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好きを仕事にすること(SIer編)

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大手SIの子会社に新卒で入ってもう13年目になります。
製品部門に入り設計から製造、導入やサポートまで幅広い範囲を経験させてもらいました。
2010年代も終わりますし、今までのキャリアの振り返り(と言う名の自分語り)です。

元々はある人と話すための整理のためだったのですが、とんでもなく長くなりました。
年末なので、書き捨てです。
要点は下記の通りです。

tl;tr

  • 完璧を目指さない
    • 完璧でないゴールを設定する。完璧でないことに満足する。70点に喜ぶ
    • 全ての言葉はすぐには理解できない。理解しても行動できない。時間をかけて心の準備をして、トライして、失敗したらまた心の準備ができるまで待つ。その時なにができるようになったか分かると99点。振り返りが出来たら100点
    • 簡単に技術を扱う魔法使い(ウィザード)にはなれない。何も見ずにプログラムなんて出来ない。普通の人は常に色んなマニュアル、man、参考書とGoogle先生を見ながらプログラムをする
  • 自分を否定しない
    • 成果物=自分ではない。また、一つ一つの指摘は正しくとも指摘をした人にも完璧な答えはない。どこかで自分の意見が必要なことがある
    • ネットは声が大きい人が多い。できる人も多い。その人をペースランナーにしても意味がない。相手はスーパープログラマーかもしれない。出来なければそれでもいい
  • 独善的にならない
    • プロジェクトのフォーマットが気にくわなくても、先に失敗が見えていても、相談・提案をして受け入れられなかったら捨てる。こだわってはいけない。理解されないものは実行できないし、保守もされない
    • ブレーキをつける。楽しくても止める勇気、不満自分ををなだめるスキルを身につける
    • 1人で身につけようとしない。頑張って技術者サークル(ネットのグループでもいいです)に参加する。初心者なら余計に。質問もしよう。wikiやブログなどでそのやりとりをノートにすれば役に立つ人は山のようにいる

あとはこれに至るまでの話です。読まなくていいです。

新人期(3年目くらいまで)

私は花の酒鬼薔薇世代でございまして、日本のWebの成長と共に青春を過ごしました。
SIerになったのはなりゆきで、本当は営業やメーカーの技術者、マスコミなど色んな業種を受けましたが結果として20社受けて(これでも都会の就活生と比べたら少ない)受かったのがウチだけでした。

正直、SIerはナメていました。当時からブラック(当時から大学生板、就活板にはこの言葉はありました)なのは分かっていたし、私は90年代のWeb草創期(?)からプログラムに親しんでおりperlでCGIを作っていたので実力はあるだろうと思っていました。

異変を感じ始める

新卒研修はJavaでTomcatを使ったWebサイトを作ることでした(未だに新人研修がこの構成なのはどうかと思いますが)。
Javaの研修自体は問題なかったです。中学生のときにチャレンジしたAppletの方が写経しか出来ず、くじけたのに比べたら基礎は余裕でした。しかし、Tomcatが始まったあたりで???がいっぱい出始めます。Strutsとは何かと、Catalinaとは何かとそもそもTomcatとは何かと悩みはじめます。さらにEclipseを使っての開発で出たデプロイとは何かと用語で悩みました。
用語は慣れてしまえば使いこなせるのですが、当時の私はよく分かりませんでした。このせいでTomcatでのプログラムが最後までうまくいきませんでした。
システムを作るときもperlで作れば30分で終わるのにとか思っていました(本当はそんな事ないのですが)。perlを使ったとはいえ書いている内容はperl4レベルであり、標準ライブラリしか使ったことのない私にはフレームワークというものがイマイチしっくり来なかったです(フレームワークという仕組みに慣れるのに5年はかかったと思う)
この時の一番の収穫は自分は漢字を間違えて覚えており、また、文章を作るのが下手だったと言うことです。

この時の振り返りは100%を満たそうとしないことですね。特に「経験者だから」という空虚な見栄を捨てることです。
説明が下手でもいいです。相手に伝わればOKです。出川イングリッシュは日本語にも通用します。

異変が深まる

そして、配属です。まだ、13年のうち半年です。ここまで読んだ方、すみません。
職場には3つ上の尊敬できる先輩がおり、プログラムをこなしながら1人で顧客との交渉ができる人がいました。そんな人のように技術だけではなく、顧客と対話できる人になりたいなと思っておりました。コンサルがもてはやされた時代でしたからなんでも精通していて顧客と話ができる人をカッコいいと思っていました。

配属されてテスト要員になり、テスト仕様書を前のバージョンから書き換える仕事をしましたが、レビューで言葉が抜けてるとか色々指摘を受けました。言葉って難しいなぁと思いました。
また、状況説明ができず、なにが問題なのかなどホウレンソウが全く出来ませんでした。なんども聞き返され、相手のイライラを感じ取り、わかったフリをしてそのまま席に戻り、ネットで調べ直すみたいなことがよくありました。

新人とはそんなものですが、自分の職場のレベルの低さにも苛立っていました。なぜ今C89なんだ。Javaじゃないんだ。なんでVB6でGUIを作っているんだとも思っていました。.NETならGUIのテストが自動で出来ると知ってよく憧れたものです。

この時の振り返りは経験者や耳早い人はそうなのですが、「知ってる=偉い」ではないです。先輩や同僚と仕事について話しましょう。1人で遠くにいかない。適度に報告をする。コンテキスト(文脈)をとにかく共有しましょう
そして、とにかく部内の方と意思交換できるようになりましょう。わかっているところを説明するだけでもいいです。一員になれるようにしましょう。

自分を蝕んでいく「楽しい」

職歴13年の私のプログラムは基本的に未だ「趣味」レベルです。これはアルゴリズムなどの問題ではなく、他の人に合わせたプログラムが出来ていない事を表しています。
あのライブラリを使えば、この言語のこの機能を使えばもっと楽になるからと言って使い、レビューで「何これ」と言われるのです。他のプログラムから私の部分だけ浮いているんですね。もちろん、その部分は修正です。

とは言え、プログラムは楽しかったです。プログラムだけではなく、色んなツールを試したりするのが楽しかった。ウチに帰ってもそれを調べたり、動かしたりしました。残業だって楽しかったです。
周りから咎められても、睡眠不足でも調べてもやっていました。途中で帰ることはあまり考えられなかったですね。一区切り、気が済むまでやっていました。

私は移り気で、色んな技術に興味を持ちました。ビッグデータ、クラウド、関数型言語みたいなバズワードから仕事効率化のためのVBA、jscript、Windowsバッチ、テスト技法、趣味ではコンパイラ、iOSアプリの開発あれもこれもやりたいと思いました。
実際に身についたものもありますし、アプリの開発のように全く手がつかなかったものもあります。
とにかくずっと調べていました。手を動かすことは少なかったですね。しかも、手を動かしてもうまく動かなくて自分のものに出来たのはほんの一握りです。この13年間で応用、ネットワーク、セキュリティ、DBの情報処理技術者試験は受かりましたし、XMLマスターのブロンズや統計2級くらいまでは行けました。
これをすごいと思うかは人によりけりです。どれもこれも試験勉強を始めて1年以上かかっています。
好きだから続いたんですね。続けられたんですが、それ以上にやりたい事が出来る。私の頭はやりたい事がいっぱいです。精神と時の部屋があれば入りたいくらいです。

しかし、それは確実に私の体を蝕んでいました。連日の残業、夜遅くまでの勉強、私の身体は思った以上に疲労していました。

ネットには技術者のブログが山のようにあります。技術者達は自分の成果を書き綴っています。うらやましかったですね。私もそんな人になりたい、それをブログに書いて承認欲求を満たしたいと思っていました。

この時の振り返りは止める勇気を持つことですね。
また、ネットを基準にしないことですね。もっと地に足ついたゴールを考えることです。

挫折(4年目〜7年目)

理想と現実

最初の3年が終わり、4年目になったとき愕然としました。
ウチのグループの冗談で「3日触ったらベテラン」というのがありましたが、3年経っても自分の仕事レベルが変わっていなかったのです。
レビューは全然通らない、お客様とは話せる機会はない(上がお客様には出せないと判断していました)、目標としていた先輩とは天と地ほどの差を感じました。
当時、私も私の得意分野はありましたが、それは私の欲求を満たすものではありませんでした。もっと認められたいものがあったんですね。
この理想と現実の差に「もう○年目なんだから」、「もう○○歳なんだから」が加わり自己嫌悪に陥っていました。どんどん離れて行く理想の自分と今の自分が辛かったですね。
また、それまでに身につけておきたかったスキルも身につかず、やりたい事(=やらなきゃいけない事)は山積みになっていました。

やりたいこと=できなきゃいけないことがいっぱいでした。無意味にプレッシャーがかかり、あれができれば、これができればと思っていましたね。

今、振り返ると、「ここで終わりというゴール」がなかったですね。「マスター」という曖昧で壮大な目標に向かって理想だけが膨らみどこまでも高い目標を夢見ていました。
また、何がしたいのか書き出してみるといいです。私は外化することすらしませんでした。

工数とアイデンティティ

SIerは工数からは逃れられない生物です。正社員とアルバイトとは違うとは言いますが、時間単価で測られるのは変わんないんですね。有給があるくらいで。
私はとても生産性が低かった。生産性とは時間当たりの成果物の量です。もちろん量だけではダメです。質が伴っていないと差し戻しです。
私はこの質がまったくダメでした。調べて、考えて、一生懸命に作りましたが、レビューで弾かれていました。仕様書やプログラムだけではなく、お客様に出すメールなどでも「どうしてあんなこと言ったんだ」と怒られてお詫びのメールを出すこともありました。
若いうちは特にそうですが成果物=自分なんですね。そうなると、自分を否定されるように感じて自分のアウトプットが怖くて仕方ない。NGを出されて直しを忘れてしまって再修正なんてこともありました。
また、修正って簡単に見えて難しいんですよ。指摘する側は大抵全体像なんて考えませんから一部直したらあっちにもこっちにも影響が出たみたいなことがあります。また、成果物=自分のままだと直すこと自体苦痛だったりします。
複数の人に見てもらう時は矛盾した意見が双方から出て、どっちにすればいいのか分かりませんでした。もう、自分で何かを決めたくなんてありませんでした。

振り返りは前の通り、ここで止める勇気を持つことです。特に周りに合わせること。
仕事はひとりでやるものではないです。ひとりでできないからチームで仕事をしているんです。

一人

入社から今まで人と仕事をするのが苦手でした。技術系、社内の手続きとか関係なく、仕事の話をするのが苦手だったんですね。無駄口はよく叩いたんですが、こと仕事になるとホントダメ。
頭には調べたりした大量の情報があります。しかし、それを正しく相手に伝えられない。
些細な反例などを考えて、断言できなかったり、主語(と人はいいますが、文の主体というのが正しいでしょう)が抜けていたり、話しているうちに話のゴールを見つけられなかったり、突拍子のないことを言ったり。
相手にイメージを持たせられなかったですね。
いつかどこかで自分の中に正解があることを諦めました。というか、正解が常にあると思っていました。

分かってくれる人なんて誰もいないと思いました。やりたいことを理解してサポートしてくれる人なんていないんだって思いました。

当然なんですね試験や技術の勉強は1人でやっていました。人と争うこと(=負けること)を恐れていましたし、参加自体面倒で仕事の忙しさを自分の理由にしていました。
また、勘違いして覚えていたりして、人に説明もできませんでした。結局、人を巻き込めなかったんですね。

ですから、私が目標にしているレベルは実体験に基づくものではなく、勝手な想像のレベルでした。まったく足についてなかったんですね。計画もクソもあったものではないものですね。
やはり、相談したり手を動かせる環境が大切なんだと思います。

真綿で首がしまっていく(7年目〜休職まで)

ダメ人間

今の世代の子は結構そうなんですが、私も例に漏れず自尊心が低かったです。
自分を大切に出来なかったし、いつ死んでもいいと思っていました。部内に後輩がいなかったこともあり、ずっと最下層の人間だと思っていました。

レビューなどが自尊心を下げていました。
なぜかというと、ある程度の経験を積めばレビューなどで指摘を受けなくなると思い込んでいたんですね。つまらないミスはしないだろう。会話も最小限でツーカーになるだろう。

そんなことなかったですね。

私の能力の問題もありますが、指摘を受けることなんて普通のことなんですね。
見逃していた、勘違いしていたなんていうこともあることです。

でも、それが私には耐えられなかったですね。先にも書きましたが成果物=自分なんです。
私の成果物への指摘ば私への攻撃に思えました。こんなことを書くなんて、言葉が足りないなんて、こんなミスをするなんてダメじゃないか。そう聞こえました。
そして、もう○年目、○才、理想の自分はいまこうできているはず。なんで出来ないんだ。ダメ人間なんだ。

ヘラヘラしながらそれを受け入れていました。ヘラヘラしていないと落ち込みそうで仕方なかったんですね。バカですよーと。えっへへーと。

本当は傷ついてたんですけどね。
カウンセラーからもなんでそんなに自分を低く見るんですかと聞かれました。ポカンとしました。それすら気付いていませんでした。

希望は病

この頃、蕁麻疹があちこちから出ました。ここら辺で自立神経失調症になったんですね。
蕁麻疹がひどいので皮膚科に行きました。なかなか治らなかったですね。
で、気分の落ち込みなどが出てきました。

「あれ、これ鬱じゃねぇの?」

私は喜びました。原因がわかれば自分がポンコツな理由が説明つくので。喜び勇んで心療内科に行きました。普通の自律神経失調症でした。

ただ、以来、自分の症状に合うような病気(という名のポンコツの原因)を探しました。
見つけました。

ADHD。

注意欠陥、ケアレスミス、話や意識があちこち飛ぶ、部屋や忘れ物が多い、締め切りが守れない、不注意な発言をする、衝動買い・・・まぁ挙げていけばキリがありませんが、とにかく「コレだ」と思いました。
早速、心療内科でWAIS-IIIを受けました(プロジェクトの大事な時でしたが、こっちの方が大事だと思って中抜けしてやりました)。

結果はホワイト寄りのグレー。つまりそれっぽいだけです。

医師からもカウンセラーからも言われました「発達障害の人はもっとコミュニケーションに難がある。こんなに自己分析できて、説明をできているのに発達障害とは言いにくい」。

以来、色々自分にレッテルを貼っていきましたHSP、アダルトチルドレン、これらは医師の診断は必要ありませんから言ったもの勝ちみたいなものです。とりあえず、自分はこれらのものだと思って仕事をしました。メンヘラ板によく出入りしていました。

とにかく逃げ道を探していました。辞めたくても辞められませんでした。

休職〜現在

真綿で首が閉まる

私の同期は50人いました。20人くらいは5年目くらいまでで辞めていきました。
ベンチャーやコンサルなどの新しい環境に行く人や、メンタルなどの問題で退職していく人もいました。

私が辞めなかった理由は2つあります。
まずは私の部署はホワイトでいい人ばかりでした。レビューなどはキツかったですが、人間的に良い人ばかりでした。だから、悩んだりしても、相手を憎めませんでしたし、むしろミスしたり。貢献できない自分が不甲斐なく情けないと思っていました。
いつまでこの人たちに食わせてもらっているんだろうと。お返しをしてから辞めようと思っていました。

優しい周り、役立たずな自分。
責めない周り、無意識的に自己否定をする自分。

私の首はこうやってゆっくりと締まっていきました

臆病なパラサイト

もう一つは勤め先が大企業(の子会社)ということです。
福利厚生は充実していますし、カウンセラーも格安で受けられる。大企業もこれからは危ないとはいえ、休職を1年もさせてくれるのは大企業だからでしょうし、潰れる可能性が低いのも大企業です。
ときに、リストラがありますが、私は若かったのでまだ対象外でした(もうすぐ対象年齢になりますが)。

立派なパラサイト社員ですが、パラサイトはパラサイトでしんどいもので。

とにかく相談したら相手の言うことを聞くようにしていました。その結果生まれる矛盾などもおありましたが、それはそれで怒られました。
とにかく相手が分かるまで話しました。これがとにかく苦痛でした。説明下手というのは話しましたが、理解したと言われても、誤解して理解された場合の訂正などに頭をフル回転させていました。
また、複数人いるときに間に入ることもしんどかったです。基本的に自分の意見は持たず、人の意見をフォローばかりでした。そして、意見の対立があるととにかく妥協点を見つけるようにしていました。
とにかく怒声が嫌でしたし、対立がいやでした。それが自分に向けられていなくても、自分に向けられているようで怒声や大声が聞こえると、そっと席を離れるようになっていきました。

くすぶり続ける虚構

私はどこかで自分を諦めたつもりでした。
自分はポンコツでなにもできないと思っているつもりでした。

しかし、甘かった。

私はあるプロジェクトの中心人物になっていました。10年勤めていて初めてだったのではないでしょうか。メンバーをまとめ、方向性を話し合い、要件をまとめていきました。
情報産業の価格はビックリするぐらい高いです。1件何百万だったりします。
自分が進めているものはその価値に合っているんだろうか。「お客様」にそれを提供できるんだろうか。どう考えてもできない。お客様から見限られ、土下座をする姿が浮かびました。

これがトドメでした。

中心人物であると過信し、助けを求めず、周りに流されて何もできない自分が嫌で嫌で仕方ありませんでした。

その結果、1週間の休みを取りました。実家に戻り少し落ち着こうと。卑怯者と自分をなじりながら。
1週間の最後、実家から近くの空港までずっと泣いていました。34のオッサンがもうダメだ。と言って泣いていました。
そして、休職しました。

その後

休職後、すぐに復帰するつもりで規則正しい生活を心がけました。
いつも通りに時間に起き、着替え、家を出て、図書館などにいきました。

自責だけが増え、何も解決していませんでした。
とにかく復帰だけを考え、自分を休めようとか全く考えなかったです。

復帰の面談のとき「もう大丈夫?復帰してやっていく自信はある?」という言葉に嘘でも「はい」とは言えず、涙を流しました。当然復帰はNGでした。

リワークを見つけ、とりあえず、規則正しい生活ができることをアピールし、今度は質問に「多分」と答えられました。

その間メンタルの勉強をし、復帰したらどうやって発達障害「気味」の自分とつきあうかを研究しました。成果はボロボロでしたが。

この時、正しくはとにかく休むことだったんだろうと思います。すべてを一旦置いてゼロにすることが大切だったんだと思います。そこからまた何かを考えるべきだったのでしょう。
ゆっくりと自分を癒し、いたわり、理解し、そこから対策を考えるなど再出発するべきだったのでしょう。

復帰して2年が過ぎました。気持ちは少し楽になりました。相変わらず自律神経はいつもどこかおかしく、やりたいこと=やらなければならないという強迫観念は消えません。
世界は広がりましたが、まだ、そこに住むには怖い。

これは私と言うサンプル=1の特殊例ですが、誰かの何かの参考になればと思い本来の技術者向けの記事を書く趣旨とは違いますが、Qiitaに投稿させていただきました。

みなさま、新しい10年期、2020年代を。

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