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富士通汎用機が終了するとき、僕は泣くだろうか。
多分、泣くのだろう。もう泣き方なんて忘れてしまっているとしても。

(※ 私の非常に個人的な思い出の話となりますので、すいません…しかも映画化狙ってるので妙に叙情的かもしれません…映画化のお声がけ、お待ちしております…)

■最後の90年代の沸騰

1998年入社の私は、右クリックを知らない若者、だった。

Windows 95、Windows 98 という騒ぎのニュースは聞いていたものの、
ギークでもないただの酒飲みバンド大学生だった私は、
自分自身がパソコンを使うことになるなんて想像することもなく手書きで履歴書を書いていた。

記録的な就職氷河期が一瞬だけ氷解した時期だった。
本当にこの前後数年間(1998年前後だけ)、
各企業は新卒を採用し賑やかな入社式が報道されていた。
ここから「失われた30年」と呼ばれる時代が到来し、
地獄のような就職氷河期が再来することはまだ誰も知らなかった。

Windows 95 が登場して以降のIT 業界は、「沸いて」いた。
こののち、インターネット、Linux、スマフォ、クラウド、と世界が劇的に沸騰していく、
そのまさに突端に1998年はあった。
IT バブル、と呼ばれ、さらにその後には単一企業が国家予算規模に膨らむ時代がくる、そんな突端。
この1998年、IT 業界はもう一つ、直近の「2000年問題」という、
…かっこよくY2K とか呼ばれることもあったけれども、
その2000年問題に対策するための人手を集める、という側面もあったように思う。

Y2K、2000年問題。
日付データの持ち方において、(容量をけちって)、
YEAR 部分を2桁で持っているPG が多いことに端を発したこの騒ぎ。
99年から00年になったら何が起こるのか、の調査と移行に大わらわだった。
…たった2バイトをケチらねばならなかった、そんな時代のお祭り騒ぎだった。

当時、大学四年生であった自分が出版社や音楽会社からの不採用を受け取る中で目を向けたIT 業界は、
他業種に比べて(そんな2000年問題も抱えている関係で)やけに募集が賑やかであった。
後年、「IT 土方」や「人売り」と揶揄されることもある、
人海戦術的なPJ が目立ち始めた頃であり、2000年問題対応もまたその一つであった。
まんまと内定を取ることができた私は、
「勤務地はどっちの方が楽しいかなー」
などという緊張感のない選択で会社を選ぶこととなった。
良い時代、最後の春だった。

■初めての右クリックからMainframe 開発へ

大人数の新人たちと共に研修センターで過ごす日々。
人生で初めてパソコンを使い、初めて右クリックというものの存在を知り
(別にマック愛好者というわけではない、初めてマウスを触っただけの話だ。
卒論はSHARP「書院」で書いた。マウスのない「ワープロ」という機械である)、
パソコンという便利なものに惹かれていった社会人1年目。

1回目か2回目かのボーナスで購入した富士通のノートPC は、
HDD 2.1GB というスペックであった。HDD ですからね? メモリじゃないですからね?
会社の方ではもう少しスペックの高いPC を使っていたものの、
それでも2022年の現代のPC スペックから見ると
「…あの1998年頃のPC が何個入るんだろう」
という圧倒的差である。
徐々にたまっていくPC 内のファイルを選別し、
HDD がパンクするたびに削除し、デフラグしていた頃が懐かしい。
デフラグを眺めているだけの無駄な時間が好きだった。

配属された開発部門で僕に託されたのが、
汎用機、Mainframe 上で動作するアプリケーション開発であった。
もちろんまだ右クリックが出来るようになった程度のスキルで何かができるわけなく、
アセンブラ言語の学習からことが始まった。

アセンブラ言語!

当時まだJava 言語は現れてないものの
(実際は1996年にJava はSun よりリリースされ、世を席巻する前段階の頃であった)
C 言語から派生してC++、WEB ページを作るhtml とセットでPerl などが好まれていた時代であって、
COBOL どころかアセンブラ言語を学習する、というのは、
1998年当時においても珍しく、そして、「古かった」。

若者たちの合コンや同期との会話で
「アセンブラやっててさー」などと言うと奇異の目で見られたものであった。
基本情報処理試験のテキストにしか出てこない単語である。
コンピュータの歴史の中で、機械語、アセンブラ言語、
「そして人間はようやくCOBOL という高級言語を手に入れた」…と映画の冒頭かのように、
一瞬登場するだけの言語が私の担当であった。

周辺のIT 新人たちから見たら「古い!」と笑われた。
しかし私が就職した会社では汎用機がその業務の中心に鎮座し、
毎日大量のラインプリンタ印刷用紙を吐き出していて、
COBOL が当たり前、アセンブラもござれ、という環境であったので、
特にC 言語に憧れることなくアセンブラのテキストで勉強した。
レジスタ、レジスタ…。

富士通 GS シリーズ。

富士通の大型汎用機のシリーズであり、
当時は国内での大型汎用機シェアNO.1 であったはずである。
Windows 端末にエミュレータをインストールして繋ぐと、
真っ黒の背景に緑色の文字、画面の区切りは赤い文字。
オフコン、富士通のこれらの機器関連を触ってきた人たちならば
「ああ」と即座に脳裏に浮かぶ配色でああろう。

IBM のZ Series であったらば黒字に青文字と白い線、
日立VOS であったら黒字に黄色の文字。
何か取り決めでもあったのだろうか…?
黒字という共通の背景を持ちながら、文字の色がメーカーごとに違ったものである。
もちろん配色は変更できるので、
こだわる人はファンシーな色合いにビビットな文字を打ち込んでいたのが懐かしい。

目に良い配色を同期同士で模索したこともあったが、
PC リプレースの度に変更することに飽きて、
デフォルト配色を使うようになるのが大抵、だった。

8バイト以内のユーザID でログインし、
ファイル名(正式にはDataset と呼ぶ)であっても、
ソースコードの変数であっても、
全て「8バイト」の制約を受けるOS。
それが汎用機、である。

新人配属時からこの8バイトの洗礼の中にどっぷり浸かることとなったので、
高級言語のソースにおける変数や関数名の長さにカルチャーショックを受けたものであった。

■体がMainframe を覚えている

駅から30分はかかる長い道のりを悪態付きながら事務所まで歩く。
タイムカードを押したら逃げるように喫煙室に飛び込む。
汗だくの体に冷風を浴びせながらタバコを一本くわえる。
そういう時代だった。大抵のフロアには、喫煙室があった。

気分を落ち着けたらメールをチェック(Lotus Notes!)、
IPメッセンジャーで同期たちに挨拶(後にセキュリティ上の理由で禁止される)、
そして、厳かにエミュレータを起動する。

汎用機へ接続するターミナル・アプリケーションを「エミュレータ」と呼んだ。
富士通機では「TSS」、IBM では「TSO」、
Time Sharing System 。
汎用機という大型コンピュータを、オペレータたちがちょっとずつ「シェアして」使うという意味を持つサービスにエミュレータで接続し、開発画面を開く。

本番環境と開発環境で厳格に切り分けられてはいるものの、
HW としては同じであった当時の環境では、
誤って本番の実行クラスでテストしたり本番のメッセージクラスに出力して
大目玉をくらうこともしばしばあった。
「誤って」か故意なのか…。
JCL にて開発環境で実行するようクラスを指定するのだが、
誰かが重い処理を実行していると動かなくてイライラすることもしばしばあり、
こっそり本番クラスを使って実行する。
今やったら始末書でも済まない、謝罪会見である。皆さん真似しないように。

DASD(汎用機におけるHDD の呼び名)も今思えばこじんまりとしたもので、
わずかに許されたライブラリでPG コーディングしていると
ちょくちょくパンクしてしまい保存できなくなる。

「え!? 1時間分の仕事が保存できない、だと!?」
と冷や汗をかく度に小まめに保存するようにはなるのだが、
小まめに保存するとライブラリがパンクするリスクも高くなるので良いことばかりではない。
パンクした場合は震える手で(操作ミスしたら全部無かったことになってしまう)、
裏画面を開き、
不要なメンバを削除したり、あるいは別のファイルに一旦退避する操作をするのである。
「裏画面」なんて、今の開発者に説明してもいつまでも何のことか分かってもらえないことだろう。

WORK ボリュームに退避したのを忘れてコーディングを続け、
翌朝まっさらに消えてしまった思い出もある。
ストレージが潤沢ではなく高額なMainframe の世界では、
テンポラリのディスクが用意されているのが常であり、
気軽に使える代わりに夜間バッチで完全削除される「WORK属性」と呼ばれる保存領域があったのだ。

UNIX ターミナルやWindows 環境で開発している技術者にはわからない、
ファンクションキーの配置。
F7、F8 で画面の上下、F3 で前画面、F2 で画面分割。
ファイルの作成、削除画面を行き来してライブラリを圧縮し、
WORK ボリュームにテストデータを放り込んでPT を行い、
デバッグ分を仕込んでコンパイル(アセンブル)を繰り返す。

怒られる前にスプールにたまったジョブログをまとめて削除し、
また延々とデバッグを繰り返す。
新人の頃の日々は…いや、それから数年間の開発者としての日々は、
そうしてファンクションキーとともに過ぎていき、
(多分当時、ENTER キーよりF8 かF3 キーのほうが多く触れていたことだろう)、
行き詰まったときにタバコを吸いながら、小窓から夕日を眺めたのだった。
…夕日ならまだ良い方で、
徹夜の作業、までは自分はあまりすることがなかったが、
それでもカプセルホテルに泊まって翌日同じスーツで出勤することもしばしばであった。

そう、昭和(もう平成だったけれど)。
これこそが、「開発」であった。

色々あって汎用機開発の現場を離れ、
役割もプログラマーからリーダ、PM と変わっても、
このファンクションキーとタバコの味を忘れることはなかった。
事実、10年ぶりに汎用機を操作する機会があったときには、
まるで昨日までの続きのように、ファンクションキーを身体が覚えていて
かえって驚いたことがあった。
…そして10年間、私のライブラリが保管されていたのには驚いた。誰も消さなかったんだ。
当時と比べ、ストレージは非常に安価になった。
1部門でわずか2GB のDASD を使い、
容量を奪い合う開発者はもう居ないようである。
時代は変わった。
タバコも、吸わなくなった。
ただ夕日だけはあの頃と同じ色をしてやがる。ふ…目頭が熱いぜ…。

■僕は泣くのだろうか

2022年初頭。
富士通がMainframe の製造、販売から完全撤退する旨が報じられた。
「66年の歴史に幕」
これまで、富士通汎用機のGS シリーズは定期的に新型をリリースし、
汎用機運用現場をリプレースで賑わせていた。
しかしOS は、変わらなかった。

「変わらなさすぎたんだよ」と僕の師匠筋の技術者が言った。

IBM のMainframe OS は、MVS、OS390、IBMz、Z Series、
やたらと名称を変えながら、この嵐のように目まぐるしいIT 業界において、覇気を放ち続けていた。
「オープン系とは違うのだよ!」
と語調も荒く、Mainframe 固有の尖った機能をリリースし続けてきた。
様々な新機能、運用が便利になる機能を実装し続けていくIBM のZOS に対して、
富士通のMSP、XSP は、
少なくとも僕の25年の会社生活の中で、
全然あの頃の「まま」のOS としてあり続け、
だからこそ、10年ぶりに触っても違和感なく操作することができた。

「変わらないのが、良いんですけどねぇ」と年寄りっぽい言葉で反論すると、
「変わらなきゃ置いてかれるんだよ」と先の先輩はばっさり言った。

いわゆる「IBM 事件」…と私が勝手に呼んでいる、
IBM からの知的財産侵害の訴えから始まった、IT 業界最初といえる巨大訴訟事件。
長年の係争が和解したのが1987年。
訴えから5年の歳月を経て、Mainframe の互換OS の利用の決着がついた。
僕ごときが中途半端な情報を書き置いてもあまりよろしくないだろう、
IT 業界に従事する諸氏におかれましては、各自ぜひググっておいていただきたい。
キーワードは「IBM 知的財産 訴訟 富士通」。

その訴訟の渦中にあった日立VOS シリーズは、
富士通に先んじて2017年、HW 製造の完全撤退を宣言した。
(三菱製汎用機もIBM「類似OS」であったそうだが、こちらはもっと前に撤退しているようだ)。

先んじての日立の撤退であるが、
日立は、IBM 汎用機のOS 流用の1つである「日立VOS」の開発は続行する、としている。
なんでもIBM のHW で動作するそうだ。
…それって、「VOS」からみたら、生まれ故郷に帰るようなものなのだろうか…?

一方、同じくIBM 事件の主役でもあった富士通MSP は、
HW であるGS Series の終了と共に寿命を迎えるそうである。
富士通は完全終了を2030年、延長保守の完全終了を2035年としており、
富士通OS がその後どこかのHW で動作する、という未来は示していない。
「完全撤退」、である。

現在のわが社の開発現場でも、IBM 汎用機が開発の主軸であり、
富士通機は「互換テスト」用の機器におさまってしまっている。
データセンターへ行くと、雄々しいほどの存在感を示す「Z」の脇の方に、
少しこじんまりとしたGS の筐体が置かれている。
GS シリーズに育ててもらった身からすると寂しい限りであるが、その予兆はずいぶん前からあった。
98年入社の当時から、ほとんど変わらない操作感と機能であるOS4/MSP を、また久しぶりに触ってみたが、やはり体は操作を覚えていた。

Windows がNT、95、98、2000、ME、XP、VISTA、7、8、10、と移ろいできた歴史を思うと、
この期間「変わらなかった」の富士通OS は、むしろ驚異の存在と言えるかもしれない。
それは如何にも日本的とも言える。
変化をよりも変わらないことを尊び、
ずっと同じ、ずっと愚直、
日本の伝統工芸のような趣は…しかしIT 業界においてはとても生き残れるものではなかったのだった。

疲れ切った体を引きずって、いつもの暖簾をくぐってみると、
無口な親父が今日も無口に、ビールと枝豆を出してくれる。
そういう時代は確かにあった。
それがいつか失われるものであろうことも予感していた。
大人になって、泣けなくなったかもしれない。
ジョッキに結露したしずくがカウンターを濡らして、
それがもしかしたら僕の涙なのかもしれない。

さよなら、富士通汎用機、GS シリーズ。
2030年、あるいは2035年、僕はまた、ジョッキを泣かせているかもしれない。


(ここから吉田拓郎を流しつつ、スタッフロールへ。暗転後、ノイマン型コンピュータから始まるコンピュータの歴史の写真を流しながらエンディング。泣かせる感じで。できるだけ、泣かせる感じで。歌は武田鉄矢でもいいです)

(おわり)

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