先日とある機会があって話題の『カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームを作るまで』という本を読みました。いろいろ参考になるところがあったのでまとめてみたいと思います。
主題と形式
この本は主人公である20代半ばのプログラマーである江島が、数々の試練を仲間とともに乗り越え、プロジェクトリーダーとして成長していく物語を中心に、要所要所でスクラムやXPを中心としたいわゆるアジャイル開発の手法や考え方を紹介しています。
物語の形式を取っているため、スクラムやXPを紹介している一般的な本よりも、アジャイル開発手法が実践されている現場をイメージしやすく、感情移入もしやすいため、「このメソッドはどういった現場に向いているのか」とか、「実際に導入するとチームにどうのような変化がもたらされるのか」、「導入にあたりどんな反対意見が出やすいのか」が理解しやすくなっています。
また、アジャイルだけを紹介しているわけではなく、変化し続ける開発現場をより楽しく、より意味のあるものにするための方法論や考え方が幅広く紹介されています(例えば教育学・心理学・経営学など)。
そして主題といえば、そのような方法論よりも、「越境していく勇気」が、エンジニア一人ひとりの人生を実りあるものにしていくためにも必要であることを著者である市谷さんは強調されたいのかなと思いました。
特に物語が後半に進むにつれて、この越境という言葉がキーワードになってきます。ざっくりとした私の解釈では、本書での「越境」とは開発したシステムをユーザーの価値を高めていくことをエンジニアの中心的な役割と考え、そのためには職種や会社の枠にとらわれず、勇気をもって積極的に意見し、モノを産み出すプロセスにコミットしていくことだと思いました。
これはウォータフォールやアジャイルに限らず、エンジニア自身が自分を単なるプログラマー、つまり決められたことだけをこなすプログラマーである限り、ユーザーにとって価値のあるソフトウェアを作ることはできないし、そういった創造的な仕事をすることができなくなってしまうのではないかという著者の強い問題意識に由来していると思います。
物語はクライアントのシステム開発の請負をしている、いわゆるSIerが舞台です。私はSIerで働いたことがないので、見聞きしたものからでしか想像できませんが、様々な制約や問題があっても、クライアントの手前、納期を遅らせたり要件を変更してもらうことは簡単にはできません。エンジニアは度重なる要件の変更が発生しても、納期を守るために夜遅くまで残業して、心身を壊してしまうこともあります。会社とクライアントという大きい組織の間のなかでエンジニアは非常に無力であり、ユーザーに価値のあるものを作る創造的な労働なんてとてもできません。
しかし、本当にそうでしょうか。というのが著者の問いです。違和感を覚えたり、もっとよいやり方や考えを見つけたら、すでに物事をカイゼンすることはスタートできるというのが著者の意見です。例えそれに気づいたのが自分だけでも、少しずつメンバーと共有していくことでプロジェクトや会社そのものも変えていける可能性をこの本では訴えていると思います。本書でも「誰が始めるかは重要ではない。気づいた人が始めればいい」といった言葉が象徴的です。
そうしたカイゼンの具体的なやり方として、アジャイルの知見が多く紹介されているというのが本書の構成です。
内容と構成
上記の通り、物語を中心に進んでいきます。各セクションごとに物語を振り返るセクションが設けられています。そこで専門用語や新しく導入されたテクニックなどの解説をしてくれます。
物語は主人公である江島に様々な困難が降りかかります。ストーリーはかなりドラマティックに進行していくので、ドキドキしながら読み進めることができます。なかには、普通そんなことありえないだろう、というようなことも起こり、ツッコミを入れたくなりますが、私自身の経験を振り返ってみて、そういえば起こらないようなことも往々にして起こるものだなと思いました。
最初の協力者が現れ、チームでの協力体制が少しずつ構築され、外部からのスクラムマスターの登場により、次第に江島のチームは自己組織化されたアクティブなチームになってきます。やがてはクライアント先の会社や業務委託のメンバー、同じ会社の別の部署との、軋轢の結果、見事に一丸となったチームになっていきます。
これはそのまま現場への適用例として考察に値するものとなっています。例えば自部署のチームワークは完璧でも、他部署とはどうでしょうか?業務委託のメンバーとも良好な関係は築けているでしょうか?営業のスタッフやクライアントとはどうでしょうか?
物語を読み進めることで読者が果たして自分の現場はどうだろうかという気づきのきっかけや、具体的なトラブルシューティグのヒントを本書は与えてくれると思います。
どんな人におすすめか
スクラムやXPなどのアジャイル開発手法については全体的に薄く・広く、簡潔に説明されているので、スクラムなどのアジャイルの言葉は知っていても、専門的な書籍を読んだことのない方におすすめしたいと思います。特にプロジェクトマネージャー(PM)初心者の方にはうってつけの本だと思います。
プログラマー以外でも、デザイナーやディレクターなど、開発プロジェクトにアサインされている方で、より良いチームを築いていきたいと考えている方にもおすすめです。さらに、開発プロジェクトの責任者、アジャイルで言うところのプロダクト・オーナーに相当するミドルマネジメントの方にもおすすめしたいと思います。総じてエンジニアとうまく付き合ってプロジェクトを進めたいと思っている方におすすめです。
逆にすでにアジャイル関連の本を何冊も読んでいたり、勉強会に出たりしている方にとってはあまり得るものは無いかもしれません。そういう方は巻末の索引を見て、知りたいと思っていたことがあるかどうかをまずお探しになることをおすすめします。また、そういう方であっても、会社の上役やメンバーにアジャイル開発手法の良さをどうやって説明して納得させるか、というヒントを得たいという目的であれば本書は読む価値はあると思います。また、若かりし頃の自分を追体験できるかもしれないので、そういう楽しみ方もあるかもしれません(笑)。
最後に
私は長く自社のウェブサービスを開発に従事してきたため、SIerの経験はありませんが、そのなかでも受託開発の経験は少ならからずあります。それを振り返ってみると、エンジニアの疎外問題は、自社サービスかSIerかに関わらず、またアジャイルかどうかに関わらず発生していたと思います。
例えば、上司や非エンジニアのメンバーから「あなたはプログラマーなのだから、私の専門領域に介入しないで欲しい」といったことをよく言われたり煙たがられたりしてきたことが多いように思いますし、同時に、「僕はエンジニアだから他のことは知りませんし、知りたくありません」というエンジニアに出会ったことも少なくありません。
こういった考え方が「壁」や「境界」を作り出し、自分がやるべきこと・やるべきではないことが決まっていき、限定されていきます。それは別にアジャイルな現場でも発生するし、自社サービスをやってても発生します。
壁はいたるところにあるし、壁があるからこそ安心して働けたりする側面もあったりするので、壁を壊していくことはとても難しいと自分自身の経験を振り返って思います。新しいチームで、いきなり職種を超えて口を出された方はびっくりすると思いますし、何も知らないくせに生意気なことを言われて不快に感じる方もいらっしゃると思います。また介入(越境)する方も、反発されることを予想した上で、いかに抵抗感を感じさせずに介入するかを模索するので非常に疲れます。そしてあくまで組織なのでいろんなバランスをとっていくことは必要ですし、空気を読むことも大事だったりします。人事制度などはなかなかすぐには変えられないものもあります。
なので、そういったチームづくりを新しいところでやるのは、とても注意が必要です。場合によっては「いつも文句をつけてくる人」とか「空気読めない人」とか、「自分のやり方が一番いいと思っていてそれを押し付けてくる人」と思われかねません。そうなると一層変えていくことは難しくなります。
本書はそれをうまくやるための手がかりになりますし、一人で悩んでいるエンジニアがいたとしたら、ぜひ読んでみることをおすすめします。なんとなく勇気を貰えるのではないでしょうか。
書籍情報
市谷聡啓, 新井剛(2018)『カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームを作るまで』, 翔泳社