『すずめの戸締まり』が感動的なわけ
2022年11月11日に封切られた新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』。
大ヒットした『君の名は。』(2016)や『天気の子』(2019)に続き、今回の作品も100億円超えの記録的な興行収入が見込まれ、新海監督は国民的なアニメーション作家に位置したと言えるでしょう。
ただ、私自身としては、新海作品はすべて観ているものの、『君の名は』以降の作品は正直あまり好きではありません。多くの人に受け入れられる理由はわかりつつも、私個人の琴線に触れる内容ではなかったのです。
そのような経緯もあり、今回の『すずめの戸締まり』も、正直あまり期待せずに観に行きました。
しかし、エンドロールが流れ終わり、劇場に明かりがついたとき、自分でも意外なくらい感動していることに気づきました。実のところ、劇中のいくつかの場面では涙も流しています。
なぜ、ここまで心が動かされたのか、私自身もはじめはよくわかりませんでした。
その後、この理由の言語化を試みたところ、あるひとつの仮説にたどり着きました。
『すずめの戸締まり』は、ソフトウェア開発の営みを描いている
もちろん、この映画の核となるテーマは「災害」です。
ただ、改めてこの映画の内容を振り返ると、あたかもソフトウェア開発が構造的に抱える困難さについての物語のように読み取れてしまうのです。
というわけで、私と同じようにソフトウェア開発に従事されるみなさんと、この『すずめの戸締まり』の感動をわかち合いたく、Qiitaで映画の感想を書くという場違いなことを試みたいと思います。
※以降は作品へのネタバレを一切配慮せず、鑑賞済であることを前提に詳細な説明を省くので、未鑑賞の方は先に映画館へ行くことをおすすめします。
また、新海監督の狙いとは意に介さない私見にすぎず、ましては映画の解釈を越えて現実の震災とソフトウェア開発を重ねるような意図がないこともご留意ください。
私たちは負債と隣り合わせで生きている
『すずめの戸締まり』が描く「世界の構造」は、このようなものです。
・私たちが今生きている社会は、人々が忘れた歴史の上に成り立っている
・前者の社会は「現世=生の世界」、後者の歴史は「常世=死の世界」で、普段それらは違う時間軸に存在している
・この時の隔たりを「後ろ戸」がつないだとき、「生の世界」に「死の世界」が流れ込み、災害が起きる
・厄災は、誰かの命を犠牲にした「要石」で封じられるか、「閉じ師」によって未然に防がれる
つまり、私たちが満ち足りた生活を日々享受できているのは、ふだんは意識されなくても先人が犠牲を払いながら積み上げた過去のおかげであり、それと同時に私たちの日常というものは、忘れていた痛みをふと思い出すかのように、ある日突如としてその平穏が破壊されるリスクを常に抱えているものなのです。
人々で賑わう街の姿は、常に人々から忘れ去られた廃墟と隣合わせにあります。
もうおわかりのように、これはソフトウェア開発においてはついて離れない「技術的負債」の課題と、同じ構造と捉えることができます。
私たちがソフトウェアによって価値を享受できているのは、ふだんは意識されないが先人たちが積み上げてきたコードのおかげであり、それと同時にソフトウェアというものは、今では忘れ去られたさまざまな事情からトレードオフになった品質上の課題が、ある日突如として障害を引き起こすリスクを常に抱えているのです。
便利で素敵なソフトウェアは、常に忘れ去られた技術的負債と隣合わせにあります。
このように「ソフトウェア開発者が常々悩まされている困難」は、『すずめの戸締まり』では「日本人が無意識に抱いている不安」として描いているのです。
誰が障害を防いでいるのか
ソフトウェア開発の現場では日々エンジニアが「技術的負債」と戦っていますが、同じように『すずめの戸締まり』でも痛みや苦しみといった「死の世界」の象徴であるミミズと戦う「閉じ師」の姿が描かれています。
誰にも気づかれないなか、厄災を身を以て未然に防ぐ「閉じ師」。
社会を支えるあらゆるサービスの裏側で、バグと戦って障害を未然に防ぐ「ソフトウェアエンジニア」。
地味ながらも責務をまっとうする姿に、両者は重なって見えます。
また、『すずめの戸締まり』では、そもそもの「死の世界」の力を抑え込む「要石」という存在が登場します。
物語の序盤に「要石」は神様の化身であると説明されますが、話が展開するにつれ、自らの命を引き換えて戦う「閉じ師」たちの自己犠牲の果ての姿であることが示唆されます。
いささか大げさかもしれませんが、バグを潰しても潰してもコードが書き足されていく以上は根本的な解決はできず、負債化したレガシーコードそのものとの戦いに向きあわざるをえないエンジニアは、「かぎ師」と同じような宿命を背負った者たちのように思えるのです。
そして救済される
このように『すずめの戸締まり』は、私たちの平穏な日常を脅かす存在に対し、人知れず戦っている使命を負った人々の姿を、ヒロイックに描いた物語とも言えるでしょう。
しかし、新海誠はこの物語の終わりに、さらなる仕掛けを用意しました。
主人公のすずめは日本列島を北上する旅を通し、現在と過去と2つの時間軸をつなぐ「後ろ戸」を閉じながら、そこで出会った「現在を生きる人々」に垣間見える「過去の痛み」と向き合うことで、人間的に成長していきます。
その最終局面で、すずめはいよいよ、自分が抱える過去の痛みを精算するため、自身の原風景かつトラウマの舞台に向かうことになります。
その地で、「現在のすずめ」は「過去のすずめ」に出会い、「過去のすずめ」が抱える痛みを癒やします。すると、同時に「現在のすずめ」も、これまで抱えてきた過去の痛みから開放されます。
ただ、そのとき、すずめは気がつくのです。ここまで過去の痛みに苦しんできた自分は、実は「未来」のすずめの声によって励まされ、すでに救われていたという事実に。
これにより、すずめが自身のあり方を、「過去の痛みにとらわれ、苦しんできた」ではなく、「未来を信じることで、痛みを乗り越えてきた」と捉え直したところで、物語は終結します。
新海監督が仕掛けたこのアクロバティックな反転に、私は心が救われたような気がしました。
ソフトウェア開発は、つねに技術的負債との戦いです。
孤独で、苦しく、先の見えない、忘れ去られた過去と戦いです。
ただ、負債は苦しむものではなく、乗り越えるべきものなのです。
未来へ継承されていくことを信じ、今までもこれからも価値を出し続けていく。
私たちは、過去にとらわれず、未来に励まされるべきだ。
そのように『すずめの戸締まり』を観たことで、私はくじけずにまた頑張ろうと思えたのです。