LoginSignup
17
7

ときに「一神教」みたいな『KPTもどき』と、本当は「多神教」な八百万(やおよろず)のふりかえり

Last updated at Posted at 2024-04-06

ふりかえり界隈が、ここ数日KPTの話題で盛り上がっていて、記憶のトゲが疼いて痛いのです。

個人的な追憶で恐縮ですが、過去にKPTでHogeFuga村の悲劇を目撃した話を以下のnote記事で綴ったことがありました。久しぶりに読み返し、記憶の一部がフラッシュバックして天を仰いでしまいました。

読み返していて、ふりかえり界隈の盛り上がりとの重なりと温度差の両方を体感し、本質的に起きていること、あるいは先の記事のHogeFuga村で起きたことは 「KPTのせいではない」 と改めて思うとともに、ほんのわずかながら自分の中で解像度が上がったので、さらに言語化したい思いになりました。

母集団の構成というか特性が違う

そもそも、

  • 「KPTやります/やったことがあります」

というヒトと、

  • 「KPTやりますが、なにか?」

というヒトを集めたとき、両者はベン図上で重なりもあるけど、そもそも明らかに違う(母集団の構成というか特性が違う)というのは実感としてあります。

  • YWT(やったこと/わかったこと/つぎやること) もやってみた
  • KPTではなくFDL(Fun/Done/Learn) してみた

とかいうヒトは、たとえば「ふりかえり」を平仮名で書きたがる程度に、そもそも 「ふりかえり」について時間を費やして考えてみたり複数の本を読み漁ったり、実践したことがあるヒト。

それに対して、

  • 「え? ふりかえり…って、ああ、KPTでしょ、やったことありますよ

っていうヒトは、往々にして本当に 「ふりかえり=KPT」 という式で認識していると感じる場面はあります。

(ある種、一神教みたいなとらえ方?)

八百万(やおよろず)のふりかえりと、そこに流れる少し大きな川

大前提として、

  • KPTが有効な状況もあれば、他のふりかえりがより有効な状況は当然ある

わけです。

当然KPTにも弱点はあります。

が、それはFDL(Fun/Done/Learn)にも弱点があるというのと等価であって、そもそもあたりまえのことです。

にもかかわらず、KPTでの失敗事例がとくに目につきやすいのは そもそも、

  • ふりかえりが「KPT一神教」でないことを少なくとも知っていて、意志をもってFDL(Fun/Done/Learn)などをためしに、やってみるヒト

と、

  • ただ(聞きかじったとか、誰かに言われて)KPTだけをやったことあるヒト

練度解像度が、根本的に違うのも大きいのではないか、と感じたりします。後者は、KPTしか基本的に実践しないため、KPTの総事例数がそれだけで相対的に上がるのです(こんな傾向は日本だけかもですが)。このことは前者に目が向きがちだと、ときに見落としてしまう事実です。

そして、両者の間で起きている「KPTの失敗事例」の間には、たしかに重なりもありますが、根本的に次元が違う側面もあります。

そこには断崖というか、少し大きな川が流れているというか……。

川の向こうが最初から置き去りになっていないか?

いわゆるKPTの課題を語るとき、それが、

  • KPTというふりかえりが持つ、純粋に「ココじゃない」だけのパターン
  • 不適材不適所みたいな、ミスマッチによって問題がおきるケース

の議論であれば両者に共通であり、重なり合っている部分の話題だと感じるのですが、そもそもふりかえりの八百万(やおよろず)に足を踏み入れたヒトは、意識しないと往々にして 「一神教」みたいな『KPTもどき』の世界もある(そもそも、世界全体を見ればみんなそこまでふりかえりストじゃない)ことを「つい」忘れてしまいがちです。

だから、なんだかずれている。…こともある。…気がする。…かもしれない。(弱気だ)

そもそも「それ以前の問題」でうまくいかない場面が多々あるように思うのです。

しかし、ふりかえり界隈では、

  • まずその川を見て、対岸のヒトがまず渡ることだけを、最初になんとかしよう!
  • KPT個別の話なんて、そもそも、それができてからだ!

みたいな話は(もちろん、ないわけではないだろうけど)意外と表にすぐに出てこなくて。

そこは既に渡っているヒトだけが暗黙的に前提になっていて、

  • (みんな当然にして知っている、ふりかえりの「ひとつ」である)KPTとは~

みたいに。

川向こうを置き去して語られる。…こともある。…気がする。…かもしれない。(弱気だ!)

「足場かけ(Scaffolding)」が足りない

KPTをこじらせてしまう現場って、そもそも(KPTについてそれこそ、おもむろにXでワイワイ語るほどには)ふりかえり愛…というより、ふりかえりの全体像に対する視点自体が、最初からまだなかったりするのです。

そこに流れる大きな川を意識したうえで、

  • では、乗り越える必要がもしも本当にあるなら、どう乗り越えてもらえるように、橋をかけようか?

みたいに考えないと、一番最初の川を渡っていないヒトにはそもそも届かない。
いつまでも対岸の火事であり、お祭り騒ぎです。

そもそも根本的に次元の違う対岸と、流れる川。
明らかに熱量の次元が違うヒトたちだけで、その世界のメガネでワチャワチャ言っている。
そして問題を抱えた現場はいつまでもその川が渡れない…そんな印象も持ってしまうのです。

もちろん、これだけが唯一のキリトリ方でもないのですが。そんな風に感じる場面もおおいにあるなぁと。

あと、あくまでも個人的な体験にはなりますが、過去、ある程度ふりかえりに前向きな現場であっても、

  • 基本形のKPTよりお気持ちから始めるKPTの方が、すんなりハマって無理がない場になる

ケースが多かった気もします。

(ふりかえりカタログのKPTは、確かにじつは出来事を話し合うところから始まっています…しかし…😶…そもそもふりかえりカタログを読む人はすでに川のこちらに…)

KPTには、

  • 場のヒトに対してそもそも「足場かけ」が足りない

というケースが意外と多いのかもしれません。

とくに結論とか提言とかで締めるでもないですが…

もしかしたら、

  • ふりかえりとは、米粒の一粒一粒に宿る八百万(やおよろず)のカミサマのようなもの

という、とてつもなく基本的なことを、最初に根気よく伝えることから始めないといけないのかも、とここ数日考えていたのでした。

KPTという手法の輝く場面、いまひとつな場面……などという「その先」の話題は、それまではぐっと我慢の子で敢えてすぐにコトバにはせず、川向こうの視点、目線に立って真摯に対話しないと、そもそも渡ってもいただけない段階があるのです。

最初の記事でご紹介している 「問い・解い・トイ」もそんな米粒の一粒一粒になれたらうれしいのです。今後ともよろしくお願いいたします。

株式会社Hajimariのスクラムマスターやむさんに、「問い・解い・トイ」の活用事例を記事にしていただきました!

スクラムマスターのいのもえさんに、「問い・解い・トイ」のセルフ振り返りについて記事にしていただきました!

追記

なぜかこの記事の続きがnoteにあります。どうしてそうなった…。

17
7
0

Register as a new user and use Qiita more conveniently

  1. You get articles that match your needs
  2. You can efficiently read back useful information
  3. You can use dark theme
What you can do with signing up
17
7