挨拶
Physics Lab. 2024 量子班長のSℏunです。1日目のアドカレを書いた統括と同一人物です1。今日から5日間は各班2の班長が班の紹介をしていきます。まずは量子班からです。
量子論について
まずは量子論の説明からはじめていきます。
量子論が成立した歴史的な経緯としては、原子スペクトルや光電効果、空洞放射など従来の古典力学と古典電磁気学では説明できない現象が発見され、20世紀初めにそれらを解決するために導入されたのがきっかけです。当初は古典論に(半ば場当たり的に)付加的な条件を課す形でしたが、徐々に体系的・数学的に整備されていき、今日では、物性物理や素粒子論はもちろん、量子情報・量子計算など新たな応用も知られてきていて、量子論は物理学において必要不可欠なものとなっています。
ここで重要なのは、量子論は、位置と運動量によって記述されるような粒子の系だけでなく、q-bitなどの有限準位系3や、電磁場などの無限自由度の系4などさまざまな対象についての理論を含む大きな理論の枠組みである、ということです。さらに、Bellの不等式の破れなどの発見によって量子論は単にミクロな現象を説明するというだけでなく、これまでの古典物理学とは全く異なる新しい理論の枠組みなのだということが明かにされていて、「状態」や「測定」という概念も非自明なものとなっています。
量子基礎論について
上述のように量子論と関連した物理学のトピックはいくらでもありますが、とても全部紹介することなどできないので、筆者が主に関心を持っている量子基礎論という分野について紹介したい5と思います。
量子基礎論とは、量子論という枠組みそのものの普遍的な性質を研究する分野のことです。量子論は現在では(物理学科では)学部で誰もが習う6ような当たり前のものとなっていますが、応用だけでなくそれ自体の研究も現在でも行われています。
量子論の(古典論の常識と顕著に異なる)特徴は大きく分けて「非局所相関(エンタングルメント)」と「不確定性関係」の二つがあげられます。
まず、非局所相関7については、昨年その実験的検証がNobel賞を受賞した8ようにBellの不等式の破れが大変有名です。これは「物理量の値が定まっておらず確率的な予言しかできない」とする量子論に対し、「実は未知のパラメータも含めれば各状態ごとに物理量の値は決まっているが、我々がそのパラメータの違いを感知できないだけだ」とする隠れた変数の理論(古典論)では異なる予言をする9ことを示したものです。後者が(具体的なモデルによらず)満たさなければならない不等式がBellの不等式で、量子論ではそれが破れるような状況が存在し、それが実際に実験によって確かめられた、ということになります。
しかし、実はBellの不等式の成立条件は、実在論(隠れた変数の理論)であるということだけではなく、局所性や自由意志(測定任意性)の仮定も必要であることが知られています。実際、Bohm力学という非局所的だが実在論的な理論で粒子についての量子力学と等価な予言をするものが知られているほか、それらの仮定を緩めた場合に不等式のバウンドがどのようになるかについての研究10もあります。
また、一口にBellの不等式といっても、よく扱われるCHSH不等式だけでなく様々な形のものがあり、3体以上のエンタングルメントにおいてはGHZ状態など不等式を一切用いずとも隠れた変数の理論では説明できないような状態も知られています。そのためエンタングルメントの定量的な評価は(応用上の理由もあり)現在でも大きな課題の一つとなっています。また、Bellの不等式は主に空間的に離れた複数の系の間での相関についての不等式ですが、単一系の時間相関についての類似した関係式(Leggett-Garg不等式11)も知られています。
次に、不確定性関係についてですが、これは、量子論においては複数の物理量の値が同時には確定しない、というものです。
しかし「決まらない」といってもその正確な意味には様々な場合があります。初めて不確定性関係が提唱されたHeisenbergの思考実験においては、粒子の位置を光によって測定しようとすると、粒子の運動量を変化させてしまい、位置の測定精度と運動量の変化量の間にはトレードオフ関係があるはず12だ、というものでした。
一方で、量子論の教科書で標準的に習うような不確定性関係はKenerd-Robertsonの不等式というもので、複数の物理量の分散の積の下限を与える、量子状態の内在的なゆらぎを記述するものです。そのため測定誤差や測定の影響についての不確定性関係の数学的な定式化は別に必要で、誤差の定義の仕方によって様々な定式化13があり、それらを統一的に扱う枠組み14も提唱されています。これらを扱うには、量子測定や推定15についての理論的な定式化が必要不可欠なものとなります。特に、時間とエネルギーについての不確定性関係など、可観測量ではないような量についての不確定性関係を扱うには量子推定理論は欠かせないものとなります。
また、複数の(本来は不確定性関係から同時に確定しない)物理量についても擬確率分布という同時確率分布の類似物を定めようという試みもあり、これは物理量の量子化との双対的な関係が知られています16。擬確率分布はAharanov弱値17という弱測定によって得られるとされる「始状態と終状態をともに指定した時の物理量の(ある種の)値」と密接な関係にあります。
不確定性関係によって「状態」や「測定」とは何かということを真面目に考える必要があるということがわかりましたが、逆に、「状態」や「測定」についての物理的要請を出発点とする一般確率論18というものも構築されています。これについてはもう少し詳しく解説した記事を後であげる予定ですが、一般確率論は量子論や古典論を含むようなより一般の理論であり、(いわゆる「不思議」と言われるような)量子論の性質の多くが実は非古典系に一般の性質であるとわかるなど、大変興味深いものとなっています。
また、圏論を用いたもの19やrigged Hilbert空間20という|x>を扱えるようにするものなどの数学的な定式化についての研究や、開放系などの非エルミート系21についての研究もあります。
ここに挙げたものはほんの一部ですが、量子論の基礎論的な部分にもまだまだ面白いテーマがあるのだということが伝われば幸いです。
班の紹介
特段書くことはないのですが、他の班同様に、量子班でもポスター発表と解説pdfの公開を予定しています。もちろん僕の興味はかなり偏っていると思うので、ここで紹介したような基礎論的な内容だけでなくさまざまなトピックでの発表が見られると思います。
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なぜか統括もやることになってしまいました... ↩
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今年は量子班・統計物理班・宇宙班・数理物理班・計算物理班の5班です。 ↩
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これは主に量子情報の分野で用いられる(教科書としては石坂智・小川朋宏・河内亮周・木村元・林正人「量子情報科学入門」(2012)など)。 ↩
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現在の素粒子標準模型は場の量子論によって記述されていて、物性物理への応用も広く知られている。教科書としては坂本眞人「場の量子論」(2014)や九後汰一郎「ゲージ場の量子論」(1989)など。ただし、場の量子論の数学的に完全に厳密な定式化は未だ完成していません(新井朝雄「フォック空間と量子場」(2000)やhttps://member.ipmu.jp/yuji.tachikawa/transp/37J_Feature.pdf を参考)。 ↩
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必ずしも筆者が正確に理解しているわけではない事柄も含まれるので間違っていることなどあればご指摘いただけるとありがたいです。 ↩
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教科書としてはたとえば 清水明「量子論の基礎」(2004)、J.J.サクライ「現代の量子力学」(1985)など。数学的に厳密なものとしてはたとえば 新井朝雄・江沢洋「量子力学の数学的構造」(1999)がある。 ↩
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この辺の議論については近藤慶一「量子力学講義」(2023)が非常に詳しい。 ↩
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この意味で、これらの研究は解釈や哲学の問題ではなく、自然科学として意味のあるものであると言えると思います。 ↩
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M. J. W. Hall Phys. Rev. A 84, 022102 (2011) など ↩
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C. Emary, N. Lambert, and F. Nori Rep. Prog. Phys. 77 016001 (2014) などを参考 ↩
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これはあくまで思考実験で、数学的に正確な不等式ではありません。 ↩
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Arthurs-Kelly-Goodmanの不等式、小澤の不等式、渡辺-沙川-上田の不等式など ↩
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J. Lee, arXiv:2204.11814 (2022) ↩
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沙川貴大・上田正仁「量子測定と量子制御」(2015)などを参考 ↩
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J. Lee and I. Tsutsui Springer Proc. Math. Stat., 261 195 (2018) ↩
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Y. Aharonov, D. Z. Albert, and L. Vaidman, Phys. Rev. Lett., 60, 1351 (1988) ↩
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M. Plavála "General probabilistic theories: An introduction" Phys. Rep. 1033 1 (2023)を参考。日本語で読めるものとしては過去のPhysics Lab.の記事 https://event.phys.s.u-tokyo.ac.jp/physlab2022/pdf/qph-article05.pdf があります。 ↩
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ヒューネン「圏論的量子力学」(2021) ↩
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R. de la Madrid Eur. J. Phys. 26 287 (2005) ↩
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羽田野直道・井村健一郎「非エルミート量子力学」(2023)などを参考 ↩