はじめに
※デリバティブ取引に出てくる用語は既知のものとしています.
Black–Scholes方程式の解(ヨーロピアン・オプションの適正価格)と実際のプレミアム(市場価格)から定められるインプライド・ボラティリティは常に存在するとは言えないのではなかろうかという疑問を筆者が抱き,問題を設定して解決したというのが本稿の内容です.金融工学界隈では当たり前過ぎる内容なのか,調べてみても記述が見つからず...
たとえ数学が苦手であってもデリバティブ取引に関するシミュレーションツールを開発する際に(大概の場合)避けては通れないのがBlack-Scholes-Mertonモデルです.その思想は把握することができても,数学的に厳密な理論展開を一から理解することはなかなかに困難だと思われます.したがいまして,いきなりBlack–Scholes方程式の解から話を始めることとします.本稿の主題を扱うにはそれで充分です.
ちなみに,筆者は金融工学が好きではありません."工学"をうたっているにもかかわらず,現実から目を逸らしているようにしか見えないからです.
Black–Scholes方程式の解
詳細は適当な文献を当たってください.ここでは,用いる記号の整理に必要な程度しか書きません.
権利行使価格が$K$で満期を$T$とするヨーロピアンタイプのコール・オプションの適正価格は,時刻$t$における原資産価格を$S_t$と書けば,Black–Scholes方程式の解として以下で与えられます:
C(S_t, t ; \sigma) = S_t e^{-q(T-t)} N(d_1)-Ke^{-r(T-t)}N(d_2)
満期$t=T$においては
C(S_t, t ; \sigma)
= (S_T-K)^+ \equiv
\begin{cases}
S_T-K &(S_T > K) \\
0 &(S_T \leq K)
\end{cases}
が満たされるものとしています(境界条件の一つ).ここで,
\displaylines{
d_1 = \frac{\ln(S_t/K)+(r-q+\sigma^2/2)(T-t)}{\sigma \sqrt{(T-t)}} \\
d_2 = d_1 - \sigma \sqrt{T-t} \\
N(z) = \frac{1}{\sqrt{2\pi}}\int_{-\infty}^{z}e^{-x^2/2}dx
}
とおきました.$r$は無リスク利子率で$q$は単位時間当たりの原資産の配当利回りです.そして$\sigma$は原資産のボラティリティです.これが本稿の主役です.なお,プット・オプションの適正価格は
P(S_t, t; \sigma) = -S_t e^{-q(T-t)} N(-d_1)+Ke^{-r(T-t)}N(-d_2)
で与えられます.
以下ではコール・オプションだけについて考えることとします(プット・オプションについても同様の議論が成り立ちます).
インプライド・ボラティリティとは
原資産のボラティリティの値は外部から所与のものとして与えているわけですが,現実問題としてその値を知ることはできません1.そこで,次のように考えを逆転させます.
オプションは適正価格が実現されるように取引されている
すなわち,プレミアムを$C^{\mathrm{market}}$として数式で書けば以下のようになります:
C(S_t, t; \sigma) = C^{\mathrm{market}}
この等式を$\sigma$に関する方程式とみなすことにより定まるボラティリティは「インプライド・ボラティリティ」と呼ばれます2.
インプライド・ボラティリティが存在しない可能性
まずは示唆から
$d_1 > d_2$ですから,$N$の狭義単調増加性から$N(d_1) > N(d_2)$が成り立ちます.したがって,適正価格は
N(d_2)(S_t e^{-q(T-t)}-Ke^{-r(T-t)}) < C(S_t, t; \sigma) < N(d_1)(S_t e^{-q(T-t)}-Ke^{-r(T-t)})
という不等式を満たします.左辺と右辺をジッと見ると,以下のような量を定義する衝動に駆られます:
C^{\mathrm{critical}} \equiv S_t e^{-q(T-t)}-Ke^{-r(T-t)}
本稿では$C^{\mathrm{critical}}$を仮に「臨界価格」とでも呼ぶことにします.$S_t > Ke^{(q-r)(T-t)}$のときには$C^{\mathrm{critical}} > 0$であることに注意してください.正の値になることがあるのですから,臨界"価格"と呼ぶことにしても差し支えないでしょう.
命題の提示と証明
(命題)$t < T$とし,任意の$\varepsilon > 0$に対して$C=C^{\mathrm{critical}}-\varepsilon$とおく.このとき以下の不等式が成り立つ:
C(S_t, t; \sigma) > C
(証明)$f(\sigma) = C(S_t, t; \sigma)-C$とおく.このとき,$f(\sigma) > 0$を示せばよい.まず
\begin{align}
\frac{df}{d\sigma}(\sigma)
&=\frac{\partial C}{\partial\sigma}(S_t, t; \sigma) = (ギリシャ指標のベガ) \\
&=\sqrt{\frac{T-t}{2\pi}}S_t e^{-q(T-t)-{d_1}^2/2} \\
&> 0
\end{align}
を満たすから,$f$は狭義単調増加である.そこで,$\lim_{\sigma \to + 0} f(\sigma)$が負でないことを確認してゆく.以下では三つに場合分けして考える.
1.$S_t > Ke^{(q-r)(T-t)}$のとき($C^{\mathrm{critical}} > 0$)
$\lim_{\sigma \to +0} d_1 = \lim_{\sigma \to +0} d_2 = \infty$であるから$\lim_{\sigma \to +0} N(d_1) = \lim_{\sigma \to +0} N(d_2) = 1$が成り立つ.したがって
\begin{align}
\lim_{\sigma \to + 0} f(\sigma)
&= S_t e^{-q(T-t)}-Ke^{-r(T-t)} - S_t e^{-q(T-t)}+Ke^{-r(T-t)} + \varepsilon \\
&= \varepsilon \\
\end{align}
となる.
2.$S_t = Ke^{(q-r)(T-t)}$のとき($C^{\mathrm{critical}} = 0$)
$\lim_{\sigma \to +0} d_1 = \lim_{\sigma \to +0} d_2 = 0$であるから$\lim_{\sigma \to +0} N(d_1) = \lim_{\sigma \to +0} N(d_2) = 1/2$が成り立つ.したがって
\begin{align}
\lim_{\sigma \to + 0} f(\sigma)
&= \frac{S_t e^{-q(T-t)}-Ke^{-r(T-t)}}{2} - S_t e^{-q(T-t)}+Ke^{-r(T-t)} + \varepsilon \\
&= \varepsilon \\
\end{align}
となる.
3.$S_t < Ke^{(q-r)(T-t)}$のとき($C^{\mathrm{critical}} < 0$)
$\lim_{\sigma \to +0} d_1 = \lim_{\sigma \to +0} d_2 = -\infty$であるから$\lim_{\sigma \to +0} N(d_1) = \lim_{\sigma \to +0} N(d_2) = 0$,したがって
\begin{align}
\lim_{\sigma \to + 0} f(\sigma)
&= (0-0) - S_t e^{-q(T-t)}+Ke^{-r(T-t)} + \varepsilon \\
&> \varepsilon
\end{align}
となる.
以上1~3から,$\lim_{\sigma \to + 0} f(\sigma) > 0$であることがわかる.
まとめると,$f$は狭義単調増加関数でその最小値は正である.したがって,$f(\sigma) > 0$が成り立つ.(証明終了)
命題の意味
ここで示した命題は,$C$の値によっては$C(S_t, t; \sigma) = C$となるような$\sigma > 0$が存在しないことを意味しています.すなわち,このときインプライド・ボラティリティは存在しないことになります.ただし,$C$が正でなければもちろんプレミアムとはみなせません.$S_t > Ke^{(q-r)(T-t)}$のとき臨界価格$C^{\mathrm{critical}}$は正なのですから,$\varepsilon$を十分に小さく取れば$C > 0$とすることができます.すなわち,現実のオプション取引において$C$がプレミアムとして実現する可能性はあるでしょう.
裁定機会の存在
それでは,インプライド・ボラティリティが存在しない場合にはいったい何が起きているのでしょうか?答えは「裁定機会が発生している」です.
時刻$t < T$において$S_t > Ke^{(q-r)(T-t)}$が成り立っていて,かつプレミアムが$C^{\mathrm{market}} = C^{\mathrm{critical}} - \varepsilon > 0$を満たしている状況を考えましょう.このとき,コール・オプションを単位数量だけ買いつつ原資産を同一の数量だけ売り,残った額$S_t - C^{\mathrm{market}}$を無リスク資産に投じて満期まで保有することとします.満期におけるこのポートフォリオの損益は次式で与えられます:
((S_T-K)^+ - C^{\mathrm{market}}) + (S_t-S_T) + (S_t-C^{\mathrm{market}})(e^{r(T-t)}-1)
本稿の主題でないので証明は省略しますが,これは正の値となります.すなわち,確実に利益が発生するポートフォリオを組むことができるわけです.
結論
任意のプレミアム$C^{\mathrm{market}}$に対して$C(S_t ,t; \sigma) = C^{\mathrm{market}}$となるような$\sigma > 0$が存在するわけではないことを証明しました.それは$C^{\mathrm{market}} < C^{\mathrm{critical}}$である場合に発生します.インプライド・ボラティリティが存在しないようなプレミアムはあり得ることになります.
付言1:証券系のシステムエンジニアへ
どうプログラムを実装してもインプライド・ボラティリティが算出されないケースがあるのはなぜだ?という疑問への回答です.数学的に存在しないのですから,ご安心ください.実装方法が理由ではないケースが確かに存在し得るのです.もちろん,数値計算プログラムの問題で算出不能になるのならばそれは直しましょう.
付言2:デリバティブ取引を行う投資家へ
インプライド・ボラティリティの値が定まれば適正価格もそれを用いて計算され,さらにはギリシャ指標も算出されます.逆に言えば,インプライド・ボラティリティが存在しないようなプレミアムが市場で実現されている場合には適正価格もギリシャ指標も存在しないのです.証券会社が提供するシミュレーションツールでギリシャ指標が出ないとき,それは必ずしもツールが悪いとは限らず,現実の取引がBlack–Scholesモデルで記述されないことの現れかもしれません.
本稿は以下のアドベントカレンダーに登録してあります:
数学、物理、科学哲学、宇宙 Advent Calendar 2023
https://adventar.org/calendars/8717
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ヒストリカル・ボラティリティを用いることも一応は考えられますが,そうした場合に計算される適正価格は市場価格と一般に一致しません.したがって,例えばギリシャ指標のデルタも現実を捉えた値とならず,デルタ・ヘッジが正しく行えません.また,インプライド・ボラティリティの値は権利行使価格によって異なることが経験的に知られています(ボラティリティ・スマイル).オプション取引が適正に行われている(市場価格は適正価格と一致している)と仮定する限りにおいては,実用性の観点からインプライド・ボラティリティを用いるべきなのです. ↩
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インプライド・ボラティリティはもし存在するならば一意に定まります.これは適正価格がボラティリティに関して狭義単調増加であることから直ちにわかります. ↩