はじめに
こんにちは。東京大学理学部物理学科3年の中柴柊馬です。最近はサークルが楽しくなってきて勉強を投げ出しがちな日々が続いてます。1
今回は、Physics Lab. 2024の班紹介の一環として、私が班長を務める統計物理学班について簡単に紹介したいと思います。
統計物理学とは
統計物理学をものすごくざっくりいうと、私は「たくさんの自由度を持った系から、必要な自由度だけを取り出してそのマクロな性質を議論するための一連の手続きを教えてくれる学問」だと思っています。
例えば、あなたのスマートフォン程度の大きさの物質は$10^{24}$個ほどの原子からなり、さらにその一個一個はたくさんの核子(陽子・中性子)と電子からなっている訳です。ではそのような物質の振る舞いを知りたいとなった時に、それらの粒子一個一個を粒子として扱って$10^{24}$個のシュレーディンガー方程式を連立させて解かなければならないのかと言われると、そんなことはまず不可能ですし、そもそも我々が見たいスケールからすると粒子1つ1つの運動のちょっとの差なんてどうでもいい訳ですから、初めから全ての自由度を追うことを諦めて「マクロな性質」を知ることだけに焦点を当ててしまおうというのが統計物理学の思想でしょう。要するに、多体系の集団としての振る舞いを私たちが知りたいスケールで教えてくれるのが統計物理学なんだろうと考えています。どこかで情報の捨象を行うことによって我々にとって意味のあるスケールで現象を観察することを可能にするのです。
統計という言葉が用いられるのは、対象とする系が基本的には多体系(たくさんの粒子からなる系)だからであって、要は「集団としての振る舞いを見るために統計の概念を利用する」という事だと思っています。ちなみに、「統計力学」ではなく「統計物理学」と言っているのは、力学という言葉を用いるとどうしても系のダイナミクスを記述することに主眼が置かれてしまうような印象を受けるから、というただそれだけの理由です(それだけではなく、マクロ系の状態そのものをうまく記述する事も統計物理学の役割だと思っています。特に、任意の非平衡状態にある系を理論的にちゃんと記述できるような枠組みを考えることは現代の統計物理学の主要な目標です)。
分野紹介
これはあくまで一個人の見解に基づいた分野区分および呼称であり、
厳密でなかったり境界が曖昧だったりする部分もあります。
また、各分野の紹介では簡潔さのために厳密性を削いでいる部分があります。
一言に統計物理学といっても、その内容は多岐にわたります(正直、どこからどこまでを統計物理学と呼んでいいのかは不明です)。統計物理学はその強力な記述力(表現力)のために色々な分野において広く用いられます。
1. 平衡統計物理学
平衡状態という特別なマクロ状態にある系は、そのマクロな性質が少数の熱力学関数によって完全に決定されます。その理由は平衡状態を特徴付ける「典型性2」にあり、この典型性のおかげでマクロ状態としての平衡状態は極めて簡単な確率統計モデルによって記述できます。一つの同じマクロ状態に対して、ミクロに異なる状態は無数に対応します。しかし、それらは全てマクロに同じ性質を持つ訳なので、たった一つの代表的な(そして最も扱いやすい)ミクロ状態だけを考えれば良いことになります。
平衡統計力学は平衡状態(もっというと、任意の平衡状態にあるミクロ状態とマクロに見て等価な状態)を記述する確率統計モデルがセットアップ(あるいは、何を変数に取るか)に応じて与えられ、それをうまく利用することで系の熱力学量を期待値として得ることができます。例えば、熱浴に接していて平衡状態にある系において、エネルギーが$E$となるマクロ状態が実現する確率は
$$P(E)=\frac{1}{Z}e^{-\frac{E}{k_B T}}~~(Z: 規格化定数)$$
と、系の温度およびエネルギーを用いて簡単な形で書かれます。この「熱浴に接している」というセットアップは特殊なようにも思われますが、現実の物質をとりまく環境は概ねこのようなものだと考えることができるので、上のような確率モデルを用いた系のマクロな熱力学的性質の記述は色々な場面に対して有効です。
2. 非平衡統計物理学
平衡状態という特別な状態にある系に対しては上のように完全な理解が得られていますが、ひとたび状態が平衡状態から離れると上の枠組みは適用できなくなります。非平衡状態にある系の物理に対しても意味のある予言をするためには、非平衡状態の系に対しても成立するようなより広い枠組みの理論が必要になってきます。
非平衡の度合いが弱い系に対しては線形応答理論と呼ばれる近似理論の結果が使えますが、適用限界があります。近年では、系の状態遷移の確率に関して全ての系に対して成り立つと期待されている「ゆらぎの定理」を土台に、一般の非平衡系を統一的に扱う熱力学の体系=ゆらぐ系の熱力学の枠組みが構成されつつあります。熱力学の枠組みを非平衡系へと拡張することで、例えば過程の不可逆性を顕に扱うことができたり、熱機関の仕事率や効率に関してより「意味のある」議論ができたりします。非平衡系の物理学は、従来の平衡統計力学の枠組みが使えないような現実の様々な系(例えば、生物のような熱ゆらぎやノイズの激しい系、あるいは量子ドットのような小さい系など)に対して応用されます。
非平衡統計力学では、状態がstaticでなく遷移のある系、あるいはダイナミクスが(力学変数が)確率的な系を対象とします。そのような系のふるまいを数学的に記述するには、確率過程という分野の知識が必要になります。
3. 相転移・臨界現象(の一般論)
物質の様相がある温度(あるいは他の何らかの環境のパラメータ)を境にまるっきり変わってしまうという、相転移と呼ばれる現象があります。この相転移という現象は私たちの身近な所にたくさん溢れています(最も身近なのは物質の三態、特に氷と水の転移でしょう)。
相転移を理解する上で重要な概念は「対称性の自発的破れ」です。多くの相転移現象は、系の持つ何らかの対称性(並進対称性、回転対称性など。系のハミルトニアンがもつ力学的な対称性)が低温相への転移に伴って破れるという事で説明できます。対称性が破れるというのはまさに不連続な変化であり、この時系は高温相では見られなかった秩序を獲得します。最もわかりやすい例は磁性体相転移でしょう(回転対称性が破れて、スピンの向きが揃うという秩序が生まれる)。自発的に、というのは熱力学ポテンシャルの最小化問題的にというニュアンスです。
相転移の起こる点のごく近傍での振る舞いは臨界現象とよばれ、臨界点付近にある系が「どのように臨界点に近づく/から離れるか」という振る舞いが系の詳細によらない普遍性を持つ(=臨界現象は少数のマクロな自由度のみで理解できる)という強力な特徴があります。臨界現象の普遍性は臨界点を記述する共形場理論とその周りの 「くり込み(くりこみ群変換に対するハミルトニアンの変換性)」によって理解されます。この共形不変性という強力な対称性を利用して臨界現象を非摂動論的に解析しようとするアプローチとして共形ブートストラップ法と呼ばれるものがあり、例えば3次元Ising模型の臨界指数を高精度で求めることに成功しています。
4. 物性物理・固体物理
統計物理学の主要な目的は量子多体系のふるまいを記述する事である訳なので、まさにそれは現実の物質が見せる(魅せる?)巨視的な物理現象を理解するためにうってつけの言語なのです。
物性物理学の扱う対象はこの世のあらゆる多体系です。物性物理学においては、理論モデルから予言される物性を現実の実験系で再現しようという「理論→実験」のアプローチ(例:新奇なトポロジカル物質の予言とその作成)も、実験で見つかった新奇な物性をうまく説明するモデルを構築しようという「実験→理論」のアプローチ(例:超伝導の発見とそれのBCS理論による現象論的な説明)も、どちらも重要です。
電気抵抗が有限温度で0になる超伝導や、強い電子相関によって引き起こされる特異な電気伝導性・磁気的性質などといった様々な現象をうまく説明できる有効的なハミルトニアンを、物理的に妥当な仮定のもとで書き与え、それを定量的ないし定性的に解析することで、物理現象の背景にどのような相互作用が生じているかを解明する。それが物性物理学の魅力......なのかなぁ。
近年では、多体系の波動関数が波数空間でなすトポロジカルな性質が非自明な物性を生むというトポロジカル物質の概念が非常に盛んに研究されています。トポロジカル相の分類の話は数学(特にコホモロジー理論)的にも興味深い話題ですし、物理的にもトポロジカルな性質は摂動的な効果で消えないロバストなものであるため、何らかのトポロジカル不変量に結び付けられた物性は非常に安定なものとなりデバイスへの応用の面ではこれはとても嬉しいことです。
今行われているゼミについて
次に、統計物理学班の活動の一環として行なっている自主ゼミについてごく簡単に紹介します。僕はこれらのゼミの全てに参加している訳ではないのでゼミの様子などについての深い所については立ち入りません。
田崎統計力学ゼミ
これは主にB2の方達が平衡統計力学に関する理解を深める目的で行っているものです。読んでいる本は田崎晴明先生の「統計力学I/II」(培風館)3という本で、曖昧さを排し原理や理論的背景の丁寧な説明に主眼を置いた記述により、平衡統計力学の入門書として名高い一冊になっています(しかも、熱力学とちょっとの確率論を知っていれば量子力学について詳しくなくても読めてしまうのがすごい点です)。
多くの統計物理学の本においてそうであるように、この本にも演習問題が多数掲載されています。このゼミではそれらの演習問題にも積極的に取り組んでいます。
ゆらぐ系の熱力学ゼミ
こちらは非平衡統計力学のゼミその1で、齊藤圭司先生の「ゆらぐ系の熱力学」(SGCライブラリNo.182、サイエンス社)4という本を読んでいます。内容的には、ブラウン運動の話と線形応答理論の話に始まり、いわゆる「ゆらぐ系の熱力学」の枠組みが説明された後、非平衡系の熱力学における重要な結果が紹介される、という構成です。
この本のメインは4章以降だと思っています。長い4章では非平衡系(確率的なダイナミクスを持つ系)に対する種々の熱力学量および熱力学的関係の定式化がなされ、それを基軸に5章では有限の時間のもとでの熱機関の仕事率と効率にまつわる議論が、6章では物理量のゆらぎを小さくするためには相応の熱力学的代償(エントロピー生成)が必要だという熱力学的不確定性関係の話題が続きます。特に5章では、対象を非平衡系へと拡張したことによってより現実に即した熱機関の議論が可能になることを見ます(例: 熱電現象や分子モーターなど)。
Stochastic-Thermodynamics
こちらは非平衡統計力学のゼミその2で、読んでいる本は白石直人先生の"An Introduction to Stochastic Thermodynamics -From Basic to Advanced"(Springer)5という本です。この本では非平衡統計力学における基本事項を確率過程などの必要な数学から始めて網羅的に掲載してあり、熱力学・統計力学の非平衡系への拡張およびその枠組みの中における主要な定理・主張が丁寧に解説してあります(数学的な主張の証明も省略せずに掲載しているのがすごい)。特に、非平衡系の物理量にの間の重要な関係式(等式ないし不等式)についての話題に多くのページが割かれています。
本は英語ですがゼミは日本語で行われているらしいです。
物性物理のための場の理論ゼミ
このゼミは、「量子多体系を理解するための道具としての場の理論を勉強しよう」という目標のもとに、小形正男先生の「物性物理のための場の理論・グリーン関数 -量子多体系をどう解くか?-」(SGCライブラリ142)6という本を読んでいます。3章と4章では相互作用のある有限温度の量子多体系を摂動論的に解析するためには虚時間形式とよばれる形式のもとで温度グリーン関数なるものを考えなければならないことを説明したのち、相互作用場に対するダイヤグラムを用いたグリーン関数の摂動計算の方法が紹介されます。第5章では系に微小な外場を加えた時の応答を調べる線形応答理論において温度グリーン関数の摂動展開と類似の議論ができることを述べ、その後の数章ではいくつかの電子多体系に対して具体的な計算が行われます。
ダイヤグラムの手法によって線形応答理論の具体的な計算ができるようになることがこのゼミの目標(?)です。本は絶版だったので電子版で読んでいます。
最後に
以上、統計物理学という分野について、および統計物理学班として行なっているゼミについての簡単な紹介でした。
世の中の様々な物理現象は本質的には多体系の織りなす現象な訳で、それは統計物理学という強力な武器によって理解されることができます。統計物理学そのものの理論的な枠組みに興味がある方も、統計物理学の応用先の物理に興味がある方も、ぜひこちらの統計物理学班の活動に関心を持っていただけたら幸いです7。
脚注
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よくないね。 ↩
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「ある平衡状態を指定する相加変数の組の値$(E, \boldsymbol{X})$を任意に一つ選んだ時、その状態とマクロに同じ値の$(E, \boldsymbol{X})$を持つミクロ状態たちを全て集めると、そこに含まれる状態のほとんど全てが、マクロに見れば$(E, \boldsymbol{X})$で指定される平衡状態となっている」という、平衡状態を特徴付ける平衡統計力学の基本原理。清水明先生の記述を拝借。 ↩
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https://www.saiensu.co.jp/search/?isbn=978-4-7819-1563-0&y=2022 ↩
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https://www.saiensu.co.jp/search/?isbn=4910054700688&y=2018 ↩
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五月祭きてね!!! ↩