ふりかえり界隈が、ここ数日KPTの話題で盛り上がっていて、記憶のトゲが疼いて痛いのです。
個人的な追憶で恐縮ですが、過去にKPTでHogeFuga村の悲劇を目撃した話を以下のnote記事で綴ったことがありました。久しぶりに読み返し、記憶の一部がフラッシュバックして天を仰いでしまいました。
読み返していて、ふりかえり界隈の盛り上がりとの重なりと温度差の両方を体感し、本質的に起きていること、あるいは先の記事のHogeFuga村で起きたことは 「KPTのせいではない」 と改めて思うとともに、ほんのわずかながら自分の中で解像度が上がったので、さらに言語化したい思いになりました。
母集団の構成というか特性が違う
そもそも、
- 「KPTをやります/やったことがあります」
というヒトと、
- 「KPTもやりますが、なにか?」
というヒトを集めたとき、両者はベン図上で重なりもあるけど、そもそも明らかに違う(母集団の構成というか特性が違う)というのは実感としてあります。
- YWT(やったこと/わかったこと/つぎやること) もやってみた
- KPTではなくFDL(Fun/Done/Learn) してみた
とかいうヒトは、たとえば「ふりかえり」を平仮名で書きたがる程度に、そもそも 「ふりかえり」について時間を費やして考えてみたり複数の本を読み漁ったり、実践したことがあるヒト。
それに対して、
- 「え? ふりかえり…って、ああ、KPTでしょ、やったことありますよ」
っていうヒトは、往々にして本当に 「ふりかえり=KPT」 という式で認識していると感じる場面はあります。
(ある種、一神教みたいなとらえ方?)
八百万(やおよろず)のふりかえりと、そこに流れる少し大きな川
大前提として、
- KPTが有効な状況もあれば、他のふりかえりがより有効な状況は当然ある
わけです。
当然KPTにも弱点はあります。
が、それはFDL(Fun/Done/Learn)にも弱点があるというのと等価であって、そもそもあたりまえのことです。
にもかかわらず、KPTでの失敗事例がとくに目につきやすいのは そもそも、
- ふりかえりが「KPT一神教」でないことを少なくとも知っていて、意志をもってFDL(Fun/Done/Learn)などをためしに、やってみるヒト
と、
- ただ(聞きかじったとか、誰かに言われて)KPTだけをやったことあるヒト
の練度や解像度が、根本的に違うのも大きいのではないか、と感じたりします。後者は、KPTしか基本的に実践しないため、KPTの総事例数がそれだけで相対的に上がるのです(こんな傾向は日本だけかもですが)。このことは前者に目が向きがちだと、ときに見落としてしまう事実です。
そして、両者の間で起きている「KPTの失敗事例」の間には、たしかに重なりもありますが、根本的に次元が違う側面もあります。
そこには断崖というか、少し大きな川が流れているというか……。
川の向こうが最初から置き去りになっていないか?
いわゆるKPTの課題を語るとき、それが、
- KPTというふりかえりが持つ、純粋に「ココじゃない」だけのパターン
- 不適材不適所みたいな、ミスマッチによって問題がおきるケース
の議論であれば両者に共通であり、重なり合っている部分の話題だと感じるのですが、そもそもふりかえりの八百万(やおよろず)に足を踏み入れたヒトは、意識しないと往々にして 「一神教」みたいな『KPTもどき』の世界もある(そもそも、世界全体を見ればみんなそこまでふりかえりストじゃない)ことを「つい」忘れてしまいがちです。
だから、なんだかずれている。…こともある。…気がする。…かもしれない。(弱気だ)
そもそも「それ以前の問題」でうまくいかない場面が多々あるように思うのです。
しかし、ふりかえり界隈では、
- まずその川を見て、対岸のヒトがまず渡ることだけを、最初になんとかしよう!
- KPT個別の話なんて、そもそも、それができてからだ!
みたいな話は(もちろん、ないわけではないだろうけど)意外と表にすぐに出てこなくて。
そこは既に渡っているヒトだけが暗黙的に前提になっていて、
- (みんな当然にして知っている、ふりかえりの「ひとつ」である)KPTとは~
みたいに。
川向こうを置き去して語られる。…こともある。…気がする。…かもしれない。(弱気だ!)
「足場かけ(Scaffolding)」が足りない
KPTをこじらせてしまう現場って、そもそも(KPTについてそれこそ、おもむろにXでワイワイ語るほどには)ふりかえり愛…というより、ふりかえりの全体像に対する視点自体が、最初からまだなかったりするのです。
そこに流れる大きな川を意識したうえで、
- では、乗り越える必要がもしも本当にあるなら、どう乗り越えてもらえるように、橋をかけようか?
みたいに考えないと、一番最初の川を渡っていないヒトにはそもそも届かない。
いつまでも対岸の火事であり、お祭り騒ぎです。
そもそも根本的に次元の違う対岸と、流れる川。
明らかに熱量の次元が違うヒトたちだけで、その世界のメガネでワチャワチャ言っている。
そして問題を抱えた現場はいつまでもその川が渡れない…そんな印象も持ってしまうのです。
もちろん、これだけが唯一のキリトリ方でもないのですが。そんな風に感じる場面もおおいにあるなぁと。
あと、あくまでも個人的な体験にはなりますが、過去、ある程度ふりかえりに前向きな現場であっても、
- 基本形のKPTよりお気持ちから始めるKPTの方が、すんなりハマって無理がない場になる
ケースが多かった気もします。
(ふりかえりカタログのKPTは、確かにじつは出来事を話し合うところから始まっています…しかし…😶…そもそもふりかえりカタログを読む人はすでに川のこちらに…)
KPTには、
- 場のヒトに対してそもそも「足場かけ」が足りない
というケースが意外と多いのかもしれません。
とくに結論とか提言とかで締めるでもないですが…
もしかしたら、
- ふりかえりとは、米粒の一粒一粒に宿る八百万(やおよろず)のカミサマのようなもの
という、とてつもなく基本的なことを、最初に根気よく伝えることから始めないといけないのかも、とここ数日考えていたのでした。
KPTという手法の輝く場面、いまひとつな場面……などという「その先」の話題は、それまではぐっと我慢の子で敢えてすぐにコトバにはせず、川向こうの視点、目線に立って真摯に対話しないと、そもそも渡ってもいただけない段階があるのです。
最初の記事でご紹介している 「問い・解い・トイ」もそんな米粒の一粒一粒になれたらうれしいのです。今後ともよろしくお願いいたします。
株式会社Hajimariのスクラムマスターやむさんに、「問い・解い・トイ」の活用事例を記事にしていただきました!
スクラムマスターのいのもえさんに、「問い・解い・トイ」のセルフ振り返りについて記事にしていただきました!
追記
なぜかこの記事の続きがnoteにあります。どうしてそうなった…。