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「では、今年度のにし研の顔合わせを始めましょう。」

ノートPCの電源を付けて、指輪を外しながら話し始めたのが指導教員だ。恰幅が良く、黒縁の眼鏡をかけて髪は白髪をオールバックにして、チノパンに青の襟付きのシャツにスーツを羽織った、いわゆるビジネスカジュアルという大学教員のイメージとは離れた格好をしている。
研究棟の一室に長机をロの字型に組み、指導教員は下座に座り、向かいには男性と女性の先輩が2人、ロの字の両側を新しく入ったB4の学生2名ずつで囲んでいる。

「今年度は新しく入ってきたB4が4人、先輩はM2の菊池、博士後期の嶋崎で学生は全部で6人です。後で秘書の青木さんがいらっしゃいます。」
「B4は自己紹介をして、先輩は自己紹介と研究テーマを説明して下さい。」

全員初めて会う人たちだった。それぞれが名前ややってきたことや研究室でどんなことをしたいのかといったことを順に話していく。B4の自己紹介が終わると先輩の説明に移る。

「じゃあ、嶋崎から。」
「博士後期課程の嶋崎です。好きなものはチョコレート…」

嶋崎と呼ばれた女性が少し舌っ足らずだが、ハキハキと自己紹介していく。

「嶋崎、研究テーマについてB4に説明して。」
「はい、私はワクワクについての研究をしています。」

なんだそりゃ。

「大学の近くにカフェが2つあるんだけど、北側にあるカフェはすごいおしゃれで店員さんも丁寧に対応してくれるし、そこに行くとすごいワクワクしてハッピーになるんだよね。だけど、南側にあるカフェは同じくらい内装も綺麗だしメニューもおいしいんだけど全然ワクワクしないんだよね。その違いが…」

そんなことも研究テーマになるのか、研究してどんなことになるんだとぼんやり思いながら説明を聞き流していく。

「…それで、ワクワクというのが何かを研究してワクワクできるカフェを設計できるようにするのが私の研究です。」

やってることはよくわからないが、なんか変わった研究テーマもあるんだなと思いながら恙なく説明が終わった。

「分かったか?」
「あ、はい。わかりました。」

指導教員が近くに座っていた僕に質問した。それに対し、嶋崎さんの説明に特に疑問も無かったので答える。直後に部屋の空気が一変する。

「伊藤、じゃあ嶋崎の研究内容を俺に説明しろ。」

突然の言葉に頭が真っ白になる。数秒前まで嶋崎さんからの説明を受けて研究内容をわかったはずなのに、説明しろと言われた瞬間に何から説明して良いのか分からず言葉に詰まる。当然、指導教員も一緒に嶋崎さんの説明を聞いていたし、指導教員なんだから研究内容は俺に説明されるまでもなく当然知っているじゃないか、なんでそんなことしなきゃいけないんだ。そんなことを脳裏に思いながらも返答を考える。

「・・・ワクワク感という感情について研究しています。」
「それで?」

必死に絞り出した説明にすらなっていない言葉は無情にも一言で返される。

「・・・わかりません、説明できないです。」
「じゃあ嶋崎に聞け。」

できないことを伝えて終わりになるかと思いきや、絶望的な事が告げられる。

「嶋崎さん、もう一回研究テーマの説明していただいても良いですか?」

いいよ、と快く研究テーマの説明をしてくれるが、いくら説明されてもさっぱりわからない。断片的に単語の意味は分かるがそれもさることながら、出てくる単語の関係性も研究の目的とどう繋がるのかもわからない。

「分かったか?」

言葉が出ない。わかったと言えば説明を求められるが、部分的な単語しかわからずうまく説明ができないか嶋崎さんが説明したことのオウム返しになるだけだ。しかし、わからないと言って質問をしようにも何がわかっていないかもわからない。

「他に嶋崎の研究内容分かった人は?」
「嶋崎さんはワクワク感を使ってカフェの設計をする研究をしています。」
「カフェを"設計する"って何だ?」
「えっ」

他のB4も挑戦するが、突っ込んだ質問をされて赤子の手をひねるように呆気なく撃沈していった。

「それでは、B4は嶋崎の研究テーマを俺に説明できるようにして下さい。説明ができるようになったら声をかけて下さい。」

そう言うと指導教員は手元のPCに向かい別の作業をし始めた。残された学生たちは嶋崎さんに説明をしてもらいながらあーでもないこーでもないと嶋崎さんの研究テーマの説明をし合った。

「B4は嶋崎の研究テーマ分かったか?」

自己紹介が始まってからかれこれ2時間以上経った。そろそろかと痺れを切らしたように指導教員が口を開いた。しかし、問いかけに対して俯いたまま誰も声をあげることができない。

「じゃあ、来週B4は先輩の研究テーマを説明できるようにしておいてね。」
「いいかい、君たちは分かったの基準が低いんだよ。この研究室では分かったと言ったら説明した内容に関わらず、分かったと言ったそいつが説明する責任がある。安易にわかったと言えば自分の首を絞めることになるよ。一つヒントを言っておくと自分が分かるためには相手の説明を分かってあげようとしてはいけないんだよ。」

この時、僕たちは大変なところに来てしまったと思い知った。


今年は正直僕にとってはあまり良い年ではなかったです。
大きな出来事として大学の研究室での指導教員をしていただいた恩師を亡くしました。記事の内容はある程度脚色などありますが、研究室での初めての顔合わせの一面の思い出の一つを書かせていただきました。配属の前からにし先生は怖いという噂や、実は僕はこの前に一悶着などあり、緊張しながら当日を迎えていたことを覚えています。
研究室で過ごした4年間は人生で一番大変でした(特に最初の1年目は)が、技術的にも人としても今までで一番成長できた4年間でした。研究を通して特にものの考え方や記事にも書いた「分かる」といったことに対しては厳しく指導していただきました。仕事や価値観に大きく影響を与えられました。にし先生に出会っていなければ少なくとも今この会社にはいなかったと思います。

にし先生から教えていただいたことは決して忘れることはないです。
R.I.P.

この記事はグロースエクスパートナーズ Advent Calendar 2023 5日目の記事です。

「トートロジーって分かるか?」
「水とウォーターみたいな?」
「菊池、それは翻訳だ。」

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