この記事は、生成AIを一切使わずに書くことにしました。ふだんはアウトラインや最終調整に生成AIを利用しています。ChatGPTのおかげで本当に便利な時代になりました。
ナビエ・ストークス問題の「解決」の報道について
2026年9月8日 に、OpenAIから、「ミレニアム懸賞問題の一つであるナビエ・ストークス問題に対する否定的な解決に該当する解の構成に成功し、LEAN による形式証明を公開した」という報道がなされました。
https://openai.com/index/navier-stokes-solution/
そのOpenAIからのニュースは、世界からの凄まじい注目をもって迎えられ、数学研究コミュニティにとどまらずまたたく間に世界中に拡散しています。
ただし、2026年9月12日 現時点ではっきり断言できるのは、まだ査読が完了しておらず真偽は確定していないということです。コミュニティの状況的には解決した可能性はかなり高そうですが、学術誌が査読を正式に完了していませんし、クレイ研究所からの正式な声明もありません。本来は学術誌が査読を完了し、数学コミュニティで合意形成が得られるまでは、数学としてはその業績は確定しません。最終的にクレイ研究所が成果を認定するかどうかも不明です。
可能性は低いですが、証明が誤りだったということもあり得ます。「LEANによる形式証明」はその性質上、誤りは100%検出できますが、それ単体では「証明しようとしている命題が真or誤」を100%保証するものではないからです。極端な話、最初のステップである「命題のLEAN定式化」にほんのわずかでも誤りがあれば形式証明は価値を失います。
TL;DR
タイトルで「害悪」と書いている通り、私はOpenAIのこの「報道」について、結果としてもたらされる数学コミュニティへの深刻な問題を棚上げにして、OpenAI が性急な報道をしたことについて単純に害悪だと考えています。つまり、OpenAIとそのステークホルダー以外の誰も得をしない近視眼的な行為だったと考えています。
何が害悪たりうるか? - Fields賞受賞者による共同声明
2026年9月11日、テレンス・タオを初めとするフィールズ賞受賞者による「数学におけるAIについての重大なミスアラインメント」という声明が発表されました。この声明は、今回のOpenAI報道を名指ししてはいないが明らかに今回の報道と連動した緊急声明です。
数学コミュニティに与える害悪について、私の考えに合致し、それ以上の深さと簡潔さを持って問題点を明らかにしています。それは、 数学における「未解決問題」は、何のために存在しているのか? という問いに集約されます。
その問いの答えは人によってバラバラでしょう。ただ間違いなく言えるのは、 AIベンダーのAI性能のベンチマークとして使われるべきものではない ということです。
引用:
... However, the push by AI companies to solve mathematical problems as a benchmark is detrimental to the science of mathematics, and to the mathematical community. ...
数学の問題は、真偽を証明することだけを「最終目的」として存在するわけでは決してありません。その目的は立場によって変わります。
初等教育の現場では、生徒がそのプロセスを自力で検証していくことで、論理的思考力を高め、数学に限らず様々な局面で柔軟に通用できる思考力を養うことが、真の目的と言えるでしょう。
そして、最前線の数学研究者にとって「未解決問題」は、 数学コミュニティの活発な人的交流を促進し、新しい解決策や次の「未解決問題」を生み出し、数学者たちと共にに「人類への善なる貢献」をもたらすための、いわば自己回帰的なツール といえます。
引用:
Solving one of these problems has been a certain sign of new insights and interesting methods, which would then be studied by a community of mathematicians, through a long and arduous process of talks, discussions, simplifications. At the end of this process, one will ideally find a textbook presentation of the results suitable for any graduate or even undergraduate student to study. Some of the mathematical ideas pursue their journey even further to become, decades or centuries after, tools that are understood and used by the whole population.
今回のOpenAIの「報道」は、その科学コミュニティの大義を無視した営利企業が、そのステークホルダーからの不可避の圧力を背景に発出されたもので「人類への善なる貢献」はほとんどないと私は見做します。
研究者が生成AIを使っていくことついては、ためらうこと無く積極的に活用していくべきでしょう。それ自体、私は生成AIの「人類への善なる貢献」だと思います。
ただ今回の「報道」が問題なのは、一つには、あまりに急激な変化圧力を、無自覚かのような軽率さで、数学コミュニティに押し付けたことだと考えています。
これはちょうど、「急激な気候変動により生態系や社会生活が適応困難な変化に晒される」、あるいは「急激な物価上昇により政策が追いつかず国民が困窮する」ことと同様、急激な変化には社会集団は適切に対処できないという事実と同じ構造です。
そしてもう一つは、数学者達の、キャリアを賭した挑戦の歴史を十分な合意形成無く「インプット」のひとつに使ったうえで、証明の最後のピースを自社しか持ち得ない膨大な金と計算リソースで埋め、結果として話題性と成果を独占したとみなされたことです。
OpenAIの声明には、先駆者との接触を行い敬意を払ったという経緯は示されています。
引用:
Our effort began on September 1st after hearing a rumor which we later realized was related to Levent Alpöge, an Anthropic employee, and Tristan Buckmaster, a math professor at NYU. After the completion of our full project and Lean verification (on September 6th), believing from the rumor they also had a solution of Navier–Stokes, we reached out to them to offer a concurrent release of our result and to recognize their priority in a joint announcement. At that point we found out that they had a resolution of the forced Euler problem. In these discussions we offered them visibility into all of the prompts we used and later to see the proof. We recognize the priority of their work on forced Euler and congratulate them on their remarkable mathematical achievement.
しかし、彼らの成果の「噂」をトリガーにして、そこから88時間の短期間で計算リソースを彼らのAIに投入し、証明の最後の穴を埋めたという事実は、OpenAI自身が声明でそれを認めています。
当の先駆者たちとのクレジット論争が目下で巻き起こっていることが、この「報道」にいたる研究プロセスが数学コミュニティの中で正常な関係性のもとで進まなかったことを明白に示しています。
科学コミュニティはどう変化する必要があるか?
私が理論物理の博士号を取得したとき、当然、生成AIはありませんでしたが、コンピュータによる大規模数値計算やMathematicaによる複雑な数式処理は誰でもできるようにツールは整備されていて、それがないと先端研究には遠く及ばない状況でした。
それと同じように、ツールの一つとして生成AIを利用することは、今後の先端研究においてはもはや必須になっています。そしてその帰結として、研究者がそれまで苦心して乗り越えていた研究の難所、いわば研究のボトルネックは全く別の場所へすでに変化しました。
それを事実として踏まえ、「研究者を沸き立たせ、次の世代に実りある研究の土壌をもたらし、それに対する正当な評価と対価が得られる仕組み」を作ること。そのためのコミュニティの「文化」の再設計を行うことが、コミュニティには求められています。
「文化」というワードをチョイスしたのは、岡野原さんの著書『ヒトとAI』 でも指摘されている「文化」の役割
引用:
...すなわち文化とは、個人が獲得した知識や技能が外部に記録され、共有され、検証され、改変されながら、次世代へと引き継がれていく仕組みである。 ...(中略)...文化は、学習結果をただ保存するだけでなく、「何が人類として残るに値するか」を集団で判断するための道具でもある。
そのものを私も意図しています。この「文化」には、コミュニティには時間をかけて変化させる猶予が必要であり、その中心では傑出したリーダー達がその役割を担います。声明を行ったフィールズ賞受賞者は、声明で述べているように、まさにその変化の中心でその責務を果たそうとしています。
引用:
...AI offers the potential of enhancing and accelerating genuine mathematical study and understanding. Mathematics as a profession will need to adapt to these changes in several ways. However, whether these changes ultimately benefit the field or have a destructive effect will in large part be determined by the decisions of the humans in control of this new technology.
そして、上記引用の最後でも述べられている通り、科学コミュニティと同時に、OpenAIを初めとするAIベンダーも、このようなコミュニティの大義を見失うことなくAI技術を適切に管理する重責を負っています。
一挙手一投足すべてが苛烈な注目を浴び、人類の盛衰を決定づけうるテクノロジー企業だからこそ、この大義を深く追求し、ときには変化の主体となり、そして時には自制する必要があります。単純に今回の「報道」に至るプロセスは、その判断を誤ったと私は思いました。
最後に
「人類に対する善なる貢献」という言葉を未定義のまま使ってきました。これはもはやイデオロギー論であり、世界共通のものなどあるはずもありません。「資本主義と社会主義」、「民主主義と全体主義」、その間で「善」は対立します。
ただ私は、人類は知性とその探求を根源欲求の一つにもつ存在だと考えています。宇宙、地球、国、経済、人間社会を形作っているものが何かを深く探求することは人類の発展に向かうためには極めて重要なものだと思います。そのために、人と人との健全な知的交流を促進し、知を探求し続ける土壌は決して失ってはならないと考えています。