しまや出版工場見学記
2019年9月末に技書博主催の少人数ツアーに同人誌サークルお台場計算尺として参加し、しまや出版という印刷製本の会社の工場を見学した。「注文を受け、応えるのは人間である」ということを強く実感できた、素晴らしいツアーであった。
工場まで
場所は埼玉との県境まで1〜2kmほどの東京都内で首都高江北ジャンクションのすぐ近く、ということでJR王子駅からバスで行くことにした。バスなんかいくらでも出てるだろうと高をくくって適当に1時間前くらいに王子駅に行き、バス停で見てみると30分ほど時間があったので、王子駅に隣接している飛鳥山公園に行ってみた。300年の歴史を誇る桜の名所である。最近話題になった渋沢栄一の記念館があったが、長期休館中であった。捲土重来を期してリニューアル中なのだろう。
飛鳥山公園は全体が丘になっていて、登るのがダルいという人が多いのか(都内で一番低い山だそうだが)、モノレールで山頂まで上れる。無料ということで乗ってみた。総延長50m弱。50mに2分。眺望が特段素晴らしいというわけではないが、楽に上れてありがたい。登るのがダルいという人は私だった。ベビーカーやシニアカーに配慮しての設置なのかな、とも思える。というのも公園内は子供がたくさんいて和やかでにぎやか。一角にはそば屋もあって、昼食をとって来てしまったのを後悔した。野外展示の蒸気機関車や都電の車両には自由に乗れ、また東京都が設置した公共基準点がわかりやすく置いてある。王子駅を上から見て新幹線や在来線が見られるし、すぐ下には都電荒川線も走っているので、一人で来てもそれなりに楽しいかもしれない。ていうか楽しかった。
一時は忘れていた当初の目的を思い出してバスに乗り、車窓から都市計画をかなりのんびり進めている様子などを見ながら7分で工場に最寄りのバス停に到着。印刷してきた地図を取り出そうと思ったら、電柱に「しまや印刷↑」みたいな広告がいくつもあって、徒歩2分くらいで迷うことなく現地集合に間に合った。
工場で
社長以下、何人ものスタッフから非常にたくさんの話を聞いた。かなりの時間を割いてもらったように思う。大変ありがたかった。この辺りはまぁ、文末の付録で。工場に入ってすぐのところにはカメの水槽があった。
見学後
まず目に付いた事
見学や質疑応答が終わっても懇親会まで時間が1時間ほどあったので、行きはバスだったが工場から王子駅まで歩いてみた(約30分)。工場を出て数歩あるくと目の前に、隅田川の岸にそびえ立つ首都高の橋脚が見える。ここの首都高の路面は中央環状線の外回りと内回りでだんだん二階建てになっていくところで、高さというか圧迫感というか迫力がある。メンテナンス用の螺旋階段やタラップがアウトドアのアトラクションのようだ。この首都高中環外回りをクルマで池袋の方から走ってくると、飛鳥山公園の下をトンネルでくぐるわけだが、公園の下に潜る時と出てきて登る時の勾配が結構キツい。そして出たらすぐ上り坂のままS字カーブになっていて、しかもカーブの入り鼻と抜けるところに王子南ICへの下り口と王子北ICからの合流が続けてある。車種などによって走行速度の差が大きくなりがちで、もうちょっと運転の楽で安全な設計にできなかったのか?といつも思っていたが、地下トンネルから橋梁までの高低差が大きいこと、近隣の土地事情が厳しそうなことなどを目で見ていくらか納得できたような気がする。道路内からだけでなく、外からも物事を見ることが大事である。
ただここは事故多発地点にはなっていない。事故発生件数ワースト1は西新宿JCTのちょっと都心よりの直角カーブだと以前聞いたが、今はどこだろうか。
少し歩くと
工場から川の対岸には大きな団地があって、歩道が短いながら並木道状態になっているところがある。日没前は鳥類のお食事タイムで(鳥は翌朝まで目が見えないし)、ムクドリの鳴き声がすごかった。うるさいのを通り越してもはや幻想的であった。
そのすぐそばには日本出版販売(日販)の流通センターがあった。これは単なる出版物の集積所だろうから見学できたとしても面白くも何ともないと思うが、印刷工場からの帰りだったのでなんとなく印象に残ってて、あとでGoogleマップで見てみると驚いたことにクチコミがあった。微妙に面白かった。まじめに働く人たちに幸あれ。
懇親会
懇親会では、王子駅近くの看板の出ていない居酒屋で社長含め9人で鍋を囲んで、3時間近く楽しく話した。技書博の人の企画力と実行力は素晴らしい。ただ負荷が集中しすぎないよう祈るばかりである。
残念だったこと
今回の唯一最大の心残りは「ラーメン博多王子」に行き損なったことである。とりあえず名前がすごいが、ラーメンもうまそうな気がする。このラーメン屋のあった辺りは渋沢栄一の製紙工場(王子製紙)があったところらしいし、渋沢史料館がオープンしたら合わせて行く。紙の博物館とかお札と切手の博物館とかも手軽に回れそうだし、王子駅周辺は散策にはいいように思う。
付録
記憶に従って(最近頼りなくなってきたが)以下、工場で聞いたことや見たことを私なりに解釈したこと記す。事実と齟齬があれば、それは私の責任である。
しまや出版のやり方
- オフセット印刷には職人的な技術が要求される工程がある。作業に対する真摯さが前提である。
- 印刷製本の結果の現物にどんなものがあるのか、そのサンプルが数十種類用意してあったように思う。それほどたくさん一度に説明月で見られる機会は非常に稀だと思う。これは非常にありがたかった。どう注文すると何ができるのかをこの目で見られたわけで、やはり現物を知らなければ注文のしようがない、と改めて思った。
- 季節によって印刷のされ方は変わり得るので、その季節にあったインクに変えたりもするが、なにより湿度調節に気を配っている。温度湿度は24度55%が理想とのこと。
- 東京都の地場産業の一つが印刷業。古くから行われているため分業化が進み、入稿から製本納入まで一つの工場でやるところは多くはない。しまや出版の他のとの差別化はひとつにはそこである。カスタム・プリンティングとでも言えるのかもしれない。
- しまや出版では、各発注をいわば発注者の「宝物」であると意識して作っている。それだけ取り扱いは丁寧するし、作るにも発注者の意図を丁寧にくみ取るようにしている。
- 私個人の発注経験では、納品された本のページが折れてたり頼んだのと似ていても違う紙だったりしたことがある。これについてはしまや出版では「それは当社ではあり得ない」とのこと。その時の社長やスタッフの表情から、本当にそうなんだろうと思う。
- オフィススペースに猫がうろうろしているのは、和やかで楽しい。そこで働いている人の癒やしにもなっていようが、なんにせよかわいい。特に子猫は好奇心旺盛で人に構ってくれるので、写真を撮るためにせっかくの社長の話を聞き逃したところが少なくない。どんなことにもいいことと悪いことの両面があるものだ。
- そう言えば青焼きがどうのこうの聞いてたツアー参加者がいて、社長もなんだかんだ答えてたような気がするが、子猫がかわいすぎて青焼き以外の単語が耳に入ってきてない。まぁ、これはもうしょうがない。青焼きは30年前の高専在学中に製図のお手本としていくつか見た。刷り立てて濡れてたのもたびたび見た。こんな綺麗な図面が引けるか、と当時はよく思ったものだったが、いまはどっこもCADだ。烏口を研ぎすぎてトレーシングペーパーが切れたのもいい想い出である。こんなことを考えていて社長の話が頭上を流れていった。
入稿(データ&手描き)
- トラブルを減らすという意味でデータ入稿は PDF/X-1a がありがたいそうだ。準拠してなくても技術的にはノートラブルにすることはできるだろうから X-1a が必須とは言えないが、X-1a ならトラブルの発生頻度は減る。なので Adobe Acrobat で意識して PDF/X-1a のデータを用意して入稿するなら、安心しやすいかもしれない。
- オンデマンド印刷においてプリンタが受け付けるのは PostScript (PS) のデータであり、PDF は PS に変換して印刷することになる。その変換の際に透明度のある塗りの分解と、RGB の CMYK への変換が行われるが、ここでトラブる事が少なくない。X-1a ならこのトラブルは少ない。
- 手描き原稿はスキャニングしてデジタイズする。その際どうがんばっても埃などが乗るので、デジタルデータ上で手作業でクリーニングする(そう聞いただけでもう大変そうだが)。そのためデータ入稿よりも納期が長くなる。
製品などについて
- しまや出版50周年記念誌三部作が、読みごたえがあったし面白かった。歴史的な資料性も高いし、どんなものが作れるのかというサンプルとして非常に役に立つ。これが入手できたのは今回の見学でも最大級にうれしかった。
- 厚紙を切り抜いた作った団扇などは、その切り取り線の型を作って紙に押し付けることで作る。型はしまや出版でも作製を受け付けるが、他のところで作って持ち込んでもらった方がだいぶ安上がり、とのこと。
工場について
- 工場内では裁断ではなく断裁という語が使われていた。違いはほぼないが、印象としては裁断の方が紙の量が少ないかなぁ...くらいの感じらしい。語感も「ダンサイ」の方が「サイダン」より強そうな気もする。
- オフセットでもオンデマンドでも、印刷する機械自体は一台で数千万円だそうだ。すぐ近くに隅田川と荒川が近接して流れていて、工場自体は土手から見ると低地だし、そこに昨今の温暖化進行による気象の熱帯化は激しくなる一方で降雨の局所化と大量化が従来の想定を上回ってきていることと、そもそも荒川がなぜ荒川と呼ばれてきたのかを考えると、工場の水没が心配無用とは言いがたい。人が無事なら職人技やノウハウは保存されるとは言え、そのノウハウは工場を以前と同じに再現しないと活用できない。
- 使っている機械の中には、現行あるいは後継機種の製造開発がもう行われていないものがあったりする。そういうものについては、使用中のものが修復不能の故障を起こした時点で終了である。
格安業者
- 世の中には受注から3時間で納品(発送)という印刷業者もあるが、そういうところは検品をしていない。不備があればその旨の連絡を受けてからの対応になり、それは3時間というわけにはいかない。
- 大手の格安印刷では、大きさの異なる複数の注文をまとめて一つの版を作るところがある。全国規模で発注を集めればそれで効率は上がるだろう。
- 格安低品質は悪ではない。それによって救われる発注者がいることは容易に想像が付く。大切なのは多様性である。
発注者側について
- 第○版」「第○刷」などの表記は人によって幅があるそうで、おおよそ大きな改変や修正を入れたときには版を改め、ミスプリ修正くらいでほぼ同じものを複数回印刷するときは刷を増やす、というイメージなのだろう。刷がいくつも重なっていることでたくさん売れてることを示すという手もあるようだ。
- 最近の傾向として、女性個人誌が多いこと、初心者/同人誌初体験の人が増えてきたことがある。しまや出版としては初心者に丁寧に付きあうよう心がけているとのこと。
- 同人誌の内容としてはエロでもなんでも慣れているから、相談者が恥ずかしがることは全くない、とのこと。
- 私の感覚では、クレーマーにはどんなところでも自然発生的にある程度の確率で誰もが遭遇する。統計解析では有意水準を慣例的に5%にとるが、両側5%なら片側2.5%であり、対象を「ちょっと変わっている」と感じるのがこのくらいの割合になるのが人間の普通の感覚ではなかろうか。小中高校でクラスに一人くらいの割合である。「特別変わったヤツ」をその1/10くらいとすると、400人に一人くらいをそういう風に感じることになる。クレーマーとは、こういった確率で遭遇する自然現象である。雨が降ったからといって天を恨む者はいない。
以上