2
0

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?

More than 3 years have passed since last update.

PC遍歴(Apple][から始まったエンジニア人生)

Posted at

PC遍歴

 この仕事を始めるきっかけになったのがマイコンとの出会いだ。巡り巡って現在はエンジニア経てコンサルタントになるなんて、自分でも出来すぎていると思う。それまでの間、様々な PC を所有・活用してきたわけである。ここではそれらを振り返りたいと思う。

ナイコン時代

 マイコンに興味を持ち始めたのが、中学二年生位の時だと思う。秋葉原に自転車で通い、角田無線でMZ-80K を弄くり廻していた。I/O とか RAM 、ラジオの製作とかの雑誌を読み漁っていたのがなつかしい。特に I/O は取り扱っている書店が少なかったので、兄に頼んで大学の生協から買ってきてもらったりしてた。RAM では、マイコン手作り塾の連載が行われており、その連載はモトローラの 6802 ベース(日立のセカンドソース品)でワンボードマイコンを自作すると言う記事が出ており熟読していた。そのためもあって 68系に興味を持ち、モトローラにシンパシーを感じるようになっていた。直交性のあるアーキテクチャとこの本の解説で 68系に傾倒していく。ここで 80系をやっていたら、また別の人生だったかも知れない。この本は現在、アメリカ在住の友達に貸してそのままになっているような気がする。(要確認)

Apple][

 高専に入学したのを機に親から買ってもらった。当時は高専から大学への進学率は今ほどでは無かったので大学に行かない(=それ以上学費がかからない)ことが条件だった。確か、本体(6KB-Basic スタンダード、48KB-RAM)とDisk][、カラーモニタ(NTSC) リンゴのワッペンがついているだけでかなり高額になった記憶がある。流石に高専だとおもったのが、マイコンの所持者が入学当時でも40人中5人は居た。バイトを経験し、お金が入るようになる2年生以降になるとマイコン所有者は二桁になっていたと思う。
 エレクトロニクス研究部の部室には Apple][ のコンパチ機が置いてあって、ゲームをしたり各種の実験をしたりしていた。部員のレベルはそれぞれだったような気がする。コンパチ機は当時のアキバのそこかしこで売られていた。自作のボードの実験をして自前の Apple][ を壊した時はコンパチ機の部品と交換して、不良部位の特定に使わせてもらったりした。VIA-6522 で PSG AY-3-8912 に接続した自作の音源ボードだが、LED の点灯までしか出来なかった。少し改造すれば、モッキンボードになったかも知れない。でも、16-17才の時には自作のボードで LED のチカチカが出来ていたわけだから、技術的には当時からあまり進化していないのかも知れない。
 アセンブラでプログラムを組んだり、当時は最先端だった各種のプロテクトを外すのが楽しかった。バイトにも精を出し、様々な周辺機器を買いそろえていく楽しみもあった。情報が少ない中での制約された環境が楽しかったのはあの時代のならではの感覚かも知れない。この頃に学んだ知識が現在の自分の骨格になったことは間違いない。
 なぜか就職先は一般的な日本の機械メーカだった。当時は DEC なんかも考えたし、任天堂なんかも考えたりした。成績上位者とのバッティングが無ければどの会社でも行けるほど当時は売り手市場だったし、バブルの前夜だったのだ。配属先で最初に書いたプログラムが富士通製の 4bit マイコンをつかったパッシブシートベルトのコントローラだった。つまり、いきなり組み込みプログラムだったのだ。しかもアセンブラ。4bit のアセンブラのクロス開発を専用 ICE で PC98 で開発。これより低レベル(マシン的な意味で)は無いだろうと言う感じである。その後は6805, 68HC11を使ったエアバッグのコントローラ、最終製品は三菱電機と共同開発したH8を使ったコントローラ開発だった。機械メーカの子会社に出向だったので、誰も教育してくれなかった。この勝手にやらせてもらったのが良かったと思っている。ものすごく効率が悪いと思うけど、自分で考えて技術を習得し、何もわからない人に説明する。方法が自然に身に付いたと思う。
 Apple][ のその後はネットで知り合ったマニアに各種資料ともども、6万円前後で売ったと記憶している。その金で ISDN のターミナルアダプタを購入したのを覚えている。FTTH への完全移行でその TA は処分してしまった。

MZ-2000

 高専の同級生からタダで譲ってもらい、就職した時に会社の寮に持ち込んだ。Z-80 のアセンブラを一から学んで、CG を駆使したゲームでも作ろうかと考えたが全く何も手を付けずに同期に夕食一回で譲ってしまった。タダでもらったことを考えるとワラシベ長者と言えなくも無い。

MacOSX 以前

Mac SE/30

 就職したばかりの時は借金を返したりしていたので金銭的に余裕がなかった。就職して3年目位で、また借金して購入した。最初の頃は並行輸入でしか買えなかった。漢字 Talk の挙動がおかしかったからだ。ステップから購入した記憶がある。後日、並行輸入とアップルジャパンの対応への質問などが公正取引委員会からアンケートのカタチで送られてきたような気がする。英語版のシステムに SweetJAM を使っていた。APDA に入る金がなかったので、ThinkC を使い始めたが、今考えるとあの頃にしっかりオブジェクト指向を学んでおけば良かったと後悔した。退役してもしばらく手放さなかったが、後日転職先の同僚に適価で払い下げてしまった。

Power Book 160

 持ち運べるのが欲しくて購入した。大阪の輸入代行屋から購入したが、なかなか納入されないのでかなり気をもんだ記憶がある。この頃になると個人輸入で各種のソフトやハードを購入していたので同じように購入したモデムボードを追加して、パソ通や FAX が出来るようにした。実際にアメリカに持っていって、ホテルからファックスを送ったりしてみた。モバイルの走りかも知れないが、回線を確保するのが大変なので外ではそれほど使わなかったような気がする。手放した経緯をあまり覚えていない。中古屋に売ったような気もするしパソ通仲間に売ったような気もする。

DOS/V

 思えば当時、権勢を振るっていた PC98 は買わなかった。もちろん、会社では PC98 はメインで使っていたし、当時のザベあたりには PC98 一台あれば仕事に全く困らない旨が書いてあったのを今でも覚えている。何度も買おうともおもった。でも、32bit 時代になり DOS/V の普及と Windows の展開が進むとハードウェアは抽象化され、PC98 である必要がなくなってきた。

自作機

 DOS/V 機と言えば自作は避けて通れない。この業界に身を置くものは、個人的な経験は無くても研究室や職場で組み立てたことがあると思うし、その手の話題に触れなかったことは無いだろう。自分もそんな一人である。

始めるきっかけになった-基板と CPU

 当時、付き合いのあった技術誌の編集長から使わなくなった基板と CPU (486DX2) を全てばらばらになった状態でもらった。あとはケースに組み込むのとキーボード、マウス、ディスプレイを接続すれば使えるようになる。なけなしの小遣いを投入してフルタワーのケースに組み込み、色々と試したことを覚えている。基板を変えてみたり、CPU を換装させてみたりして色々と試した。Win95 が出た頃に nVidia の最初のボードが出て、バーチャファイターがバンドルされていたのを覚えている。この頃は転職前のプータロー時代だった。

自作のAMD機

 Win98 が出たあたりに K6 をベースにした。豪華マシンを組んでみた。このマシンはその後、K6-2 を入れたりカノープスの DV インターフェイスを装備したりしてしばらく遊んだ。新マシンの導入に伴い家族用の PC として使うことになった。マザボもコンパックの Mobile-Athlon ベースのが出ていたので基板毎換装した。会社に持ち込んだが、実験室の引っ越しの片づけで処分。

Celeron のベアボーン

 AMD 機が力不足になってきたので、新しくマシンを組むことに。マザボ屋のベアボーンを購入して、予算の関係から Celeron 1.2GHz にWinXP をインストールして普通に使う。現在は Linux がインストールしてある。

AMD のベアボーン

 小型のマシンが欲しくなり Cube のマシンを組んだ。発熱が大きくファンの音が凄かったが、性能はそこそこ出ていた。ION のベアボーンの購入に伴い。Linux 化して会社の実験室で簡易サーバとして余生を過ごしている。

ION のベアボーン

 音の静かなそこそこ使える PC が欲しかったので購入した。ベアボーンなので手元にある HDD が使えたし、メモリも安くなっていたのでベアボーン本体を入れても、30,000円ほどだ。ION の動画再生支援や CUDA 機能が使えるのでかなり便利である。パーソナルクラウドの觔斗雲の導入に伴いリビングで動画再生に使われている。

ノート PC

Libretto L1

 Windows Me ベースのマシンだったが、Win2K をインストールしてもなぜか調子が悪く、WinXP を入れてすこぶる安定した。軽くて解像度が高かったので持ち運びに重宝した。寝ながらのプログラミングに大活躍したのを覚えている。シンビアンのソフトを組んだり、USB のシステムの実験に使った。しばらく使い込んだが、同僚に適価で払い下げた。

ThinkPad X60

 同僚から譲ってもらったもの、家族が使用中。

ThinkPad X61

 MacBook を購入したが、ノートPC の割にあまりにも重いので閉口。持ち運びに楽をしようと軽いノートPC に OSX86をインストールするために購入。OSX86 を色々と試したが、あまりの設定の面倒くささに挫折。結局 WinXP をインストールして家族が使用中。

MacOSX 以降

 MacOSX 以降の Mac はそれまでの Mac とまったく別物である。完全に Unix マシンであるし、かつての爆弾が出ることも無い。BeBox を本多通商で見た時のインパクトから、なんで Next を買収したのか理解に苦しんだが現在の隆盛を見ると、その炯眼を畏怖せざるを得ない。

Mac Book

 この辺りから blog に購入の経緯とかが書いてあるので、当時の状況を顧みることが出来る。AMD のベアボーン機をかなり使い込んだのを機に購入したようだ。kakaku.com で安いのを見つけて購入したが、後に英語キーボードを格安で購入したのでこれに換装した。Cocoa の勉強をしたり、iPhone のソフトを作り始めたりしたのもこれからである。適価で同僚に。

Mac Book Pro 15 inch

 英語キーボード前提のため、アメリカから個人輸入した。性能については申し分なかったが、バッグなどを工夫してもやはり持ち運びには不便なので MacBook と共に同僚に売却。

Mac Book Air 11 inch

 2011/Jan/2 の初売り時に駅伝を横目で観ながら銀座のアップルストアで購入。

その他

 実用することは無かったが思い出深い PC もある。

Apple //gs

 筐体目的で購入した、「Woz のサイン入り」のジャンク。多分、昔の写真を整理すれば出てくるかも知れない。結局、何も使うことなく廃棄してしまった。今、考えると惜しいことをしたと痛み入る次第。

Sparc Station

 これは完動品だった。友人の会社が SUN のベンダーをやっていたので色々と周辺機器をもらうことが出来、一時期 Unix の勉強のために使っていた。結構、楽しかったが x86 の Linux の方がパフォーマンスが良かったので、そのまま誰かにあげてしまった。誰にあげたかは覚えていない。w

その後

 今では割と定期的に買い替えているし、アーキテクチャ的に大きな変化は無いので、ここで書くような内容はほとんどない。また、なにか動きがあったら追記しようと思う。

さいごに

 大部分の人にはどうでもいい話であるが、コンピュータエンジニアになるきっかけを書いてみた。

2
0
0

Register as a new user and use Qiita more conveniently

  1. You get articles that match your needs
  2. You can efficiently read back useful information
  3. You can use dark theme
What you can do with signing up
2
0

Delete article

Deleted articles cannot be recovered.

Draft of this article would be also deleted.

Are you sure you want to delete this article?