今、俺は仕事でテックブログを書くことを業務目標にされているエンジニアだ。
評価項目にもなっているし、記事を書かないと「成長してない」と見なされる。
でも正直に言う。
書きたくない。やりたくない。やる意味が分からない。
書くモチベーションはほぼゼロ
- 技術を深掘りすることに興味がない
- 誰に向けて書いてるか分からない
- 採用やブランディングに効いてる実感もない
- 業務で手一杯なのに、さらに「文章力」まで求められる理不尽さ
それでも、
「文化だから」「みんなやってるから」「目標達成のため」
そんな理由で、“当然のように”書かされる。
書いてない=評価が下がる?それって本質からズレてないか
業務評価に組み込まれている以上、無視するわけにはいかない。
だから、渋々記事を書く。内容のクオリティより、「出したこと」の方が大事になる。
つまり「魂のこもったアウトプット」ではなく、「消化試合の義務作業」になってしまってる。
周りは楽しそうにやってる。それがまたキツい
SNSを見れば、「記事書きました!」の報告が日々流れてくる。
社内の仲間も、当たり前のように記事を出す。
自分だけが書けない。自分だけがモチベが湧かない。
そんなふうに思ってしまう。
だけど…本当にみんな、心から書いてるのか?
この空気が、AIによる“薄い記事の量産”を生んでいるんじゃないか?
最近よく見るようになった、誰の役に立ってるのか分からないAI生成記事。
似たようなタイトル、似たような構成、内容は浅く、結論もふわっとしてる。
あれって、
「義務だから」「評価されるから」「記事を書かないと怒られるから」
そんな圧力の中で、「やる気ゼロだけど体裁だけ整えた」結果なんじゃないか?
書きたくない人が、本音を言えずにAIでノルマをこなす。
それって、健全な文化とは言えないと思う。
声を上げづらい空気が、不健全さを加速させている
「書けない」「書きたくない」
そう言った瞬間に「やる気がない」「成長意欲がない」とレッテルを貼られる。
だから黙る。
そしてまた、“中身のない記事”が量産されていく。
もう、誰かが言わなきゃいけないと思った。
俺は書けない。でも、それで評価を落とすのは違う
- 文章を書くのが苦手なエンジニアもいる
- 技術への熱量のベクトルが違うだけの人もいる
- 実装・設計・コミュニケーションで力を発揮するタイプもいる
アウトプットの手段をひとつに決めつけて、評価の軸にするべきじゃない。
結論:書かないことも、選択肢のひとつであってほしい
- 書ける人は素晴らしい。
- でも、書けない人もいる。
- そして、そのことを**「甘え」や「怠慢」と決めつける風潮はおかしい。**
ちなみにこの記事も、AIと一緒に書きました。
「書けない」気持ちをなんとか言語化するために、AIの力を借りました。
これは俺なりの、ギリギリのアウトプットです。
この文章が、
「書けないけど言えなかった」誰かの代弁になれたら、嬉しい。