以下のエッセイは,"ボカロ批評" 第2号に掲載していただいたものです.
もしも,引用されようと思われたら
石原茂和(2014) あー、ミクさん、今日は2次元に出張ですかー, ボカロ批評, 16-27.
でお願いします.
VOCALO CRITIQUE, そのあとに続いたボカロ批評,大変お世話になりました.僕の読みにくいエッセイを物好きにも3度に渡り掲載していただきました.
https://twitter.com/vocalo_hihyo
残念ながら2015年末で活動休止されたので,文章も手に入りづらくなったかと思い,駄文が何かのお役に立つこともあるかと思い,Qiitaに上げておくことにしました.
GOROmanさんのMikulus, 第2次VRブーム,もっともいまではブームというより定着の様相をしめしていますが,VRの転換にあるとき,必ず立ちあわられる トランペットのごとき存在と思います.中世においてはトランペットは,天使の吹く救済,あるいは神の声,たまに害悪の出現を知らせるもののメタファーとして使われています.
(たしかにMikulusにやられて,財布にダメージを喰らい,VR沼にはまった人々は多数(笑)
私自身は,この文章のあと,ETHzülich, EPFL(École polytechnique fédérale de Lausanne), Graz, Linzといったスイス,オーストリア勢の,身体制御+実在感+自己意識+VRの脳科学を調べ続けることとなりました.
うまい実験で示すのが,なかなか難しい領域で,頭を悩ます領域です.
では,以下,本文です
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あー、ミクさん、今日は2次元に出張ですかー
不思議な感覚だった。
8月終わり,いつものように、夕食で食卓を囲んでいた。(ほぼ)いつものように、息子がYouTube動画をモニターに出していたのだが、それが八王子Pの新譜、Twinkle World feat.初音ミク https://www.youtube.com/watch?v=NiIVTXTuQug
楽曲は安定の八王子P。夕食を食べながら、これを見るともなく見ていたら、ふと感じた。《あれ?今日はtda式ミクさんは出張なの?ディスプレイの向こうで2次元にいらっしゃる。仕事してますな。おつかれさんです。。》
“おつかれさんです”なんて、思うだけじゃなくて、小声で言ってしまった。
お?、おぉ?ちょっと待て。どうした、俺の脳!?
・・・
僕は、昨年初めから、VRヘッドセットのOculusのコンテンツ勝手開発勢の皆さんとtwitterでもリアルでも、いろいろとつきあってもらってます。Oculusはあれよあれよという間に、大変な勢いで有名になったのでご存知の方も多いかと思います。さまざまなコンテンツが世界中で作られていますが、やはり一番平和な内容で一番クリエイティブなのは、日本。やっぱり。
たぶん、最初期につくられたコンテンツの一つが、@GOROman さんによる、Mikulusです。浅い海の中に、tda式ミクさんが座っていて、こちらをじっと見つめているだけのデモですが、僕はこれに非常に衝撃を受けました。それについては、昨年末に、“映画の再定義”という駄文を書きました。
http://ishihara-lab.cocolog-nifty.com/hiroshima_in_the_snow_but/2013/12/oculus-advent-c.html
かいつまんで言うと、Mikulusはヌーヴェルヴァーグなのか?という驚き。ヌーヴェルヴァーグ特有の、謎めいた美女がつったっていて、もしくは座っていて、謎めいたまなざしで、謎めいた言葉をぶん投げてくる、こちらは必死でそれを咀嚼しようと、監督が投げて来た(放り出した?)世界と謎を考えようとする、それと同様の表現がMikulusをはじめとするキャラものVR作品で成立してしまうことの面白さについて書きました。ヌーヴェルヴァーグの監督達が追い求めていた表現が、こんなところで突然効果的に可能になったのかという感慨です。後に、@needle さんが、VRコンテンツの作成について、“「あのシーンを体験したいんだ!」という願望から開発が始まるので、そこに至るまでの文脈をすっ飛ばしてそのシーンだけが作られてますよね。映画でそのシーンだけの短編を作っても意味がなさげなのにVRだと「あり」なのは、自分自身のものとして体験されるから?”と言われています。これは、 “Mikulusはヌーヴェルヴァーグなのか?”という問いに対する、まさにもう一つの解だと思います。《(映画でそのシーンだけの短編を作っても意味がなさげなのに)を、ほんとにやっちゃったのがヌーヴェルヴァーグであり、端的にはゴダールだから。《VRだと「あり」なのは、自分自身のものとして体験されるから?》:自分自身のものとして体験されるためには、”なんだろう?”と解釈し咀嚼しないといけない。ということは、一瞬で理解できてしまうようなものではダメで、心地よい謎がないとね、ということでしょう。
そして、OculusもDeveloper Kit 2になり、格段に解像度が上がり、外部カメラがついてポジショントラッキングが出来るようになりました。簡単にいうと、外部カメラからヘッドセットが見えている限り、その位置を計測しつづけています。DK1では、ヘッドセットに加速度とジャイロセンサーがついていたので、回転はある程度の精度でとれていましたが、並進運動、特に画面に寄る方向の運動は感知できていませんでした。DK2では、外部カメラにより、その正確な測定が可能になりました。
さっそく、@GOROman さんにより、Mikulus DK2 版が作られました。これを見て、僕らはリュミエールの観客だと実感しました。知らなかった“実体”が、そこに。
映画と、映画の興行を発明したリュミエール兄弟の最初期の作品で、駅に到着する機関車を撮影したものがあり、これが初めて上映されたとき、観客は驚いて席から逃げ出したという有名な逸話があります。
http://vimeo.com/41245475
コマ数も少なく、モノクロの画面でも、それは人々にとって、初めて見た新たなリアリティだったということでしょう。
僕にとっては、Mikulus DK2で見たtda式ミクさんは、もう映画という既存のリファレンスを飛び越えてしまって、未知の“実体”として捉えられてしまったということです。このとき、わずか10分ぐらいしか見ていませんが、それより数週間後に起きたのが、先ほど書いた、ミクさん2次元に出張ですか…という不思議な感覚。ちなみに、翌日も試してみましたが、まったく同じ感覚が持続しています。
家人には、“どんだけミク廃なんや”、“ミクさん同僚かよ”と笑われました。確かに。いわれてみれば、家族。。ではないけれど、毎日顔を合わせる同僚が、テレビに出ているのを見てるのとほとんど同じ感覚だ、こりゃ。もちろん同僚は実体のある人間なのに対して、ミクさんは実体ありません。
単なる3D以上の、能動的なVR体験が、《すごい!リアルな!!衝撃的な!!!》というものではなく(もちろんそれも大いにあるけど)、《あ~、なんとなく、いつものようにいるね。いる感じがするね。多分ね。まあ見えないけどね》という、“蟲師”の“蟲”のような感覚を持続的に引き起こしているのは、いったいなんだろう。
僕の専門は、感性工学、人間工学、Gerontechnology(ジェロンテクノロジー)です。Gerontechnologyは、オランダのアイントホーフェン工科大学で始まった学問です。Geronは高齢の、という接頭辞で、高齢者になんとかしてテクノロジーを使ってもらい、豊かな、自立した人生を送って欲しい、そのために何をするべきかを考え、実践する学問です。僕は、昨年からこの国際学会の日本支部代表を仰せつかってしまいました。
初めてこの学会の国際会議に参加したのが、1999年のMünchenでの大会でした。その際、日本のある先生が、ロボット応用の可能性について講演されました。丁度、SONY AIBOが大きな話題になったころ、産総研のパロが出る少し前になります。ところが、参加者の反応は冷ややかなものでした。どうして、たいがいにはハイテク好きなドイツなのに、ロボット応用に冷淡なんだろう。。と不思議でした。そこで言われたことを総合すると、ドイツより北のヨーロッパでは、基本的に社会資本主義である。高齢者、子供、助けの必要な人は、社会が面倒をみるものであり、ヒューマンタッチが絶対に必要である。機械が相手をする、機械が面倒をみるというのはとんでもない、ということでした。この大会では、有名な電気ポットにセンサーをつけて、独居高齢者が朝ちゃんと起きているかどうかをチェックする、湯船にセンサーをつけてお風呂で心拍をとる、といった、日本の先進的なセンサー技術応用が沢山発表されました。
註:社会資本主義というのは、ほぼ僕の勝手な造語なので、正しい用語ではありません。社会、人々が資本であるという考え方です。その対極が、マネー資本主義。こちらは投資と市場で動く資本主義です。貧しく、餓死者もしょっちゅう出して来た、かっての農業国、スウェーデンでは、国土に対して極端に人口が少なく、厳しい厳しい自然環境のなかで、一人一人が大事な労働力である。みんなが働かないと生きていけない、そのためには、みんながみんなを面倒を見る、人々こそが資源で資本である、という考え方が基本にあります。
Münchenの次の回が2002年にマイアミビーチ、ここは高齢者医療では世界最先端です。なにせ、アメリカ中の高齢者が温暖な気候を求めて集まってくるので。
次の回、2005年は、名古屋で開催でした。僕も開催には微力ながらお手伝いしました。さらにその次,2008年は、ピサでした。イタリアは、日本と世界1、2を争う高齢化した国。高齢化については向こうのほうがはるかに先輩です。ここでは、一転してイタリアの得意な脳科学とロボティックスの組み合わせ。衝撃をうけたキーノートレクチャーがありました。Imperial College of LondonのEtienne Burdet先生のレクチャーで、チューリッヒETH (連邦工科大学)と、Imperial College of Londonとの共同研究。歩行訓練をするロボットシステムが発表されました。トレッドミルのうえに、ロボットアームが3本ついているような格好で、一つは体幹をささえ、あとの2本は、ゆっくりと足を動かすタイミングで動くものです。いわゆるリハビリロボティックスの始まりです。歩行訓練は、理学療法士と助手1、2名で、患者さんの身体を支えながら、床にはいつくばったりして両足のタイミングを教えてあげる、かなりの重労働ですが、それをロボットでやってしまおうという発想です。その進化形であるLokomatはこちら
http://www.sms.hest.ethz.ch/research/current-research-projects/lower-limb-exoskeletons-and-exosuits/lokomat-gait-rehabilitation-robot.html
ちょうどそのころ、日本では、リハビリに対して一定期間で保険適応を打ち切るという動きが出て来て、亡くなられた免疫学の多田富雄先生が、新聞雑誌等にも投稿され一生懸命闘っておられました。先生ご自身が、重度の脳梗塞で一生懸命リハビリされておられました。マヒの人は、自力で動かなくても、外力を加えて関節を動かし続けないと、痛いのは言うまでもなく、そのまま固まってしまうのです。ご自身による本が出版されています(多田富雄、わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか, 青土社, 2007)
突然、ヨーロッパでGerontechnologyの分野において、高度なロボティックス応用が始まりました。なぜでしょう。どこの国の先生の発言か忘れましたが、“北ヨーロッパはプロテスタントなので、社会が高齢者の面倒をみる。南ヨーロッパ、ラテン系はカトリックなので、家族が高齢者の面倒をみる。そうはいっても家族だけで面倒は見れなくなると、家族以外に迷惑をかけるならば、ロボットのほうがいい、と極端に走る”と言われたのを覚えています。
そしてその次2010年はバンクーバーで、そのとき、できたてのNao君をAldebaranが持ち込んでいました。まだ、これを家庭に持ち込んでなにができるか、まったく未知数だけど、とにかくバランス機能は高度に作ったというアピールでした http://www.aldebaran.com/ja/xiao-xing-robotutonaotoha
その間,ざっと10年が経過しました。日本のロボティックス関係者は、もう学会にも顔をださず、喫緊の課題であるはずのロボットによる高齢者支援は、すくなくともこの領域では、日本のプレゼンスは国際的にはすっかりしぼんでしまいました。山海先生のCyberdyneが、国際的に知られるようになったのは良かったのですが。
昨年、IEEE主催の、リハビリロボティックスの国際会議ICORR2013がワシントン大学でありました。RESNA2013、北米リハビリテーション工学会大会とリンクして行なわれたので、ICORRにも顔をだしました。悲しいことに、日本からの発表はわずか2件でした。
こんな状況に、非常に危機感持ってます。ロボット大国日本はどこいったんだ?センサー技術先進国じゃなかったのか?と。
実のところ、リハビリロボティックスについては、ちゃんといいものがあります。安川電機は、先に述べたETHのロボットよりも、たぶんよいものを作っておられます(中西貴江、開発現場からみた課題と解決への鍵 (特集:医療福祉ロボット−実用化にむけて)、総合リハビリテーション、42(8)、 721-726、 2014)。もっと海外に攻めていかないといけないのでしょう。
センサーも、相変わらず、日本はいいもの作っています。ですが、それがムーブメントを起こすまでが遠い..Kinectや圧力センサーなど。ブームになりうる形でプレゼンされていないこと、手軽に手に入るのは外国のものばかり、といった問題があります。ま、愚痴と課題はこのへんにして、日本発で、ムーブメント起こすにはどうしたらいいんだろう。読者諸賢にはご明察、僕らはかってないムーブメントの中に、いまだいます。これだけ続いていることの奇跡に感謝。
Oculus開発勢の中でよく言われるのが、ミクさんに老後を面倒見てもらいたい、そこまでいかなくても、そこにいて欲しい、ということです。僕のような、おっさんの間だけかもしれませんけれど。“初音ミクの実体化への情熱“展もありましたし(myrmecoleon,初音ミク実体化の歴史 年表, ボカロ批評, 1, 2014)、3次元に召還したら、やっぱり生活を共にしたいですよね。みんなどうしてミクさんには、こんなに愛着感じるんだろう。これまで現れて来た、無数のキャラクター達とどこが違うんだろうか。これについては沢山の方の論考があります(過去のボカクリ参照)。僕はどこかが一方的に作って与えられたものじゃなく、みんなで作った存在だからだろうと思います。
さて、その愛着についてです。僕が言いたいことの1つは、これです。ロボットと共に暮らすとして、それが愛着できるものかどうか、これは大きな問題。
先ほどリハビリロボティックスについて触れましたが、自立支援のためのロボティックスもあります。図1は、うちの専攻でやってる学生プロジェクトの説明ポスターです。上にのせた、車いすにロボットアームを括り付けたものは、これはかなり便利なはずなんです。人間の腕よりもずっと長いので床の上にあるものも拾えるし、車いす生活で難しい、ドアを開けることも、限定的ながら可能です。ただし、すごく高価です。食事を手伝うロボットは、セコムの“マイスプーン”は完成度が高い。セコムは、安いとはいえませんが、頑張って価格を抑えたなと思います。http://www.secom.co.jp/personal/medical/myspoon.html
これらは、いいんだけど、すごいんだけど、もっと安くしたいし、“日本らしさ”、そう、かわいさや愛着といったところが欠けています。もうちょっと安価に、かわいく、生活を共にしたくなる、一言で言ったら、愛着をもてるものができないだろうか。
ということでミクさん登場は、安直? なお、このプロジェクトは学生プロジェクトなので、彼ら彼女らが学習しながらなので、何年かかるか判りません。のろのろと進んでいます。
愛着というトピックについては、同僚の岩城先生と,以前こんな研究をしました(木野和代, 岩城達也, 石原茂和, 出木原裕順,モノへの愛着の分析-対人関係とのアナロジによる測定, 感性工学研究論文集, 6(2),33-38,2006 http://ci.nii.ac.jp/naid/130001756077 )。この研究では、物への愛着は、人間との関係をアナロジーとして例えることができるのだろうか。その関係性は近所のおばちゃんと、恋人と、家族と、自分自身(分身的)なのとで、どういう違いがあるのか?という、岩城先生のぶっ飛んだアイディアによるもので、それなりに面白い結果が出ました。“家族”に例えられる物の属性としては、“思い出がある”、“気持ちが落ち着く”。“恋人”に例えられるのは、“思い出がある”、“自分自身を表現している”、“他者を表現している”、“気持ちが高ぶる”。家族だと気持ちが落ち着くに対して、恋人だと気持ちが高ぶる、の対比は判りやすいですね。恋人にたいして、自分自身を表現していると、他者を表現しているというのが両方あるところが味わいぶかい。恋人のようなものは、半分自分自身でもあり、半分他者でもあると。
この論文の詳細については、リンクから読んでいただくとして、新たな関係性の創造という点で、ミクさんというのは非常に面白い題材です。対象がミクさんの場合、人間ではないので、そのポジション、自分との関係性、さまざまにその存在を、個人個人で想像(創造)することができていますから。
また僕らの研究で恐縮ですが、石原恵子, 原田実穂, 石原茂和,自律ロボットからの働きかけと感性 接近行動および棒振り動作の効果, 感性工学研究論文集,7(4), 709-716, (2007-2008) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjske2001/7/4/7_4_709/_article/-char/ja/ ) これは、およそ知的とも生物にもなぞらえられないような、LEGOでつくった小さいロボットがうろちょろ勝手に動き回るとき、どのようにすれば、関係性を良くできるか、すくなくとも不気味で自動的な感じをなくすことが出来るかというテーマ。しっぽつければいいじゃんという単なる思いつきから始まった実験ですが、そんな単純なアクションでもずいぶん有効でした。こんな単純なものでも有効ということは、そもそも実体がないミクさんの場合、さらに多様で複雑な関係性を創造できるのは、そりゃそうだろな。
人工物に対する関係性ということで、非常におどろいたのが、ピップ株式会社の江本 茂先生の、「スマイルサプリメントロボットうなずきかぼちゃん」開発のご発表でした。(ジェロンテクノロジー研究フォーラム2012 )
うなづきかぼちゃん ( http://www.pip-club.com/kabo/ )は、ロボットしては機能を思い切って抑えてあり、頭の光センサー、胴体と腕の加速度センサー、足裏の圧力センサー、音声のマイクがあって、機能と言えば、会話、唄を歌う機能、相づちをうつというものです。思い切って価格が抑えまくってあり、たったの2万円!さすが大阪の会社。
かぼちゃんで驚くのは、そのインタラクションもさることながら、後期高齢者、とくにおばあちゃんの愛着の高さ。HPの“かぼちゃんのこと”で、洋服型紙というリンクがあります。なぜ型紙がおいてあるのか、これは発売前の試用期間から、かぼちゃんが一年中同じ服ではかわいそうなので、服をつくって着せてみたという写真が多数送られて来て、これはただでさえ忙しいケアワーカーの方を、採寸で煩わせてはいかんということで、型紙を置くようになったそうです。
この思いもよらない、強い愛着のありようはなんでしょうか。確かに、人形を愛で、その服をつくるというのは、昔からあることです。しかし、自身が施設に入所してケアを受けているおばあちゃんが、自発的に裁縫をはじめ、服を縫い上げるというのはただならぬ事態です。そこまでの強いドライブはなぜ生まれるのか。これには唸りました。
かぼちゃんのキャラ、これは昭和のマンガを意識したと言われていました。5歳ぐらいの男児。ただ、やはり男性への受けはいまひとつのようです。
男性でも女性でも高齢者に受け入れられるキャラ、実は僕はその点でもミクさんが優れていると思ってます。2011年のジェロンテクノロジーフォーラムで発表しました(天満 達, 石原茂和, 石原恵子, 長町三生, 荒生弘史, 神邊篤史, 認知・運動・タイミング機能維持のための音楽ゲーム
“リズムでポン”, ジェロンテクノロジーフォーラム2011予稿集)。これはすごく他愛もないゲームで、炭坑節の“月が出た出た月が出た、よいよい”の、よいよいのところでキーを叩いてもらう、画面はミクさんが立ち絵で両腕を広げたり閉じたりしているだけです(あまり過剰な動きをしないで自発的にリズムをとってもらう助けだけ)。おもに80歳代の方にやってもらうと、最初は11人中、+-0.2秒以内のタイミングで押せた人が9名、+-0.05秒以内は1名のみ、あと一人は0.4秒以上の遅れだったのですが、4回目では、5名が+-0.2秒以内、6名が+-0.05秒以内の正確なタイミングで叩けるようになりました。80歳以上でも、たった4回で、相当な向上です。さらに多くの方が集まるフェスティバルなどでやって頂きました。やっていただいた方のご意見には、女の子が浴衣を着ているともっといい、という声もありました。
ある時、私の生家のテレビにwiiをつないでネットに繋ぐ為の調整に、ラマーズPのビデオを出していると、ネットのことなど何もしらない77歳の母親が、“初音ミクよねー、どうしてうちのテレビに出ているの”と突然の発言。どうやらNHKの番組を見たようです。高齢者ミクさん押しなのは、keiさん(もちろん絵師のほう)のオリジナルからの、嫌味のなさ、が脈々と受け継がれているのも一つの要因ではないかなと思えます。最近の、小学生女子向け雑誌で、ミクさんの取り上げられ方をみても、ミクさん全年代対応だなあ。
さて、最後にもう一度考えたいのは、冒頭でお話した不思議な感覚についてです。脳科学的には、V.S. Ramachandran先生のミラーボックスをすぐに思い浮かべます(“脳のなかの幽霊”、など著書も沢山あります)。
幻肢という症状があります。これは事故などで、手や脚を切断した患者さんが多く悩まされる症状で、もう無いはずの手や脚があるように感じる。感じるだけならまだしも、それが焼けるように痛い。痛くてたまらない。あるいは、変な具合に折れ曲がっているようにも感じる。これが何年も続き、これのために生きる気力が奪われてしまう方すらおられます。ラマチャンドラン先生が考案したミラーボックスは,両方の手や脚を鏡をセットした箱にいれ、動く方の手や脚の鏡像が、動かないほうの手や脚の位置に見えるように調整します。図2をご覧ください。これは岩城先生が作成されたものです。この箱の場合、右手の鏡像が左手にみえるようにセットされています。左手は隠されていて見えません。
図2 ミラーボックス
右手と左手で、同じ動作、グー、チョキ、パーなどを何回かまずやってみます。両手が同じ動作をしている時は違和感ありません。ところが、右手だけ、左手だけでグー、チョキ、パーをやってみると、なんともいえない違和感があります。右手だけでやってみると、動かしていないはずの左手が動いているような、逆に見えない左手でやると、見えている右手が動いていないのに動いているような、しかしやはり動いてはいないという、ちょっとした混乱を感じます。
ラマチャンドラン先生は、幻肢痛に悩まされている患者さんをこのミラーボックスでトレーニングして、沢山の成功をおさめています。いまでは有効な療法として広く使われています。人によっては、数回の訓練で、症状が消える人もいるそうです。
なぜこの治療法が有効か。いろんな議論があるのですが、ある種の強制再学習がトリガーされるのではないかと言われています。切断して時間がたち、神経末端からの信号がこなくなっても、脳の運動感覚野は当然残っている。信号が来なくなった場所に、他の神経活動は入り込んでいる。脳のさまざまな部位の分業は、きっちりと分けられているわけでもなく、またさまざまな部位が複雑に情報をやり取りしているので、他の部位からの信号がやってくると、いまはすでに無くなった手や脚があるように、あるいは痛みを感じるのではないか。それならば、それが存在しているように、視覚処理野からの信号がはいってくると、ある種強制リセットがかかって再学習が促進されるのではないかということです。しかしラマチャンドラン先生自身も、他の学者も、微細な神経学習プロセスが実際のところ、どう起きていて、どうして痛みが無くなるのかは、まだ説明しきれていません。
実は私自身も、人間の感覚はさまざまなセンサーからのデータを融合して総合判断をしていて、工学でいうところのセンサーフュージョンになっているということを、いやというほど体験したことがあります。何年も前のことですが、メニエール病になりました。この病気は、なぜそうなるのか原因はいまだわからないけれども、症状としては内耳の前庭と蝸牛のなかのリンパ液の圧力が上がっています。つまり腫れている。蝸牛の一部である三半規管は、ほぼxyz方向にループになったパイプの構造になっていて、中のリンパ液の流れを、有毛細胞が感知しています。頭が回転や移動しても、水は慣性の法則でとどまろうとするので、自分の動きを感知することができます。おおざっぱには、加速度センサーとして機能していると言えます。メニエール病になると、リンパ液の圧が上がることで、この加速度センサーからウソのデータが来ている状態です。
自身の運動時,加速度データに対して視覚情報処理ではOptical Flowの処理というのが昔から言われています.運動もしくは移動しているとき、周囲の見え方の一定方向への移動パターンがあります。まっすぐ前方を見て歩く時は、歩行の上下動と、消失点から周囲にかけての2つの移動パターンがあります。これにより,自身の運動速度と周囲との関係を知覚処理しています.人間,動物だけでなく,移動する自律ロボットでもよく使われている処理です。
メニエール病が調子悪いとき、ある日,50cm四方の石のタイル張りの場所をあるいていると、非常に奇妙な知覚が起きました。一歩毎に、自分の周りの一枚一枚のタイルが垂直方向に10cm以上、ランダムに上下します。しているように知覚されます。まるでSF映画のようですが、とても歩いてはいられません。
これは、視覚情報処理は正常なのに、自分の歩行に伴う動きの加速度データはウソデータが送られて来ているので、その辻褄を合わせようとして脳がつくりだした知覚なのでしょう。
自分の、そして外界にある存在というのは、知覚、触覚、加速度の体性感覚など多くのモダリティのデータを統合して出来ているもののようです。ちなみに、Oculus開発勢のなかでは、日本でも海外でも、VR空間内の自分の手や身体をどう表現するか、というのが最近よく討議されています。僕らがいま作っている室内環境のシミュレーションでも、カメラを上下動なく動かすと、まるで身体が無い魂だけが見ているような感覚に陥ります。これは歩行に相当する小さな上下動をカメラ移動につけることですぐに解決しました。
冒頭の奇妙な感覚,ミクさん今日は2次元でお仕事ですか〜は、どうもなにか、いままで未経験の、実在感、関係性というものが、突然生成された結果のような気がします。短時間のVR体験で、学習されたのか、トリガーされたのか、なにかがオーバーライドされたのか、ラマチャンドラン的な意味で起きたのではないかなと。 これが、毎日のように見ているミクさんだから,VR体験で生成されたのであって,なじみのない,愛着のないキャラだったら多分起きないでしょう。
ここまで書いて来て、やはりミク廃が書いた文章だな、こりゃという気がしてきました。しかしながら、全年代対応で、愛着と敬意をもって、自分たちの生活のなかにとけ込んで共存していく(共存というよりはお世話になるのかもしれませんが)、人間以外の存在としては、ミクさんが最も有力だ、ミクさんだったら僕らの未来を作っていく気力も湧いてくる、と思えるのです。
石原茂和
プロフィール
心理学出身で工学博士.
広島国際大学総合リハビリテーション学部リハビリテーション支援学科(学部)
広島国際大学心理科学研究科感性デザイン学専攻(大学院)
専門は人間工学,感性工学,ジェロンテクノロジー
twitter: @shigekzishihara