コミュニケーションは、肯定的な表現で伝えよう。
理由:
- 僕たちの頭は、肯定的な表現は理解できる。
- しかし、否定の表現の理解は格段に伝わりにくくなる。
- 否定表現を上手に扱えるほど、私たちは賢くない。
例:「ピンクの象を思い浮かべてはなりません」
- このような指示は、文章の指示の内容に反して、「ピンクの象」というものを思い浮かばせる効果しかありません。
- 否定を含む指示には、実現が難しいものがあります。
「あるフォルダの中に"ピンクの象"と言う表現がどこにもないことを確かめるスクリプトを作って、そのフォルダに置きなさい。ただし、暗号化やシリアライズなどの手段を使わず、平文で処理してください。」
例:否定表現と自己言及とを含めると論理的な矛盾を生じやすい
パラドックスを引き起こすためには、自己言及とともに真偽の反転が必要である。
例:熱理学第二法則のわかりにくさ
熱理学第二法則のわかりにくさは、その表現の多くが否定的な表現にもある。
「カラテオドリの原理
熱的に一様な系の任意の熱平衡状態の任意の近傍にその状態から断熱変化によって到達できない他の状態が必ず存在する[3]。」
というのもある。
熱力学第二法則については、わかっている気になっている人も多いだろう。しかし、「ミクロな物理法則から、マクロな法則である熱力学第二法則を導くこと」という意味では、わかりやすい状況にはない。
フェルマーの最終定理も否定表現だ
「3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」
これも圧倒的に難しい問題だ。これがどのように証明されたかのかを、たどってみる気力が存在しない。
「ある種類の画像がその機械学習用学習データに含まれていないことを検証するシステムを構築しなさい」
最近でも、ニュースで取り上げられる課題である。
そのシステムを機械学習で作ろうとしたら、ある種類の画像を見つけられる検出器を作るための画像が必要になる。
そのシステムの中で、その種の画像を学習データに含んではならないとした時点で、実現が困難になる。
このように否定を含んだ表現は、とてもむずかしい。
僕たちを巡る状況
- 手放しに全て正しいことというのも、ほとんど存在しない。
- 手放しに全て間違いだということも、めったにない。
- ほとんどの表現は、その表現が必要になった文脈のなかで、何かしらの正しさをふくんだ表現だ。
一人ひとりの個人が見ている風景
- 同じ場所、同じ時間で、同じものを見ていても、その時時で、人の感じ取るものは違う。
- ましてや、見えている範囲や視点が異なれば、違ったものとして見えてくる。
例:蝶が見る風景
- 蝶が羽ばたきながら見る花と、人が散歩中に見る花は、視覚の現象としても、行動の引き金、価値観としても違う。
- 蝶にとっては、自分が蜜を吸える種類の花なのかどうか、そこに鳥が捕食者として自分を狙っていないかという意味合いがある。
- 散歩中の人にとっては、心が和むという種類にとどまり、花の蜜に対して、たいがいの場合興味はない。
- 蝶の色覚は、紫外線も見えるもので、紫外線で見た花は、花びらのどちら側に蜜があるのかを示す特徴がある。
- ミツバチはミツがある花をどうやって探しているの?
ベイズ推定の観点で観測を考える。
- 個々の観測での確からしさが100%ではない状況を考える。
- そうすると、たいがいの観測は、確からしさの違うものである。
- その確からしさを、次の観測をおこなうことで、確からしさの更新を行なっている。
- 人は限られた経験の中から仮説を立て、信念を持つようになる。
- その信念は、どうしても偏った観測の中でのものになる。
- だから、異なった人は、異なった環境の中で異なった経験によって異なる信念を持つ。
- だから、それらに差異があるのは当然すぎることだ。
違っている部分だけを強調するはイザコザのもと
- 同じ社会的な現象でも、その現象のうち見えている範囲が異なれば、判断は異なる。
- 各人が持つ価値観でフィルタリングされた結果を見ると、さらに違ってくる。
- だから違いよりも共通点に着目しよう。
着目すべきは共通の判断
- 異なる分野で異なる経験を積んできた人が、独立に判断した結果が共通している場合には、その判断の確からしさが高いと思っていいだろう。
- だから着目すべきは、共通の判断の部分なんだ。