0. これは何の記事?
- 時間の矢に関する新しい仮説を提唱した論文のまとめ記事です
- 原論文はこちら https://arxiv.org/abs/2405.03418
1. はじめに
まず、前提知識についてまとめます。
純粋状態
系について、完全な情報を持っている状態。
量子ビットを考えた場合、例えば下記のような状態は純粋状態。
$$
ex. |0\rangle,\quad |1\rangle,\quad \frac{1}{\sqrt{2}}(|0\rangle+|1\rangle)=|+\rangle.
$$
混合状態
複数の純粋状態が統計的に混ざり合っている状態。
密度行列
純粋状態と混合状態を統一的に取り扱う手法。
$$
\rho = \sum_{i} p_{i} |\psi_{i}\rangle\langle\psi_{i}|.
$$
純粋状態$|\psi_{i}\rangle$が割合$p_{i}$で統計的に混ざり合っている。
デコヒーレンス
系の量子的な重ね合わせの性質が失われること。
ダブルスリットの実験を例にすると、右スリットを通る状態と左スリットを通る状態の重ね合わせが、観測など(環境との相互作用)によって壊され、どちらかのスリットを通る状態に確定してしまうこと。
このようなデコヒーレンスが起こると干渉縞が出現しなくなる。
エンタングルメント
「量子もつれ」のこと。
例えばスピンが必ず揃っている2粒子を遠く引き離して、片方を観測すると、もう片方の粒子のスピンも確定できるような状態のこと。
数式で書くと、2粒子の純粋状態の外積として表せない状態のこと(例:$|e\rangle = |00\rangle + | 11\rangle$)。
エントロピー
系の「秩序のなさ」や「取り得る状態の多さ」を表す物理量。
秩序がない、または取り得る状態が多い系ほどエントロピーは大きい。
-
古典的ボルツマンエントロピー
微視的状態$X$にある古典系のエントロピー。
$M$を巨視的状態、$|・|$を巨視的状態数として
$$
S_{cB}(X) = k_B \log |M|.
$$ -
量子的ボルツマンエントロピー
微視的状態$\psi$にある量子系のエントロピー。
$H_M$を巨視的状態に対応するヒルベルト空間の部分空間、$dim$を部分空間の次元数として
S_{qB}(\psi) = k_B \log dim(H_M).
-
フォンノイマンエントロピー
密度行列$\rho$で表される量子系のエントロピー。
$$
S_{vN}(\rho) = -\rm{Tr}(\rho \log \rho).
$$ -
エンタングルメントエントロピー(以下、EE)
量子系のエンタングルメントの度合いを表すエントロピー。
\begin{align}
& S_{ent}(S) = S_{vN}(\tilde \rho_A) + S_{vN}(\tilde \rho_B)
= -\rm{Tr}(\tilde \rho_A \rm{log} \tilde \rho_A) -\rm{Tr}(\tilde \rho_B \rm{log} \tilde \rho_B), \\
& \tilde \rho_A = \rm{Tr}_B (\tilde \rho_S), \quad
\tilde \rho_B = \rm{Tr}_A (\tilde \rho_S).
\end{align}
2. エンタングルメント過去仮説
著者らの提唱するエンタングルメント過去仮説(EPH:EEは未来よりも過去の方が小さい)についてまとめます。
まず、EEとデコヒーレンスの進行について簡単に整理します。系が環境と相互作用し始めた時、系と環境でエンタングルメントが起こると(≒EEの変化)、元々系の内部で持っていた重ね合わせを維持出来なくなる(≒デコヒーレンスが起こる)と考えられます。つまり、デコヒーレンスの進行は、EEで定量的に表すことが出来ます。そのため、著者らは、EEを「デコヒーレントな矢」の指標として提案しています。
では、未来よりも過去の量子系の方が、EEが小さいのは何故でしょうか?この疑問には「時間反転対称な古典系で、未来よりも過去の方が、熱力学的エントロピーが小さいのはなぜか?」という古典的なアナロジーがあります。標準的な回答は、多くの研究者に支持されている熱力学的過去仮説(TPH)です。
- $TPH$
初期時刻において熱力学エントロピーが非常に小さい、という仮説。量子的ボルツマンエントロピーの言葉でいえば、ヒルベルト空間の部分空間の次元数が小さい、ということ。
著者らは、同様にEEも初期時刻において非常に小さかったとする仮説(EPH)を置いています。
- $EPH$
初期時刻においてEEが非常に小さい、という仮説。
EPHの定式化には曖昧な部分がありますが、より詳細な定式化を考えることができます。宇宙のEEを計算するために、宇宙を$N$個の部分系に分割することを考えます(これは宇宙のヒルベルト空間を分割することに対応します)。この分割のもとで、EEの初期値がある小さな値$m$をもつことを$EPH_m$と呼びます。
- $EPH_m$
$EPH$において、EEの初期値が小さな値$m$をもつ、という仮説。
ただし、EEの値はヒルベルト空間の分割の仕方に依存するため、任意の分割でEEの値が$0$であるとする仮説を$EPH_0$と呼びます。
- $EPH_0$
$EPH_m$において、$m=0$である、という仮説。
ただ、初期の量子状態が全くもつれていない、というのは「強すぎる」仮定かもしれません。なぜなら
- $EPH_0$を満たすようなヒルベルト空間には、状態ベクトルが存在しないかもしれない
- 他の物理的な要請と矛盾するかもしれない
からです。そのため、下記のような条件を緩和した仮説も考えられています。
- $EPH_{0R}$
ある種の分割$R$で$m=0$が成り立つとする仮説。$R$としては、実空間の分割などが挙げられる。
- $EPH_{<m}$
$EPH_m$において、EEの初期値を$m$以下とする仮説。ヒルベルト空間の分割の仕方によって$m$の値が異なって良い(上限の値だけが決まっている)。
- $EPH_{<mR}$
$EPH_{0R}$と$EPH_{<m}$を組み合わせたもの。ある種の分割$R$でEEの初期値が$m$以下とする仮説。
3. 議論
論文では、仮説の説明のあとに、以下のように議論しています。
まず、EPHが「基本原理」か「他から導き出される法則」かという疑問に対しては、(デコヒーレンスな時間の矢をどのように解釈するかに依存するとしながらも)後者であると著者らは主張しています。
EPHはシュレディンガー方程式からは導けないとのことで、あるとすれば何らかの境界条件から導かれるということになります。1つの可能性としては、TPHを仮定すればEPHを満たすというものですが、TPHとの統合については今後の課題としています。また、ハートル=ホーキング理論においてはEPHを仮定する必要がない可能性もあると指摘しています。
最後に、「宇宙膨張とエンタングルメントの関係」とEPHのつながりについて言及しています。
以上、時間の矢に関する新しい仮説を提唱した論文のまとめ記事でした。