新卒でも同期でも中途でも何でも良いが、誰かに物を教えるときに、教える側は絶対に「君が何が分からないのか、私には分からない」とは言ってはならないというお話。
この言葉は言ってしまった側が思っている以上に受け取り側である教わる側の心を深く傷つけると思います。
この言葉を発する裏には、実は教える側の立場の勘違いがあると言えます。本来、教える側は教わる側の分からないことを明確化し、分かることへの手助けをする存在です。
しかし「君が何を分かっていないのか、私には分からない」と発するとき、この立場を忘れ、「Aが分からないのですが」の質問に対して「Aを実現するにはBが必要です」と答える正論返答マンになっている可能性があります(もちろん、正論返答マンが正しい状態もあります)。
「君が何が分からないのか、私には分からない」と言われたとき、どんな気持ちになるのか、私の実体験を交えて紹介します。
実体験
大学の実験の授業にて、FPGAを使ってある回路を実装していました。ただ私はどうても課題として与えられた回路を実装することができず、少し居残りをしていました。
ちょうどその時、実装の終わった友人も付き合ってくれて、教わりながら課題を解いていました。彼は非常に良い人で、頭の悪い私に理解をさせようと色々と教えてくれるのですが、残念ながら私はその話が理解できず、手が止まってしまいました。
そんな私を見た彼が一言「お前が何が分からないのか、俺には分からない」と。
結局、その日は煮詰まってしまって帰宅。後日、別の本を読んだりしてどうにかレポートは提出しました。
レポートは提出したものの、頑張って教えようとしてくれた彼の期待に沿えないと思った私は、自己嫌悪に陥ってプチ引きこもり状態に。教えてくれようとした人に見放されるくらい自分はダメなんだなと思って、学校がイヤになりました。
どうするべきだったのか
上記の実体験は学生でお互いに未熟だった頃のことですし、彼も純粋に善意で付き合ってくれただけなので、今どうこう言う物ではありません。
しかし、今、あるいは今後私が人に物を教える立場となったとき、私と同じように自己嫌悪に陥ってもらいたくは無いものです。そこで、どうするべきだったのかを考えてみます。
そもそも、仕事においても物を教えるとは何でしょうか。教える側が教わる側に期待をすることは、「自分で考えて、課題を解決できるようになる」ではないでしょうか。
つまり、教える側の仕事は課題Aに対して解決方法Bを提示することではなく、教わる側が解決方法Bを発見し、今後も課題Aに似たA'やA''、またはぜんぜん違う課題Zを解決できるように導くことです。
そのためにはどうすればいいでしょうか。先ほどの私の実体験を例に考えてみます。
「FPGAを使ってある論理回路を実装しなさい」と言う課題が与えられたとき、理解しなければならないことは
- 実現したい論理回路の振る舞いがどういう物なのか
- 論理回路を実装するために利用できるゲートがどういう物であるのか
- ゲート組み合わせることのできるFPGAがどういう物なのか
と言ったところでしょうか。当時の私は多分、「実現したい論理回路」がどういう物なのか分かっていなかったし、更に「ゲートがどういう物なのか」もまた分かっていなかったのだと思います。
こういった課題に対して更に解決しなければならない課題を明確化し、1つずつ解決していく必要があります。そして、教える側は課題を発見するための手助けをしてあげるべきです。
教わる側も教える側も
「君が何が分からないのか、私には分からない」と思った時、教わる側も「自分が何が分からないのか、分からない」状態に陥っています。
教える側はできるだけこの言葉を使わないようにするべきです。教わる側の人はこの言葉を受け取ると、「見放された」とか「愛想をつかされてしまった」と感じてしまう恐れがあります。
教わる側は自分が何が分かっていないのかをはっきりとすることに努めましょう。そして残念なことに「君が何が分からないのか、私には分からない」と言ってくる人はこの世界に沢山います。あまり気にしないように、なんて軽い言葉ですが、とりあえず「あ、今、自分が何が分かってないのか分かってない状態に陥ってるかもしれない!」と思うためのトリガーにしておくことができるようになると良いのかもしれないです。
まとめ
教える側の仕事は課題Aに対して解決策Bを提示することではありません。教わる側が解決策Bを発見できるように導くことが仕事です。
そして「君が何が分からないのか、私には分からない」はこの仕事を放棄した発言でもあり、教わる側の心を傷つけます。