始めに
- 何か課題に取り組む時、自然とその事象に対して「〜問題」と名前を付けるようにしている
- 名前付けすることによって様々なメリットがあって、例えば、その事象をより自分事にできたり、また関係者間の共通言語となってコミュニケーションコストが下がったりする
- そのキッカケになったのが、「ライト、ついてますか―問題発見の人間学」を読んでから
- 自分の理解を織り交ぜながら整理しておく
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訳者は世慣れない方で、ここに書いてあるようなことでしょっちゅう失敗する。この本を訳したいと思い続け、深読みを繰り返したお陰で、近ごろ少し失敗が少なくなったような気がしている。
本の副題にあるように、問題発見についての本である。学校では問題を解くことを教わる。だが問題は、解くより発見する方がずっとむずかしく、ずっと面白い。実人生で本当にものをいうのはそこなのだ。
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(訳者前書きより)
読んだことない人はぜひ手に取って欲しい
問題とは
普段生活していて、ふと「何か問題を抱えているなあ」と思うことは多々ある。自分が問題を抱えていることを漠然と感じるのは容易だが、「何が問題なのか」を明確にするのはその限りではない(意識して取り組まないと難しい)。
問題とは「認識と欲求の間のズレ」である(AsIsとToBeと言い換えても齟齬ないと思う)。認識と欲求の相違は至るところに存在する。一つも問題が思い当たらないように思えても、認識の感度を少し高めれば様々な問題が見つかる。例えば、「家の中が寒過ぎる」という認識に対して、「暖まりたい」という欲求が存在する(一定数の問題は感受性を下げることによって認識されなくなる)。
問題を定義する
上記にあるように、エレベーター問題について考えると、即座にいくつか具体的な解決策が浮かぶ。ただ、その時に注意すべきは、無意識のうちに「エレベーター利用者の問題」として捉えていることである。仮に「ビル所有者の問題」として捉えてみるとまた解決策は異なってくる。
ある種の訓練によって、最初に現れた「問題らしきもの」に飛びつくという習性を身に付けてしまっている。未熟な問題解決者は、解くべき問題を定義する前に、それらに飛びつき、急いで掘り下げ、苦い結末に辿り着く。経験を積んだ問題解決者であっても、社会的圧力にさらされると、この誘惑に負けてしまうことがある。解答はたくさん見つかるかもしれないが、それが解くべき問題の解答だという保証はない。問題があって初めて解答が存在する。解決方法を問題の定義と取り違えてはいけない。問題解決の後の方で急ぐことは間違いの元になるが、その手前で急ぐことは厄災の元になる。
一方で、いつまでも何とか問題を定義しようとして堂々巡りしてしまい、問題定義は間違っているかもしれないが解答を出してみよう、という勇気が出ない状況は好ましくない。ここでのポイントは、ある問題を曖昧さを含まないただ一つの形に定義することではなく、問題について何かしらの共通理解を掲げることで、間違った問題に対する解答を出さないようにすること。そもそも問題の絶対的に正しい定義(究極の解答)は存在しない。大切なのは、その確信を持つための営みを継続していくことであり、その時点の前提を踏まえて都度問題定義していくこと。
具体的には、以下を明らかにした上で、問題を言語化する
- 問題を抱えているのは誰か?
- あなたの問題の本質は何ですか?
問題を抱えているのは誰か?
ある事象について、各々抱えている問題は異なる。
例のエレベーター問題において、少なくとも 3 つの問題が考えられる。
- 労働者の問題として捉えるなら
- 家主が彼らの主張を無視したこと、エレベーターの待ち時間が長いことによる苛立ちを最小限にするにはどうしたらいいか
- ビル所有者の問題として捉えるなら
- 利用者からの苦情を解消するにはどうしたらいいか
- 入居会社の関係者の問題として捉えるなら
- 従業員からの労働結成の脅しを解消するにはどうしたらいいか
あなたの問題の本質は何ですか?
この問題はどこから来たか?を問う。
問題の原因を「自然」に委ねてしまうと、問題解決に関する手掛かりが掴めない。それは自然(本性/摂理/etc)なことだからどうしようもない、という気持ちに陥り、それ以上の検討が行われないことを肯定する。問題の原因を、人または現実の物や動作に向けられれば、問題を解決したり軽減する方法を検討することができる。ポイントは、問題を自然の領域から引き出して、建設的な思考と行動に移すこと。
本書で紹介されている「ビザ問題」において、問題を官僚主義のせいにしたい気持ちが働くのは自然なことだった。彼女は役人に慣れていなかったため、相手の不作法さからパニック状態に陥り、何もかも「官僚主義」のせいにしようとしていた。あれこれと思考を巡らして挑戦的な姿勢を取り、自分自身が問題の源泉となっていた。そのことに気付いた彼女は、自己開示を行い、相手に礼節と敬意を持って接し、本来向き合うべき問題に向き合った結果、単に役人に複写してもらうという解決に到った。
また、その問題自体から来た問題もある。物音と憤りに満ちた、何の意味も持たない官僚的活動。例えば、延々と続く軍事会議の問題など。軍縮の問題がかくも手に負えないのは、もしかしたら軍縮会議そのものがそれほどまでに魅力的だからではないかとも考えられる。その人や組織、問題解決ための過程自体が、問題の発生源になる可能性がある。問題を解決することが、最善な対応とは限らない。これらの問題に出くわした時は、その問題を回避することを検証する(先延ばしにして問題を忘れさせるなど)。
問題を解決する
問題解決とは、「認識と欲求の間のズレ」をなくすことを指す。大抵の問題は、その問題が何であるのか分かれば、それを解決することは難しくない。
本書で紹介されている「エレベーター問題」について考えてみる。あるビルのエレベーターの待ち時間が長く、それに伴い様々な人々にとっての問題が起きている。エレベーター利用者の問題として捉えると、認識とは「エレベーターの待ち時間が長い」ことになる。この相違を埋めるための方法として、「実際にエレベータの待ち時間を短くする」「時間を長いと認識させないよう暇潰し用コンテンツを用意する」などが考えられる。
また、ある問題を「自分自身の問題」として捉え直すことによって、問題を解決することもできる。問題に対する視点を変えることで、その状況に対する認識を変える。例えば、「駐車場が足りない」という問題を「運動不足で困っている」という問題に捉え直すことで、自分の欲求を「一番近い駐車場を取りたい」から「一番遠い駐車場を取りたい」に変えることができる(このケースは個人にとっての問題は解決したがその他については…)。
様々な制約を取っ払って解決策を検討する。実現性や倫理的な問題があったとしても、それが思わぬ形で実現できるかもしれない。エレベータ問題では、後日談として、一見現実味のないと思われた解決案(「ビルを燃やして保険金を受け取る」「隣のビルからエレベーターの運行時間を盗む」)が、もしかしたら隣ビルとの連携で実現できたかもしれないことが分かる。ここでのポイントは、物事を柔軟に捉える姿勢を持つこと。
問題は認識と欲求の相違であるから、ある問題を解決してその状態を変えると、一つ以上の別の問題を発生させる。問題と解決、そして新しい問題は終わりのない連鎖を織り出している(決して問題を追い払うことはできない)。期待できるのは、解決した問題がより小さい問題に置き換えられること。それはつまり、ある問題について、その解決によってどのような問題が起きるか考えることで、よりその問題の理解を深めることができることを示している。
順応によって、環境の中の不変部分が打ち消され、生活は単純化されていく。人が問題について考える時、順応したことは考慮から除外されやすい。そして、ある問題解決によって、順応した要素が変化して初めてその影響を把握する。医療が発達して老人の人口が増えるという副作用に驚くのは何故なのだろうか?自分達が無意識に泳いでいる「水」を見ようと努力しなければならない。
まとめ
- まずは問題を定義しよう
- 問題とは「認識と欲求の間のズレ」である
- 「問題を抱えているのは誰か?」「あなたの問題の本質は何ですか?」を明らかにした上で言語化する
- その上で、問題を解決しよう
- 「認識と欲求の間のズレ」をなくす
- その際の順応状態の変化を把握しておく
- ライト、ついてますか?
- ここまでの内容を踏まえて、以下の教訓を繰り返し言い聞かせる
もし人々の頭の中のライトがついているなら、
ちょっと思い出させてやる方が
ごちゃごちゃ言うより有効なのだ