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ドメイン駆動で才能についての誤解をぶった斬る!

Last updated at Posted at 2020-01-31

なぜこのテーマをQuitaに投稿するのか?
ぶっちゃけ他に良い投稿場所がなかったからですが、
一応テック記事として体裁は整えてあります。
まあ、最後まで読んでみてください。

「努力 OR 才能」 が永遠の関心事?

なぜか最近、「才能と努力」を対比している表現にやたらと出くわします。
その際たる例が電車内で見かけた「努力か?才能か?いや 体調だ。」という健康飲料の広告です。コミックやラノベの類でこの手の表現を見かけても気にしないことにしているのですが有名企業の広告となると流石に看過しがたい影響度です。
見間違いであることを祈りつつ、該当のwebを見に行くと

…メンテ ドリンク新CMは、毎日仕事をがんばるビジネスパーソンたちの“永遠の関心事”である「成功のために必要なものは、努力か?才能か?」がテーマ。

だそうです。
そんな低レベルなことが「永遠の関心事」?
」って字が入ってるよね?
漢字読めんだよね?
なんで「素質」という意味だけで「才能」という言葉を使うの?
軽蔑しか感じ無いんだけど。

今時のビジネスパーソンの質はそんなに低下しているのでしょうか?
少なくとIT業界のビジネスパーソンは大丈夫だと信じたい。

自分は「努力した天才は鬼に金棒、なのに凡人が努力しなかったら負け確定」と言われて育った上に、努力無し成功している人など見たことがないので「才能と努力」の関係は「OR」ではなく常に「AND」でした。

とは言え最近やたらと「才能 or 努力」を見かけるし
もしかして自分の感覚がズレている?
う〜む....

ここは冷静にDDA(Domain Driven Analysis)でもしてみますか。
まずは「才能」という言葉を辞書で引いてみましょう。

辞書で「才能」を引くと?

結果は...努力と才能が別物であるような解説は1つもありませんでした。
何で「努力 or 才能」というのが広まってるんですかね?
というか、なんでに才能に素質という意味しかないことになったの?
まあ、昔から努力しない言い訳に「才能がないから」と言う人は大勢いましたし、こういうことを言い出す人は、辞書を引くはずもない人がほとんどなんでしょうけど。

ちなみに、残念ながら、自分の感覚と一致した解釈もありませんでした。
(そういう意味じゃドローですね)
私が辞書を書くなら次のように書きます。

元の意味は「突出した能力」あるいは「能力の芽」
重要な何かに自分で気付く力、及び、その気付きを結果に結びつける力 

この解釈については追々詳しく説明していきます。

以下は個々の検索結果です。

辞書名 解釈 所感
大辞林 第三版 物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。 素質を含めるのをやめてほしいけど普通
goo国語辞書 デジタル大辞泉 物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。「音楽の才能に恵まれる」「才能を伸ばす」「豊かな才能がある」「才能教育」 出てきましたよ。「努力」とは相入れないような解釈が。でもまあ、例文を見ると…なんていうか…「玉虫色」?まさか努力無しに伸ばせるとか言い出さないよね?
広辞苑 ある個人の一定の素質、または訓練によって得られた能力。 「訓練」あるので努力を含みそうです。まあまあ普通
Google ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力。 辞書ではありませんがWeb検索では最初に来ます。結局これが一番普通ですね。

よく見かける才能関連の表現

さて、ここからは他ではどんな表現が用いられているのか見ていきましょう。
所謂「応用領域調査」ですね。
具体的には文学作品やコミックなどで「よく見かける才能関連の表現」をピックアップします。
とはいえ「努力と才能」を対比している作品は沢山ありますが、その手の部分だけ無視することを決めている自分の記憶にはほとんど残っていないので、ここでは他の対比表現を挙げます。
つまりは私の感覚を形作ってきた表現たちです。

天才 秀才 凡才

昭和の末期にはよく見かけました。
典型的なのが
「主人公が平凡で、育ちが良い秀才タイプからバカにされ、天才からは最初は眼中外だったのが何かのきっかけで一目置かれるようになる」というパターンです。
あるいは
「自分が天才だと気づかない主人公が凡才からは嫉妬され、秀才からは目の敵にされつつ成長していく」パターンも多かったですね。
今でもスポーツ等の熱血物ではよく見かけますが「天才 秀才 凡才」という言葉はほとんど使われなくなりました。

努力も才能のうち

コミックの「ケンイチ」とか「三月のライオン」に出てくる解釈ですね。努力を「才能の個性」の一つとして見ていることに共感を覚えます。というか「才能と努力」を対比する勢力に真っ向から挑んでいる姿勢がカッコいいです。

植物比喩

偉人の伝記、とりわけ大器晩成型が多い芸術家の伝記でよく使われる表現です。
最初は何かのきっかけで芽吹いた「芽」だったものが、努力の結果大きく成長し、やがて「花」開いて「実」を結ぶ。なるほど大成までに時間がかかる晩成型にふさわしい表現です。

ちなみに才を「かく」と読めば「角」と同語源となり、出っ張りから変じて「芽」や「才気」といった意味になったとか。現代では才に芽という意味は残っていませんが、才能を植物に喩えた人達は知っていたのかもしれませんね。

ただ、このことは2つの大きく違う解釈を生み出す遠因とも成り得ます。
すなわち「芽」だけを「才」として捉えるか、「実」まで含めて能力全体を「才」として捉えるかです。
花や実は「芽」ではありませんから。
お?「生まれ持った素質」の方が「才能」の原始の解釈である可能性も出てきましたよ?

皆さんは「でっぱり」と「芽」どっちのイメージから「才気」の意味は生じたと思いますか?

言い換えると「能力の芽」と「突出した能力」のどちらが「才能」の最初の意味だと思いますか?
自分は植物比喩表現が好きなんですが…残念ながら今となっては「でっぱり」派です。
IT業界でバズワードの氾濫に煩わされて来たせいでしょうか?
文学的な表現より「突出した能力」ぐらいシンプルな表現の方が伝わりやすく感じるんですよね。
そもそも「芽」と言う意味が「才」から消えてますし。

覚醒

近年は色んなところでこの表現を見かけました。(逆に言えば私の感覚にはあまり影響していない)
「眠っていた能力に目覚める」から「覚醒」というのですが、そのまま素直にかっこいいと思って使っているケースと、厨二病的な言葉として使っているケースがあります。眠っている能力は先天的でも後天的でも構わないし、実際どちらも見かけるのですが、先天性をネタにすることが多いようです。(もち、天然、厨二扱いを問わず)
最近は「努力か?才能か?」に押されて目にする機会が減ったかも?
というか「覚醒」がネタにされるようになったのが「努力VS才能」が増えた遠因?

他にも探せばあるかもしれませんが、私が知っているのはこれぐらいです。
こうしてみるとやっぱり「才能とは努力ではどうにもならない」と言っている表現なんて1つもありませんね。
もし、私の感覚が古いのであれば、これらの表現も化石化してることになるのですが….

才能に関する事実

さて、言葉遊びはこれぐらいにして、ここからは事実を見ていきましょう。
「現実領域調査」とでも言えば良いのかな?いわば「ドメイン駆動」の本丸ですね。
ここから挙げる「才能についての3つの事実」は言葉にすると奇異に聞こえるかもしれませんが、多くの人が実際に目にしているはずです。

才能は素人目にもわかる

素人批評家とバカにするなかれ。
少なくとも「結果の違い」がわかるのであれば「突出した能力」を見分けるのは容易です。
そして誰もが(諦めが異常に早い人や成長を待ってもらえないほど愚鈍な人を除けば)「結果の違い」がわかるレベルにまで到達します。
対して「素質」は素人には見分けられません。だって素質は表には出ていませんから。おそらく「才能は素人には見抜けない」と言っている人は「素質」の意味で才能という言葉を捉えているのでしょうが、そういう人でも他人のことを「才能がある奴」と感じたことがあるでしょう。
つまりは言葉をどう扱おうが「突出した能力」であれば感じとることができるってことです。そもそも万人が感じることがなければここまで言葉が広がらないでしょうし。

才能には個性がある

これは新しいことに挑戦している人々について調べれば良くわかります。
誰の目にも「才能がある」と映るのは真っ先に成功する人です。そして早い人ほど才能が高く見え、遅い人ほど才能が低く見えます。ただし、ここで注目して欲しいのはそのことではありませんので一旦、傍に置いてください。
見て欲しいのは成功に至るまでのプロセスの違いです。
やっている様子をよく観察したり、成功した理由を聞いてみるとその過程が千差万別であることが明らかになります。

事前準備を怠らない人、経験者の話をよく聞く人、成功者をよく観察する人、膨大な試行錯誤を続ける人、集中力が切れて遊んでいるようにしか見えなかったのに成功する人、話しかけても反応しない人、個人では成功しなくてもグループになると輝く人、自分ができると信じて疑わない人、と言った具合に成功に至る行動は実に様々です。

これらは「才能の個性」と呼んでいいのではないでしょうか?
そしてこの個性は得意分野や素質、そして指向の違いでもあります。
プロセス自体にも効率の良し悪しがあるので一概には言えませんが、自分の得意分野を理解している人ほど結果を出すのが早いものです。

才能はパッと見、経験と区別がつかない

おそらくこれが一番理解しづらいでしょうが、問題解決に真摯に取り組むことを10年ぐらい続けていれば似たような経験をしたことがあると思います。

かたや自分のことを振り返ると「めんどくさがり屋」でお世辞にも真摯とは言えませんが「新し物好き」で「怖いもの知らず」でもあったのでチャレンジャーな性格ではあったと思います。なので情報収集はしてましたし試行錯誤の中から学ぶことも多く有りました。そうして得た知見を活かして仕事を成功させると「才能がある」と見られたものです。実際はコツとかをタマタマ知っていただけでポテンシャルが高いわけでも何でもないことは自分でわかっていましたから正直納得できませんでした。

月日は移り、研鑽を積むことで地力がついてきて、初見でもコツや勘所がわかるようになって試行錯誤が減ってくるようになると、本人からすると純粋な論理思考で導き出した答えに対して「さすが経験が違う」と言われるようになったのです。どっちも逆なんですけどね。

おそらく、こういうことを言う人々は相手が若ければ「才能」シニアなら「経験」とステレオタイプな見方をしているだけだと思います。そりゃそうですよね、「結果の違い」が分かっているだけではそうした見方ぐらいしかできないでしょう。そもそも途中の過程について質問してくるような人は「才能」についても「経験」についても言及してきませんから。

ここまでの事実から見えてくること

まずはざっと列挙してみましょう。

  • 物事の「覚え始め」に才能は「可視化」されるらしい。
  • 本当に覚え始めかどうかは当人にしかわからない。
  • なので傍目からは「初見」の印象が才能として認識される。
  • 年長者は経験者に見えるので才能を見る対象から外される。
  • 覚えが早い人ほど才能が高く見える。
  • 可視化されている才能を観察すると多くのバリエーションが見て取れる。
  • 「努力型」と目されるのはあくまで「可視化」された範囲で努力した人。
  • 「隠れた努力」は視認されないので「覚えの早さ」すなわち「才能の高さ」として認識される。

「覚え始め」と言う事で
どうやら現実から見ても才能には「能力の芽」と「突出した能力」の両方の意味がありそうです。
一方で「努力や経験」は隠れていると「才能」に見えるようです。
そして可視化過程の違いで厳密には「能力の芽≠素質」であり「能力の芽≠生まれつき」であることがわかります。
どうやら辞書も書き換えた方が良さそうです。
「能力の芽」は「素質」と呼べるほどハッキリ見える訳ではありません。最悪「ビギナーズラック」でさえ「能力の芽」に見える可能性があります。せいぜい「素質の鱗片」と言ったところでしょうね。

それでも 才能 OR 努力 ?

さて、改めて皆さんにお聞きします。
ここまで読んでも才能は「生まれつきの素質」で、「努力」と相入れない存在だと思いますか?

もしそう思うなら才能どころかIT業界で求められる最低限の理解力もないですね。
あるいは「偏見」や「言い訳」という人の本能に屈しているか。
いずれにしても、そういう低レベルの人の選択肢は「努力か、才能か」ではなく「努力か、諦めるか」です。
これまで見てきたように才能は「能力の芽」と「突出した能力」のいずれの意味であっても努力と無縁ではありません。
それが理解できるそこそこのレベルの人の選択肢は「努力の量か、努力の質か」です。
ビジネスパーソンにはこのレベルの人が多いので、この2択であれば確かに「永遠の関心事」になり得るでしょう。
ちなみに本当に突出している人々はどちらもやっているので、そもそも選択肢が成り立ちません

で、こうして列記してみると才能に関係してるのは対象のレベルだけですね。
でもってそのレベルを変える鍵は努力の一択です。ww

まあそれはそれとして、
この列記からは「言葉のプロ」であるはずのコピーライターが「なぜ才能と努力を対比する表現を商品広告に使ったのか」について一つの仮説が立てられます。それは「できない人と程々な人の両方に通じるから」です。

「才能を得るためには努力が欠かせない」と本当はわかっていても「努力」が好きな人は滅多に居ません。だから「努力か才能か」という構図は程々の人が努力から逃げる免罪符となります。一方、できない人にとっては「諦める理由」にも「努力する理由」にもなり得る。なるほどマスメディア指向の人々が好む「バズるパワーワード」ってヤツなんでしょうね。

だけどもし、この仮説の通りだとすると「言葉の意味が事象の本質から切り離されて歪んでいる」のを利用している時点でやってることはクズ確定です。まあ、某広告の主役は「体調」であって「努力と才能」は「咬ませ犬」あるいは「漁夫の利」にすぎませんが、だとしても、人を育てる立場にある人々から見れば人材の成長を妨げる害悪でしかないです。ラノベやコミックにちょこっと出てくるぐらいなら一服の清涼剤となり得るでしょうが、脇役とはいえ主要要素として使われたら脱法ドラッグ並みにヤバい濃度になることぐらい製薬会社だったらわかるでしょ?

まとめ

さて、私の危機感が少しは伝わったでしょうか?

少なくともITエンジニア的には「努力か?才能か?」なんて気にしているようでは絶望的に才能がありません。誤った言葉の使い方に振り回されている時点でポンコツ確定です。そのままでは業務に支障をきたすので、お願いですから普通に仕事を覚えてください

でもって次回は「DDDによる才能の育て方」をテーマに書くのでそちらも併せてよろしく。
本当はこの記事の後半に書く予定でしたが長くなりすぎたので2つに分けました。

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