのか、どれくらい政策を強調しているのか、その中でもどれくらい安全保障政策に言及しているのか、といった選挙戦略を測定していきます。
つまり、
そもそも政治家は何について話していたのか?
その選挙戦略はどのように変化したのか?
という、測定や記述そのものが重要な研究作業になっています。
もちろん、この本はそこで終わりません。
むしろ最終的には、選挙制度改革によって政治家の選挙戦略が利益誘導中心から政策中心へ変化し、それが安全保障政策への注目や政策変化につながった、という大きな因果的主張につながっていきます。
ここがめちゃくちゃ重要だと思っています。
探索や測定と因果推論は、
どちらか一方を選ぶものではありません。
大量のテキストから今まで存在しなかったものを測る。
そこからパターンを発見する。
そのパターンを使って仮説を検討する。
そして必要なところでは因果関係を考える。
こういう研究が普通に成立します。
むしろ、
「そのテキスト分析、因果効果を識別していませんよね?」
と言って、測定や発見の段階を格下げしてしまったら、
この研究のかなり重要な部分が消えてしまいます。
そして皮肉なことに、その先にある因果的な問いに到達するために必要な情報まで失われるかもしれません。
だから私が言いたいのは、
相関を因果効果として解釈しましょう
ではありません。
逆です。
因果ではない分析を、因果ではないという理由だけで価値の低い分析として扱う必要はない
ということです。
測定は測定としてやればいい。
探索は探索としてやればいい。
記述は記述としてやればいい。
そして、
因果効果を知りたくなったら因果推論をやればいい。
Catalinac(2016)の研究を見ていると、むしろそれらを組み合わせることで、単に最初から与えられた処置の平均処置効果を推定するよりも、はるかに大きな政治学と日本政治上の問いに答えられることが分かります。
因果推論を研究の頂点に置いて、それ以外を「因果推論になる前の未完成品」と考える必要はありません。
全部、研究です。
第4の帝国主義:私が知りたいものを勝手に周辺化しないでください
ここまで、
処置が最初から存在するとは限らない
そもそも因果効果を知りたいとは限らない
相関や探索にも、それ自体の研究上の価値がある
という話をしてきました。
では、ここからは一歩譲りましょう。
分かりました。因果効果を知りたいです。
処置もあります。
結果変数もあります。
潜在アウトカムも定義できます。
識別についても真面目に考えます。
因果推論をやりましょう。
これならもう怒られないでしょうw
ところが、ここでも私は時々気になることがあります。
因果効果を知りたいと言った瞬間に、
$$
ATE = E[Y(1)-Y(0)]
$$
が当然のように出てくることです。
いや。
待ってください。
私はいつ「平均してください」と言いましたか?
平均処置効果はめちゃくちゃ重要です
最初に誤解がないように言っておきます。
平均処置効果が悪いと言いたいわけではありません。
たとえば、ある施策を全対象者に一律で導入するかどうかを判断したい。
政策全体として効果があったのかを評価したい。
母集団全体への平均的な効果そのものがQuantity of Interestである。
そういう場合には、
$$
ATE = E[Y(1)-Y(0)]
$$
を知りたいのは当然です。
Quantity of InterestがATEなら、ATEを推定してください。
何の問題もありません。
問題は、
因果効果を知りたい
から、
平均処置効果を知りたい
への変換が、あまりにも自然に行われることです。
この二つは同じではありません。
個体や属性によって処置効果が異なるなら、
$$
\tau(x)=E[Y(1)-Y(0)\mid X=x]
$$
という世界があります。
そしてATEは、
$$
ATE=E_X[\tau(X)]
$$
です。
つまり、
異質な処置効果を周辺化したものです。
もちろん、それが欲しいなら周辺化してください。
でも、
私が知りたいものを勝手に積分で消さないでください、迷惑なんよw
人材サービス会社で施策をやったとします
たとえば、架空の人材サービス会社で、企業向けの新しい営業施策を試したとしましょう。
ランダム化もきれいにできました。
サンプルサイズも十分あります。
実験設計も問題ありません。
そして分析した結果、
$$
ATE=0
$$
だったとします。
なるほど。
平均的には効果なし。
施策終了。
解散。
、、、で、本当にいいのでしょうか?
たとえば実際には、
$$
\tau(\text{ある顧客群})=+10
$$
で、
$$
\tau(\text{別の顧客群})=-10
$$
だったとします。
人数が同じくらいなら、
$$
ATE=0
$$
です。
平均処置効果の推定は、
完全に正しい。
因果推論として何も間違っていません。
でも、事業側から見たら、
いやいやいやいやいや。
そこ!!!!!!!!
となりませんか?
なぜ片方には効いたのか。
なぜもう片方には逆効果だったのか。
企業の属性が違うのか。
置かれている状況が違うのか。
施策との相性が違うのか。
次回はどこに施策を打つべきなのか。
あるいは、どこには打たない方がいいのか。
私が知りたいのは、
$$
0
$$
という一個の数字ではなく、
その0がどうやってできたのか
かもしれません。
平均処置効果は間違っていない。情報を捨てているだけです
ここは重要なので、かなり慎重に言います。
$$
ATE=0
$$
という結果が間違っているわけではありません。
本当に母集団平均が0なら、
正解です。
問題は、その正解がリサーチクエスチョンに対して十分なのかということです。
平均を取るという操作は、非常に便利です。
複雑な分布を一個の数字にできます。
意思決定もしやすくなります。
でも当然、
情報を圧縮しています。
$$
(+10,-10)
$$
も、
$$
(+1,-1)
$$
も、
$$
(0,0)
$$
も、
平均だけ見れば、
$$
0
$$
です。
しかし、この三つは実質的には全然違います。
一つ目なら、
めちゃくちゃ大きな異質性がある。
二つ目なら、
異質性はあるけれど小さい。
三つ目なら、
誰にも効いていない。
です。
ATEだけを返されたら、この違いは分かりません。
つまり、
平均処置効果は異質性を平均化する統計量なので、平均処置効果そのものから「どこで、誰に、どの程度効いたのか」は分かりません。
当たり前です。
平均したからです。
それなのに、私のリサーチクエスチョンが、
「誰に効くの?」
だったのに、
ものすごく高度な方法を使って、
ものすごく正確に、
$$
\widehat{ATE}=0.000000
$$
と推定してくれたとしても、
私は困ります。
精度の問題じゃないんです。
私が知りたかったもの、平均取る前にあったんですけど!!!!
これが第4の帝国主義です
ここで、この記事のテーマに戻ります。
因果推論帝国主義は、
因果推論を使うこと
ではありません。
ここでは、因果推論を使うこと自体には完全に同意しています。
問題は、
$$
\text{因果効果を知りたい}
\rightarrow
\text{ではATEを推定しましょう}
$$
という変換まで、ほとんど自動的に行われることです。
処置効果には異質性があるかもしれない。
誰に効くのかが知りたいかもしれない。
誰には逆効果なのかが知りたいかもしれない。
どの地域で効くのかが知りたいかもしれない。
限られた資源を誰に配分すべきかが知りたいかもしれない。
それなのに、
「因果効果を知りたいんですね。では平均処置効果を識別しましょう」
と翻訳した瞬間、
リサーチクエスチョンがまた一段狭くなっています。
私はこれを、
因果推論の内部で起きる因果推論帝国主義
だと思っています。
最初の帝国主義が、
あらゆる問いを因果効果の問いに変える
ことだとすれば、
こちらは、
豊かな因果的な問いを、平均処置効果の問いに変える
ことです。
私が因果効果を知りたいと言ったからといって、私が平均を知りたいとは限りません。
というか、政治学方法論の中にちゃんとあります
ここまで書くと、
「ビジネスだからターゲティングが必要なだけでは?」
と思われるかもしれません。
違います。
政治学方法論の中に、まさにこの問題を真正面から扱っている研究があります。
たとえば、Kosuke Imai and Aaron Strauss(2011)の研究です。
この論文、冒頭からかなり強いことを言っています。
ランダム化実験を行う政治学研究が増えているにもかかわらず、多くの研究は平均処置効果だけを報告し、サブグループ間の処置効果の違いを体系的に調べていない。
そして、それは科学的な観点からも、政策立案者の観点からも問題だと指摘しています。
ほら!!!!!!!!
私が言うと、
「事業会社の人だからターゲティングしたいだけでしょ?」
となりそうな話を、
Political Analysisで既に言ってくれています。
トップジャーナル。ありがたい。
破門回避!
この研究では、ランダム化された投票参加促進施策の実験から処置効果の異質性を推定し、その情報を使って、
誰に、どの施策を実施すべきか
という最適な戦略まで考えています。
つまり、
$$
\text{実験}
\rightarrow
\text{平均処置効果}
\rightarrow
\text{終了}
$$
ではありません。
異質性を見て、
その情報を意思決定につなげる。
これ!!!!!!!!
私が因果推論に機械学習や高度な統計モデルを持ち込むと聞いて期待する「高度化」は、こういう方向です。
さらにImai and Ratkovic(2013)も、社会プログラムや医療処置を評価するとき、全体の平均因果効果だけでは価値が限定的な場合があり、いつ処置が効き、いつ効かないのかを調べる必要があると明確に論じています。
しかも、その理由として、
誰に効くのか。
誰には有害なのか。
どの処置を選ぶべきなのか。
個別化された処置戦略をどう作るのか。
といった問題を挙げています。
そう!!!!!!!!
それが知りたい!!!!!!!!
つまり、私がここで言っていることは、
因果推論を捨てて、適当にサブグループ分析しましょう
ではありません。
むしろ逆です。
異質性そのものをQuantity of Interestとして、ちゃんと因果推論すればいいのです。
しかも、これは今井先生が2010年代にやって終わった話でもありません。
2025年には、Max Goplerud、Kosuke Imai、Nicole E. Pashleyによる、
Estimating Heterogeneous Causal Effects of High-Dimensional Treatments: Application to Conjoint Analysis
という論文がトップジャーナルの The Annals of Applied Statistics に掲載されています。
ここではさらに問題が難しくなっています。
普通の異質的処置効果の研究では、
処置あり / 処置なし
のような比較的単純な処置を考えることが多いでしょう。
しかし、コンジョイント分析では、処置そのものが高次元です。
たとえば移民に対する選好を調べるとしても、国籍だけではありません。
教育、職業、言語能力など、複数の属性の組み合わせが一つのプロフィールを構成します。
しかも、
同じプロフィール属性に対して、全員が同じように反応するとは限りません。
そこでGoplerud, Imai, and Pashley(2025)は、高次元な処置に対する因果効果の異質性を推定する方法を提案しています。
面白いのは、単に、
「平均的に、この属性の効果は何ポイントです」
と出して終わるのではないところです。
処置効果のパターンが似ている人々をグループとして見つけ、さらに、
どのような人が、どのような処置効果のパターンを持っているのか?
まで探索します。
実証分析では移民プロフィールを用いたコンジョイント実験を分析し、異なる属性の移民に対する反応が回答者によってどのように異なるのかを調べています。
これ!!!!!!!!
さらに処置が複雑になっても、
「じゃあ全部平均して一個の効果を出しましょう」
ではなく、
その複雑さと異質性をどうやって取り出すかを考えている。
私が因果推論に高度な統計モデルや機械学習を持ち込むと聞いてワクワクするのは、まさにこういう研究です。
因果推論を高度化するというのは、
平均処置効果を小数点以下あと3桁正確にする方向だけではありません。
今まで見えなかった異質性を見つける。
複雑な処置の中から、誰が何に反応しているのかを見つける。
そして、それを新しい実質的な知見につなげる。
因果推論の中だけでも、Quantity of Interestはこんなに豊かにできるのです。
だから私は、
「ATEだけでは足りない」
と言って因果推論から逃げたいわけではありません。
むしろ、
因果推論の中に、私が欲しいものがちゃんとあるじゃないですか。
だったら、
勝手に平均を取って周辺化しないでください!!!!
ちゃんとやってよ!ちゃんと向き合おうよ!
周辺化する前に、Quantity of Interestを聞いてください
結局、ここでも問題は同じところに戻ってきます。
$$
\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{Quantity of Interest}
\rightarrow
\text{推定方法}
$$
です。
リサーチクエスチョンが、
「この施策は全体として効いた?」
なら、
$$
ATE
$$
でいい。
「誰に効いた?」
なら、
$$
\tau(x)
$$
かもしれない。
「限られた予算で誰に実施する?」
なら、さらに意思決定ルールまで考える必要があるかもしれない。
どれも因果推論です。
でも、答えている問いは違います。
だから、
$$
ATE=E_X[\tau(X)]
$$
という式を見るたびに、
私は最近ちょっとだけ思います。
ちょっと待って。
その期待値を取る前に聞いてくれ。
私が知りたいものを勝手に周辺化しないでください。
そして、ここまで来ると、さらに面白い疑問が出てきます。
平均処置効果を推定するために、
ものすごく高度な機械学習を使う。
ものすごく高度なDebiasingをする。
ものすごく高度なCross-fittingをする。
もちろん、それは方法論的には高度です。
でも、
推定方法が高度になったことと、私たちが知ることのできる内容が高度になったことは、本当に同じなのでしょうか?
そして、因果推論は政治的である
ここまで、
処置が最初から存在するとは限らない
因果効果がQuantity of Interestとは限らない
相関や探索にも価値がある
因果効果を知りたいとしても、ATEがQuantity of Interestとは限らない
という話をしてきました。
ここで、もう一つだけ面倒な話をします。
因果推論は政治的です。
、、、、、、と書くと、
「因果推論の数式に政治思想なんて入っていないだろ!」
と怒られそうです。
はい。
すいません。
$$
ATE=E[Y(1)-Y(0)]
$$
という数式が自民党支持でも立憲民主党支持でも共和党支持でも民主党支持でもありません。
ランダム化も交絡因子も、特定の政治思想を支持しているわけではありません。
私が言っている「政治的」は、そういう意味ではありません。
何を処置として定義するのか。
何を結果変数として定義するのか。
誰を対象集団とするのか。
どのQuantity of Interestを推定するのか。
そして、
その結果を組織がどのような意思決定に使うのか。
ここには、研究者が数式を書くだけでは消えない政治があります。
あるCMOがいたとします
完全に架空の会社を考えましょう。
ある会社のCMOが、
「今年始めた新しいマーケティング施策が本当に効いているのか調べてほしい」
と言ったとします。
そこで分析してみたところ、
$$
ATE=-3.2
$$
だったとしましょう。
しかも、かなり説得力のある識別戦略があります。
推定もちゃんとしています。
頑健性チェックをしても大きく変わりません。
さて。
これは単なる、
estimate = -3.2
でしょうか?
組織の中では、たぶん違います。
その施策がCMO自身の肝入り施策だったとします。
予算もかなり使っています。
社内でも、
「これからはこの施策を伸ばします!」
と宣言していました。
そこでデータサイエンティストが、
因果効果はマイナスでした
と持ってきた。
うわあ。やべぇー。きっつー。
急に会議室の空気が重くなってきました。
でも、ここで重要なのは、
だから因果推論をするな
ではありません。
むしろ、こういうときこそ因果推論には大きな価値があります。
本当に効果がない施策を、
「なんとなく売上が伸びた気がします!」
で延命するより、はるかにいい。
ただし、
この推定結果が組織内で果たす役割は、純粋な知識生産だけではありません。
予算配分に影響するかもしれない。
施策の継続判断に影響するかもしれない。
CMOの評価に影響するかもしれない。
次年度の組織体制に影響するかもしれない。
つまり、
$$
\text{推定対象}
\rightarrow
\text{推定結果}
\rightarrow
\text{組織内での解釈}
\rightarrow
\text{意思決定}
$$
という経路があります。
推定量には政治思想がなくても、推定結果が置かれる組織には政治があります。
今度は、ある州知事がいたとします
もう少し分かりやすい架空の例を考えます。
ある州の州知事が、
雇用を増やす
ことを選挙の重要公約として掲げて当選したとします。
そして就任後、大規模な職業訓練プログラムを始めました。
数年後、研究者がその政策を評価します。
かなり強い研究デザインが組めました。
そして、
$$
ATE=-2.5
$$
だったとします。
もしQuantity of Interestが、
この政策は州民全体の雇用を平均的に改善したのか?
なら、
これはものすごく重要な結果です。
州知事が喜ぶかどうかは知りません。ふざけんなーって叫ぶかもしれない。
でも、それは研究者の知ったことではありません。
結果を曲げる理由にはならない。
都合が悪いから分析しない理由にもならない。
因果推論の非常に重要な役割の一つは、こういう政策評価を可能にすることです。
でも、ここで前節の話を思い出してください。
もしかすると、
$$
ATE=-2.5
$$
の中では、
ある地域では、
$$
\tau(x)=+8
$$
別の地域では、
$$
\tau(x)=-10
$$
だったかもしれません。
すると、別のリサーチクエスチョンが出てきます。
なぜこの地域では成功したのか?
なぜ別の地域では失敗したのか?
訓練内容が違ったのか?
労働市場が違ったのか?
対象者が違ったのか?
次の政策では何を変えればいいのか?
こちらも重要です。
ただし、面白いことに、
$$
\boxed{\text{政策全体のATE}}
$$
と、
$$
\boxed{\text{効果の異質性}}
$$
では、
政治的に意味するものがかなり違う可能性があります。
前者は、
州知事の看板政策は成功したのか?
という政治責任の問いになりやすい。
後者は、
どこでは成功して、どこでは失敗して、次はどう改善する?
という組織としての学習や政策の再設計の問いになりやすい。
どちらも科学的な問いです。
どちらも因果推論できます。
でも、同じ問いではありません。
Quantity of Interestを選ぶことは、完全に無色透明ではない
ここが私が一番言いたいところです。
たとえば研究者が、
$$
ATE
$$
を選んだとします。
別の研究者は、
$$
\tau(x)
$$
を選んだとします。
さらに別の研究者は、
「そもそもこの政策によって、どの集団が利益を得て、どの集団が損失を受けたのか?」
をQuantity of Interestにしたとします。
これらのうち、
どれか一つだけが科学で、残りが政治
という話ではありません。
全部、正当に研究できる問いです。
ただ、
何をQuantity of Interestにするかによって、見える世界が変わります。
政策全体の平均を見るのか。
異質性を見るのか。
分布を見るのか。
特定の集団を見るのか。
政策を評価するのか。
政策を改善するための構造を見るのか。
そして、見える世界が変われば、
その分析が組織や政治の中で果たす役割も変わります。
だから私は、
「正しい推定量を使えば、分析は政治から自由になる」
とは思いません。
正しい推定量を使うことは、
めちゃくちゃ重要です。
でも、それは、
そもそも何を推定することにしたのか
という選択を消してくれるわけではありません。
責任と学習は、どちらも必要です
ここで、
「じゃあ異質性を見れば政治的じゃなくなるの?」
という話でもありません。
なりません。
むしろ、異質性の切り方によって別の政治が生まれる可能性すらあります。
だから、
ATEは政治的だからやめよう
でも、
異質処置効果なら正義
でもありません。
そんな単純な話ではありません。
州知事の政策が本当に平均的に失敗していたなら、
$$
ATE<0
$$
を示すことには政治責任として大きな意味があります。
一方で、
なぜ失敗したのか?
どこなら成功するのか?
次はどう設計するのか?
を知りたいなら、平均だけでは足りないかもしれない。
つまり、
$$
\text{政治責任}
$$
と、
$$
\text{学習}
$$
は、
競合することもあれば、両方必要なこともあります。
問題は、どちらかを「因果推論だから」という理由だけで自動的に選ぶことです。
だからResearch Questionを先に決めてください
結局、また同じところに戻ってきます。
$$
\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{Quantity of Interest}
\rightarrow
\text{推定方法}
\rightarrow
\text{推定結果}
\rightarrow
\text{意思決定}
$$
推定方法だけを見れば、
政治はかなり遠くに見えるかもしれません。
でも、一番左と一番右まで見ると、
急に景色が変わります。
誰が何を知りたいのか。
なぜそれを知りたいのか。
何をQuantity of Interestにしたのか。
何を平均して消したのか。
誰を母集団に入れたのか。
その数字が何の意思決定に使われるのか。
ここまで含めて実証研究です。
だから、私が「因果推論は政治的である」と言うとき、因果推論の数学が政治思想に汚染されていると言いたいのではありません。
むしろ逆です。
数学がどれだけ正しくても、リサーチクエスチョンとQuantity of Interestの選択まで自動的に正しくなるわけではない。
CMOの施策を評価するのか。
改善するのか。
州知事の政策を政治責任の観点から評価するのか。
次の政策を設計するために学習するのか。
どれを選ぶかによって、
同じデータから始まっても、
研究者が社会に返す答えは変わります。
だからこそ、
Quantity of Interestを無意識に選んではいけない。
そして、これもまた、
私が因果推論そのものではなく、
あらゆる実証問題を一つの標準形に押し込もうとする「因果推論帝国主義」を警戒する理由です。
じゃあ政治学方法論・計量経済学を何に使うの?
ここまで散々、
因果推論帝国主義やめろ!!!!!!
と言ってきました。
では当然、こういう疑問が出てきます。
じゃあ政治学方法論とか計量経済学とか、何に使うの?
因果推論をやらない。
ATEを推定しない。
処置すらまだ存在しない。
相関も見る。
予測もする。
テキストも掘る。
そんなことを言い始めたら、
「それもう普通のデータサイエンスでよくない?」
と思われるかもしれません。
私は全然そう思いません。
むしろ事業会社でデータサイエンティストをやっていて思うのは、
政治学方法論や計量経済学から持ってこられる武器、因果推論以外にもめちゃくちゃあるやん。
ということです。
因果推論だけ輸入して終わるのは、
もったいなさすぎます。
1. 測る
まず、
測定です。
事業会社のデータを見ると、欲しい概念がそのままテーブルの列になっているとは限りません。
顧客の関心。
営業活動の質。
求人の魅力。
組織の状態。
候補者の志向。
文章の内容。
潜在的な需要。
こういうものを知りたくても、
customer_interest
sales_quality
job_attractiveness
みたいな神カラムがBigQueryに生えているとは限りません。
ないです。
でも、
「列がないので分析できません」
で終わる必要もありません。
政治学では昔から、
民主主義ってどう測るの?
イデオロギーってどう測るの?
政治家の立場ってどう測るの?
有権者の態度ってどう測るの?
みたいな、
そもそも観測したいものが直接観測できない問題
を大量に扱ってきました。
潜在変数モデル。
項目反応理論。
因子モデル。
テキスト分析。
Scaling。
Measurement Error。
これらは全部、
$$
\text{観測されたデータ}
\rightarrow
\text{直接は見えないQuantity of Interest}
$$
をどうつなぐかという問題です。
前に紹介したCatalinacの研究もそうです。
選挙公報の中に、
national_security_score
なんて列はありません。
文章から測るんです。
これ、事業会社でも普通に必要ではないでしょうか。
そして重要なのは、
測定は因果推論の前処理ではありません。
もちろん、あとで因果推論に使うこともあります。
でも、
政治家は何を語っているのか?
顧客は何に困っているのか?
どのような潜在的なパターンが存在するのか?
を測ること自体がQuantity of Interestになることもあります。
測ること自体が研究です。
2. データ生成過程を考える
そして、私が事業会社で一番役に立っていると思うのが、
データ生成過程を疑う癖です。
機械学習のデータセットを渡されたとします。
customer_id
age
industry
sales_activity
contract
revenue
よし。
LightGBMにぶん投げて精度上げとこー
、、、、、、の前に、
ちょっと待ってください。
なぜこの行は存在しているのでしょうか?
誰がこのデータを入力したのでしょうか?
いつ入力されたのでしょうか?
予測時点でこの変数は観測可能なのでしょうか?
なぜこの顧客だけデータベースに入っているのでしょうか?
欠損している顧客は誰でしょうか?
営業担当者の行動によって、このデータ自体が生成されていないでしょうか?
結果変数を知った後に更新された列が混ざっていないでしょうか?
学習データに入るというイベント自体がセレクションバイアスではないでしょうか?
これです。
私はこれを、
「因果推論するときだけ考える特殊な話」
だとは思っていません。
予測でも必要です。
記述でも必要です。
測定でも必要です。
意思決定でも必要です。
詳しくはこちらの記事をご確認いただきたいですが:
たとえば、成約した顧客だけを使って、
「将来の売上を予測する最強モデルを作りました!」
と言われても、
実際にモデルを適用する対象が、
まだ成約していない企業
だったら、
私はまず、
その学習データ、どうやって生成されたんですか?
と聞きたい。
$$
P(Y\mid X,S=1)
$$
を学習しているのに、実運用で欲しいものが、
$$
P(Y\mid X)
$$
なら、
その違いを無視してRMSEだけ殴り合っても仕方ありません。
もちろん、セレクションバイアスがあれば必ず補正しなければならない、と言っているわけでもありません。
重要なのは、
データセットを自然界から降ってきたCSVだと思わないことです。
誰かの行動。
制度。
業務フロー。
計測方法。
過去の意思決定。
セレクションバイアス。
欠測。
これらを通って、
今このテーブルが存在しています。
この感覚は、政治学方法論や計量経済学を勉強して得られる非常に強い武器だと思っています。
そして、
因果推論を勉強して身につけた知識は、因果推論をしないときにも使えます。
3. 見つける
次に、
発見です。
測定と似ていますが、これも私はめちゃくちゃ重要だと思っています。
大量の自由記述がある。
大量の選挙公報がある。
大量の商品説明がある。
大量の顧客行動がある。
でも、
何を見るべきなのかまだ分からない。
こういう問題があります。
このとき、
「処置変数は何ですか?」
と聞かれても、
だから、それを探しているんです。
となります。
先ほど紹介したFong and Grimmer(2016)の研究ように、テキストから結果変数に関係する潜在的特徴を見つける。
Catalinac(2016)のように、大量の政治テキストから政治家の戦略を測定する。
トピックモデルを使う。
政治学で開発された構造トピックモデルを使う。
潜在クラスを考える。
Embeddingを使う。
LLMを使う。
方法は問いによって違います。
重要なのは、
$$
\text{データ}
\rightarrow
\text{まだ知らない構造}
$$
という方向の研究が存在することです。
これによって、
今まで構造化されていなかった変数が見つかるかもしれない。
新しいセグメントが見つかるかもしれない。
今まで知らなかった異質性が見つかるかもしれない。
新しい仮説が生まれるかもしれない。
そして場合によっては、
$$
\text{探索}
\rightarrow
\text{発見}
\rightarrow
\text{仮説}
\rightarrow
\text{新しい施策}
\rightarrow
\boxed{\text{処置が生まれる}}
$$
こともあります。
でも、ここでまた因果推論帝国主義に戻らないように注意してください。
探索の価値は、最後に因果推論できることによって初めて生まれるわけではありません。
何が存在するのか。
どんな構造があるのか。
何が違うのか。
何が予測できるのか。
それ自体がQuantity of Interestなら、
そこで研究は完成していていいんです。
因果推論による救済を待つ必要はありません。
4. モデルを作る
そして、私は政治学方法論や計量経済学から、
モデルを作る力
ももっと事業会社に持ってきていいと思っています。
ここでいうモデルは、
XGBoostかLightGBMかRandom Forestか
という意味だけではありません。
このデータがどういう仕組みで生まれているのかを考えて、その仕組みを確率モデルとして表現する
という意味です。
たとえば件数データなら、
本当にPoissonでいいのでしょうか。
0が異常に多いなら?
過分散があるなら?
企業ごとの差が大きいなら?
時間変化があるなら?
季節性があるなら?
月末だけ挙動が変わるなら?
観測されていない異質性があるなら?
$$
Y_i\sim\text{Poisson}(\lambda_i)
$$
を書いて終わりではなく、
なぜこのデータはこういう分布になったのか?
からモデルを考える。
状態空間モデルかもしれない。
階層モデルかもしれない。
ゼロ過剰かもしれない。
ハードルもでるかもしれない。
混合モデルかもしれない。
ガウス過程かもしれない。
あるいは、普通の線形回帰で十分かもしれない。
ここで大事なのは、
高度なモデルを使うことではありません。
$$
\boxed{\text{このデータにはどんなモデルを当てる?}}
$$
から始めるのではなく、
$$
\boxed{\text{このデータはどう生成された?}}
$$
から始めることです。
その結果として単純なモデルになるなら、
それでいい。
Stanを使わなくてもいいです。
、、、
、、、、、、
本当は使いたいです。
でも使わなくていいです。
5. 予測する
そして当然、
予測にも使えます。
前の章で書いた通り、
$$
\text{予測}\neq\text{因果推論の劣化版}
$$
です。
明日の需要を知りたい。
来月の売上を知りたい。
応募数を知りたい。
問い合わせ件数を知りたい。
どの顧客の受注確率が高いのか知りたい。
そのQuantity of Interestが未来の結果なら、
予測してください。
政治学方法論や計量経済学を勉強したからといって、
予測するときまで、
「この変数は内生だから消しましょう」
と自動的に考える必要はありません。
むしろ、
データ生成過程を考える。
セレクションバイアスを考える。
外挿を疑う。
母集団の変化を考える。
予測時点で何が観測可能なのかを考える。
こういう知識を、
予測モデルを壊さないために使えばいい。
因果推論の知識を、
因果推論をするためだけに使う必要はありません。
処置を評価できる人だけでは、処置は生まれない
ここで、野球を考えてみましょう。
大谷翔平は知っていますか?
たぶん知っています。
では、大谷翔平が打席に立ったとき、
後ろで、
「ストライク!」
と判定している球審の名前を知っていますか?
私は知りません。
でも、
球審はめちゃくちゃ重要です。
球審がいなければ試合になりません。
正しく判定するための高度な技能も必要です。
因果推論も似ています。
施策が本当に効いたのか。
政策が本当に結果を変えたのか。
相関ではなく因果効果なのか。
判定する。
めちゃくちゃ重要です。
でも、
球審だけでは野球はできません。
誰かがボールを投げないといけない。
誰かが打たないといけない。
誰かが走らないといけない。
誰かが作戦を考えないといけない。
そして、
全員が球審を目指したら、誰がホームランを打つのでしょうか?
政治学方法論や計量経済学は、
球審しか育てられない学問ではないと思います。
測れる。
見つけられる。
モデルを作れる。
予測できる。
意思決定を考えられる。
そして、
因果効果も評価できる。
二刀流どころではありません。
五刀流、十刀流くらいできるでしょう。
バットも持ってください
だから私は、
因果推論を勉強するなと言いたいわけではありません。
逆です。
めちゃくちゃ勉強した方がいいと思います。
潜在結果を知る。
DAGを知る。
セレクションバイアスを知る。
識別を知る。
実験を知る。
全部、強力な武器です。
でも、その知識を、
処置を渡されたら平均処置効果を推定できます
だけに閉じ込める必要はありません。
事業会社では、
そもそも処置がまだありません
というところから仕事が始まることがあります。
何が起きているのか分からない。
何を測ればいいのか分からない。
何が効きそうなのか分からない。
何を施策にすればいいのか分からない。
その段階から問題に入って、
測る。
見つける。
モデルを作る。
予測する。
施策を作る。
そして、
必要なら最後に因果推論する。
私は、
「処置を渡されたら評価できます」
だけより、
「処置がまだ存在しないところから入れます」
の方が、
政治学方法論や計量経済学を学んだ人が戦える問題の範囲は、ずっと広いと思っています。
球審を辞めろとは言っていません。
球審もできる人が、バットまで持ったら強いでしょう。
だから、
バットも持ってください。
おわりに
めちゃくちゃ長くなりました。
最初は、
因果推論を過剰に信じる人たちがいるから記事書いておこ
くらいの気持ちで書き始めたのですが、
書いているうちに、
普通にクソ長い方法論の話になってしまいました。
でも、結局言いたかったことはかなり単純です。
$$
\boxed{\text{リサーチクエスチョン}
\rightarrow
\text{Quantity of Interest}
\rightarrow
\text{手法}}
$$
この順番を守りませんか?
ということです。
因果効果を知りたいなら、
因果推論をやればいい。
全力でやればいい。
平均処置効果がQuantity of Interestなら、
$$
ATE=E[Y(1)-Y(0)]
$$
を推定すればいい。
政策全体が効いたのかを知りたいなら、その平均効果をきちんと評価すればいい。
私はこの記事で、そのどれにも反対していません。
むしろ、
ちゃんとやってください。
と思っています。
でも、
予測したいなら、予測してください。
何が起きているのか知りたいなら、記述してください。
何が存在するのか分からないなら、探索してください。
直接観測できないものを知りたいなら、測定してください。
データがどう生成されたのかが重要なら、それに合わせてモデルを作ってください。
異質性がQuantity of Interestなら、
$$
\tau(x)=E[Y(1)-Y(0)\mid X=x]
$$
を考えてください。
そして、
因果効果がQuantity of Interestなら、因果推論してください。
全部、実証研究です。
処置がないところから研究は始まる
この記事で何度も繰り返した中で、一つだけ覚えて帰ってもらえるなら、私はこれを選びます。
処置が定義されていないことは、リサーチクエスチョンが定義されていないことを意味しません。
現実の研究では、
最初から、
treatment
outcome
confounder
という神カラムがBigQueryに生えていて、
「はい、あとは識別してください」
となるとは限りません。
何が起きているのか分からない。
何を測るべきなのか分からない。
どこに異質性があるのか分からない。
どの変数が重要なのか分からない。
何を介入すればいいのかすら分からない。
だから、
測る。
探索する。
相関を見る。
モデルを作る。
予測する。
仮説を作る。
そして場合によっては、
$$
\text{観察}
\rightarrow
\text{測定・探索}
\rightarrow
\text{発見}
\rightarrow
\text{仮説}
\rightarrow
\boxed{\text{処置}}
\rightarrow
\text{因果推論}
$$
という順番で研究が進む。
因果推論は、このパイプラインのものすごく強力な一部分です。
でも、
パイプライン全部ではありません。
そして、もっと重要なのは、
このパイプラインの最後に因果推論が来ない研究だって普通に成立するということです。
何が存在するのかを知りたかった。
測定できなかったものを測りたかった。
未来を予測したかった。
潜在的な構造を知りたかった。
それがQuantity of Interestなら、
そこで終わっていいんです。
因果推論によって救済されるまで、研究室の前で正座して待つ必要はありません。
「因果じゃない」は「分析使えない」ではない
同じことは相関についても言えます。
$$
\text{相関} \neq \text{因果効果}
$$
です。
これは重要です。
めちゃくちゃ重要です。
相関を見て、
「じゃあここを変えれば結果も変わります!」
と言った瞬間、
待て待て待て待て。
です。
でも、
$$
\text{相関を因果効果として解釈できない}
$$
ことと、
$$
\text{相関から何も学べない}
$$
ことは同じではありません。
面白いパターンを見つける。
今まで構造化されていなかったものに気づく。
新しい仮説を作る。
予測する。
測定する。
次に何を調べるか決める。
それが目的なら、
「因果ではない」は分析結果の使えねぇの判断ではなく、解釈範囲の注意書きです。
そして、因果推論の中ですら問いは一つではない
さらに面白かったのは、この記事を書きながら文献を振り返ってみると、
私が因果推論に対して「もっとこういうことやってよ!!!!」と思っていたこと、政治学方法論の中で普通にやっているやん。
ということでした。
誰に効くのか。
誰には効かないのか。
誰には逆効果なのか。
高次元な処置に対する反応が、人によってどう違うのか。
その異質性をどう意思決定につなげるのか。
これ!!!!!!!!
という論文が普通にありました。
途中から今井耕介先生の論文紹介記事みたいになってしまいました。
経済学の皆さんごめんなさい💦
でも、これはかなり重要なことだと思っています。
私が批判しているのは、
因果推論という研究領域そのものではありません。
むしろ、その研究領域自体には、
平均処置効果だけではない豊かなQuantity of Interestがあります。
だからこそ、
$$
\text{因果推論} = \text{ATEを識別する}
$$
くらいまで狭く理解してしまうのは、
因果推論そのものに対してすら、もったいない。
因果推論帝国主義をやっているつもりで、
因果推論帝国の領土を自分で狭くしていませんか?
「高度な分析」とは何なのか
この記事を書いたきっかけの一つには、
高度な分析
という言葉への違和感もあります。
新しい機械学習を使う。
Debiasingする。
Cross-fittingする。
複雑な潜在変数モデルを使う。
LLMを使う。
もちろん、方法論的には高度です。
でも、
$$
\text{高度な推定方法}
\neq
\text{高度なQuantity of Interest}
$$
です。
ものすごく高度な方法を使って、
$$
\widehat{ATE}=2.37
$$
をものすごく正確に推定したとしても、
相手が知りたかったのが、
「誰に効くの?」
なら、
質問にはまだ答えていません。
逆に、単純な集計や回帰から、
「あれ?このデータ、今まで考えていなかった構造があるぞ」
と発見して、
新しい分析の切り口を作れたなら、私はそれを十分に高度な分析だと思います。
分析の高度さを、
推定量の難しさだけで測る必要はありません。
私たちの学問、もっと色々できるでしょう
大学院生の頃の私は、政治学方法論や計量経済学を学んだ人間が、機械学習の専門家と違う価値を出す最大の武器は、因果推論だと思っていました。
今は少し違います。
因果推論は、ものすごく強い武器の一つだと思っています。
でも、それだけではありません。
測定の考え方があります。
潜在変数があります。
テキスト分析があります。
データ生成過程を考える習慣があります。
セレクションバイアスを疑う習慣があります。
確率モデルがあります。
異質性があります。
予測があります。
そして、因果推論があります。
めちゃくちゃ色々あるやん。
それなのに、
「政治学方法論・計量経済学を勉強した人の強みは、因果推論です」
だけで終わるのは、私はかなりもったいないと思います。
前節で野球の話をしました。
因果推論は、球審としてものすごく重要です。
施策が本当に効いたのか。
政策が本当に結果を変えたのか。
相関ではなく因果なのか。
厳密に判定する。
絶対に必要です。
でも、球審だけでは野球はできません。
測る人も必要です。
見つける人も必要です。
モデルを作る人も必要です。
予測する人も必要です。
そして、新しい施策そのものを作る人も必要です。
だから最後に、この記事の主張をもう一度だけ書きます。
因果推論帝国主義とは、因果推論をすることではありません。
因果推論で答えられる問いだけを、価値のある問いの標準形にしてしまうことです。
因果効果がQuantity of Interestなら、全力で因果推論してください。
でも、予測したい人から予測を奪わないでください。
探索したい人から相関を奪わないでください。
異質性を知りたい人から勝手に平均を取らないでください。
処置がまだ存在しない研究に、
「で、処置は?」
から入らないでください。
そして何より、自分たちの学問を、平均処置効果推定工場にしないでください。
政治学方法論も。
計量経済学も。
統計学も。
もっと色々な問題と戦えるはずです。
球審を辞める必要はありません。
バットも持ってください。
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参考文献
Catalinac, Amy. Electoral Reform and National Security in Japan: From Pork to Foreign Policy. Cambridge University Press, 2016.
Fong, Christian, and Justin Grimmer. "Discovery of treatments from text corpora." Proceedings of the 54th Annual Meeting of the Association for Computational Linguistics (Volume 1: Long Papers). 2016.
Goplerud, Max, Kosuke Imai, and Nicole E. Pashley. "Estimating heterogeneous causal effects of high-dimensional treatments: Application to conjoint analysis." The Annals of Applied Statistics 19.2 (2025): 866-888.
Imai, Kosuke, and Aaron Strauss. "Estimation of heterogeneous treatment effects from randomized experiments, with application to the optimal planning of the get-out-the-vote campaign." Political Analysis 19.1 (2011): 1-19.
Imai, Kosuke, and Marc Ratkovic. "Estimating treatment effect heterogeneity in randomized program evaluation." The Annals of Applied Statistics (2013): 443-470.