フェニキア文字
フェニキア文字(1400 BC~)は、ヒエログリフ、原シナイ文字を起点とし、漢字系文字以外の全ての文字の祖となっている。この記事はフェニキア文字を起点としてアルファベットの歴史を解説する。
フェニキア文字は22個あり、文字と発音がきれいに1:1に対応していた。しかし、全てが子音を表す文字であった。母音を文字表現しない、文字を右から左に書くのは現代においてもセム系言語の特徴である。
フェニキア文字
両唇 | 歯茎 | 硬口蓋 | 軟口蓋 | 咽頭 | 声門 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
鼻 | 𐤌 m [m] | 𐤍 n [n] | |||||
破裂/ 破擦 |
無声 | 𐤐 p [p] | 𐤕 t /t/ 𐤎 s [t͡s] |
𐤊 k [k] | 𐤀 ' [ʔ] | ||
強声 | 𐤈 ṭ [ṭ] 𐤑 ṣ [t͡ṣ] |
𐤒 q [q] | |||||
有声 | 𐤁 b [b] | 𐤃 d [d] 𐤆 z [d͡z] |
𐤂 g [ɡ] | ||||
摩擦 | 無声 | 𐤔 š [s] | 𐤇 ḥ [ħ] | 𐤄 h [h] | |||
有声 | 𐤏 ʿ [ʕ] | ||||||
接近 | 𐤓 r [r] | 𐤋 l [l] | 𐤉 y [j] | 𐤅 w [w] |
海上交易で広く使われたフェニキア語は地中海世界のリンガ・フランカであった。広く普及していたフェニキア文字は同じセム系のヘブライ文字やアラビア文字、さらにフェニキアに代わって地中海を支配したギリシャやローマの文字に発展していった。
フェニキア文字からギリシャ文字へ
ギリシャ文字(900 BC~)はフェニキア文字から発展した。ギリシャ文字は左から右に書くので、フェニキア文字から左右反転したものが多い。ギリシャ文字は全部で24個ある。
フェニキア文字、ギリシャ文字、ラテン文字、キリル文字の対応表
Phoenician | Name | Sound | Hebrew | Arabic | Greek | Latin | Cyrillic |
---|---|---|---|---|---|---|---|
𐤀 | ʾālep | ʾ [ʔ] | א | ﺍ, ء | Αα | Aa | Аа |
𐤁 | bēt | b [b] | ב | ﺏ | Ββ | Bb | Бб, Вв |
𐤂 | gīml | g [ɡ] | ג | ﺝ | Γγ | Cc, Gg | Гг, Ґґ |
𐤃 | dālet | d [d] | ד | د, ذ | Δδ | Dd | Дд |
𐤄 | he | h [h] | ה | ه | Εε | Ee | Ее, Ёё, Єє, Ээ |
𐤅 | wāw | w [w] | ו | ﻭ | (Ϝϝ), Υυ | Ff, Uu, Vv, Ww, Yy | Ѵѵ, Уу, Ўў |
𐤆 | zayin | z [z] | ז | ﺯ | Ζζ | Zz | Зз |
𐤇 | ḥēt | ḥ [ħ] | ח | ح, خ | Ηη | Hh | Ии, Йй |
𐤈 | ṭēt | ṭ [tˤ] | ט | ط, ظ | Θθ | Ѳѳ | |
𐤉 | yod | y [j] | י | ي | Ιι | Ιi, Jj | Іі, Її, Јј |
𐤊 | kāp | k [k] | כך | ﻙ | Κκ, Χχ | Kk, Xx | Кк |
𐤋 | lāmed | l [l] | ל | ﻝ | Λλ | Ll | Лл |
𐤌 | mēm | m [m] | מם | ﻡ | Μμ | Mm | Мм |
𐤍 | nūn | n [n] | נן | ﻥ | Νν | Nn | Нн |
𐤎 | śāmek | ś [s] | ס | Ξξ | |||
𐤏 | ʿayin | ʿ [ʕ] | ע | ع, غ | Οο, Ωω | Oo | Оо |
𐤐 | pē | p [p] | פף | ف | Ππ | Pp | Пп |
𐤑 | ṣādē | ṣ [sˤ] | צץ | ص, ض | (Ϻϻ) | ||
𐤒 | qōp | q [q] | ק | ﻕ | (Ϙϙ), Φφ | Ҁҁ, Фф | |
𐤓 | rēs, reš | r [r] | ר | ﺭ | Ρρ | Rr | Рр |
𐤔 | šīn | š [ʃ] | ש | س, ش | Σσς | Ss | Сс, Шш, Щщ |
𐤕 | tāw | t [t] | ת | ت, ث | Ττ | Tt | Тт |
母音文字への代用
ギリシャ人は、フェニキア文字のうち、ギリシャ語にない発音を表す文字を、母音を表す文字として代替利用することを思いついた。
𐤀(ʾālep)は声門を急に広げる子音[ʔ]を表す文字であった。この音はギリシャ語には無いため、代わりに母音[a]や[aː]の発音を表すΑα(alpha)とした。
𐤉(yod)は子音[y]の音を表す文字であったが、ギリシャ文字のΙι(iota)に発展し、[i]や[iː]の母音を表すようになった。
𐤅(wāw)は子音[w]の音を表す文字であったが、ギリシャ文字のΥυ(upsilon:simpleな「u」の意味)に発展し、[y]や[yː](唇をウのように尖らせてイと発音する。中国語の雨/yǔ/と同じ)を表すようになった。
𐤏(ʿayin)は咽頭を震わせる有声音[ʕ]を表していたが、ギリシャ語には無い音であったため、代わりに[o]を表すΟο(omicron)とした。さらに派生して[ɔː]を表すΩω(omega)が作られた。
文字通り「小さなo」と「大きなo」である。
日本語の「ハ行」に相当する𐤄(he)と𐤇(ḥēt)は声門と咽頭を震わせて発音する無声音を表していたが、これらの音はギリシャ語には無かったため、それぞれ[e]を表すΕε(epsilon:simpleな「e」の意味)、[ɛː]を表すΗη(eta)となった。
ここまでの母音体系をまとめると以下の通り。ギリシャ文字には(英語と同様に)長母音と短母音があった。長短母音で文字の区別があるものと無いものがあった。
母音 | Origin | short | Long |
---|---|---|---|
A | 𐤀 | Αα | Αα |
I | 𐤉 | Ιι | Ιι |
Y | 𐤅 | Υυ | Υυ |
E | 𐤄 𐤇 | Εε | Ηη |
O | 𐤏 | Οο | Ωω |
強音文字の代用
フェニキア文字の強音はセム系諸語特有の現象で強く子音を発声するものである。(音声学上はそのような音は無いがセム系言語では強弱を区別している)
ギリシャ語には強弱の有無は無いが、代わりに無声音に関しては中国語のような有気音、無気音の違いが存在していたので、一部の強音文字が代用された。
強音文字𐤈(ṭēt)は有気音[tʰ]を表す音として、Θθ(theta)となった。
強音文字𐤒(qōp)は、ギリシャ語ではϘϙ(koppa)となり尖らせた唇を伴う有気音[kʷʰ]の音を表していたが、後に発音が変遷して[pʰ]を表すようになり、文字もΦφ(phi)に変化した。Ϙϙ(koppa)はギリシャ文字からは消失したが、ラテン文字のQとして生き残った。
𐤊(kāp)はギリシャ語ではΚκ(kappa)とΧχ(chi)に分かれ、それぞれ[k]と[kʰ]を表し、無気音と有気音と区別するようになった。
[s]の強音を表す𐤑(ṣādē)は、ギリシャ文字のϺϻ(san)となったが、まもなく消失した。𐤔(šīn)は[ʃ]の音を表していたが、古代ギリシャ語では[ʃ]と[s]の区別が無かったため、Σσς(sigma)となり[s]の音を表した。𐤎(śāmek)も[s]の音を表す文字だが、ギリシャ語では[ks]の音を表すΞξ(xi)に変化した。
余談になるがΨψ𝛙(psi)は現代においても由来が不明な唯一のギリシャ文字である。発音も[ps]と独特で、ラテン文字やキリル文字にも継承されていないミステリアスな存在である。(初期キリル文字では「Ѱ」として引き継がれたが、現代では消失している。)
ここまでの発音変化を踏まえた子音の文字体系を整理すると以下のとおり。
古代ギリシャ語の子音体系
両唇 | 歯茎 | 口蓋 | 声門 | ||
---|---|---|---|---|---|
鼻 | μ [m] | ν [n] | |||
破裂 | 有声 | β [b] | δ [d] | γ [ɡ] | |
無声 | π [p] | τ [t] | κ [k] | ||
有気 | φ [pʰ] | θ [tʰ] | χ [kʰ] | ||
摩擦 | σ [s] | [h] | |||
震え | ρ [r] | ||||
側面 | λ [l] |
摩擦有声音[z]は古代ギリシャ語には無かったが、後代になって𐤆(zayin)から採られΖζ(zeta)となった。そのため名称からは「ザイン」の痕跡が消えている。
[h](声門音)は文字ではなくダイアクリティカルマークを使ってἁ[ha]、ῥ[rh]などと表していた。
ギリシャ文字からラテン文字へ
ラテン文字(700 BC~)はギリシャ文字やそこから派生したエトルリア文字の影響を受けて紀元前7世紀ごろに成立した。
Γγ(gamma)はラテン文字では丸みを帯びてCcになった。エトルリア語には[g]の音がなかったため[k]の音を表していたが、後に[g]と[k]を区別した方がよいということになり、Ccは[k]を、髭をつけたGgは[g]を表すようになった。
Υυ(upsilon)は最も多くのラテン文字を生み出した文字である。
Υυはもともと[w]の音を表していたが、母音[y]を表すようになったため、[w]の音はΥυを2つ重ね合わせたϜϝ(digamma/wau:後に廃止)で表していた。これを[v]と発音したギリシャ方言からエトルリア文字の𐌅となり、さらにラテン語では無声音[f]を表す文字として輸入されFfとなった。
Υは下の棒が取れて、VvもしくはUu(異字体)の形でラテン語に導入されて[u]を表す文字となった。後に[v]と[u]の音を区別するために別の文字Vv、Uuとして区別されるようになった。
さらにギリシャ語由来の単語を表現するためにYの文字がそのまま輸入されてYyとなった。フランス語のイグレクやドイツ語のユプシロンなどの名称にギリシャ語由来の名残がある。英語の「ワイ」にも[w]の痕跡が残っている。
さらにもともとの[w]の音を表すためにvを2つ重ねたWw(ダブルV→ダブリュー)の文字が作られた。
Ηη(eta)は、ギリシャ語では母音として用いられるようになったが、母音化される前にラテン文字に導入されて元来の声門音[h]を表す文字Hhとなった。
Θθはラテン文字には導入されなかった。英語ではthの音を表すために導入されたが、後に廃止され、thで代用するようになった。
Ιι(iota)は母音文字としてIiとなったが、Jjの異字体があった。後に[j]の音と区別するために、Iiは母音[i]、Jjは子音[j]を表す文字として区別されるようになった。
Χχ(chi)はギリシャの方言でΞξと同様に[ks]と発音する地域があった。この発音がそのまま受け継がれラテン文字のXxとなった。
「オ」を表すギリシャ文字としてΟο, Ωωがあったが、Ooだけがラテン文字に受け継がれた。
Ϙϙは現代のギリシャ文字からは廃止されているが、前述のとおり[kʷʰ]と発音されていた頃にラテン文字に導入されてQqとなった。ただしセム系のアラビア語のﻕでは元来の強制音[q]が残っている(Qatar, Qur'an、al-Qaedaなど)。
[補足]キリル文字について
キリル文字はラテン文字が成立したはるか後代(900 AD~)になって、スラブ諸語の記述するために、ギリシャ文字などをもとに発明された。
この頃にはギリシャ語では音韻変化が起こりΒβは[v]と発音されるようになっていた。そのため、Ввは[v]を表し、[b]を表すために新たにБбが作られた。
エトルリア文字の影響でFfを使うようになったラテン文字とは異なり、キリル文字ではギリシャ文字のΦφが[f]の音を表す文字としてそのまま受け継がれている。
[ʃ]の音を表す音として、フェニキア文字の𐤔(šīn)が直接受け継がれてШшとなった(ヘブライ文字のשとも関連)。