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未経験からweb系エンジニアになるための独学履歴~初めてのポートフォリオ作成記録 概要と私について~

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記事の概要

プログラミング勉強歴1年弱、PHP3ヶ月弱、Laravel歴1ヶ月強の私が気力とググり力とTeratailでの先人の教えを頼りにどうにか形にはなった成果物(ポートフォリオ)を作り上げたので、アウトプットと就活のための資料、そして何よりプログラミングのプの字の知らなかった人間が1から独学でどこまでこれるのかということの記録という意味を込めてその背景や作成記録、艱難辛苦を乗り越えてなおある山積みの課題等々を書き綴ったものです。

長くなりそうなので本筋である成果物に関しては記事を分けますので、私個人については興味ないよという方はこちらから制作記録へどうぞ。

私について

所持している資格

・中学校教諭一種(国語)、高等学校教諭一種(国語)
・司書資格
・司書教諭資格

私の人生は一応キャリア的な略歴から言うと

2010年 神奈川県の某高校を卒業、県内では一応進学校とされている。しかし、親と受験の方針で揉めに揉めて一浪。
2011年 明治大学文学部文学科演劇学専攻に入学
同年 某声優養成所に入所
2013年 某声優養成所退所(箸にも棒にもかからなかっただけ)
2014年 某声優養成所入所(一度目とは違うところ)
2015年 明治大学文学部文学科演劇学専攻卒業(留年なし、フル単位、ストレート)
2016年 某声優養成所退所の上ニート(一身上の都合、後述)
2016年 12月 書店員のアルバイトに、以後現在まで継続。
2017年 司書資格取得開始、翌年3月に取得
2018年 神奈川県の公務員試験を受験、1次は通るも2次で落ちる。
2019年 2月 ITパスポート受験、合格
2019年 4月 HTML・CSS・Bootstrapに触れる
2019年 7月 PHPに触れる、この頃からエンジニアを意識する。
2019年 11月 Laravelに触れる
2019年 12月 本格的にLaravelでWebアプリケーションを作ってみる

という流れになります。
まあ、一見するだけでもかなり印象は良くない部類の人間だろうなというのは自分でも自覚はあるところです。

世の中には東大の理三を出て医者になりながら、ある日突然Pythonに目覚めそのまま1年で習得しGoogleに就職するような、とんでもない人(褒め言葉)もこの世界には割と珍しい話でもというようなことも知り、戦々恐々としていますが、リアルなところ未経験からエンジニアを目指してる人ってどういう人なのというサンプルの一つとして、私事ではありますが略歴から弁解も兼ねて2,3説明させていただきます。
興味のない方は冒頭のリンクから成果物に関しての記事だけでも読んでいただければ幸いです。

受験で揉めた話

これは単純です。
私の家は裕福ではないので、国公立しか大学は受けさせないとずっと言われてきたのを受験直前にある、願書提出最終確認の三者面談の場で

「なぜ、私立を受験しないのか?」

と親に言われてしまったからですね。
実は私は数学が苦手も苦手で最後の模試でもどうにか2科目合算で120点という有様だったので国公立しかダメというのはずっとプレッシャーだったのですが、それが一気に爆発してしまい、親とは大喧嘩になり、メンタルも総崩れになり本番は数学だけ模試よりさらに酷くなると散々な結果に終わってしまい、当然国公立(教育・教員養成系の大学としてはTOPレベル)の受験は失敗して、浪人することになります。
ちなみに、成績は3年間で平均評定4.8でした。マイナス補正をかけても4.2くらいはあったと思います、当時は。
人生で初めての挫折を味わったのがここになります。
しかし、今振り返ると例えこの一件がなかったとしても、あの数学の出来では多分受かってなかったと思います。メンタル的なところを差し引いても、単純に地力が足りなかったところは否めません。

挫折から引きこもって声優を目指して、なぜか明治大学に合格した話。

浪人と言っても心がほぼ折れかかっていて、さらに同級生だったみんなと一学年違う存在になるというのは割と心にくるもので半年くらいは引きこもってた記憶があります。勉強もしてませんでしたね。
しかし、あまりにも引きこもっていると罪悪感が出て色々考えたり・見つめ直すことが出てくるもので、その中で私は自分の将来について実は真面目に考えたことがなかったことに気づきました。
と、いうのも前述の通り教員養成系の大学、もっというと学校司書になるために大学へ行こうとしていたのですが、考えてみればそれは父がそうしろと言われてきたのが3割・意図的に父がそういう進路や世界しか私に見せてこなかったのが2割、そして残りの半分は私がそういった環境に甘んじていてろくに自分の将来ややりたいことについて考えなかったことと、もっといろんな世界をみようとしなかった怠惰がそうさせていただけだったのですよね。

じゃあ、自分が本当にやりたいことってなんだったのだろうかと考えた結果が幼少期母の影響で見てた洋ドラの吹き替え版からくる声優という仕事だったのです。
あまり自分に自信がもてない私ですが、他人から褒められる数少ないものが声だったのでそれを活かしたいという思いも手伝って、じゃあお芝居を学べる場はどこなのだと願書の提出の時期になってようやくエンジンをかけたところ、たまたま見つかったのが専修大学と明治大学(当時は無知の極みだったのでかの有名な日本芸術大学や俳優座出身の名俳優・女優を輩出している桐朋学園芸術短期大学の存在を知らなかった)であり、両方受験したところ両方受かったので演劇学専攻がある明治大学へ進学しました。

今の所人生で1番燃えて、燃え尽きた時期

さて、大学へ進学したはいいものの、明治大学の演劇学選考はご存知の方もいるかもしれませんが、別にお芝居のレッスンをするとかではなく、あくまで学問としての演劇を学ぶという場だったわけですね(もちろん、選考のほぼ全員が自分たちで何らかの形でお芝居に関わったり、お芝居をしたりしている。役者や声優の卵もたくさんいた)。

またしても、無知な私は入学準備のときにそれを知ったので、どうしたものかと考えた結果声優の養成所に入ることにしました。
親との約束で養成所の費用は自費、かつ留年は禁止で教員資格と司書教諭資格は必ず取らなければならなかったので、ここから大学四年生になるまで大体1日6~7コマ講義を受けて、合間にお芝居の稽古をして、養成所の週1のレッスンを受けるといった毎日が続くことになります。
しかし、まあこれはあとからわかるのですが声優の養成所というのは養成所というのは名ばかりで、実際は青田買いからの玉石混淆から玉を回収する場であり、決して育ててくれる場ではないのです。
養成所の名誉のために言えば「養成所は育成の場ではなく、篩にかけてもらいにくる場所」だったというわけです。
当然、無知な私はそのことに気づくのに2年を費やし、箸にも棒にもかからず退所することになります。
それでも諦められなかったので、退所してからも1年間稽古の量は減らさず、大学4年次に別の養成所に入所することになります。一応、特待扱いで。
そして、教員実習や卒論と並行しつつなんとか単位を1つも落とさずにストレートに大学を卒業した年が同時に養成所の最後の年になるわけですが、この年にまず養成所生からいわゆるセミプロ(ジュニア)と呼ばれるところに上がる1回目の篩の場が来ることになります。
レッスンが終わるのがだいたい19時なのですが、そこから代々木公園に移動して終電まで延々とあーでもないこーでもないとやっていたのを思い出します。毎日大体12時間位費やしてましたね。
その甲斐もあってか箸にも棒にもかからなかった私も徐々に目をかけてもらえるようになってきて、年度末のオーディションにむけて結構手応えのある毎日を送れていたのですが、まあ罠はどこにでもあるわけなんですね。
忘れもしない、あの1月の終わり。なんとまあとんでもないことによりにもよってレッスン外でも個人的に1年間1番一緒に稽古してきたレッスン生の1人がずっとインフルエンザを隠して(症状が軽かったからセーフだと言い張ってました、後に私と同じタイミングで重症化するんですけども)レッスンに通っていたせいでものの見事に私も感染してしまったのです。獅子心中の虫とはまさにこのこと。
もちろん、かかる私も悪いのですがただインフルエンザになっただけならまだしも、そのせいで抵抗力が落ちきったために声帯にウイルスが入り込んで水膨れを起こす「声帯浮腫」という病気にかかってしまったのが運の尽きでした。
声帯が水膨れを起こすということは当然満足に声を出すことができず、しかも私の場合インフルエンザと重なって発見が遅れたのもあって、かなり重症でその後半年以上無声治療(声を発してはいけない)をしてなんとか声帯を切らずに済んだというくらいひどかった(実際、嗄声を小声で出すのが精一杯だった)ので、年度末のオーディションはもちろん戦うことすらできずに終わり、私は二度目の挫折を味わうことになりました。
このときばかりは無声治療で声を出してはいけないことも手伝って本気で塞ぎ込みました。
本気で頑張っていたこと・燃えていたものがなくなったことや無に帰したことへの悲しみはとても堪えましたし、何より1番辛かったのは唯一自信を持てる部分であった声が失われてしまうのではないかという恐怖でした。今でも常にあるくらいです。泣くこともできなかったのを思い出します。
ちなみに、インフルエンザをばらまいた輩はオーディションに合格してました、世知辛いものです。

紆余曲折経てエンジニアを目指し、今日に至る

ということで、2016年の半年は無声治療のため一切言葉を発さない生活を送らなければならなかったためニートでした。
ようやく少しずつ声が出せるようになったのが8月くらいだったかなと思います。
とりあえず、アルバイトを探さないとと思い短期でプールのライフセーバーのアルバイトを短期でやってみたりしながら、喉のリハビリを兼ねて声をかけてくださった地方劇団のお芝居に客員として参加させていただきながら12月に今も続けている書店員のアルバイトを始めました。
そのあたりからいい加減ふさぎ込んでいるばかりではなく、社会復帰を考えないとと思い、レファレンス業務に興味と関心があったので学校司書ではなく地方公共図書館の司書ならどうかと考え2017年に司書資格を受講し。2018年に取得。
同年の公務員試験は司書資格と並行は難しいと思っていたので受けないつもりが、受験を急かされたので受験して1次は通ったものの案の定2次で落ちることとなります。
詳細は控えますが、そこの2次試験の面接での手応えで

「あ、自分は司書に求められていないんだな」

というものを感じ、事実その年別の県の合格者を引っ張ってきていたり、非正規雇用枠の募集に応募しようにも条件が実務経験7年以上の主任レベルの募集だったりということを見聞きしたのもあって司書をこのまま目指すのは無駄だなと3度目の挫折をほのかに感じた始めた頃に勧められたのがプログラミングだったのです。

ようやくプログラミング言語を知る

2018年の9月、公務員試験二次試験の結果に愕然としていた私にTwitterのフォロワーさんが

「何も言わずに黙ってPaizaのPHPの問題やってみな」

と声をかけてくださったことがプログラミングを知るきっかけでした。
これをありがたいことに読んでくださっている方のほとんどが「ファーーーーーーーーーーー」と某お茶の間の怪獣(敬称略)のような叫び声を上げるのではないでしょうか。
私も今同じことを思っています。
まず、マークアップ言語とアルゴリズムの言語との違いすらわかってないのにいきなりforだのifだのをググるなりなんだりして書けというのだからまあそれはそうでしょう。
多分普通の人はちょっと見てやめると思います、つまんないって。
しかし、私は幸いにも他にやることもなかったのでなんとなくやってみることにしました、しかもとりあえずなぜかCランクのものから。
当然解くことはできません、制限時間いっぱいどころか3日かけてもろくに解けませんでした。
すぐに泣き言を漏らす私に、その人は「やらなきゃ始まらないし、何も変わらない」と言い続けるだけです(時折見かねてヒントはくれた)。
そう言われたらまあ悔しいもので私も、なんとか諦めずに向き合ってみます。
そんなことを20数問くらい続けたのですけど、結果としてはそのうちの8割方は制限時間オーバーでかつ途中点しかもらえないような結果でも、終盤の残り2割くらいはほぼ時間内に終えられ、うち数問は自力で解答できるようになってました。
何かは変わり始めたわけです。
その後、Paizaの代わりにITパスポート受講を勧められ、とりあえずそれを取得(これは簡単だったのもあります、2週間でも受かります)したのをきっかけに自分で勉強を始めて今に至るということになります。
勉強の履歴のいくつかはQiitaの私の記事に拙くもいくつかありますので、ご興味あれば読んでいただけると幸いです。

そうして1年弱やってきて、プログラミングは好きになれたのか? と聞かれて正直に答えると声優を目指していたころの熱量はないというのが答えです。
好きか嫌いかで言えば好きです。
チュートリアルでも今回初めてチュートリアルの外を出てて自分で設計してあーでもないこーでもないと作った成果物にしろ、コードを書くのは楽しいですし、詰まっているところが上手くいったときはとても嬉しいですからね。
ただ、私がまだまだ未熟で要領も器量も悪いために処理を書くのはもちろん。些細なミスやエラーに詰まることもままあるため夜通し書いて体調を崩したりするから嫌だという気持ちも当然あります(今もまさにそう)。
でも、それは仕方ないです。人間誰しも人生で1番生きがいを持て、好き嫌いすべてをかなぐり捨ててまで一心不乱にやり続けることができるものはそう多くはないのですから。
ですが、1番職として、その後の人生を作っていくというものとしての観点から見ればプログラミングは1番私の中では現実的な部分を占めるようにはなりました。
司書や声優ですらついぞ、職として人生を生き抜いていけるビジョンが見えてこなかった私にとって現実的に就職が可能なのかはさておき、こういう仕事をして生きていけるんだということに実感を持てているというのはとても大きいことだと思っています。
勉強する意義や意味もいまいち学生時代見いだせませんでしたが、プログラミングの分野は多分の私の残りの一生かけても勉強しきれることはないだろうロマンの部分と、それ故に学ばないと生き残っていけないというシビアな部分も相まって、勉強することに抵抗はあまりないですしね。

最後に、今これを読んでくださっている方が現役のエンジニアの方なのか、はたまた私と同じようなエンジニア志望でいままさに色々頑張っている方なのか、もしくは1年前の私と同じようにプログラミングはまるでわからないけど興味はあるみたいな方なのかは残念ながら知ることはできませんが、こんな数学も満足にできず、なんなら満足に自分の年を進めることすらここまでままなっていないかもしれない人間でもその気になればこのくらいのもの作れるようにはなれるということの記録になっていれば嬉しいです。

私自身のつまらない話なので成果物をざっと手直しした徹夜の勢いで書いていますが、このあとの成果物に関しての部分と今後どういうことをやっていこうと思っているかや展望等は真面目に書きますのでご容赦ください。
ご意見・ご感想・手厳しいレビュー等々お待ちしております。あと、職探ししてるのでその方面でのアドバイスも……。

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