注
物理学アドベントカレンダー用の記事です.公開当日(2021年12月7日)以降は原則として更新しません.
筆者について
ボーム力学を大っぴらに信仰していますが,標準的な量子力学のコペンハーゲン解釈が最もと正統的だと考えています.したがって,量子力学を知らない人にボーム力学への入信を勧めるつもりはありません.
想定される読者
・量子力学の基本を知っている方.Bellの定理(やBell-Kochen-Speckerの定理など)を知っていたり,相対論的量子力学に触れたことがあったりするとなおよい.
量子論の解釈と隠れた変数理論
ボーム力学(Bohmian mechanics)とは,粒子の位置を「隠れた変数」とするようないわゆる「隠れた変数理論」(hidden variable theory)の一つです.それはまたde Broglie-Bohmのパイロット波理論(pilot-wave theory)ともよばれます.ボーム力学は測定結果に関して量子力学と同一の予言を行うという意味で正しいにもかかわらず,一般にはその存在自体が広くは知られていません.ボーム力学の歴史,さらには隠れた変数理論全般に関する歴史がその理論を葬り去る方向に語り継がれた結果なのです.
量子論の解釈
量子論は長らくの間成功を収めてきましたが,その解釈については未だに論争があります.例として,コペンハーゲン解釈や多世界解釈,隠れた変数理論などが知られています.量子論の創成期からしばらくの間はコペンハーゲン解釈が最も優勢でした.しかし,今日では大多数の研究者が同意するような確立された解釈は存在しません1.
量子論に解釈が必要である理由の一つは,観測問題を解決することにあります.観測問題とは,状態の収縮の仕組みに関する問題です.量子論は,微視的な系の状態に対して状態を割り当てます.測定が行われるまでは状態はSchrödinger方程式に従って決定論的に時間発展しますが,ひとたび測定にかかった直後にはある特定の状態に確率的に収縮します.すなわち,状態の重ね合わせが測定によって壊れます.微視的な系における状態の重ね合わせが巨視的な系に対しても重ね合わせを引き起こすことを指摘するのが,Schrödingerの猫のパラドックスです.
各々の解釈は,観測問題を異なった方法で解決します.コペンハーゲン解釈は,測定装置と無関係に系の状態について語ることは不可能であるとします.そして,我々が取り扱えるのは古典的な存在である測定装置の出力の如何についてだけであるとします.状態とは測定装置の出力値の確率分布を与える存在にすぎないから,状態の収縮が起こるのは問題ではないということになります.また,多世界解釈は状態の変化はSchrödinger方程式に基づくユニタリ発展のみであるとします.我々は状態の重ね合わせのうちのある特定の分岐だけを知覚すると考えることにより,状態の収縮を否定します.
観測問題の解決方法として,微視的な系の完全な記述は状態だけでなく,さらなる未知の変数によってなされるということも考えられます.すなわち,「隠れた変数」が存在すると考えるのです.このような理論は隠れた変数理論(hidden variable theory)とよばれます.歴史的な事情から,隠れた変数理論は量子力学と整合しえないと考えられている節があります.しかし,そのような理解は誤りであり,実際にはno-go定理による制限を回避することが可能なのです.特に,Bellの定理23およびBell-Kochen-Speckerの定理45は重要です.前者によって隠れた変数理論は局所性(locality)を放棄しなければならず,また後者によって状況依存性(contextuality)を許容しなければなりません.局所性とは,相対論的な意味で空間的(space-like)に隔たっていない点における事象同士だけが相関をもちうるという性質のことです.非局所性は因果律に抵触するようにみえるため,EinsteinおよびPodolsky, Rosenによって量子力学の不完全性を意味するとみなされました6.彼らによって提起された問題はEinstein-Podolsky-Rosenのパラドックス(EPRパラドックス)とよばれています.また,状況依存性とは,物理量の測定値は何をどのように測定するかという状況(context)に依存してのみ割り当てることが可能であるという性質のことです.
隠れた変数理論の動機
量子力学は実験結果をよく説明するという点において成功しているけれども,微視的なスケールで起こる現象について明確な描像を思い描くことがまったくできません.また,測定によって物理量の値が得られるということは,測定とは無関係にその物理量が何らかの値を事前にもっているからなのではないでしょうか?測定によって値が生成されるなどとは(少なくとも私には)考えにくい.もしもそれが事実であるとするならば,測定を行う者が存在しない場合には物理量の値は存在しないことになりますし,そもそも測定とは何なのかが曖昧です.測定は人間の行動でなければならないのでしょうか?結局のところ,量子力学は実験の結果以外については何も論じることができないのです.
隠れた変数理論を支持する人々の主な動機の一つは,状態ベクトルが系の完全な記述を与えるということに関して以下のような疑問があるからです.
与えられた状態ベクトル$\psi$で個々の状態が記述される集団の各々に対して観測可能量$\hat{A}$を測定したとき,集団の要素ごとに異なる値$a_k$が得られるということは,個々の系が異なる微視的状態にあったことを意味するのではないか?
この疑問により,「真の状態」は状態ベクトル$\psi$だけではなく,さらなる変数$\xi$によってなされるという考えが浮かびます.すなわち,系の性質は
(\psi,\xi)
という組によって与えられるという考えに至ります.$\xi$は慣習として隠れた変数とよばれますが,この呼び名は実は不適切です.なぜならば,実際には観測可能量の測定値から$\xi$の値を知ることが可能だからです.さらには,$\xi$が観測可能量であっても構わないのです.ボーム力学は,$\xi$を粒子の位置とするような,隠れた変数理論の一つです.
ボーム力学の歴史
de BroglieはMaupertuisの原理とFermatの原理を統合する形で新たな動力学を提示し,パイロット波理論(pilot-wave theory)とよびました.これがボーム力学の始まりです.その後,Bohmはde Broglieとは別に理論を展開しました.初め,Bohmは自らの理論を隠れた変数理論(hidden variable theory)と言い表していましたが,その後は因果的解釈(causal interpretation)とよび,最終的には存在論的解釈(ontological interpretation)と称するに至りました.その理由は「隠れた変数」という表現は制限が強すぎるからでした.
誤解と真実
BacciagaluppiとValentiniによれば,ボーム力学の歴史については多くの誤解が蔓延しており,その大半はBohmとHileyによって書かれた文献7にある以下の記述によってまとめることができるといいます1.
電子の運動が「パイロット波」によって先導されるという考えは,まず初めに1927年にde Broglieによって提唱されたが,一体系と関連してのみであった.de Broglieのこの考えは1927年のソルベイ会議で示され,そこでPauliによって強く批判された.彼の最も重要な批判は,二体の散乱過程において,そのモデルは首尾一貫して適用することができないということであった.結果としてde Broglieは自身の提言を断念した.パイロット波という考えは1952年に再びBohmによって提案され,そこでは多体系に対する解釈が与えられた.後者はPauliの批判に答えることを可能にした…(当該文献1pp.38-39の該当箇所の筆者による訳)
実際には1927年のソルベイ会議の時点でde Broglieは多体系に対するパイロット波理論を提示していました.さらには,適切な反証として必要な,本質的な考えを含んだ返答をPauliに対して行っていました.また,de BroglieがPauliの批判によって自らの理論を取りやめたという主張も正しくありません.ソルベイ会議からちょうど3年後に出版された自身の本の中で,彼はパイロット波理論の不満な点について述べています.主な不満点は測定に関係しています.それゆえ,1952年の論文89によるBohmの真の貢献は,パイロット波理論の文脈で測定の理論を展開したことにあります.
de Broglieは一つの波動方程式に対して等しい位相をもつ二つの解を考えていました.一方は粒子が存在する点で振幅に特異性がある波で,他方は振幅の絶対値の二乗が粒子の位置の確率密度を与えるような波です.前者は粒子を表し,後者は今日でいうところの波動関数です.この二重解の理論には誤りがありますが,波動の位相が粒子の運動を決定するという本質的な点は捉えていました.それゆえ,ボーム力学を先に提唱したのはBohmではなくde Broglieであるといえます.
定式化と基礎方程式系
我々が量子力学の文脈において「粒子」とよんでいる対象は,時々刻々と定まった位置に存在しているわけでないという意味で粒子とは言い難く,さらにいえば,波というわけでもありません.測定に応じて粒子のようであったり波のようであったりするというだけです.しかし,ボーム力学によるとそれは確かに粒子であり,各時刻において定まった位置をもっています.粒子の位置はBellの言によれば存在可能量(beable)ということになります.
スピン0粒子の場合
ボーム力学の定式化は複数ありますが,ここでは二つの方法を提示します.どちらの方法でもSchrödinger方程式を用いるので,ここに記しておきます(ポテンシャルが$V$で与えられるような$N$粒子系を想定).
i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N,t)
=\left[-\sum_{k=1}^N \frac{\hbar^2}{2m_k}\triangle_k+V(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N)\right]
\psi(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N,t)
ボーム力学においてSchrödinger方程式の解$\psi$が果たす役割は,概念的に通常の量子力学と異なる部分があります.そのことを強調するために,$\psi$を先導波(guiding waveあるいはguidance wave)またはパイロット波(pilot-wave)ともよぶことにします.
de Broglieの方法
一つ目の方法は,元々のde Broglieの考えに従ったものです.その後,Bellはこの方法を用いて多くの議論を行いました10.
確率密度$\rho=|\psi|^2$はSchrödinger方程式からの帰結として連続方程式を満たすのでした.
\frac{\partial\rho}{\partial t}+\sum_{k=1}^N\nabla_k\cdot\boldsymbol{j}_k^\psi=0
ここで,$\boldsymbol{j}_k^\psi$は確率流密度で
\boldsymbol{j}_k^\psi=\frac{\hbar}{2m_k i}(\psi^\ast\nabla_k\psi-\psi\nabla_k\psi^\ast)
=\frac{1}{m_k}\operatorname{Re}\left(\psi^\ast\frac{\hbar}{i}\nabla_k\psi\right) \quad (k=1,2,\ldots,N)
によって与えられます.確率流密度は確率密度と速度場の積となっていると考えることにより
\boldsymbol{v}_k^\psi:=\frac{\boldsymbol{j}_k^\psi}{\rho} \quad (k=1,2,\ldots,N)
として速度場を定義することができます.そして,粒子はこの速度場を流れとして運動をすると仮定します.すなわち,時刻$t$における粒子$k$の位置$\boldsymbol{q}_k(t)$は次の連立微分方程式の解であるとします.
\frac{d\boldsymbol{q}_k}{dt}(t)=\boldsymbol{v}_k^\psi(\boldsymbol{q}_1(t),\boldsymbol{q}_2(t),\ldots,\boldsymbol{q}_N(t),t) \quad (k=1,2,\ldots,N)
具体的に書き下すと
\frac{d\boldsymbol{q}_k}{dt}(t)=\frac{1}{m_k}\operatorname{Re}
\left[\left.\frac{\hbar\nabla_k\psi(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N,t)}{i\psi(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N,t)}
\right]\right|_{(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N)=(\boldsymbol{q}_1(t),\boldsymbol{q}_2(t),\ldots,\boldsymbol{q}_N(t))} \quad (k=1,2,\ldots,N)
となります.これは先導方程式(guiding equationあるいはguidance equation)とよばれます.
Bohmの方法
二つ目の方法はBohmによるものです.BohmはHamilton-Jacobi理論との類推に基づいて理論を展開しました89.
波動関数を
\psi=Re^{iS/\hbar}
と極分解してSchrödinger方程式に代入したうえで,実部と虚部を分けることにより,連立微分方程式
\frac{\partial S}{\partial t}+\sum_{k=1}^N \frac{(\nabla_k S)^2}{2m_k}+V-\sum_{k=1}^N\frac{\hbar^2}{2m_k}\frac{\triangle_k R}{R}=0 \\
\frac{\partial R^2}{\partial t}+\sum_{k=1}^N \nabla_k\cdot\left(R^2\frac{\nabla_k S}{m_k}\right)=0
が得られます.上の式を量子Hamilton-Jacobi方程式とよぶことにします.ここで,ハミルトニアンが$H(q_1,q_2,\ldots,q_{3N},p_1,p_2,\ldots,p_{3N},t)$で与えられる系のHamilton-Jacobi方程式を思い出しましょう.
H\left(q_1,q_2,\ldots,q_{3N},\frac{\partial S}{\partial q_1},\frac{\partial S}{\partial q_2},\ldots,\frac{\partial S}{\partial q_{3N}},t\right)
+\frac{\partial S}{\partial t}=0
未知関数$S(q_1,q_2,\ldots,q_{3N},\alpha_1,\alpha_2,\ldots,\alpha_{3N},t)$はHamiltonの主関数とよばれ,$\alpha_k$は$t$に依存しない定数です.例えば,ハミルトニアンが上記のSchrödinger方程式におけるそれと同様に
H(q_1,q_2,\ldots,q_{3N},p_1,p_2,\ldots,p_{3N})=\sum_{k=1}^{N}\frac{{p_k}^2}{2m_k}+V(q_1,q_2,\ldots,q_{3N})
の形で与えられるとしましょう.このとき,Hamilton-Jacobi方程式は
\sum_{k=1}^{3N}\frac{1}{2m_k}\left(\frac{\partial S}{\partial q_k}\right)^2+V+\frac{\partial S}{\partial t}=0
となります.この式は,$S$をHamiltonの主関数とするHamilton-Jacobi方程式と似ていることがわかります.違いは,ポテンシャルの項に
Q=-\sum_{k=1}^N\frac{\hbar^2}{2m_k}\frac{\triangle_k R}{R}
が付加されていることです.これを量子ポテンシャル(quantum potential)といいます.
粒子の運動の様子を知るためにHamilton-Jacobi方程式を用いるのは,単に利便性の問題です.ポテンシャルが$V$と$Q$の和で与えられる場合,Newtonの運動方程式は次のようになります.
\frac{d\boldsymbol{p}_k}{dt}=-\nabla_k(V+Q) \quad (k=1,2,\ldots,N)
実際,量子Hamilton-Jacobi方程式の両辺に$\nabla_k$を作用させて整理すると
\left(\frac{\partial}{\partial t}+\sum_{j=1}^N \frac{\nabla_j S}{m_j} \cdot \nabla_j\right)\nabla_k S=-\nabla_k(V+Q) \quad (k=1,2,\ldots,N)
となります.$\nabla_j S/m_j$を粒子$j$の速度$\dot{\boldsymbol{q}}_j$とみなせば,左辺は$\nabla_k S$を粒子の軌道に沿って時間微分した量となっています.この微分演算を
\frac{d}{dt}=\frac{\partial}{\partial t} + \sum_{j=1}^{N}\dot{\boldsymbol{q}}_j\cdot\nabla_j
と表すことで,Newtonの運動方程式が得られます.ここで,運動量は
\boldsymbol{p}_k(t)=m_k\frac{d\boldsymbol{q}_k}{dt}(t) \\
=\nabla_k S(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N,t)
|_{(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N)=(\boldsymbol{q}_1(t),\boldsymbol{q}_2(t),\ldots,\boldsymbol{q}_N(t))} \quad (k=1,2,\ldots,N)
です.ただし,Hamilton-Jacobi方程式が時間について1階であるのに対して,Newtonの運動方程式は2階です.したがって,Newtonの運動方程式には初期条件が必要です.それは
\boldsymbol{p}_k(t_0)=\nabla_k S(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N,t)
|_{(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N)=(\boldsymbol{q}_1(t_0),\boldsymbol{q}_2(t_0),\ldots,\boldsymbol{q}_N(t_0))} \quad (k=1,2,\ldots,N)
で与えられます.この条件を課すことにより,Newtonの運動方程式の解は量子Hamilton-Jacobi方程式の解と一致します.
ポテンシャルが外場として与えられている場合,すなわち
V(\boldsymbol{x}_1,\boldsymbol{x}_2,\ldots,\boldsymbol{x}_N)=\sum_{k=1}^n U(\boldsymbol{x}_k)
というように粒子間の相互作用がない場合について考えてみましょう.このとき,古典論においては各粒子は独立に運動しますが,ボーム力学によると,一般に量子論ではそのようにはならないことがわかります.なぜなら,一般に量子ポテンシャルが
Q\neq-\sum_{k=1}^N \frac{\hbar^2}{2m_k}\frac{\triangle_k R_k}{R_k}
となっているからです.すなわち,量子ポテンシャルは非局所的な「相互作用」を粒子間に引き起こします.ここで,粒子$k$についてのSchrödinger方程式
i\hbar\frac{\partial\psi_k}{\partial t}(\boldsymbol{x}_k,t)=\left[-\frac{\hbar^2}{2m_k}\triangle_k+U(\boldsymbol{x}_k)\right]\psi_k(\boldsymbol{x}_k,t)
\quad (k=1,2,\ldots,N)
の解に対して$R_k(\boldsymbol{x}_k,t)=|\psi_k(\boldsymbol{x}_k,t)|$です.ただし,波動関数が各粒子についてのSchrödinger方程式の解の積
\psi=\prod_{k=1}^N \psi_k
となっている場合には量子ポテンシャルが
Q=-\sum_{k=1}^N \frac{\hbar^2}{2m_k}\frac{\triangle_k R_k}{R_k}
のような和の形で表されるので,例外として粒子はそれぞれ独立に運動します.
先導方程式の不定性
de BroglieとBohmそれぞれの立場の違いは,粒子の運動を定める微分方程式が時間に関して1階であるか,はたまた2階であるかという点にあります.前者は新たな運動方程式を提示しているのに対して,後者は古典力学への回帰を想起させるようなものとなっています.そのうえ,後者は運動量についても初期条件を課さなければならないという点で余計な仮定が必要となります.量子Hamilton-Jacobi方程式の両辺を時間について微分することでNewtonの運動方程式を得ることができるので,de Broglieによる定式化はBohmのそれを含んでいることになります.いずれにせよ,Schrödinger方程式に粒子の運動方程式を加えたものを基礎方程式系としているため,ボーム力学は量子力学の解釈というよりもむしろそれ自体が新たな力学となっています.それゆえ,我々はこの理論をボーム力学とよぶのです(この意味で,ボーム力学という呼び名には妥当性があります.しかし,最初の提唱者であるde Broglieの名を冠していないという点が不適切だと筆者は考えています.).
確率流密度には不定性がありますから,発散が0となるような量を新たに付加しても連続方程式は変わらないことには注意しなければならなりません.すべての$k$に対して$\nabla_k\cdot\boldsymbol{j}_k'=0$となるようなベクトル場$\boldsymbol{j}_k'$を$\boldsymbol{j}_k^\psi$に加えたうえで速度場を定義することも可能というわけです.次の節で述べますが,Pauli方程式から自然に導かれる確率流密度は,Dirac方程式からのそれに非相対論的極限を適用したものと比較して$(\hbar/2m)\nabla\times(\psi^\dagger\hat{\boldsymbol{\sigma}}\psi)$の項だけ足りません.確率流密度の差異は先導方程式の形の差となります.つまり,どちらの確率流密度を選択するかで粒子の軌道が変わってしまうことになります.しかし,このことは問題になりません.なぜならば,粒子の軌道は観測にかからないからです.
スピン1/2粒子の場合
ここまではスピンの大きさが0の粒子について考えてきました.しかし,現実には電子のような0でないスピンをもつ粒子の取り扱いが重要です.ボーム力学はスピンを取り扱うことができないと言われることがありますが,それは正しくありません.Bohmの方法は0でないスピンをもつ粒子系に適用するのが困難ですから,以下ではde Broglieの方法でスピン1/2粒子について考えることとします.
ベクトルポテンシャル$\boldsymbol{A}(\boldsymbol{x})$とスカラーポテンシャル$\Phi(\boldsymbol{x})$の中にある一つの電子(電荷$-e$)は以下のPauli方程式によって記述されるのでした.
i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}
=\left[\frac{(-i\hbar\nabla+e\boldsymbol{A})^2}{2m}+\frac{e\hbar}{2m}\boldsymbol{\sigma}\cdot\boldsymbol{B}-e\Phi\right]\psi
ここで$\boldsymbol{B}(\boldsymbol{x})=\nabla\times\boldsymbol{A}(\boldsymbol{x})$は磁束密度です.Pauli方程式から始めると
\rho=\psi^\dagger\psi \\
\boldsymbol{j}=\frac{\hbar}{2mi}[\psi^\dagger\nabla\psi-(\nabla\psi^\dagger)\psi]
+\frac{e\boldsymbol{A}}{m}\psi^\dagger\psi
に対して連続方程式が得られます.すなわち
\boldsymbol{v}^\psi=\frac{\hbar}{2mi\psi^\dagger\psi}[\psi^\dagger\nabla\psi-(\nabla\psi^\dagger)\psi]
+\frac{e\boldsymbol{A}}{m}
に対して先導方程式が成り立ちます.
ここで実際にDirac方程式から導かれる確率流密度に非相対論的極限を施してみましょう.まず,Dirac方程式は以下で与えられます.
i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}
=\left[c\boldsymbol{\alpha}\cdot(-i\hbar\nabla+e\boldsymbol{A})+mc^2\beta-e\Phi\right]\psi
ただし,$\boldsymbol{\alpha}=(\alpha_1,\alpha_2,\alpha_3)$および$\beta$はそれぞれ四次の正方行列で
\alpha_k=
\begin{pmatrix}
0 & \sigma_k \\
\sigma_k & 0 \\
\end{pmatrix}, \quad
\beta=
\begin{pmatrix}
1 & 0 \\
0 & -1 \\
\end{pmatrix}
です.Dirac方程式の確率密度および確率流密度は
\rho=\psi^\dagger\psi \\
\boldsymbol{j}=c\psi^\dagger\boldsymbol{\alpha}\psi
で与えられます.非相対論的近似を行うために,波動関数から静止エネルギーを括り出して
\psi=
\begin{pmatrix}
\phi \\
\chi \\
\end{pmatrix}
e^{-i\frac{mc^2}{\hbar}t}
と表します.$\phi$および$\chi$はともに2成分スピノルです.これをDirac方程式に代入することで
i\hbar\frac{\partial}{\partial t}
\begin{pmatrix}
\phi \\
\chi \\
\end{pmatrix}=
c\boldsymbol{\sigma}\cdot(-i\hbar\nabla+e\boldsymbol{A})
\begin{pmatrix}
\chi \\
\phi \\
\end{pmatrix}-eA_0
\begin{pmatrix}
\phi \\
\chi \\
\end{pmatrix}-2mc^2
\begin{pmatrix}
0 \\
-\chi \\
\end{pmatrix}
を得ます.もしも運動エネルギーとポテンシャルエネルギーが静止エネルギーよりも非常に小さい場合,すなわち$|i\hbar\partial\chi/\partial t| \ll |mc^2\chi|$かつ$|eA_0\chi| \ll |mc^2\chi|$が成り立つ場合には,上記の方程式の下成分から
\chi=\frac{c\boldsymbol{\sigma}\cdot(-i\hbar\nabla+e\boldsymbol{A})}{2mc^2}\phi+\mathcal{O}\left(\frac{v^2}{c^2}\right)
と近似することができます.$\mathcal{O}(v^2/c^2)$の項を無視することにして,公式$(\boldsymbol{\sigma}\cdot\boldsymbol{a})(\boldsymbol{\sigma}\cdot\boldsymbol{b})=\boldsymbol{a}\cdot\boldsymbol{b}+i\boldsymbol{\sigma}\cdot(\boldsymbol{a}\times\boldsymbol{b})$を用いれば,Pauli方程式が得られます.
i\hbar\frac{\partial\phi}{\partial t}
=\left[\frac{(-i\hbar\nabla+e\boldsymbol{A})^2}{2m}+\frac{e\hbar}{2m}\boldsymbol{\sigma}\cdot\boldsymbol{B}-eA_0\right]\phi
同一のオーダーの近似において,Dirac方程式の確率密度および確率流密度は以下のように求められます.
\rho=\phi^\dagger\phi \\
\boldsymbol{j}=\frac{\hbar}{2mi}[\phi^\dagger\nabla\phi-(\nabla\phi^\dagger)\phi]
+\frac{e\boldsymbol{A}}{m}\phi^\dagger\phi
+\frac{\hbar}{2m}\nabla\times(\phi^\dagger\boldsymbol{\sigma}\phi)
ここまでの話を整理します.$\mathcal{O}(v^2/c^2)$の項を無視する近似において,Dirac方程式はPauli方程式
i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}
=\left[\frac{(-i\hbar\nabla+e\boldsymbol{A})^2}{2m}+\frac{e\hbar}{2m}\boldsymbol{\sigma}\cdot\boldsymbol{B}-e\Phi\right]\psi
へと置き換わり,このときの確率密度および確率流密度はそれぞれ
\rho=\psi^\dagger\psi \\
\boldsymbol{j}_\mathrm{D}=\frac{\hbar}{2mi}[\psi^\dagger\nabla\psi-(\nabla\psi^\dagger)\psi]
+\frac{e\boldsymbol{A}}{m}\psi^\dagger\psi
+\frac{\hbar}{2m}\nabla\times(\psi^\dagger\boldsymbol{\sigma}\psi)
で与えられます.ここで,$\phi$を改めて$\psi$と書き直しました.逆に,Pauli方程式から導かれる自然な確率流密度は
\boldsymbol{j}_\mathrm{P}=\frac{\hbar}{2mi}[\psi^\dagger\nabla\psi-(\nabla\psi^\dagger)\psi]
+\frac{e\boldsymbol{A}}{m}\psi^\dagger\psi
です.この式はDirac方程式の確率流密度と比べて
\boldsymbol{j}_s:=\frac{\hbar}{2m}\nabla\times(\psi^\dagger\boldsymbol{\sigma}\psi)
の項だけ不足していることがわかります.
終わりに
述べなければならないことはまだまだたくさんありますが,ここまでに留めます.ボーム力学についてさらに知りたくなった方は,まずは成書71112をご参照ください.筆者の知る限り,日本語の成書はありません.
参考文献
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(Cambridge University Press, Cambridge, 2009). ↩ -
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