概要
自分が優秀だと思い込む評価バイアスは、人事評価の点でその人物の欠点とみなす文章がありふれている。
この文章の中では、あえて、「自分が優秀だと思いこもう」ということを提案する。
例:
「ダニングクルーガー効果とは、能力の低い人が実際の評価と自己評価を正しく認識できずに、誤った認識で自身を過大評価してしまうこと。」
思い立った理由
- 自分の過去の業務上の結果に到達する際に、自分の能力を客観的に評価したら、「よくまあ、あの時点であれくらいの能力しかない人に、あの開発をまかせてくれたよなあ」と思うからである。
- 客観的にみた場合には、その分野は、ほんのちょっとだけ、経験の重なりがあるだけで、ほとんどの部分はずぶの素人という状況だった。
- そのような状況の中で、結果を引き出すことができたのは、「自分の考えることに意味がある」とあえて信じることだった。
- そのなかで、関係者にも恵まれたことが、結果にたどり着いた理由だった。
- 仕事が自分だけの能力では成功しないことは、いやほど経験している。自分の能力の不足でもあるし、周りの人の力を引き出せなかったことの結果でもある。
- 「自分が優秀である」と信じることが、必要であることを述べたい。
「何事かを成し遂げられる程度には自分は優秀である」と思い込めない人物に、何事かを成し遂げられることはない。
- 継続的な努力・工夫などが可能な理由は、それを成し遂げられると思い込めているから。
- 人は、実現できないと思いこんでしまったものを、達成できるほと器用ではない。
- 実現しようとする内容・実現した内容が違う人どうしを、どちらが優秀かを比較しても意味がない。
- 機構系のエンジニア一人と電気系のエンジニア一人とを、「どちらが優秀か」を比較することは意味を持たない。
- 何かある価値観を導入しないかぎり、評価軸を設定することができない。
- 例:「一般消費者向けの製品を作るうえでの設計のポイントをどこまで把握しているか」、「量産するときの作りやすさをどこまで考えているか」、「部品の供給や修理のしやすさなどをどこまで対処できているか」などの共通の指標軸を導入し、それら以外の属性を全て無視したときにだけ、比較の可能性がでてくる。
- しかも、その評価は、導入した評価軸の範囲の中にすぎない。
- とびっきり優秀な電気系エンジニアが、ごく普通の機構系エンジニアの設計能力を持つことはない。
- だから、どちらも必要であって、どっちが優秀なんていう比較は基本的に無意味だ。
危機に遭遇したときに「対処できる」と思い込むことが、生存の可能性を残す。
- 生物にとって生き残るということは大きな試練であり続けた。
- ヒトは、生物学的に見れば、生き残るのに適した生物とは思えない。
- 例:耐えられる絶食期間の長さ。
- 例:耐えられる低温条件
- 例:体内で必要な物質を合成する能力(必須アミノ酸として、食物から得なければならない化合物が多い。)
- 例:アレルギーを発症する物質やアレルギーを発症する頻度
現に、ホモサピエンス以外のヒトの種が、絶滅してきた。
- いまのヒトの種が残っているのは、ある意味偶然の産物だ。
生き延びるためには、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛」まなくてはならない。
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追い詰められた状況で必要なのは、「自分がその危機に対処して生き残ること」、他者との比較は無意味。
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敵に遭遇したときに「逃げ切れる」と信じて、全力で逃げようとすることが大事。
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敵に遭遇したときに「なんとか敵をはねのけられる」と信じて、はねのけることが大事。
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これらの状況においては、他者との比較は無意味である。
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生物が生き延びてきた状況の中で必要なのは、生き延びる個体が一定比率は確保できることであって、全ての個体が確実に残れることではなかった。
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敵に遭遇したときに、「逃げ切れる」と信じて、逃げ切った個体もあるし、逃げ切れなかった個体もある。
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「逃げ切れない」と最初から思い込む個体は、逃げ切るための行動をしないために確実に餌食となったであろう。
そのような理由のため、おそらくは全ての動きうる生物について「逃げ切れる」という仮説を立てて行動を起こすことは共通の傾向なのではないだろうか。 -
客観的にみて逃げ切れる可能性がほぼ0に近かったとしても、「逃げ切れる」と信じてあがくことは、必要なバイアスなのではないかと思う。
どんなアプローチをするにしても、自分を信用しなくちゃならない。
- あるプロジェクトを任されたとしよう。
- 自分は、その分野でど素人であることを知っている。
- それでも、意味のある結果をださなきゃならない。
- そうすると、そのプロジェクトに関わってくれる人の力を利用して、物事が成功するように持っていかなくちゃならない。
- 「あの分野は、誰それにまかせれば大丈夫そうだ。」
- 「この分野は、誰ぞれができそうだけれども、その結果は、他の人の判断もふまえたほうがよさそうだ。」
- このようにできるだけ、他人の能力を活用するように行動したとしよう。それでも、その任せるという判断をした自分を信用しなくちゃならない。
- 結局、どこかで無限定に自分を信用しなくちゃいかない領域がどこかに残る。
本当の成果主義であれば、「自分にあまい評価バイアス」を持っていようが、結果を出せれば十分だろう。
- 「自分にあまい評価バイアス」は、何かの結果の誘因にはなりうるが、組織が成果を上げるうえでの直接的な指標ではない。
- 本人の自己評価と、360度評価の他人による評価が乖離していたとしても、それは、組織が成果を上げるうえでの直接的な指標ではない。
- 問題は、十分な甘すぎる予測によって、組織の業績に悪影響を与えたときだ。その分野のリスクの評価に対して、自分自身の能力の限界を意識せず、うぬぼれて、取りうる対策を実施せずに、組織に損害をもたらしたときだ。
- そのような結果がでたときには、そのような結果に基づいて評価すれば十分なだけだ。
蛇足:映画の評価レビューだって、個人ごとに評価基準はばらつく
- 360度評価の評価結果と、本人の自己評価が一致するなんてことはほとんどない。
- 評価者Aはスコアがあまい、評価者Bはスコアが厳しいという状況があっても、評価者Aが高く評価するものは評価者Bも高く評価していくので、実質評価傾向は同じなんていう場合もある。
蛇足:偏差値という指標だって、母集団が異なれば変わる。
- よく知られている例としては、中学受験の際の合格の目安となる偏差値だ。ある塾の主催するテストでの偏差値と、別な塾の主催するテストでの偏差値の両方が載っていたりする。それは、ある塾の側は、難関校の中学を受験する人の比率が高く、別の塾では、もっと広範囲の受験者が多いという特徴を持つからだ。そのため、母集団が違うときに一方の偏差値と他方の偏差値とを比較することは意味がない。
- 360度評価の自己評価にしたって同じことだ。母集団が違えば比較することに意味がないのだ。