はじめまして、こんにちは。
AppReviewチーム所属のカレー大好き@tegochanと申します。
元々関西地方に住んでいたため、スパイスカレー屋巡りを趣味としていました。
現在は関東地方に住んでおり、家庭をもっているため、自宅で作るスパイスカレーを趣味としています。
マイブームは大根を入れたカレーです。
初っ端からカレーをめちゃくちゃに推していますが、残念ながら今回の記事はカレーに関することではありません。
カレーへの愛はまた別に機会をいただければと思います。
「AppReviewチーム」は以前の記事で紹介しました通り、「あんしん・あんぜんを守る」をミッションに据えたチームです。(詳しくはこちら)
そのため、以前ご紹介した業務の法令・業界ガイドラインだけでなく、倫理まわりのご相談もいただくことがありまして、今回はこちらの業務をご紹介できればと思います。
さて、さっそく倫理まわりについて記事を書く上で、明日から使えるハイパーな資料でもシェアできればよかったのですが、業務の特性上「これをみておけばよい」という資料はありません。(…私も喉から手が出るほど欲しいです)
なので、担当者として日々気を付けている考え方をシェアさせていただこうと思います。
はじめに
まず最初に「倫理」とは何なのでしょうか?
広辞苑で調べると「人倫のみち 実際道徳の規範となる原理」と記載があります。
小学生や中学生の時を思い出すと道徳や総合等の授業で「自分の「良い」と「悪い」、他者の「良い」と「悪い」をすり合わせて皆で過ごしやすい環境を考えよう!(これは年齢や年代によって差はないはず…)」という感じの授業があったと思うのですが、まさにそれなのかなと思っています。
この倫理表現、その特性(自分と他者で善悪が違う)から、しばしば問題になることがあり、ニュースやSNSを騒がせてからその定義のズレに気付くことがあります。
これは自身の例ですが、私はゲームの年齢制限に対しては、「これが過激な表現といわれるのか(意外と厳しいな)」くらいの気持ちでいました。
自身がそれに対してどうこうしたい、という意向は特になくです。
ところが、自身が子どもを持ち親という立場で考えると「これは年齢に対し過激過ぎるように感じる/親としては見せたくない」等、別の目線がでてきます。
最初から様々な目線でみることができればよいのですが、自身の目線は環境が変わったり、経験をして初めてわかることもあると思います。
では、自分と他者で善悪が違うということをどうやって気を付けていけばよいのか、気を付けられる環境を手に入れる方法はないのかをつらつら書いていきたいと思います。
お時間があるかたはぜひお付き合いください。
自分が待ったをかけられる人になる方法
倫理的な表現について一番大切なミッションは「誰も不快な気持ちにさせない」ことだと考えています。
そのため、表現する前・表現を世に出す前の2つの事前のタイミングで「待った」をかけ、適切か否かの検討を重ねる必要があります。
具体的にどうすればよいのか、3Stepでご紹介します。
【Step1 自身で課題認識を持つ】
何かしらの行動や言動を行う時、「(あまりよくないだろうが)軽い気持ちでやった・悪ノリしてやった」といった”故意”の場合、多少なりともネガティブな気持ちを自覚していたのであれば自身で気を付けることができますが、その事象を「知らなかった・わからなかった」 などの”過失”の場合であれば気を付ける術がありません。
そして故意であれ過失であれ、いずれも不快な気持ちにさせてしまうことには変わり有りません。
そのため、自身は問題がないと思ったとしても企業として行う場合課題がある可能性があるものだ、ということは留意しておく必要があります。
【Step2 共通の判断基準を持つ】
課題認識を持てた場合、倫理的に問題が生じる可能性を掘り下げ、懸念点を洗い出した状態で「改めてこの表現を行ってよいか?わるいか?」の判断を行うこととなります。
では、倫理的に問題が生じる可能性や懸念点とはどんなことでしょうか?
一例としては下記のようなものが挙げられると思います。
<一例>
-
法令/条例に抵触していないか
(明確にルールとして「してはいけない」表現が定められている) -
道徳的・人道的にそぐわない表現となっていないか
(明確なルールはないが、「してはいけない」と社会通念上感じる内容である) -
特定の主義・主張に属する表現となっていないか
(自身の所属するコミュニティにより表現の良否がわかれる可能性がある)- 特定の主義主張を行う場合、所属するコミュニティにとっては良・相対するコミュニティにとっては否になる
- 個人の主義主張を行う場合、企業としての主義主張も問われる
-
ゾーニング/ターゲティングは適切になされているか
(表現としての良否ではなく、公表する場や時期で良否がわかれる可能性がある)
倫理的な表現については容易に善悪が判断できる場合もありますが、物事としての「よい、わるい」を判断するのが難しい事例も多々あります。
また個人が置かれた環境や培ってきた経験、所属しているコミュニティによって人それぞれ感じ方、受け取り方が異なる可能性があります。
そのため、個人としてだけでなく、作品としても、企業としても、適切な表現を行えているか?という判断軸が必要になってくると考えます。
【Step3 判断軸を作り精度をあげる】
Step2で挙げた判断軸を作成するため、また時流に合わせて流動的に精度をあげつつ、運用するためには、日常的に下記のようなことに取り組んでいく必要があります。
<一例>
- 知識として「してはいけないこと」を学ぶ
- 過去事例等から「問題となりやすい」表現を学ぶ
- 時事ニュース等で自身の価値観のアップデートを行う
一朝一夕でできることではないため、各々が意識して日々を積み重ねていくことが必要です。ニュースやトレンドで話題になった表現や、賞賛・批判等意見が集まった表現を、知見として溜めておく等で判断が必要となった際に力になってくれるのではと思います。
他者に待ったをかけてもらう環境を手に入れる方法
ここまで「自分が気を付ける人になる方法」を紹介してきましたが、いざ表現する側になった際、適切でない表現をしそうな場合に誰かに「待った!」を言ってもらいたいと思いませんか?思いますよね?私は思います!
もちろん自身が気を付けることが前提ですが、自身が持っていない知識を持っている方が気付いて「この表現大丈夫?」ともし一声かけてくれたら。
きっと「助かった・・・」と思うこともあると思うんです。
そう、「情けは人の為ならず」ということわざがあるように、まわりまわってその行いが自分にかえってくることを目算にいれ、やることは「周囲を巻き込む 3Step」です。
【Step1 周囲と一緒に課題認識をもつ】
会社には自分と異なる環境や経験、価値観を持った人が属しているわけですので、「わたしが持っていない知識を持っている方」がいるうってつけの環境だと思います。
「自分の時は誰かがストッパーになり、誰かのときは自分がストッパーになる」という相互扶助の関係が構築できれば、自身で見えなかった課題認識を行える確率はグッとあがるのではないでしょうか。
【Step2 周囲と判断をすり合わせる】
課題を検知出来た場合、様々なレイヤー(上司、同僚、部下等)を含めた複数人で倫理的に問題が生じる可能性や、表現の公表良否のすり合わせを行うことが望ましいと考えます。
個人的には上層部になるほど視野の広い判断が可能になり、現場に近いほどゾーニングやターゲティングを合わせる肌感覚が鋭くなる傾向があると感じています。「別の見解で見て欲しい」と伝えることで周囲を巻き込みやすくなるかと思います。
【Step3 周囲と判断精度をあげる】
とにかく倫理的な表現で是非が問われた場合や事例があればどんどんシェアする。
表現自体を相談したり、世間話としてニュースなどで得た情報をシェアして知見を高めたり、シェアをすればするほど問題に気付ける確率はアップします。
チャットでグループを作って誰もが投稿できるようにする、朝会等で今日の事例をシェアする等取り組んでいくことで感度もあがるのではないでしょうか。
今後の展望
そして、ここまでは「してはいけない」の判断について記事を書いてきましたが、大切にしたいこととしてもう一つあります。
私は法的なルールを遵守し、差別や偏見を助長しない表現を行うこと、そして可能な限りみなさまを不快にさせないというのは大前提の上で、「創作活動として表現をしていく上で、必要な表現をどう表現するか」という部分も考えていかねばならない課題だと考えています。
全てNGとして規制を入れることはある意味簡単なことですが、豊かな表現を失わないように考えていくことも良き作品を作るうえで放棄してはならないことだと考えます。
そしてこれについては個人では行うことができません。
複数人で、そして業界で、もしくは業界すらも出て社会問題として、横断的に継続して取り組むべき課題になると考えています。
非常に難しい業務となりますが、こういった課題や状況を企業や業界の垣根を超えてシェアしあい、「あんしん・あんぜんを守る」を推進していきたいと考えています。
お読みいただきありがとうございました。