はじめに
「圏論」について興味を持ちながらもどんな記事や書籍に目を通してみてもまったく理解できなかった自分が、この資料のおかげでやっと入口に立てた気がします。
特に興味深かったに内容を抜粋しますので、興味を持たれた方はぜひ原本をご一読ください。
出典
圏論的な<ものの見方・考え方>入門 (西郷 甲矢人)
抜粋
数学とは何か、数学とは「矢印」を引くことである
圏論とは、ある数学分野を全体的に書き直す暴挙だった(だがのちに有効性が明らかにもなる)
「伝説的な数学者グロタンディーク」は代数幾何学という分野を圏論を用いて全体的に書き直すという「暴挙」に出ました。
考えてみてください、皆さんが習ってきた高校数学を、全部矢印で書き直されたらどんな気持ちになりますか。
こんなお風な大掛かりなことをやられたので、多くの数学者たちはもうわーっとなったんです。
のちにはその有効性が明らかになりましたが。
事例「ジャイアントケルプの減少」(「昆布 ウニ ラッコ」→ 「合成 結合律 関数」)
数というのは全て働きと見做すことができる。2という数は「2倍するという働き」とみることができる
「数値で示せ」とかよく言われるが、数って「現実」なのか。「数はものではないし、また重さや体積といった量そのものでもない
★そうではなく、数というのは量と量をつなぐ「働き」
特に「1」はとても大事。これは「逆」ということを考えるために「何もしない」を定義しておかないといけないというのが大きい
線型代数というのは、多次元の量を多次元の量に変換することを考える
「線型性」という性質を満たすものを「線型写像」と言う
線型写像というのは簡単に言えば多次元の量の正比例関数
線形写像というのは行列というもので表現でき、行列の算法はきわめて役立つ
行列というのは、世の中でこれほど役に立つものはないんじゃないかというくらい役に立つ
パン工場というのは一つの行列みたいなものと考えることもできる
小麦粉何キロ、水何リットル、と入力を並べると、その日に作るパンの量が出てくる
線型写像、とくに行列からなる圏の研究が線形代数であると言うことができる
「順序を交換できる」という意味で「可換」と呼ぶ
圏において何らかの可換図式があるとき、それはとても重要な情報になる
「関手」という概念について
「モルというのは米原駅みたいなもの」
「モルを考ええることに何の意味があるのかというと、体積と原子の個数をつなげるいいポイントにあるということ
「行き方」を矢印、「行き方をつなげること」を合成、「動かないという『行き方』を恒等射とみなせば、
交通ネットワークも「圏」として考えられる
「比喩」とは一体なにか
この二つの圏のなかで、モルと米原駅は、どう似ているのか
★ものが似ているのではない。関係性が似ている
こうした圏どうしの対応付けを「関手」と言う。圏の構造を保った変換が「関手」
図形の世界の話を、量の世界の話に持ってくるものがホモロジー関手
「円周は整数の如し、円板はゼロの如し」
####「ブラウワーの不動点定理」
桶の中の砂金をかき混ぜるとき、少なくとも一粒、結果としてその場を動いていない砂金が必ずあることを証明する
証明は「そういう点」すなわち「不動点」がなかったとしたら、ありえないことが実現できてしまうということを明らかにすることによってなされる
####「比喩・類推(アナロジー)」の数学版が、関手という概念。
####「よい(good)数学者はアナロジーがわかる。偉大な(great)数学者はアナロジーの間のアナロジーがわかる」
★関手どうしを比較することは「自然変換」と言い、実はこれを考えようとしたことが圏論の歴史的起源
関手と関手のアナロジーが自然変換である
相対性理論においては、互いに等速直線運動している観測者の座標系(「慣性系」)どうしで空間座標のみならず時間の値までも変わってくるということで「相対性」というが、
みんなそれぞれ違うというだけではなく、互いに別な座標系での見え方のあいだに変換が存在する
「ローレンツ変換」も、さまざまな表現のあいだの「変換」の一例
自然変換というのは、こうした「見方の転換」のようなものを非常に一般化して定式化したものと思ってもらえればよい。
座標を定めると、その座標についての表現がでるが、これが「関手」に一般化され、関手のあいだの変換関係が一般化されたものが自然変換
詳しいことは「圏論の道案内 (西郷 甲矢人・能美 十三)」
グロタンディークが矢印には「何も仮定しない」と言った
プログラムも矢印と思ってよい。
脳の中で起きている「連想」というプロセスも矢印とみなせるかもしれない
生態学の教科書を見ますと、矢印だらけ。
代謝経路のネットワーク、これは普通はネットワークサイエンスと呼ばれるもので、圏論の領域とは違うと考えられていますが、数学的には近いもの。
では、世の中はなぜこんなに矢印だらけなのか、
ジョージ・レイコフという認知言語学を創始した人物の一人が「数学とは何か」という問いに対して、
圏論の創始者の一人であるソンダース・マックレーンの見解を踏まえたうえでこう言っています。
「数学とは、人が自分の経験を理解し理路を辿るために使う構造の研究である。
その構造は、概念以前の身体的経験に内在し、比喩(メタファー)を通じて抽象化される」
例えば「てにおは」というのは日本語を学ぶ人にとって難しい
日本語を現に使える人がいるということは、そこにはきっちり論理構造があるはずで、
それは圏論的な方法によって抽出されるかもしれない。
「小耳に挟む」という言葉があります
「横車を押す」「粗熱を取る」
よく考えてみると不思議なこういう言い回しの背後にある構造を「範疇文法」というやつ
で理解しようという話。この範疇文法というのはある種の圏論的構造として理解できて
現に圏論の専門家たちが重要な貢献をしているようです。
「命題の間の矢印」
推論というものには根源的に圏の構造が見出しうる
「章立ての構造・基づけの関係」
「第一章なしに第二章はない」という関係
「AならばB」ではなくて「AでないならBでない」という関係
現象学なら「基づけの関係」という
時間的な順序を込めてより一般的な言葉でいえば「因果」
「因果の論理」
「これをなくせばこれがなくなる」というのは医学や疫学にも通底する論理と言えます
圏論的な見方・考え方は分野横断的に役立つ
量子論「EPRパラドックス」一見相対論に反しそうに見えても実際には反しない
「なぜ反しないのか」ということを明晰に理解するときにも「因果とは何か」というものをしっかり
考えることが大事