はじめに
最近、ブラウザ上でネイティブ級の高速処理を実現できる技術としてWebAssembly(Wasm)が注目を集めています。私は、電子回路シミュレータの内部構造に興味があり、そこで使える数値線形代数ライブラリ(例:KLU)や、常微分方程式ソルバを含むSUNDIALSのようなC/C++で書かれた数値計算ライブラリをWebAssemblyでも動かしてみたいと考えています。
本記事では、こうした既存のC/C++ライブラリをWasmにコンパイルして利用する際のメリットや注意点を解説します。数値計算だけでなく、画像処理、機械学習、暗号など広くC/C++ライブラリを再利用したい方の参考になれば幸いです。
1. なぜC/C++ライブラリはWasmにコンパイルしやすい、と言われるのか?
1.1 LLVMベースのツールチェーンが充実
- WebAssemblyはLLVMをバックエンドとしており、EmscriptenやClangのWebAssemblyターゲットが整備されています。
-
Emscripten: 代表的なツールチェーン。
emcc
コマンドでC/C++→Wasmコンパイルが可能。 -
Clang/LLVM:
-target wasm32-unknown-emscripten
などで直接Wasmバイナリを生成できるオプションもあります。
1.2 C/C++の移植性の高さ
- C/C++はもともとWindows、Linux、macOS、組込みなどマルチプラットフォーム対応の歴史があり、OS非依存コードを中心とするライブラリが多いです。
- POSIX関数や標準Cライブラリを使う程度なら、大きな修正なしでビルドが通るケースが多い。
- Emscriptenにはファイルシステムエミュレーションやスレッドサポート等もあり、ある程度のOS機能を擬似的に再現できます。
1.3 豊富な既存ライブラリ資産
- C/C++には画像処理(libpng, libjpeg)、音声/動画、暗号、機械学習などの成熟ライブラリが多数存在します。
- これらをWebAssemblyにコンパイルすることで、一からWeb用に書き直す手間を大幅に省き、JavaScript(やTypeScript)から呼び出して高性能な処理を利用できます。
1.4 JavaScriptとのブリッジ(FFI)が容易
- Emscriptenの
cwrap
やccall
、EM_JS
マクロなどで、C/C++関数とJavaScriptを簡単に相互呼び出しできます。 - Web API(WebGL、Audioなど)との連携用のラッパーコードもある程度整備されているため、フロントエンドでリッチな機能を実装しやすいです。
2. できない/難しいケースはどんなとき?
2.1 OS依存やハードウェアアクセスが強い場合
- デバイスドライバやカーネル機能を直接呼び出すコードは、ブラウザ上では実行不可能。
- OpenGLやDirectXのようなネイティブAPI依存部はWebGLやWebGPU等へ置き換えが必要な場合があります。
2.2 プラットフォーム固有APIの多用
- WindowsのWin32 API、Linux専用のシステムコール、macOSのCocoaフレームワークなどに強く依存するライブラリは移植困難。
- Emscriptenには対応APIがない場合が多いので、stub(ダミー)を作るか実装を切り離す必要があります。
2.3 並列化や高度な並行処理
- WebAssemblyのスレッド対応は近年進化中ですが、MPIのようなプロセス間通信モデルには未対応。
- OpenMPを多用するコードはEmscriptenオプションとブラウザのSharedArrayBufferサポート次第で制限があります。
2.4 大規模ライブラリの依存関係
- BLAS/LAPACKなど下層の数値ライブラリすべてをWasmでビルドし直す必要がある場合も。
- GUIツールキットや外部プロセス呼び出しなど、Web上で再現困難な部分は機能を削減するしかありません。
2.5 セキュリティやライセンス上の問題
- ソースコードやバイナリをWeb公開できないライセンス形態だと移植自体が難しい。
- Web配布すると、逆アセンブルや改変リスクがある点にも留意が必要です。
3. 実例:KLUやSUNDIALSなどの数値計算ライブラリ(自分が使いたい)
3.1 KLU(Sparse LU分解ライブラリ)
- SuiteSparseに含まれるスパースLU分解ライブラリ。
- 主にC言語で書かれており、OS固有のコードが少なく、数値アルゴリズム主体。
- スレッドやBLAS/LAPACK依存をオフにするかEmscripten用にビルドすれば、比較的スムーズに移植できる可能性大。
3.2 SUNDIALS(ODE/DAEソルバ)
- CVODEやIDA、KINSOLなど多彩な数値ソルバ群。
- シリアル版のみであればブラウザでも十分動作可能。
- 並列化(MPIやOpenMP)を多用すると難易度が上がるが、オフにすれば移植しやすい。
結論:C/C++主体の数学ライブラリなので、OS依存部分を外せばWebAssemblyに移植できる確率は高い。
4. 実際にコンパイルする流れ(Emscriptenを例に)
以下の図は、C/C++ソースコードをEmscriptenでビルドして、ブラウザ上でWasmモジュールを呼び出すまでのフローを表しています。
-
Emscriptenのインストール
git clone https://github.com/emscripten-core/emsdk.git cd emsdk ./emsdk install latest ./emsdk activate latest source ./emsdk_env.sh
-
ライブラリのソースを取得し、configure/cmake
-
emconfigure ./configure
やemcmake cmake ..
などEmscripten用のwrapperで環境設定
-
-
コンパイル・リンク
-
emmake make
でビルド →.wasm
+.js
(ブリッジ) が生成 - または
emcc mylib.c -o mylib.js -s MODULARIZE=1 ...
等の直接指定
-
-
JavaScript側でロード・呼び出し
const Module = await MyLib(); // EmscriptenのMODULARIZE生成 const result = Module._my_function(123, 456); console.log(result);
- Emscriptenの
cwrap
やccall
を使えばよりシンプルに呼び出せます
- Emscriptenの
5. 結論とまとめ
- 調べた限り、C/C++ライブラリをWebAssemblyにコンパイルできる確率は、OS依存の少ない“数値計算系”や“アルゴリズム系”ならおおむね7~8割以上で成功するようです。
- GUIや並列化、特殊なハードウェアアクセスが絡むほど移植は困難になります。
- しかしながら、電子回路シミュレータ内部で使われるKLUやSUNDIALSなどは、比較的OS依存が少ないため、十分移植して動かせる可能性が高い、と思いました。
- 一度Wasm化できれば、ブラウザ上のUIやサーバーレス環境で強力なC/C++ライブラリを再利用できるため、挑戦する価値は大いにあると思います。
FAQ
Q1. EmscriptenでビルドしたWasmはネイティブコードと比べてどのくらい遅くなりますか?
A1. 一般的にはネイティブコードより多少のオーバーヘッドがありますが、JIT最適化やAOTを活用することで「おおむねネイティブの7〜9割程度」の性能が出ると言われています。起動時間やメモリ効率では有利な場合もあります。
Q2. 逆アセンブルされてしまうリスクはどうすればいいですか?
A2. WebAssemblyはバイナリ形式ですが、読み出しや逆アセンブルを完全に防ぐことはできません。ソースコードを保護したい場合、難読化やDRMのような対策を検討する必要があります。
Q3. ブラウザ以外でWasmを動かす場合でもC/C++ライブラリ移植はしやすいですか?
A3. サーバーサイドやサーバーレス環境(WASI対応ランタイムなど)でも、同様にEmscriptenやClangでコンパイルできます。ブラウザ特有のAPIは不要な分、さらにOS依存コードを排除しやすいかもしれません。
Q4. MPIやOpenMPをどうしても使いたい場合、まったく無理なのでしょうか?
A4. WebAssemblyのスレッドサポートはあり、OpenMPの一部をサポートする試みがあります。ただしブラウザで有効にするにはSharedArrayBuffer等の仕組みが必要で、セキュリティ要件が厳しいです。MPIはさらに困難ですが、将来のWASI拡張に期待があるかもしれません。
Q5. Spice本体すらWasm化することはできますか?
A5. SpiceはUNIX系APIに依存する部分も多いですが、理論上はEmscriptenで対応可能なところは多いです。GUIやマルチスレッド部分、外部プログラム呼び出し等を調整すれば、一部機能を削減しつつ移植する事例は考えられます。
Q6. 大規模な数値計算(例えば100万以上の未知数を持つ方程式)をブラウザで実行するとパフォーマンスが不安です。
A6. 計算時間は実装やアルゴリズムに左右されますが、Wasmによるネイティブ級の性能向上があっても、ブラウザでの実行にはメモリ上限やタブのCPU時間制限などがある場合があります。大規模計算はサーバーサイドWasmやエッジランタイムを検討するのも手です。
まとめ
WebAssemblyは、ブラウザからクラウド、エッジ、そしてIoTデバイスまでを繋ぐ汎用実行プラットフォームとして進化を続けています。特に、C/C++ライブラリのWasm化は以下のような利点があります。
- SIMDやGC、例外処理などで性能と柔軟性が向上(最新のWasm仕様ベース)
- WASI標準化の進展により、ブラウザ外でも同様のアプローチが可能
- 既存の大規模ライブラリ資産を一から書き直す必要がなく、エコシステムを活用できる
- Spiceシミュレータの内部構造や数値ライブラリ(KLU、SUNDIALSなど)も移植しやすい部類
もちろん、GUI機能やOS固有API、並列化、ライセンスなどを考慮する必要がありますが、総合的に見てC/C++ライブラリをWebAssemblyへ移植する成功率は高く、挑戦する価値は大いにあると言えます。自分もこれから挑戦してみようと思います。
参考リンク
- Emscripten公式サイト
- Emscriptenチュートリアル: emccコマンドでのコンパイル方法
- SuiteSparse / KLU 公式リポジトリ
- SUNDIALS 公式サイト
- WebAssembly公式サイト
以上